10月5日夜、「メディア分析ラボ」にお呼ばれされて中沢明子さん、新雅史さんと話してきた。
そこで話した内容が「忘却」をテーマとしており、私の登壇者紹介にも『殺して、忘れて社会』が含まれていたので、改めて自著を読み返してみた。そして、その序文に書かれた内容はーーアメリカ社会についてはトランプ大統領登場後に通用するか疑問もあるが、日本に関しては今のほうが時代にあっている感覚を強く持った。アマゾンで調べると新刊では入手不可能になっているようなので版元の営業妨害にもならないはず、今、読まれたい部分のみ序文の生原稿を抜粋して公開してみる。
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少し前のことになるけれど、『殺して、忘れる社会』と題したエッセーを書いたことがある。短いものなので再引用しておこう。
大阪のTV局を辞めた彼女は、東京でフリーのラジオ番組パーソナリティの仕事を始め、やがて系列TV局のニュース番組のキャスターに大抜擢される。ノルウェイ人の父の血を感じさせる華やいだ風貌の彼女にとって、それはまさに適職のように思えた。だが、好時魔多しというべきか、檜舞台に出てすぐに妻子ある国会議員との密会が週刊誌に報じられる。現代版シンデレラに世間の風当たりは冷たく、彼女は番組降板を強いられ、メディア活動全般から身を引かざるを得なくなった。
こうして彼女が受けた仕打ちに私たちの社会の「質」を感じる。私たちは「殺す社会」に暮らしている。この社会は不祥事を起こした人や企業を、その社会的生命を抹殺するまで許さない。時には追い詰めて本当に命を奪ってしまうこともあり、謝罪会見のたびに罵倒された企業の担当者が心身共に疲弊し、自殺するような悲劇も起きる。
これを過剰報道のせいだと考える人もいるが、メディアの背景には大衆社会が控えている。たとえば凶悪犯罪を犯した少年の実名や顔写真を公開しろと主張する人の数は明らかに増えている。少年法では少年の更生を信じ、その社会復帰を妨げないように個人情報を隠すが、今や世間の方が彼(女)を許さない。実名を周知させて社会的制裁を加えようと望む。メディアがその役目を果たさなければネットで情報公開の処刑が執行されるだろう。
しかし・・・・・、こうした傾向はもうひとつ別の傾向と重ねて考えるべきだ。冒頭に紹介した彼女は数ヶ月後には再びTVに出演する姿が見られた。報道ではなくバラエティ番組での復帰だったが、もはや刺々しい世間の反応はなかった。世間は彼女を許したのか? 違う。許したのではなく、忘れたのだ。蜂の巣を突いたように大騒ぎになった出来事も、少し時間が経てば風化してどうでも良くなり、意識から消えてゆく。たとえば多くのレギュラー番組を持つ吉本系芸人の名司会ぶりを楽しみながら彼が過去に起こした傷害事件を思い出す視聴者は稀だろう。
こうした忘れっぽさが、次々に情報を上書きしてゆく高度情報化社会ならではの傾向なのかは不明だが、確かなのはこうした「忘れる社会」が「殺す社会」と矛盾しないこと。それどころか両者は実は表裏一体なのだ。すぐに忘れられるほど他者の存在が軽くなっているからこそ(社会的)生命を奪うまで抵抗感なく追い込められる。そしてすぐに忘れてしまうから追い詰める側は自分たちの冷血さに気づくにも至らない。つまり「忘れる社会」が「殺す社会」化に拍車をかけている。
こうした構図の中で、私たちができなくなっているのが適切に「許し」、「育てる」ことではないかと思うのだ。たとえば先の少年犯罪者の実名公開の要求は少年法が加害者の罪を十分に償わせない不公平感、再犯を防げていない不満に起因しているようだが、加害者を断固許さず、私刑で(社会的)存在を否定してしまうことは、更生を一層困難にしてむしろ再犯率を高めたり、加害者が自ら成長しつつ一生掛けて罪を償ってゆく可能性を断ち切りかねない逆説がある。
その一方で許すべきでないこともすぐに忘れてくれる世間のおかげで、正しく断罪されぬまま蘇ってしまう人も現れる。職務上知り得た捜査情報を愛人に漏らして職を辞した元・官房長官は、閣僚として極めて不適切な過去の行動を問われることなく、今や幹事長として閣僚に内閣への忠誠心が足りないとか言い放っている。これは忘れっぽさのせいで日本社会が経験を踏まえた成長が遂げられなかったケースのひとつだと言えよう。
