月刊文藝春秋2019年1月号掲載「平成の三冊」生原稿です。他のメディアでも書いていますがそれぞれ違うのを選んでいるので、本当に本当の三冊を選ぶとしたらと聞かれそうですが、これは割と本音に近いセレクション。
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人文、社会科学、文学の領域でそれぞれ個人的に印象に残っている三冊を選んでみた。
まず人文書では東浩紀『存在論的、郵便的』新潮社を挙げたい。著者は昭和末のニューアカブーム以来、沈滞気味だった思想界に久しぶりに登場した大物新人として注目を集めた。個人的には学生と一年かけて精読吟味し、硬質な記述だがきちんと読めば隈なく理解できることに驚き、喜んだ記憶がある。謎をかけるだけで終わってしまう難解系人文書の氾濫にそれだけ辟易していたのだ。偶然のなかでゆらぐ「郵便的」の概念は20世紀=昭和的スクエアな世界観を揺るがすインパクトがあった。
開沼博『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』青土社は311直後の刊行。福島の浜通りで生まれ育った著者が、社会学徒となって原発を抱きしめるように暮らしてきた事故前の原発立地地区を調査した内容だ。事故後に単行本用に加筆された箇所で、何かが311で変わるわけではないと記していた内容は、今や成就した予言として読める。確かに格差や差別によって社会が分断されている社会構造は、311を経由してむしろ露骨なものになったのだから。
『昭和末』岩波書店は大岡昇平最後のエッセー集。昭和天皇が重篤と聞いた大岡が「おいたわしや」と述べたインタビューを巻末に収める。大岡は天皇より一足先に亡くなってしまい、記事は公開されたのも元号が変わってからだったが、第二次大戦に皇軍兵士として従軍し、辛酸を舐めた大岡がそんな言葉を使うはずがないなどと、その真意をあれこれ詮索する議論を呼んだ。しかし平成末の今、読み返すと文学者らしい透徹したまなざしが随所に感じられ、哀惜溢れる見事な昭和の総括になっている。平成についても誰かが大岡に代わる役目を果たして、昭和とは異なるものの、やはりおいたましくも過酷な経験を数知れず天皇に強いたであろう時代の総括を次の元号の世に送り届けて欲しいと願う。