『それぞれのもうひとつ ――日系人という社会――』近谷純子

 日本からブラジルへ渡った人がいる。ブラジルから日本へ渡った人がいる。これは別々の話ではない。日本からブラジルへ、そしてブラジルから日本へ、あるいはまた日本からブラジルへ、「移民」をめぐるひと続きの話だ。移民という日本語に対応する英語には、「immigrant」と「emigrant」のふたつがある。前者はある国、たとえば日本に「入ってくる人」を言い、後者はある国から「出て行く人」を指す。いまの日本で「移民」の響きがどこか遠くに感じるとしたら、移民に関して、「入る」「出る」のふたつの概念を区別する言葉がないというのも、そのひとつの証拠だろうか。でも、移民は自分とは無関係な話だと思っていたらいつか取り残されるのは自分のほうだと、私は途中でそう気づかされることになった。


プロローグ

 「準々決勝 ブラジル2、ロシア2、日本4」
 2003年11月3日。東京・代々木体育館で極真空手の世界大会、第8回オープントーナメント全世界空手道選手権大会が開催されていた。仕事でどうしても会場に行けなかった私の元へ、この極真空手の世界へ私をひきこんだ男から実況中継のメールが刻々と携帯電話に届く。

 日本人が4人も残った、これはいけるかもしれない――。
 

 「準決勝 グラウベ vs プレカノフ、木山 vs テイシェイラ」
 一気にブラジル勢ふたり、ロシア、日本がひとりずつに状況が変わる。ブラジルの新星、テイシェイラの試合はその前日、私も会場で予選の試合を観戦していた。長い足から繰り出される上段への廻し蹴り(頭やあごの付近を狙った足技)が、蹴った瞬間にまたビュンとのびる。(木山さん……)と心では応援するものの、もうだめだ、決勝はグラウベ vs テイシェイラのブラジル人どうしの対戦になるかもしれないという思いが頭をよぎる。

 さかのぼることさらに4年前の世界大会で優勝したのはフランシスコ・フィリオだった。1972年、極真空手の祖・大山倍達が言った「君、いってきたまえ」の一言で単身ブラジルに渡った磯部清次が作り上げたブラジル支部からの、はじめての優勝者だった。そしてそれは、極真空手の歴史上はじめて日本勢が王座を失った瞬間となった。

 磯部師範の人生は極めて珍しいものかもしれない。1972年、大山総裁に一年の約束で行って来いといわれたブラジル滞在は結局切り上げられることなく、もはや、ブラジルで骨をうずめる覚悟になった。息子、リュウジ・イソベはブラジル代表として極真の試合に上がる。そんな磯部師範もまた、「移民」と言われる存在だ。2004年に発行された『ブラジル日本移民 戦後移住の50年』の本のなかに、写真とともに紹介された彼の話を見つけることができる。


神戸と横浜

 いま、日本は外国人労働者の受け入れをあれこれと言い、入国管理局(入管)の文字を新聞で目にする日も多い。でも、神戸で蔦のからんだ建物を見上げ、そこに「Japan Emigration Center」の看板を目にした時には、「日本人には日本からの『出国』を意識する時代があったんだ」と思うと胸がつまった。生活に余裕があって考える海外移住の話ではない。日本では食べていけないという理由で、国をあとにすることがあった――。

 Japan Emigration Center。昭和3年に設立された国立移民収容所は、のちに神戸移住斡旋所、神戸移住センターと名前を変えたが、そこは日本から海外への移住を決意した人々が神戸港からの出航前の1週間ほどを、検査や買い物や予防接種のために過ごした場所だった。移民。日本には現在のように受け入れうんぬんをいうのではなく、「送り出し国」だった時代があった。そして、それはそんなにも遠い遠い昔の話ではない。

 いまも横浜と神戸のイメージは、外国の空気をふくんだハイカラな街といったところだろうか。共に山手から海をのぞむことのできる、旧外国人居留地を残すふたつの街は、一方でその港から多くの日本人を送り出した。いま、神戸には海外移住資料室(旧神戸移住センター)があり、そして横浜には海外移住資料館が建つ。

