『「脳科学」化社会』赤木智弘
2005年2月14日に大阪府寝屋川市の小学校で、卒業生の17歳の少年に教師が刺殺されるという事件が起った。
そしてこの少年が小学校時代にTVゲームにハマっており、不登校気味であったことから、「TVゲームの悪影響なのではないか」という報道がさかんになされた。マスコミは大学教授などにコメントをとり、TVゲームの悪影響という見方を、公然化しようと躍起になっている(私にはそう見える)。もちろんその大学教授の中には森も含まれる。
ニュースでは犯人らしき人物にわずかでもオタク的兆候があれば、それを犯罪との因果関係があるかのように報じる。記憶に新しい、奈良の幼女誘拐殺人事件では、犯人像がまったく特定されていないにもかかわらず、犯人とオタクを結びつける報道が相次ぎ、「犯人はフィギュア萌え族だ」などと煽りたてるジャーナリストまで出る始末であった。
のちに浮かびあがった容疑者は、行きつけのスナックがあるなど、まったくオタクとは相反する要素を多く持った、ただのロリコンオヤジであった。
しかし、マスコミはこれを「平成の宮崎勤事件」として報じたし、先のジャーナリストもフィギュア萌え族という誤った見解に対する訂正は行っていない。
犯人に関する趣味嗜好がここまで詳細に報道されるのは、その趣味嗜好が犯罪に直接関係するものである場合と、これらのようなTVゲームやアニメ、フィギュアといったオタクメディアである場合のみである。
たとえばタバコの常喫者が犯罪を犯しても、読売ジャイアンツの強烈なファンが犯罪を犯しても、部屋が本で埋めつくされるような活字マニアが犯罪を犯しても、決してそのことは報道されることがない。当然、「それらの悪影響で犯罪が起きたのではないか?」などという珍説が飛び出す余地はない。
逆に考えれば、「犯人がオタクメディアにハマっていた」という報道がなされるならば、当然、ゲーム脳理論がマスコミによって受容される土台が存在するわけだ。
ここにゲーム脳理論の需要の1つがある。
では、マスコミはいつごろから犯罪と直接関係のないはずのオタクメディアを関係あるかのように扱うようになったのか。
1988年から1989年にかけて、4人の少女が行方不明になった。
「今田勇子」を名乗る犯人は、被害者宅にハガキや遺骨を届るなど、その行動がマスコミの興味を強烈に引きつけた。
そして容疑者として逮捕された、宮崎勤の部屋にマスコミのカメラが入ると、そこに映し出されたのは大量のビデオテープや雑誌などの山であった。この、とても常人のものとは思えない部屋のようすは、その報道を見聞きした多くの一般視聴者に、きわめて強烈な「オタク」のイメージを植えつけた。(「オタク」という言葉自体も、この事件がきっかけとなって一般の人に広まった)
このイメージから「オタクメディアの愛好者=犯罪予備軍」という見方が、マスコミと視聴者の間で共有されることとなった。
つまり、「犯人がオタクメディアにハマっていた」という情報は、宮崎勤連続幼女誘拐殺人事件以降、「マスコミと視聴者の間で共有されるべき情報」ということになったのである。
だが、ゲーム脳理論が受け入れられる原因はそれだけではない。
なぜなら、決して宮崎勤以前に、オタクメディアに対する偏見がなかったわけではないからだ。
たとえばインベーダーブームが過ぎ去った後のゲームセンターには「不良のたまり場」のイメージがあり、子供がゲームセンターに行くことを禁止していた学校や親は多い。
確かに不良のたまり場と化していたゲームセンターもなかったわけではないが、ゲーム機が数台置いてあるような、不良がたまるような環境にない駄菓子屋すら目の敵にした人は少なくなかった。
少なくともこの時期に、「ゲームセンターに行くことは不良の始まり」であるかのような価値観が、多くの人、特にPTAを始めとする教育関係者に共有されていた。
そして1985年には、改正風俗営業法が施行され、ゲームセンターは風俗営業とみなされ、深夜営業の禁止など、さまざまな規制を受けることとなった。
ここで注目したいのは、このゲームセンターへの批判という文脈の中で、すでに「ゲーム」そのものよりも「子供」という側面が強調されていることだ。「子供が不良になるので、もしくは不良がいて危険なので、ゲームセンターは良くない」という文脈の批判がされている。
この点はゲーム脳理論も同じである。TVゲームをすることによって「子供の脳が痴呆化するので」TVゲームは良くないとしている。
どちらも「子供にとって有害」という点で批判されているのである。
ゲームセンターからTVゲームへ、批判の対象は変化したものの、「TVゲーム=子供に良くない」という理論は、スペースインベーダー以降、つまりTVゲームが一般に広まって以降「常に」なされている理論なのだ。
では、TVゲームの何が具体的に危険視されているのだろうか?
