森は『ゲーム脳の恐怖』の中で、「まったくテレビゲームをしたことがない」という、今の時代にはきわめて特殊と思われる人たちを「ノーマル脳人間」タイプと名付けて、このような評価をしている。
私の印象として、この人は礼儀正しく、学業成績は普通より上位でした。
その一方で、「ゲーム脳人間」タイプに対しては、
ゲーム脳人間タイプの人の様子はというと、主観かもしれませんが、表情が乏しく、身なりに気をつかわない人が多いようです。気がゆるんだ瞬間の表情は、痴呆者の表情と非常に酷似しています。ボーッとしているような印象です。ゲーム仲間で集まることが多いようですが、関りあいは浅く、ひとりで内にこもる人が多いようです。(略) もうひとつは自分勝手であること。羞恥心がないこと。そういった人間らしさが乏しい印象の人は、ゲーム脳人間か、ゲーム脳人間になりかかっている危険があります。
と、言いたい放題である。
全体としてのトーンは学力や能力といった、勉学に対する批判ではなく、道徳性についての批判である。
他にも道徳性を問題にしている脳科学は散見される。
北海道大学教授の澤口俊之は『平然と車内で化粧する脳』(扶桑社
2000)で、車内で化粧をする人や、人前でいちゃいちゃするカップルなどを批判するる。
上智大学教授の福島章は『子どもの脳が危ない』(PHP新書
2000)で、環境ホルモンなどの影響によって、生態的に脳に欠損のある子供が生まれやすいことに加え、「脳のOSの変化」として、TVやテレビゲームの氾濫によって、イメージ処理を優先する脳の仕組みができてしまい、キレたり粗暴になったりという、道徳的規範の異常を警告している。
ジェンダーフリーに対するバックラッシュの形で「男と女は脳の構造が違うので、ジェンダーフリーは誤りだ」とする主張なども流行っているらしい。
なぜ、脳科学と道徳観念は非常に結びつきやすいのだろうか。
それを語るには、フィニアス・ゲイジという男の存在を忘れることはできない。
1848年9月13日、当時25歳であったゲイジは、鉄道路線工事の現場監督として働いていた。責任感がつよく非常に有能な仕事ぶりで、誰からも好かれる性格であ
ったらしい。
その日、彼は岩を爆破する作業を行っていた。しかし、ちょっとした手違いから爆薬を暴発させてしまう。そして、その時に使っていた直径4センチほどの長い鉄の棒が、爆破の勢いで彼の頭蓋骨を貫通してしまったのである。
しかし、運良く彼は即死を免れた。それどころか、鉄の棒が頭蓋骨を貫通、すなわち脳を損傷したというのに、彼には何ら身体的な欠損が起らなかったのである。
しかし、彼の性格は事故前とは大きく変わってしまった。すぐに怒り、嘘を付き、盗みを行い、計画だてて行動することができなくなった。
このことがきっかけで、当時の科学者たちが脳に興味を持ち始めたのだ。ゲイジこそが現在に繋がる脳科学研究の大きなきっかけを作った人間なのである。
ということは、もともと脳科学は「脳の損傷」と「人間が不道徳になること」の関連性を結びつけるための科学であり、脳科学と道徳観念がわかちがたく結ばれるのは、その誕生の経緯から、極めて当然といえるのである。
すると、問題行動と脳の関連性を意識する「ゲーム脳」というのは、非常に正統な脳科学の視点と言えるし、脳科学者が「キレる」といわれる昨今の若者の状況に、やたらと脳の観点から警笛を鳴らしたがるのも、うなずける話ではないか。
なるほど、確かにゲイジは脳の損傷によって、不道徳な人間となった。だが、これは脳の物理的な損傷の例である。このこと「道徳的でない人間は脳の機能が正常ではない」と反道徳的行動を、内部的な脳の機能異常に結びつけるのは本当に正しいのだろうか?