 阪神大震災からは3、4年が過ぎていた大学時代、友達や彼と歩いたときには神戸・元町の坂道がこんなにけわしいと感じたことはなかった。トアロードから一本入った道には大好きでよく通ったカフェ、ブラッスリー・トゥース・トゥースやモダナーク・カフェがある。そこからさら数本の辻を入る。鯉川筋。移民坂と言われるこの道をずっとずっと上がっていったところに、海外移住資料室(旧神戸移住センター)があった。その名前からはちょっと想像がつかないほどに、こじんまりと、ひっそりと、冷たい廊下の壁に資料が展示してあった。

 震災後、この建物にはCAP HOUSE というアート系のNPO団体が入り、ワークショップを開いたり活動の場としたりしている。震災後、神戸の街はことごとく新しくきれいになったから、それから思うと珍しく「新旧」が完全に入り混じった、真冬のひんやりが壁から天井から伝わってくる5階建ての古い建物だった。街を見下ろす3階の窓の脇の壁に、「What do you want to be, if you would be able to reborn?」という新しいペインティングを見つけた。CAP HOUSE で活動する人が書いたものだろう。「もし生まれ変わったら何になりたい?」と、その青い文字が問う。

 当時この高台にある建物からは神戸港が見えたという。いま、3階の窓から海は見えなかった。でも、この旧神戸移住センター前の坂をまっすぐに下っていき、途中の家々や大丸百貨店、右手に神戸の中華街を見て通り過ぎると、そこはメリケン波止場、神戸港。神戸の海に出る。海につながるその道筋の真っ直ぐさは変わらない。

 昭和3年から昭和46年まで。約40万人と言われる、神戸から海外へ移住した人たちは、どんな気持ちで神戸の時間を過ごしたんだろう。広島、富山、秋田……。家族一家で、70代の祖父母から生後数ヶ月の子までが揃って旅立った。20歳前後の青年がひとりで、自らの夢を切り開くため船に乗った。移住先で待つまだ見知らぬ夫の元へ「花嫁」として嫁ぐ女性もいた。旅立つきっかけはそれぞれだった。神戸を出て40日あまりたったら、ブラジルに着く。異国の地で「生まれ変わる」覚悟だったのだろうか。

 40日あまり、一ヶ月半の船旅は、それだけで人生の1ページになりうるものだった。藤崎康夫は1973年、船としては最後の移民を運ぶことになった横浜出航のあふりか丸に乗船している。週刊誌へ記事を寄稿するためだった。現在はブラジル国内で発行されている邦字新聞であるニッケイ新聞(日本経済新聞とは別のもの)の東京支局長をつとめる。

 藤崎が長年移民を運んだ船のパーサーに聞くと、ほんとうにいろんな人がいたという。日本で船に乗りこんだ花嫁側と、ブラジルでそれを待つ男性側の双方がお互いに違う写真を手にしていたこともあった。かと思えば、むこうに将来の夫が待っているはずの女性が、船のなかで別の男性と恋におちていた……。

 見知らぬ地での生活が、生まれ変わった人生の生活だったと私は思わない。それぞれ、ひとりひとりにとって、やっぱり人生はひと続きのものだ。そう思う。

 そして横浜の海外移住資料館。JICAと併設して建つこの資料館は新しく、立派な建物だ。写真やビデオ映像などの展示史料も、地域別、年代別に追ってきれいに並べられている。それらを見て、海外に渡った日本人に思いを馳せながら、でも「ちょっと待って」という気持ちが止まない。

 ひとつの理由は、それがJICA、国際協力機構の建物だからだった。いまJICAといえば、青年海外協力隊をはじめとした開発途上国への援助活動、大災害が起きたときの国際緊急援助隊といった日本から海外諸国への援助を主な業務としている。だが、JICAの前身は日本海外協会連合会、海外移住事業団だったのだ。つまり、日本から海外への日本人移民の支援を業務の柱としていた。現在は開発途上国の援助を考える日本に、ほんの少し前まで、政府が日本国民を食べさせて行けないという理由で国民を海外へ送り出す時代があった。いや、いまも国民が政府のもとでハッピーに暮らしているかどうかはわからないのだが……。

