産経新聞「複眼鏡」11月掲載分生原稿
映画『ブレードランナー2049』が公開中だ。1982年に作られた『ブレードランナー』の続編となるが、両者の間には科学技術の大きな進化が横たわっている。
最初の『ブレードランナー』では原作のフィリップ・K・ディックのSF作品で使われていた「アンドロイド(人型ロボット)」の語を「レプリカント」と呼び直し、「人間の」という意味を強く持たせた。その時点でレプリカントは想像上の存在だったが、生物を複製する技術は97年に英国のロスリン研究所がクローン羊を誕生させて一気に現実味を帯びる。今や生命倫理の歯止めを外せばクローン技術で人間の複製も可能だと言われる。
そんな時代に新しい論点となるのが「心」の問題ではないか。そのことに先駆的に触れた作品として、二つの『ブレードランナー』の間に位置づけたいのが、先にノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』だ。小説の舞台となる英国郊外の施設「ヘールシャム」では多感な時期の子供たちが共同生活をしている。外見も振る舞いも普通の子供と変わらない彼らだが、実は治療用の臓器を提供するために生み出され、育てられたクローンなのだ。
2005年にこの作品を執筆したイシグロは間違いなくドリーを意識していたはずだ。そして一歩踏み込んで人間のクローンを描いてみた。臓器提供のためだけに作られた羊であれば工場に閉じ込めて育てればいいが人間相手ではそうもゆかない。人間らしい教育環境を臓器提供用クローン人間にも与えるべきだと考えた慈善事業家が登場し。ヘールシャムを設立する。だが一方で、遠からずして死ぬ定めの子どもたちに教育をすることこそむしろ残酷だと考える人も小説には登場する。教育が「心」を育めば子供たちは自分の未来があらかじめ失われていることを知って悲しむ。それを思えば、確かに「心」などないほうがいいとも考えられる。
『2049』でも「心」についての逡巡が描かれる。レプリカントである主人公は自分の「心」の中にある幼少期の思い出が人工的に注入された他人の記憶であると知って悲しむ。いかにもSF的な展開だが、その悲しむ「心」は主人公自身のものに他ならない。
そして『2049』にはAI(人工知能)技術の進化も影を落としている。レプリカントの主人公と「心」を通い合わせるAIが登場し、切ないラブロマンスが描かれる。果たして「心」は彼を幸福にしたのか、不幸にしたのか、その問いが通奏低音のように映画を貫いている。
今まで「心」という正体が確かではないものを、あたかも自明の前提のようにして私たちは様々な判断の基準に採用してきた。家畜は様々に利用しても人間の奴隷化が許されないのは「心」を持った動物だからだという具合に。ところがクローン技術やAIの進化はその信念を揺るがす。もしもクローン人間が作られれば、人間と同じ遺伝子を持つ複製である彼らが「心」を持たないはずがない。記憶のデータベースを踏まえて自律的に判断を下す装置が「心」だとすればAIも「心」を持つと考えらえる。
こうして「心」が人間以外に広がる状況に対してまず持たれる感情は恐怖のようだ。『わたしを離さないで』では「心」を持つクローンはいつか人間と敵対すると恐れる人々によってヘールシャムが閉鎖に追い込まれることが描かれる。それはAIが人間を凌駕する日をシンギュラリティと呼んで恐れる最近の風潮を予言していたようにも思う。
しかし「心」とは人間だけが独占できるものなのか、独占すべきものなのか。『ブレードランナー2049』はシンギュラリティの前に、曖昧な定義のまま「心」を判断基準してきた考え方自体の再考を迫っているのだ。