『「脳科学」化社会』赤木智弘

まとめ

 ここまでの思考の道程を、初めから辿ってみる。

 私がこの問題に興味を持った、そもそものはじまりである『ゲーム脳の恐怖』において、森教授の考える「健全」は、あくまで彼が考える道徳上の健全性であった。
 このことによって私は、極めて主観的なものの言いようが「科学」と称されることにより、さも客観的な事実であるかのように流布されてしまうということに気づいた。
 そこから、私は「科学」というものの客観性に疑問を抱いた。そして、研究者の研究に対する姿勢から、「科学は必ずしも客観的ではない」ということを確信した。科学のいう「客観性」とは、あくまでも科学を科学的とみなすための要素の1つに過ぎないし、ましてや「科学だから客観だ」などという転倒した理論は成り立たない。
 しかし、「子供」というキーワードのついたものを安易に打ち捨てられない。なぜなら、「脳の成長」は、学歴を中心とした社会においては「子供の成長」と等しく、脳への悪影響はイコール、子供の成長への悪影響と考えられるからだ。
 親、特に子供の育成に責任を取らされることの多い母親にとって、子供の成長は最大の関心事であり、同時に最大のリスクである。子供の成長如何によって、己の人間としての価値まで決定されかねない。
 母親はその不安を払拭するために、早期教育などの脳の成長にそった教育を行うようになる。科学的研究によって、脳の成長は「時間制限つき」と確定されているので、ぼやぼやしているわけにはいかない。
 また、母親は子供のリスクを極力避けるために、言論を転倒させ、母親自身がリスクだと感じていることを、脳科学的に確証されたリスクだということに仕立てあげる。そうした流れの中に「ゲーム脳」もある。
 また、一部の科学者は、それを安直に転倒させ、社会に対して「科学的な提言」を行っている。そしてそれに呼応した人たちが、科学者と同じように「主観的な道徳」を科学として吹聴する。
 一般社会もそれを利用し、子供に「道徳」を植えつけようとする。彼らにとって都合の悪い行動は「脳の悪化」であり、治療の対象だ。その一方で都合のいい行動を翼賛する姿勢は、すでに科学の名には値しない、別の何かである。

 以上のことを、この文章では解説してきた。

 最終的な結論を、もう一度まとめると、
 「脳科学は、ある種の共同体の持つ道徳を、科学という客観的理由で強要するためのツールとして扱われてしまっている」ということだ。

 ある種の共同体とは、いわゆる共通幻想としての「過去の日本」。それは現実としての日本ではなく、各自の記憶の中や、メディアのステレオタイプの中にある、「あの頃の古き良き日本」。日本以外でも、各自が理想とする社会、その人にとっての都合のいい社会。
 そうした幻の「幸せ共同体」が実現しないという現状を理屈づけるために、脳科学が悪用されている。
 なぜ脳科学なのかと言えば、脳は人間の本質、人間そのものと考えられているからで、人間の性格、性質は脳に依存し、脳が不健康なら、性格も不健全になるという考え方は、安易に受け入れられがちである。
 同様な思想はかつては肉体論として成立していたが、現在では「健全な精神は健全な肉体に宿る」などという標語を鵜呑みにする人間はほとんどいない。そのかわりに今は「健全な精神は健全な脳に宿る」というわけだ。その方が科学的、イコール客観的に見える。
 しかし、それは決して客観的な見地ではない。生物の発達、進化は取捨選択によって、正しいものが選ばれるのではなく、ただ環境に適応したものが選ばれるという性質のものである。物質的に健全に育った脳が、我々人間にとって常に「好ましい」選択をする脳であると考える、つまり「脳の健全さ=人間の道徳性」という考え方は幻想に過ぎない。

 結局のところ、彼らが脳科学によって道徳を語ろうとする時、一貫している姿勢とは何かと言えば、それは「無責任さ」である。
 科学者においては、自身の行為が科学の名に値するかを十分に検討せず、たれ流すことによって既成事実化させようとする無責任さ。
 一般人においては、科学の名において提示されたものに、十分な検証もせずに、自分の利益となるなら飛びつき、それを吹聴、拡大させる無責任さ。
 どちらも自身の十分な思考を放棄し、都合のいい道徳観念を他者に押しつける。そして、当然そうした押しつけは、弱者である子供やマイノリティに向けられる。
 脳科学問題の正体は、決して個人の公衆衛生の範囲内に納まるものではなく、社会全体を覆う巨大なな社会問題である。


前のページへ   作品一覧   ブログ掲載時のトラックバック