こうして「殺し」「忘れる」社会が様々な弊害を起こしている。そんな事情について自覚し、できるところから軌道修正を試みるべきではないか。(「日経ビジネス」日経BP社 2007年4月2日)
「彼女」「彼」「妻子ある国会議員」「元・官房長官」・・・・・。何人かの人物が名前を明示されずに登場しているが、執筆当時であれば誰のことを書いているかすぐに分かった。今となってはそうではないだろうが、それでもかまわない。「彼女」や「彼」は、実は誰のことであろうと構わないのだ。むしろ注目して欲しいのは名詞よりも動詞である。「殺す」「忘れる」「許す」「育てる」という4つの動詞がそこに登場している。
「殺す」「忘れる」について書いていた時には、「愛の反対語は憎しみではない、無関心である」というマザー・テレサの言葉を意識していたように思う。画に描いたような偉人のテレサを引くのはベタに過ぎて気恥ずかしいのだが、この言葉は身につまされる。憎しみは否定的ではあるが関係を持とうとする限りにおいて、愛の反対語ではない。関係を持つ必要性すら認識できない無関心こそが、最も酷薄に人の存在を無に帰すという意味で愛の対極に位値する。つまり「殺す」。そして忘却とはそうした無関心のヴァリエイションだ。実際、「彼女」や「彼」、「妻子ある国会議員」「元・官房長官」についても、改めて記憶を辿れば思い出せるかも知れないが、そうでもしない限り、今や殆ど関心も持っていなかっただろう。それが殺して忘れる社会の実相である。
では「許す」についてはどうか。この記事を書いているときに「忘れて」「殺す」社会の対極にイメージしていたのは「裁いて」「許す」社会としてのアメリカだ。
マイケル・ムーアのドキュメンタリー映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』で取り上げられていたコロンバイン高校での銃乱射事件。被害者を追悼するセレモニーでは15本の蝋燭に火が灯されていたという。銃殺されたのは高校生12人と教師一人だ。つまり被害者ということでは13本の蝋燭で足りる。しかし15本の蝋燭が使われたのは、銃を乱射した後に自害した二人の加害者の分を含めてのことだ。
それだけではない。乱射事件時に食堂にいて最初の犠牲者になったレイチェル・スコットの母親はMSNBCの取材を受けてこう答えたという。「私たちは犯人の両親を許すし、犯人そのひとすらも許します。もしレイチェルが生きていれば、レイチェルこそ、真っ先に犯人を許したでしょう」
その話を聞いてアメリカは「許す」社会だと思った。「殺されて」も「許す」。しかし、その「許し」はただ無条件になされるものではない。
社会学者の大澤真幸は次のように書いている。
犯人を赦すというレイチェル(の両親)の言葉が崇高な輝きをもっているのは、そこで最高度の緊張が維持されているからである。この言明が真に倫理的な価値をもつのは、逆説的なことだが、犯人に関して、「絶対に赦しえない」という認識とセットになっている場合に限られるのだ。このことは、凶悪な犯罪者を「赦す」という言明は、正義への探求や犯罪防止への実践的な努力を無意味なものにしてしまう、倫理的にみて最悪の判断ともなりうる、ということを思えば理解できるだろう。最悪に堕さないためには、「赦し」の行為は「赦しえない」という認識と共存していなくてはならないだろう。・・・・・われわれは犯罪者が、改悛の情を示し、赦しを請うならば、赦してもよいと考える。つまり、普通は、罪人が赦しうるものになってから赦すべきだと考えるわけだ。・・・・とすれば、謝罪する者―――それを赦しうるものーーを赦すということは、すでに(半ば)善人と化したものを善人と確認し、そう告知しているに等しい。つまり、それは事実認識であって、そこには、倫理的行為に固有な決断の契機はない。したがって、真の赦しはーージャック・デリダがあるインタビューで述べていることだがーー赦しえない者に対する赦しのみだということになる(大澤真幸『コロンバイン・ハイスクール・ダイアリー』巻末後書き)