 そしてもうひとつ、この日本人移民の話はまだ、こうやって箱のなかに展示して歴史としてしまっておく話ではないと思ったのだ。ちょうど海外移住資料館をたずねたころ、私はあるメーリングリストに移民の話を聞きたいという書き込みをしていた。パソコンを立ち上げてメールをあけるたび、アメリカのカリフォルニアから、カナダのトロントやバンクーバーから、そしてブラジル各地からメールが届いた。「こんな資料がある」「何でも聞きなさい」「誰々をたずねてみてはいかがか」。日系1世や2世と呼ばれる人たちからメールが届く。これは「現在」の話、まだ資料館に閉じ込めちゃいけないと思った。


日系ブラジル人寮の管理人をつとめて

 「あんたの国もたいしたことないねえって私、言ってやっただよ」
 そんなことを言うから、私はびっくりしたけど、でもこういうことが言える人っていいなあと思った。

 きっかけは日系ブラジル人だった。東京に住んでいて日系ブラジル人に気がつくことはこれまでなかった。でも、愛知や静岡や群馬の工業地帯に「日系ブラジル人」がいると知って、「日系人? ブラジル人? 日本の血をひいているなら、日本人じゃないの?」と混乱しはじめた。一番わからないのは「日系人」という言葉だった。ブラジルに住んでいても、日本から移り住んだっていうなら、それは日本人だろうと私は思った。

 静岡に、ヴィラ・ヴェルディという日系ブラジル人の住む寮がある。現在は人材派遣会社が管理する、いわゆる貸しアパートになっているのだが、佐藤恵津子はここで1993年から2003年までの10年間、夫と共に住み込みで寮の管理人をしていた。多いときは一度に100人ほどが住んだ。朝・晩の食事の支度、寮の管理が仕事だった。とても広いキッチンの調理台に、ある日はたとえば冷麺の皿がずらっとならぶ。味噌汁だったら具材も公平に入るように、まずはひとつひとつのお椀に具を平等に入れてから、汁を注いだ。大きな鍋に大きな調味料のボトルに、とにかく大人数が相手だった。

 佐藤家は元々、羽振りがよかった。自営の仕事をしていたが、バブルの時代に銀行は頼めばいくらでもお金を貸してくれた。帳簿は恵津子が管理していた。夫は借金の額をまったく知らなかった。ある日、恵津子は「おとうさん、いまだったら間に合う。全部売ってしまえば、何も残らないけど、でもマイナスにはならない」と夫に話した。90年代はじめのことだった。

 そしてそれは現実の話となり、見事にほんとうに何も残ることはなかった。家も、残らなかった。泣いて泣いて泣いて暮らしたある日、新聞の求人欄に「夫婦で寮の管理人ができる方」を不動産会社が募集していた。場所は同じ静岡県内だった。「おとうさん、こんなのどう?」「おまえがそれでいいっていうなら、一からのやり直しもいいな」。電話を掛けて、ふたりはその言われた場所に向かった。

 そこがまさか日系ブラジル人の住む寮だとは、一行も書いてなかったし、電話口でも一言も聞いていなかった。不動産屋が建てた4棟の建物。大手電機メーカー関連子会社が、その4棟を15年の約束で借り上げていた。工場で働く、日系ブラジル人が住むための寮としてだった。A・B棟が独身男性寮、C棟が独身女性寮。D棟が子供のいない、夫婦用。日系ブラジル人が相手だというのは予想外だったが、でも新築のきれいな建物が気に入って、佐藤夫妻は寮の管理人として住み込むことに決めた。

 恵津子が言う。「私がごはん担当だったんだけど、何作っていいかわからなくてねえ」。杏仁豆腐はあまり食べられずに、そのまま残されていた。ある日、どんなものを食べているかと思って仲良くなっていた寮生のところへ食事を見せてもらいにいった。夫婦用のD棟には各部屋にキッチン設備もついているのだ。一口食べて、これはだめだと思ったという。味気というものがない。強いて言うなら、塩気だけ。

 「日本の料理は砂糖を使うでしょ。ブラジルはそれがまったくないの。味付けは塩とにんにくだけ」。和食の味の繊細さは、だしやしょうゆもさることながら、砂糖に決め手があったのだ。「でもやっぱり人間の体は糖分を求めるのよね。食事で糖分を取らないかわりにどうするかといったら、コーヒーにどぱーっと砂糖を入れて飲むのよ」。食事ルームの机においておく砂糖のスティックが入った箱は、すぐに空になる。

