月刊文藝春秋2019年5月号掲載「新書時評」生原稿です。ネット化されていないようなので校正前のものを上げておきます。
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4月といえば入学式。中でも”最高峰”東京大学に集った新入生は晴れやかな思いでいよう。だが、50年前のキャンパス風景は全く違っていたはずだ。学生運動の影響で東大入試の中止が決まり、新入生がいなかったからだ。
東大闘争とは何だったのか。学生として渦中で経験した富田武は『歴史としての東大闘争』ちくま新書で、全共闘運動の特徴は政党・党派の指導ではない「メンバーの自発的な行動」にあったと書く。全共闘運動が連合赤軍事件という不幸な帰結に至って自壊したと見なす史観は、それが70年代以降の非政治的な時代と繋がっていったことを見逃している。そして実際に東大闘争以降も社会運動に関わり続け、様々なマイノリティとの連帯を模索した自身の経験も含めて「その後」記述に一章を割いている。
60年代との断絶、70年代からの連続を見る、こうした視点と響き合うものを感じたのは中川右介『サブカル勃興史』角川新書だった。社会運動とサブカル、水と油のようだが、中川は60年代までの『鉄腕アトム』のような作品と違って『ドラえもん』『機動戦士ガンダム』など70年代に登場した作品が今なお作られ続けていることに注目しているのだ。
杉田俊介『安彦良和の戦争と平和』中公新書ラクレは、『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』の作者として、まさに70年代からの連続性を体現している安彦へのインタビューを含む評論だ。杉田はガンダム作品には理念や家族的血縁で結ばれるわけではない雑多な人々が、漂流しつつ「家族なき家」を作ろうとする物語だったと指摘する。弘前大生時代に学生運動を経験した安彦は、その指摘に全共闘運動に強い影響を与えた吉本隆明の「関係の絶対性」の概念を引いて応じているが、「家族なき家」「関係の絶対性」の模索は、左翼的党派性を離れようとした70年代以降の社会運動にも見られるものではなかったか。
かつて社会学者の見田宗介は70年代以降の日本社会がサブカルのフィクションに耽溺する「虚構の時代」を迎えたと考えた。見田に師事した大澤真幸はそんな虚構の時代の果てに、フィクションを現実に暴力的に適用しようとするオウム真理教のサリン事件が起きたと考えた。
だが、サブカルが示した世界観はサリン事件に至るものに限られない。今回選んだ三冊の新書は全く別々に書かれたものだが、敢えてそれらを重ね合わせて読むことで、政治と文化を横断しつつ東大闘争の時代と今を繋ぐ一本の糸が浮かび上がって見えてくるように感じられる。