TVゲームの問題に関しては、モニターを見つめることにより、目を悪くする危険があったり、ゲームにお金を使うと子供の金づかいが荒くなるなどの細かな問題も確かにある。
しかし、もっとも大きい問題は、TVゲームの出現によって、子供の「遊び」のパターンが大幅に変わったことではないかと考える。
当時の子供の親たちの遊びは、鬼ごっこやかくれんぼ。木登りに三角ベースに、メンコやビー玉。オハジキにお人形遊びやおままごと、ゴムトビなどであった。
もちろん時代によって変化はあれど、なんとなく「遊びのベースライン」が見えるような気がする。
「気がする」というのは、あまりにいいかげんな物言いだが、子供の遊びとしてこれらが「健全」であることは認識できる。私の足りない想像力で「ベースライン」の中身を考えると、子供らしい「元気さ」や「無邪気さ」。女の子に向けては家事や子供の扱いという「女性らしさ」。こうしたイメージがベースラインであるように思う。
そう考えると、TVゲームはこのラインから外れている。
ただ、ゲームセンター全盛の時代は、「外」にゲームセンターや駄菓子屋があり、まだ「元気さ」は垣間見れるが、家でテレビに向かうTVゲームとなると、その元気さすら表面的には見られなくなる。
TVゲームをする子供たちに対する不安を表す文章で「子供がテレビの画面を見つめて、となりの友達としゃべりもせずに黙々とTVゲームをしている」というものが多々見られるが、これはまさに子供の遊びにとってのベースラインである「元気さ」を親が見いだせていないということだ。
しかし、子供が家でTVゲームばかりをするようになったのは、TVゲームのせいなのだろうか?
今現在、私は自分がかつて育った地元に住んでいる。人口は確か8万人ぐらいだったか、それなりに家の立ち並ぶ「市」である。
自分が子供のころは、よく道路を走り回って遊んだものである。足で走り回ったのもそうだが、自転車で友達と競走したりもしたのは、懐かしい思い出だ。
しかし、今、そんなことをしたら、間違いなく子供は交通事故の犠牲になる。
かつては一家に1台だった乗用車が、一人に1台といえるほどに増え、細い路地などにも入り込んでくる。
昔住んでいた家のそばに1車線半程度の道があるのだが、昔はこの道沿いで良く遊んだものだ。しかし、今では大型ホームセンターの駐車場に繋がる道になっており、ひっきりなしに車がすれちがう道になってしまっている。
また、かつては「子供の社交場」の代名詞であった、駄菓子屋が全滅している。
私の実家がかつて駄菓子屋であったことはすでに述べたが、私の子供の頃には、子供が自転車で簡単に移動できる程度の範囲に、何軒もの駄菓子屋があった。しかし、一軒、また一軒と営業をやめていき、今残っている駄菓子屋は、私の知っている範囲では一軒もない。
駄菓子屋だけではなく、プラモデル屋や、おもちゃ屋という、子供を相手にした店はほぼ全滅している。それどころか、市街地から店という店がことごとく消えている。これは別に私の地元だけの話ではなく、ごく一部の都市部を除く、日本のほとんどの場所でであろう。
そして消えた個人商店の代わりに大型店舗が生活を支えるようになる、その大型店舗は、車での来客の都合のみを優先して、郊外の幹線道路沿いに作られる。
こうした状況の中、TVゲームで遊ぶのは悪いと言う人たちは、車を持たない子供にどこで遊べと言うつもりなのか。市街地には車と民家しかないというのに。
ここで都市計画の問題をやるつもりはないので、これ以上踏み込むことは避けるが、とにかく現在子供たちが表で元気よく遊べるような場所はほとんどないという現状はしっかり認識しておく必要がある。
しかし、「子供が体を動かさないからゲーム脳になる」などという話の中では、そうした現実はなかなか省みられることはない。1つの実験の「科学的な言説」が、そういうふうにならざるをえない社会、という現実を覆い隠してしまっている。
また現実を省みなくても、さもその問題を厳しく追求しているようなイメージが科学にはあるのではないか?