 寮内においてあった自動販売機の補充にくるお兄さんは、はじめてヴィラ・ヴェルディを尋ねてきたときにブラジル人が住んでいると知って、これはコーヒーが売れますねえとホクホク顔だった。でも充実した缶コーヒーのラインナップ、「無糖ブラック」「甘さひかえめ」はちっとも売れない。唯一、「UCCの缶コーヒー」だけが売れた。赤とコーヒー牛乳色に塗り分けられた、あの細いコーヒー缶。それは、日本ではもう製造が少なめになってきている種類だった。

 日系ブラジル人。ときに日本人そのままの顔をした、日本人の血をひいた人たち。でも甘い食事は口にしない、日本語が満足に通じない……。「『大変だー、大変だー』って最初のころは毎日言ってね、でも会社の所長さんがいい人で、私たちのことも、日系ブラジル人のこともよく面倒みてくれてね、それでやってこれた」

 1991年に入国管理法が改定され、日系2世、3世とその配偶者は、単純労働者としての日本入国が認められることになった。合法的な外国人労働者。90年代初頭から、ある商品がヒットし、電機メーカー関連子会社として部品をつくるその工場は大忙しだった。だが、エアコンという季節商品を扱うだけに、仕事の忙しさに季節変動がある。冷夏の影響もある。と思えば、暑い夏が見込まれる前の冬はフル稼働でも納品が追いつかない。

 工場では、不定期な仕事でも働いてくれる労働者が必要だった。バブル期、それは黙っていても仕事のある時代、中小企業にとって工場で働く日本人労働者を揃えるのはほぼ不可能だった。日本人は仕事を選んだ。そこで目をつけられたのが日系人だった。日本人を祖父母や父母に持つ家庭で育った日系人は勤勉だった。工場で同じラインに立ったときに、外見の違和感がないというのもポイントだった。そして、彼らは時間外労働をむしろ喜んで引き受けた。25%増しの残業代は大きな収入で、逆に残業がない仕事は、日系ブラジル人からは見向きもされないくらいだった。そうして需要と供給は、電機メーカーの工場側と日系ブラジル人側の双方で一致した。

 ヴィラ・ヴェルディの寮生だけで100人を超えることもあった。どうやってそれだけの人を集められるのかと思っていると、横のつながり、日系人どうしのネットワークの強さから、条件や待遇がよければどんどん集まってくるのだという。「うっかり誰かの悪口なんていえないねえっておとうさんと話してね。誰かのともだちは誰かの奥さんだったり、もう絶対に何かの縁でお互いがつながってるから」と恵津子は言う。

 でも、誰かの誕生日だといってはパーティーがあって一緒に踊ったこと。七夕にはポルトガル語でいいからと言って短冊に願い事を書いてもらい、笹の葉にかざったこと。夏休み、近くの川の上流に突然キャンプを張ってそこで1ヶ月ほど生活し始めた寮生にびっくりしながらも陣中見舞いに言ったこと、そのときの差し入れはたくさんの刺身、でもとにかく日系ブラジル人はまぐろの赤身をおいしいおいしいって食べるけど、それ以外の刺身はだめなこと。そんないろんなことを楽しそうに語る様子に、それがいかに恵津子にとってのよい思い出だったかがじんわりと伝わってくる。

 ある日、伊勢志摩に旅行に行ったとき、仲のよかった元寮生につくりものだけどパールのネックレスを買って帰った。「エツコさんありがとう。すごくきれい。ブラジルに帰ったら外にはつけて出られないけどホームパーティーでつけるね」。聞くとブラジルでパールのネックレスなんかを身につけて外にでたら、それを目当てにネックレスもろともひっつかみ、ひきちぎられてしまって危険なのだという。それくらい治安が悪い。それを聞いた恵津子の言葉が、冒頭の「あんたの国もたいしたことないねえ」だった。