法の下にあって絶対に赦し得ないという考え方があってこそ、赦すことに倫理的な決断としての価値がある。アメリカにおいて赦し得ないがゆえに厳しく裁くことと赦すことは矛盾しない。いや、矛盾しているからこそ、その矛盾を乗り越えてゆくのだ。法的に赦し得ない存在であり、正義の名の下に裁かれるべきだという考え方が強くあってこそ、それでも敢えて赦すという発想が生命を与えられる。そうした二重構造を大澤の文章は明らかにしている。アメリカの陪審員制はこうした二重性を背景にしている。アメリカ社会は裁くことに真摯だ。法律関係者だけでなく、誰もが自分たちの「法」の下に正義が実現することを望み、裁くことに熱心に関わろうとするので陪審員制が成立する。しかし、裁くアメリカは同時に赦す社会でもある。
それに照らして考えれば、日本社会の許すは正義の探求としての法的な断罪をうやむやにしているからこそ、赦すこともできなくなっているということになる。日本でも裁判員制が導入されたが、裁判員裁判でむしろ厳罰化傾向は強まっていることは象徴的だろう。
とはいえ、赦せばよいわけではちろんない。そもそもアメリカ社会は赦し得ないものをなぜ赦せるのか。大澤はそれが「偶有性」に起因すると考える。「<私>が、絶対に成り代わることができないーーその意味で遠いーー他者そのものでありうるかもしれない」「赦せない者はもしかしたら自分だったかもしれない」という根源的な不確定性を巡る感覚。それが「赦せない」者を「赦す」ことに繋がるのだと大澤はいう。
筆者としてのはこうした大澤の説明に罪(crime)と原罪(sin)の区別を重ねて見たい。原罪というとキリスト教的な印象があるが、人間の誰しもが避けることがでない有限性であり欠落であると考えたらどうだろう。そして、その有限性ゆえに罪を犯しうる潜在的な「悪」の可能性を指すものだと考えればキリスト教の文脈を越えて一般化できるだろう。殺人犯は間違いなく法的侵犯者であり、罪(crime)のレベルで有罪である。しかし原罪(sin)という観点から見れば、私たちも殺人犯と同じように罪にまみれた存在となる。そこに「赦せない者はもしかしたら自分だったかもしれない」という不確定性の認識が生じる根拠がある。
しかし、こうした偶有性への意識が、ともすると暴走しかねないことにも大澤は触れている。マイケル・ムーアが『ボウリング~』で描いたように、アメリカではすべての家のドアは施錠されている。それは「同じ共同体に済む隣人ですらも脅威になりうるという感覚を前提にしている」と大澤は書く。アメリカ人は内なる他者を恐れている。その恐怖は「自分が赦されざる者になるかもしれない」という偶有性の感覚と地続きになっているのだろう。
こうした「内なる敵」への不安、恐怖が911をきっかけに肥大し、アフガニスタンへの侵攻や、国内での限りないセキュリティ強化に至った。しかしテロリストへの恐怖は、レイチェルの両親が示した「赦し」と同じ形式を共有している。そこに注目することで大澤は「希望は、困難と同じ場所にある」と書く。否定し、排除しようとしてきた同じ感覚を、肯定的に受容できたとき、困難は希望に転換するのだと。
こうした大澤の論理と照らし合わせると、日本社会は偶有性への意識に乏しい社会だと考えられようか。確かに簡単に忘れられてしまえるのは、所詮は他人事だからなのかもしれない。そこに「自分だったかも知れない」という偶有性への意識は欠如している。日本でもオウムや酒鬼薔薇の事件後、地域に自警団を作るような動きが広まった。体感不安に基づいて他者を排除する傾向は強まっている。しかしそれは「内なる他者」への恐怖ではない。あくまでも共同体を脅かす「よそ者」への恐怖だろう。住まいを持てずに彷徨うホームレスや、定職を持たないフリーターへの言われなき排除は「もしかしたら自分もそうなっていったかもしれない」という偶有性の感覚を伴わない。だから、そこで赦せないものを赦す転換は起こらない。そして他者と関係を結ぶ緊張に欠けるので、殺しておいていつのまにか忘れしまう。それは「無関心」という愛から最も遠い、いかなることがあろうと希望に転換することのない姿勢の産物なのだ。<以下続く>