『「脳科学」化社会』赤木智弘

教育と脳

 最近は、子供の教育に対して、脳の重要性が強調されることが多い。
 もちろん、この文章の主要なテーマの1つである「ゲーム脳」もそうだが、「ある程度成長すると脳が完成してしまい、柔軟性がなくなる」という脳の成長メカニズムに注目する早期教育も興味深い。
 「三つ子の魂、百まで」という常套句で始まるそれは、子供の脳味噌の成長がおおよそ3歳で止まるという「科学」を提示する。つまり、3歳までにしっかり勉強させようという、早期教育の考え方はこれを根拠にしている。
 また、「脳の臨界期」なるものを提言する人もいる。「だいたい8歳、遅くても12歳まで」というそれは、この年齢までに勉強をしないと、それ以降はなかなか知識が頭に入らないという、才能開花の限界時期を示している。
 こうした脳科学は、いずれも幼児教育産業のいい宣伝文句になっている。
 だが、その一方で、早期教育の翼賛は、成長してからの努力というものを否定してしまっている側面もある。たとえば外国語教育などは早期教育と親和性が高く、「子供に将来ネイティブな英語を使わせたければ、○歳までに英語を勉強させよう」と吹聴するコピーは、もはや英語教室の常套句となっている。
 成長してから母国語以外を発音するのが難しくなることを、ドイツ語訛りが強烈だったアメリカの元国務長官の名前をとって「キッシンジャー効果」と呼ぶそうだが、逆に見ればキッシンジャーは、ネイティブにはとうてい及ばないドイツ語訛りの英語で、アメリカの国務長官にまで上りつめたのであり、決してネイティブ同等の会話ができなくとも、コミュニケーションそのものにさしたる支障はないことを示してしまっている。もっともあちらは多民族国家なので、ネイティブではなくても、それほど違和感がないという事情もあるだろう。
 ここで重要なのは、単なる脳の成長が、子供の学習能力全般を決めると考えられてしまっていることだ。
 この時期に教育を行えば、脳が成長する時期なので、学習能力は飛躍的に成長する。しかし、この時期を逃してしまえば、子供の学習能力は成長せず、一生を棒に振りかねない。そう早期教育は脅迫する。
 そして、この早期教育をさせるのは、親の責任である。なぜなら、早期教育の対象は小学校低学年までの子供であり、少なくとも日本ではこのくらいの子供に対して自主的な判断を求めない。ならば当然「最新の脳科学に従った正しい教育」は親が子供を育てる上での責任となる。

 子供への教育が親の責任として、アカデミズムの分野で取りざたされたのが、心理学における「社会化研究」の分野である。
 「アヴァロンの野生児」という話を聞いたことがあるだろうか? 「カマラとアマラ」「オオカミに育てられた少女の話」と言った方が分かりやすいかもしれない。 信憑性については疑問視されることも多いが、ここではそれには触れない。
 概要としては、ある日、オオカミの巣からオオカミに続いて、2人少女が出てくるのが発見される。孤児院に収容され、育てられ、そこで十分な教育を受けるが、1人は早くに病気で死んでしまう。もう1人はある程度の会話はできるようになるが、同年代の子供とは比べればはるかに貧弱な語彙力しか持てず、結局若くして死んでしまった。という話である。
 この話は「幼い頃に人間の社会で育たないと、人間として社会生活を営めない」という文脈で読み解かれ、子供に対しての、社会や親による教育がどれだけ重要であるかを示す「早期教育神話」として扱われている。
 だが、よくよく考えれば、大抵の人は特別な教育がなくても、通常の会話を他者と交わしてさえいれば、語彙力は自然に増えるのである。教育機会の少ない地域で識字率は低くとも、会話が少ないという話しは聞いたことが無い。
 すると、アヴァロンの野生児の例は、会話の重要性を示すものでしかないハズのように思うのだが、なぜか「教育の全般の重要性」を示す話となってしまっている。
 ここで重要なのは、「教育」とされるものと、我々が社会で生きていく上で、社会の中から得られる「知識」が混同されていることだ。
 もし、子供の語彙力だけを問題にするのなら、特に子供向けにプログラミングされたものではないTVやビデオを視聴させるのもよいのではないか。他者という意味で、TVやビデオは両親とは違った語彙力をもっており、TVで話している言葉を子供が獲得するなら、それは決して悪いとは言えない。もちろん、その言葉を日常の会話で実践的に使わなければ意味はないのだが。
 しかし、最近は「TVやビデオに子守りをさせるのは悪いこと」という主張をよく見かける。どうも「シュタイナー教育」とかいう教育方針らしい。シュタイナーというと、私は「エーテル」やら「アストラル体」といった、オカルティズムを想起してしまい、「おいおい、そんなものと結びついた教育論でだいじょうぶなのかよ?」とは思うが、ここで取り上げる文脈としては、「TVやビデオに子守りをさせるのは悪いことだという教育方針」とだけ理解しておくべきだろう。別にシュタイナーの名前を持ちださなくても、感覚的にTVやビデオを親との会話なしに子供がじーっと見ているということに「おかしい」と感じることは十分理解できる。
 で、「TVやビデオに子守りをさせない」というのは、その一方で「親が子供を厳重に管理する教育」ということである。乳幼児期の子供が親と離れる機会を持つのは家の中だけであるが、TVのような子供が「じっとして見るもの」があれば、起きている子供から親は目を放すことができる。しかし、そうでなければ親はずっと子供を見ていなければならない。
 昔は、親が目を放すことのできる機会は共同体によって維持されており、お婆ちゃんや近所のオバサンといった人たちに預けることもできた。しかし、核家族が増え、近所との関係性が希薄となった現在では、なかなか難しい。
 そこで、親が子供の管理をしっかりする=常に目を光らせておかなければならないという口実として「教育」という言葉が利用される。その内実は親に対する教育責任の押しつけである。それは親は子供のすることに対して「リスク」を負っているということだ。そしてそのリスクは、共同体によって分散可能だった昔より、核家族化と共同体の希薄化で現在の方が高くなっている。
 そうしたリスクを親に受け入れさせようとした時、その理不尽さを封じ込めるために、なんらかの強力な理論が必要となってくる。そこに科学的で客観的な、素人には決して否定できない、脳科学が利用される。