 日本に来て、特に子供が産まれた夫婦・家族は、ブラジルと比べた日本の治安のよさに、そのまま定住を決める人もいるという。彼らにとって、けっしてそれは予定していたことではなかった。よく家が建てられるなと思うこともあるが、それくらいによく働く。そして会社の面倒見のいい所長が、保証人にもなった。

 あるとき、日本語の分からない寮生がもらった給料明細を持ってきて、これは何の控除かと聞く。明細をのぞきこんで恵津子は腰を抜かした。そこにあったのは、管理人として働く夫婦ふたり分を合わせた額よりもまだ多い手取り額。その晩は夫婦でやけ酒を飲んで寝たという。3000万円近くも貯めて、ブラジルに帰った寮生もいた。「彼のところにだけは銀行から盆暮れの挨拶が届いていたものねえ」。でも、そんな彼らを見て「自分たちも負けていられない。もう一度家を建てる」と、夫妻は心を奮い立たせた。

 寮の近所の人たち全員がよき理解者だったわけではない。「ブラジル人は人前でもキスしたりべたべたしたりするでしょ。まわりの日本人のなかにはそれが子供の教育によくない、って言う人もいたしね」。でも、夜遅くまでパーティー騒ぎになることがわかっている日にはあらかじめ佐藤夫妻が近所に挨拶にゆき、時には「今日はこれまで」と電気を消し、そんなふうに寮生に対しては手綱をひいたりゆるめたりして、近所にも気を配った。大変なことも多かったけれど、でも日系ブラジル人の寮生はいい子たちだという思いがあるから、そうやっていろんなあれこれの世話を焼くことができた。

 夫はある日恵津子にこんなことを言ったという。「いやあ、そういえば俺もむかし、ブラジルに移住しよう、っていう話を聞いたことがあったなあ。もしあのとき、話に乗ってブラジルに移民に行ってたら、今頃は日系人として出稼ぎに日本に戻ってきてたかもしれないなあ」

 人生はわからない。たとえ同じ時代を生きたとしても、同じ国に生まれたとしても、誰一人としてまったく同じ道を寸分たがわず歩くことなんてないのだ。


1962年、ブラジル移住

 山野正雄は現在、ブラジル・サンパウロに住む。高校時代の成績からすると東大合格は間違いなかった。でも、そうはならなかった。1962年、ブラジルに渡った理由のひとつは失恋だった。その彼がこの2月の終わりに、ちょうど10日ほど日本に戻っているとのことで、横浜そごうで待ち合わせた。

 目の前で話をする72歳の山野は、どこをどう切り取っても日本人だ。国籍は日本。ブラジルについては永住権を持つ。そして彼を別の名称で呼ぶならば「日系1世」となる。妻は日系2世で、日本国籍とブラジル国籍の両方を持っている。ふたりの子供は、2.5世だろうか。ただ、実際上は0.5刻みの呼び方はないので、子供たちは日系3世ということになる。長男はブラジルで家業を継ぎ、次男は日本で仕事を(この7月に家族も日本に来る)、娘はアメリカで仕事をしている。娘はアメリカ人と結婚して、アメリカの永住権も持つ。

 「本を読んでてもやっぱり日本語が一番落ち着くね、ポルトガル語を読むときは気合を入れないとね」。そんな話を聞いていたら、昨年春の芥川賞、綿矢りさの『蹴りたい背中』と金原ひとみの『蛇にピアス』を両方読んだのだけど、あれはどこまでが実話なのかなあと尋ねられて、私はほんとうに粟食った。だいたい私は『蛇にピアス』を読んでいない。「日系人」だと思って、どこか日本人と切り離した感覚で話をしている場合ではない。ブラジルでNHKの衛星放送を見ているので、『英語でしゃべらナイト』が話題にでてくるし、とにかく話にギャップがないのだ。

 日本とブラジルの地域差を感じさせないのはもちろんのこと、世代間の差さえ飛び越えてしまったかのような山野を前にして「この人は例外かもしれない……」とは思いつつ、でも彼もまた戦後のブラジル移住者であることは、間違いのない事実なのである。

