読売新聞「論壇キーワード」10月掲載分生原稿
衆院選での「希望の党」のまさかの失速。その原因が、政策的に相容れない民進党議員は「排除」すると述べた小池百合子都知事の一言にあったことは衆目の一致するところだろう。
なぜ「排除」の語はここまで強い影響力を持ったのかーー。
排除の例として思い浮かぶもののひとつに、たとえばハンセン病患者たちへの過去の隔離措置がある。発病が発覚し、社会から強制的に排除された多くのハンセン病患者たちは、非人道的な扱いを受けながら隔離療養所の中で一生を終えるしかなかった。この酷薄な排除は1996年に「らい予防法」が廃止されるまで続いた。
最近でも神奈川県相模原市の障害者施設に侵入した男性が多くの入所者を殺傷する事件が起きている。こちらも加害者が知的障害者には「生きている価値がない」と勝手に判断して抹殺、排除しようとした残忍さで心胆を寒からしめた。
こうした事例への連想も働き、排除という言葉が担う「暴力的で嫌な感じ」は小池ブームに水を射すのに十分な力を持ったのだろう。もっとも排除のあり方については、そうした語感のレベルを超えて本格的に議論すべきだ。
フランスの社会史家ミッシェル・フーコーは近代社会自体が排除によって成立しているとみなした。合理主義になじまない存在を社会から排除するために閉鎖型の精神病棟を作る。法に抵触する犯罪者を排除して収容する監獄を作る。そして、こうした被排除者を収容する施設に治療や矯正の機能を持たせ、合理主義、法治主義を更に強化する。それが近代というシステムなのだとフーコーは考えた。
こうした指摘にうなずかされる面もある。世界的に移民排除の気運が高まっていることは改めて指摘するまでもない。国内でも、たとえば「大きな政府」の無駄を省く構造改革や、既得権益体制の打破を求めて民営化が謳われて来たが、それらが従来の再配分システムを切り崩して弱者を虐げたり、公的サービスから漏れ落ちる人を発生させたりする懸念も指摘されて来た。
自分たちの社会を守るために排除もやむなしと考える路線を今後も継続するのかーー。ハンセン病患者隔離の歴史や相模原の事件をただ恐れるだけでなく、歯止めを失った排除が危険な暴力に到るメカニズムを理解する必要がある。そのうえで犠牲を出さないための歯止めや、犠牲が出た場合に救うセイフティネットをいかに作るかを考え、更に一歩踏み込んで排除を必要としないポスト近代社会作りを模索する。そんな作業に取り掛かるべき時期を迎えているのではないか。排除への注目は、これからの政治と社会を論じる一つの視点を提供するように思う。