 だが、ここで思い返さなければならないのは、科学は決して客観的な事実のみを語っているわけではないという点である。
 科学的研究は、その研究者の主観的判断によって、スタートするし、また得られたデータを解釈する場合、この解釈というのは主観的な判断なのである。
 TVゲームをプレイしている時の前頭前野の活動について、森と川島はお互いに「前頭前野がほとんど活動をしていない」という同じデータをとりながら、森は「TVゲームが前頭前野の働きを鈍くさせ、痴呆と同じ症状にする」としているのに対し、川島は「TVゲームをするよりも、単純な計算や本の音読の方が前頭前野を活性化させる」と、まったく別の視点からの解釈をしている。
 もちろん、ここに痴呆研究の膨大なデータなどを組み合わせれば、森の結論を否定するは可能だろう。
 しかし、どちらも科学的なデータである以上、少なくともそのデータそのものは批判できないし、痴呆研究の知識がなければ、さも両論並び立っているように見えてしまう。
 そして、この両論並び立った結論のどちらか欲しい方を、我々は「科学的に証明されている」と喧伝することができるのだ。

 ところで、我々はなぜ子供の教育にそこまでこだわるのだろうか?
 「子供の教育が重要なのは当たり前ではないか?」と思う人もいるだろう。
 しかし、少なくともちょっと昔までの日本においては、子供の教育など、さほど重要なものではなかった。
 広田照幸の『日本人のしつけは衰退したか』(講談社 1999)によると、第二次世界大戦以前の一部の裕福層や新中間層を除く一般層、いわゆる「村の共同体」においてのしつけは、現在とは全く異なる意味合いのものであったという。
 現在のような立ちふるまいや生活態度に対するしつけではなく、仕事(家事を含む)に対するしつけであり、逆に仕事さえしっかりしていれば生活態度については問わない親が多かった。当時の労働状況を鑑みれば当然の話で、仕事が忙しく子供たちが労働要因として扱われていた時代には仕事を教える事こそが親のしつけであり、さらに親が子供たちに接する機会のほぼすべてであったといえよう。
 では、生活のしつけはというと、その共同体の中での立ちふるまいの方法であり、決して世間一般に広く通用するようなしつけではなく、ローカルルールともいえるものであった。これも彼らにとっての社会とは、イコールその共同体でしかなかったのだから当然である。
 もうひとつ、家庭の中で子供たちはどういう存在だったかと言えば、仕事や家事の手伝いをする以外はただただ邪魔な存在でしかなく、親は子供たちに一家の収入に不相応なほど、たくさんのこづかいを与え、家から追い出すのが常であった。追い出された子供たちは駄菓子屋などの「子供の社交場」で賭け事などをして遊んでいた。
 つまりは、この頃の親は子供たちのしつけということに対し何ら責任を取る必要がなかったのであり、子供たちの発育の不健全はその子供自身の責任でしかなかった。とはいえ、ローカルルールにおいては悩むべき健全も不健全もなく、ただ共同体の論理に従って動く以外の選択肢はなかったのだから、それについての責任を子供たちに要求するのも無理があり、子供の成長に対する責任など、誰も取らなかったし取れなかった。
 しかし、第二次大戦以降、学校というものが共同体に入り込み、高度経済成長を経て労働形態が第一次産業から二次三次にシフトするに従って社会全体がそれなりに裕福になり、一億総中流的幻想が広まり始めると、しつけの様相は一変する。
 かつては裕福層や都市層でしか行われていなかった、生活全般に対する公共的なしつけ、いわゆる現在のイメージでのしつけが一般層でも行われるようになった。こうした中で親は「子供のジェネラル・マネージャー」としての役割を果たすことを期待されるようになった。
 また、労働形態のシフトは、人口の都市部集中を引きおこし、伝統的な共同体を破壊した。
 交通網は整備され、田舎の方まで高速や新幹線が通るようになった。村は「これで村にも人が戻ってくる」と考えたのだろうが、現実にはまるで毛細管現象のように、整備された交通網を使って人は都市部に移動していった。
 こうした状況下で、伝統的な共同体においての道徳観、つまり生活するうえで熟知している必要のあった「村のしきたり」は、公共的な道徳観に置き換えられた。小さな村で古くから知っている同士が生活するのではなく、巨大な街で知らない者同士が生活するという状況下において、道徳という国全体に共通的な価値観を持つことは日本人にとって、絶対的に必要なことだった。
 考えてもらいたいのだが、「子供の教育」という言葉を改めて眺めた時に、その「教育」という言葉には、「勉学の教育」ともう一つ「道徳教育」が含まれている。たとえば子供が電車の中で走り回っていたとして、親の教育はどうなっているのか? と首を傾げる。このときの教育は勉学の話ではない。もちろん、脳科学と教育の関わりにおいても、決して早期教育などの勉学の話だけに留まるものではない。


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