 山野がこう言う。「移民の先行研究はたくさんあると思うけど、優れたものもいっぱいあるけど、でもそのほとんどは戦前移民のことを取り上げたもの。余力のなかった日本政府がいかに貧困の農村部の人たちをまるで捨てるかのように海外に送り出した、そういう話が多いね。それに、戦前に移住された方が苦労したっていうのは本当の話。でも、私は戦後ブラジルに移住して、苦労したことはひとつもない。苦労といえることはほんとうにまったくなかった」

 1970年代、ブラジルの景気はほんとうによかった。ブラジルに進出しない日本企業は探すほうが難しかった。山野はすでにブラジルに渡っていたが、ある日本企業に、現地採用ではなく本社採用扱いということで入社し働いた。「日本で日本人と話をしていてブラジルに移住したという話をすると、いまでも『苦労されたんですね』って言われるけどね。いちいちそれを否定するのもなんだし、『そんなことはないですよ』とあえて反論することもあまりしないけど……」

 ニッケイ新聞という、ブラジル国内で発行されている邦字新聞がある。そこで、「南米移住史を日本の教科書に!」という連載があった。日本の小・中・高の歴史教科書には、南米移住・移民の話がまったく掲載されていない。日系社会にそのことが伝わると、なぜだと驚きの声があがったという。

 それはもうひとつの歴史教科書問題とでもいえるだろうか。ここにも「自虐史観」という言葉がでてきた。石川達三の『蒼氓』、棄民のイメージ。農村から移住して、入植地で積み重ねた苦労。移民である自分たち自身がそんな自虐史観をもってしまったら、プライドをもった移民像、自ら道を選んだ、切り開いた移民のイメージがでてこない。そんな声が日系社会からあがってくる。確かに戦前、そして戦後すぐのころ、国民を食べさせていけなくなった日本政府側には、「海を渡ればよい生活が待っている」と国民をだまして移住させた側面があるかもしれない。でも、ひとりひとりにとっては、だまされたんじゃない、自分で行ったんだ、という思いがあるのだ。ブラジルで1万円稼いで戻ってきたら、日本ではその30倍、30万円の価値があると聞き、「ブラジルで成功する」「南米で稼ぐ」という意識を持って海を渡った。

 戦前の農業移住者の苦労ははっきりと知っているし、それが事実だというのも心底知っている。でも、ネガティブなイメージだけではない。移民には、前向きな気持ちもある。「南米で成功する」と思いをきめてブラジルにやってきた。教科書には歴史事実として南米に渡った日本人のことを紹介して欲しい。でも、日本の国策によって送り出された悲しい人たち、そういった書き方だけで片付けるのはやめてほしい。ニッケイ新聞の連載は、そんな交錯する日系人の思いを、あっちの声もこっちの声も、そしてまたあちらの思いもこちらの思いも伝えていて、だからこそ答えはないのだけど、読む側もまた、考えさせられる。

 山野も言う。「日本人はすぐに型にはめて考えるけどね。ひとつなわけないよね」と。山野の妻は日系2世。戦前にブラジルに渡った日本人の子供だ。妻は日本語を話す家庭環境で育ち、日本語に不自由はまったくない。でも、ほんとうに細かいニュアンスで伝わらないことが時々あると山野は感じている。「わたしはだから、日本からJICAを通じてボランティアに来る若い子たちなんかと話しているほうが、日本語としての感覚がはっきりと伝わるからそのほうが楽しいときもあるんですね」

 そんな山野の妻の友達、日系2世の友達仲間には、ブラジル人(つまり非日系人)と結婚した人たちもいる。彼女たちは、「いまの結婚にはとても満足してる。でも、もう一度やり直せるなら、日本人と結婚したい」と言うのだという。

 自分の人生は、たぶん自分自身が受け入れるもの。誰も引き取ってはくれないから。そして他人の人生には、勝手にラベルをはるのではなくて、寛容になること。大げさだけど、そんなことをぼんやりと思う。


日本人歌手の南米公演

 そして、それでも私はまだ日系ブラジル人の「日系」の部分をわかりえず、もっと知りたくてさかのぼっていったら日付けは1908年までたどり着いた。1908年、笠戸丸が横浜を出航してブラジルのサントスに入港したのが6月18日。それが第一回ブラジル移民のはじまりだった。井上祐見は2003年、その第一回の移民船に乗っていた96歳になる中川トミに会っている。