古代エジプトの粘土版だったかパピルスだったかに「最近の若い者は」という愚痴が書かれていたという。本当かどうかは知らないけど。
大人が子供の事を考える際に、どうしても「現在の子供」と「かつて自分が子供であった頃」を比較してしまう。そして、往々にしてその「かつて」は、子供時代の思い出とともに、過剰に美化される。そして新しい遊びはさかんに攻撃される。
森世代の人たちは、自分たちが空き地などにみんなであつまって野球をしていたのを、健全な美しい思い出として持っているのではないか。しかし、その昔、「野球は脳に悪い」などと言われていたとしたらどうだろう?親に「脳に悪いから、野球なんてやめなさい」と言われたとしたら?
なにもこの話、冗談やあてこすりで言っているわけではない。かつて確かに「野球は若者の健全な成長を阻害する」とか「野球は脳に悪い」と言われていた時代がある。
1911年の8月29日から9月22日にかけての計22回、東京朝日新聞が「野球と其害毒」という連載を行った。
さまざまな教育関係者や医学関係者を呼び、野球の「害毒」を書き連ねるのだが、その内容は「手の平への強い玉を受けるため、その振動が脳に伝わって脳の作用を遅鈍にさせる(松見順天中学校長)」「一校の名誉の為に是非勝たなければならぬと云う重い責任の感が日夜選手の脳を圧迫し甚だしく頭に影響する(金子魁一東大医科整形医局長)」などという、「TVゲームは親指ばかりを使うので、脳を活性化しない」とか「ロールプレイングゲームはストレスで脳に良くない」といった、ゲーム脳理論とほとんど同じような事が言われていたのである。
脳以外でも、つい先日まで5,000円札の顔であった新渡戸稲造は「野球という遊戯は悪く言えば巾着きりの遊戯、対手を常にペテンに掛けよう、計略に陥れようベースを盗もうなどと眼を四方八方に配り、神経を鋭くしてやる遊びである」とその非道徳さを嘆いているし、日露戦争の英雄として知られる、当時、学習院院長であった乃木希典は「対抗試合の如きは勝負に熱中したり、あまり長い時間を費やすなど弊害を伴う」として批難している。
この当時、野球がブームになっていた。特に早慶戦は応援合戦も盛んで、1906年には応援が原因で試合が中止になるという事態になったほどであった。
その後も、野球の試合での加熱した応援合戦はつづき、大学野球の選手の方も野球を続けるために浪人を繰り返す者まで出るしまつであった。
そして、こうしたことの反動として、「野球と其害毒」という野球害悪論が生まれたのである。
ゲーム脳論理と、野球害悪論を共通項を考えた場合、その非難がもっぱら教育的側面にあることに気付く。
つまり、勉強が本分である学生が、TVゲームや野球にうつつをぬかすなど、とんでもないというわけだ。
また、双方とも実質的には「学生(子供)のみ」を批難している事も忘れてはならない。
野球害悪論については、その競技性が批判の対象という形にはなっているが、実際は野球の過剰ブームに対する非難である。しかし、そこでは野球ブームに一緒に酔狂した、大学地元のオジサンオバサンは非難されない。
ゲーム脳論理も同じで、そもそも「TVゲーム」という対象自体に若者というバイアスがかかっているし、また『ゲーム脳の恐怖』の中で、森が開発した脳波計で脳波を取られ、研究に協力したにもかかわらず、キレるだの学業成績が悪いだの言われているのは、学生である。「お母さんたちは、子供をこんな学生にしないために、TVゲームを辞めさせなさい」というのが、森の主張だ。
こうした特定の誰かを非難する論調は、非難されない側の人間にとっては、大変安心である。なぜなら、野球害悪論にしてもゲーム脳論理にしても、非難されるのは必ず「他人」だからだ。
非難する側が野球やTVゲームに関心を持たない限り、これらの論を信じることによって、必ず一方的に他人を攻撃できる。
非難の理論と実質の解離が大きいにも関らず、その理論が大々的に支持される場合、こうした非難による「快楽的側面」も大きいのではないかと考えられる。