また、道徳というのは人間社会全体に横たわる普遍的な真理ではなく、ある程度広い共同体に許容される、好ましい「ふるまい」のことである。
たとえば、我々が普遍であると信じがちな道徳に「人を殺してはいけない」というものがあるが、それは本当に普遍的な真理なのだろうか?世界の各地で戦争が起っている。戦争に賛成する人たちは、こう話す「我々は正義のために戦っているのだ」。しかし、端的に言えば、戦争とは人の殺し合いである。正義のために戦わなければならない社会では「人を殺してはいけない」という言葉は、真理になりえない。
また、死刑制度も人を合法的に殺す制度である。死刑は人を殺すなど、極度に社会を混乱させる行為をした人間にくだされる判決であるが、一方で死刑制度が存在しない国もある。このことは死刑制度の存在する国にとって「人を殺してはいけない」が真理でないのと同時に、「人を殺したら死刑にしなければ社会秩序が保たれない」という言説も真理では無いことを示している。
このように道徳が、所属する共同体によって違うのであれば、正常に機能している脳によって得られるはずの「道徳的ふるまい」とやらも、共同体によって違うということになる。自ら所属する共同体の利益を守るための行動であれば、人殺しすら道徳的とみなしうるのだ。
つまり、脳理論の使い手、もしくは受容者にとって、「好ましい活動をする脳」が正常な脳なのではなく、「好ましいと共同体によって規定される活動をする脳」が正常な脳なのである。
しかし、「正常な脳」思想は、実は既に脳科学の中に立ち現われて、大変ショッキングな結果を残し、消え去っているのである。それは「ロボトミー」という、道徳的でない人間の性格を矯正するためにする、脳の外科手術である。
ロボトミーはエガス・モニスというリスボン大学の神経科教授によって発明された手術法である。彼は1935年、重度のうつ病患者に、この手術を行い「劇的な効果を得られた」と発表した。
では、ロボトミーとはどんな手術かというと、「前頭葉を切り取る」というものである。具体的には「人間らしらを司る」と言われる前頭前野の命令を、脳の他の場所に伝えるための神経線維(白質)を切り取るというものである。
この手術は当時「画期的なもの」として医学会に大々的に受け入れられた。実際1949年に彼はこの功績によってノーベル医学賞を受賞している。
で、この手術は患者にどんな影響をもたらしたのだろうか?ロボトミーについて書かれている資料をいくつか読んだのだが、書いてあることがかなりバラバラなのである。
もともと重度のうつ病患者に対して行われたということから、思慮分別が乏しくなる、自殺などの衝動的行動をとらなくなると言う、消極的な人間になったという説明がある一方で、楽天的で空虚なことしかいわなくなり、生活態度が粗雑になって、犯罪行動などに走る者もいたと、衝動的で無分別な人間になったような説明もあった。
ただし全体的には「衝動的行動をとる人間をおとなしくさせる手術法」だと認識されているようで、凶悪犯罪者に対する精神治療として行われたりした。
ここで私はおかしなことに気付く。前述の脳科学の発祥の原因となったフィニアス・ゲイジの話である。
彼は、鉄の棒によって脳の損傷を受けた。そのことによって粗暴な性格に変わってしまった。このとき彼が損傷した脳の部位は「前頭前野」と呼ばれる部分である。そして、人の性格をおとなしくさせるためのロボトミーも前頭前野の命令を脳に行き渡らせないために行われる手術である。どちらも同じ前頭前野の機能を不全にすることという点では同じなのだが、まったく別の結果をもたらしているのはなぜだろう?
もちろん、これは素人の浅はかな考えで、脳科学者には即座に論破される性質の疑問なのかもしれない。しかし、ここで重要なのは、片や前頭前野の外傷が不健全な脳を生み出し、その一方で前頭前野からの司令を遮断することが脳の治療とされる考え方そのものである。
これは、「正常な脳」という考え方が、決して物質的な正常異常という観点ではなく、物質的に脳が正常な人間であっても、反道徳的な性格であれば「異常な脳」として、手術の対象になるということ。つまり、脳の正常異常自体が「本人の性格」によって判断されるのである。
こうして考えると、脳科学の現代社会においての役割が鮮明に見えてくる。
脳科学は、その名前の通り「科学」である。
「科学」は客観的で揺るぎのないものだと信じられている。
その科学と道徳は「正常な脳」という観点のもとに結びつく。
「道徳」はけっして客観的な事実ではない。
しかし、道徳と科学が結びつくことにより、その道徳は脳科学をバイパスする形で、科学的に実証されたものであると見なされる。このことはきわめて重大である。
道徳は科学ではない。道徳とは、ある共同体における主観的な好ましさに過ぎない。
「人殺しは良くない」「年寄りに敬わないのは良くない」「子供のうちからボーイフレンドをつくり、セックスするのは良くない」「勉強の時間をTVゲームに費やすのは良くない」「男らしさ、女らしさを否定してはならない」「偉大な指導者に従わないのは良くない」「世界に自由と平和をもたらすための戦争に反対するのは良くない」「有色人種を同じ人間として扱うのは良くない」といった、非常に主観的な道徳観念を、主観的過ぎるという批判を受けないために、客観に置き換えるためのマジックとして、脳科学は利用されている。