産経新聞大阪版7月23日夕刊に掲載された「複眼鏡」。新聞紙上では分量がきびしくて割愛した部分を復元してあります。
第159回芥川賞は高橋弘希氏の『送り火』に決定した。おそらく注目度ではそれを上回っていた北条裕子氏の『美しい顔』は賞を逃した。
注目を集めたのには理由がある。『美しい顔』は芥川賞に先駆けて第61回群像新人文学賞を受賞し、若い女性新人作家の鮮烈なデビューを印象づけていた。だが、しばらくすると本文中に石井光太『遺体ーー震災、津波の果てに』、金菱清編『3.11 慟哭の記録』といった東日本大震災関連ノンフィクション系作品と酷似した箇所が多く見つかる。
無断コピペ批判が起こり、同作を厳しく非難する論調が主にネット上で溢れた。
◯記号化された被災状況
その時、筆者は改めて同作を読み返し、そこに独特の手法が施されていることに気づいた。
著者は様々な発言の機会を用いて東日本大震災の被災地を一度も訪ねていないと述べている。ということは、小説の情景描写はいずれも直接経験に依らず、著者が311後に触れてきた「描かれてきた東日本大震災」像から再構成されたことになる。描かれた災害の表象、語られた被災者の言葉の数々を著者は咀嚼し、オリジナル・テキストから切り離して「記号」として小説の中に再配置した。
そうした記号の集積を背景に架空の被災者たちを登場させた作品を前に思い出したのは田中康夫氏のデビュー作『なんとなく、クリスタル』だ。実在のブランドネーム等の固有名詞を大量に盛り込んだ『なんクリ』の文体の選択を評論家の故・江藤淳氏は「東京がそうした記号の集積になっていることを描く」必然だったと評価し、一九八〇年の文藝賞に推した。
『美しい顔』も、著者が意識的だったかどうかは別として、記号化過程を含まずには済まされない情報化時代の災害を描いたといえる。
だが、『なんクリ』とは大きな違いもある。『美しい顔』は東日本大震災を示す固有名詞を徹底して避けているのだ。哲学者チャールス・パースは、現実を示唆する言葉を指標記号(インデクス)と呼んだ。「あの」「この」といった指示代名詞がその典型だが、実在の事物や人名を指す固有名詞も指標記号となる。
そうした固有名詞を徹底的に避けて一般名詞レベルの記号しか用いない手法には、東日本大震災の現実を超えて普遍的な被災の姿を小説化しようとした著者の思いが込められていたのではないか。
そう考えると、なぜ参考文献名を記載しなかったかの理由も推測できるようになる。参考文献名は小説が現実の東日本大震災を舞台にしていることを示す指標として機能してしまうからその存在が隠されたのではなかったか。
◯芥川賞選評に注目
しかし、そうであればなおさらオリジナルの文脈から切り離して事実を記号(パースの概念を用いれば象徴記号=シンボル)として扱う姿勢を徹底させるべきだった。そうすれば記号は小説という象徴体系の中で意味を持つようになり、外部を指し示す回路から解き放たれる。
そうした解体作業が不十分で出典がノンフィクション系作品と明らかに分かる箇所が残っていたことは大きな失策だった。
とはいえ、ここまで固有名詞を排除した作品が、東日本大震災被災者の喪失の経験を「略奪」したとまで非難されたのは、参考文献非表示という慣例違反があったからだけではなかったのかもしれない。東日本大震災の発生から7年経った今なお被災の記憶は薄れず、固有名詞を使わない程度では震災を連想させる指標の回路を断てない。それゆえに東日本大震災を安易に舞台装置のように使うことを抑制し、被災経験を小説として普遍化しようとした『美しい顔』の書き方が、逆に現実の犠牲者への冒涜として読まれてしまい、当然、批判も激烈なものになる。
現実指示性が残っている出来の悪い実話小説のように読まれたという意味で、『美しい顔』が試みた固有名詞省略などの手法が、小説空間の自律を実現するまでの力を持ちえなかったことは認めるべきだろう。
だが、それは小説自体の欠点だったのか。それとも『美しい顔』問題とは小説が書き下ろされた現時点の日本社会とのミスマッチのせいであって、文学的価値はそれとは別に論じられるべきなのか。
芥川賞選考会でそのあたりは議論されたのだろうか。これから出てくるはずの選評などを通じて知りたいと思う。