 日本では買うことのできない歌がある。それは日本の事務所に所属する、日本人歌手の歌であるにもかかわらず。タイトルはポルトガル語で「En sou Japonesa」。訳すと、私は日本人女性です、となる。この曲は、南米でしか歌われない。

 29歳の演歌歌手、井上祐見は1999年から6年連続で南米公演を続けている。「わたし、南米で日本のおじいちゃんおばあちゃんに歌を聞いてもらいたい」と井上がつぶやくのを聞いたとき、マネージャーの中嶋年張は「それはいいねえ」と答えた。でも、それからしばらくたって、「ほんとうに行けますか」ともう一度聞かれたとき、これは本気だと中嶋は慌てたという。

 そこからは大変だった。でも早かった。考えつく限り、たとえば大使館だとか領事館だとかに話をして、1999年の年明けにはブラジルのサンパウロ・アサイ・スザノ・イビウーナで4都市4公演を行った。そこから途切れることなく年に一度南米公演を続け、ブラジルだけでなく、パラグアイ、アルゼンチン、ボリビアと踏み入れる場所はひろがっている。7年目となる今年は、南米のスイスといわれるウルグアイにも行く予定だという。

 その行く先々に、日系人社会がある。日本から演歌歌手が歌いにきてくれる。そう知って車で25時間かけて会場にくるひとがいれば、街灯のない道を懐中電灯で照らして足を運ぶひともいた。最初の年、井上祐見は日本では30分ほどのステージをこなしたことがあるくらいの歌手だった。でも、そんなことはもう言っていられない。マネージャーの中嶋も直前の直前まで進行表を書き、井上は2時間40分のステージをつとめあげた。この年の公演、最長時間は3時間20分にまで及んだ。

 いま、「南米日系人社会が育てた演歌歌手」といえばそれは井上祐見の枕詞だ。南米での公演実績は、いまや井上祐見が日本人で一番である。

 彼女が公演で語る言葉がある。「日本には四季があります。でも、わたしにはもうひとつの季節があります。それは、南米という季節です」。彼女には毎年めぐってくる、南米公演という5つめの季節。

 公演は2部構成の演出を行う。前半はみんなで楽しめるような、ノリのよいものを。はげ頭のかつらをかぶって、もんぺにエプロンをして、スケートボードで観客席をまわったこともある。そうやって、いかにもブラジル仕様の陽気な心を盛り上げたあと、後半はじっくりと歌い上げる。それは観客にとって、まさに「日本の心」をゆさぶられる時間になる。

 「En sou Japonesa」
  移住坂を登れば 神戸の街並み 海の向こうは 異国の空よ
  ドラが鳴る 別れの メリケン波止場は
  涙たそがれ いつか戻ると 心に誓う
  En sou Japonesa  いつまでも
  En sou Japonesa 忘れない
  いつも心に 抱いている 白地に赤く燃える想い

 ブラジルに四季はない。夏と冬。そんなブラジルで苦労を重ねてきた、自分の祖父母にもあたる世代の1世の人たちに、日本の四季の心を思い出させてあげたい。春夏秋冬と喜怒哀楽はともに4つ、それらは重なるかもしれない、そんな日本の心を私も持っている、そして聞いてくれているみんなも、と井上が歌う。

 あるとき、いさかいがあった。大いに盛り上がった前半が終わり、ステージも後半にうつったときのこと。じっくりと歌を歌い始め、それにじっと前列で聞き入る1世のおじいさん、おばあさんがいた。だが、後方で騒ぎがおさまらない。一緒に会場に来ていた2世、3世が前半のノリのままに立って手拍子を続けて踊り、いっこうに静かにならない。マネージャーの中嶋は、会場内の進行を手伝ってくれている現地の日系人スタッフに、あの人たちを静かにさせてくれと頼んだ。

 「中嶋さん、それは違う。彼らは喜んで盛り上げようとしているんだ。止めることはない」「いや、止めてくれ。前の方で聞いてくれている人たちに迷惑だ」「どうして? 楽しんでるのに、どうして止める必要がある?」「わたしたちは、1世のおじいさんやおばあさんに日本の歌を聞かせたくてここに来てるんだ」

 「いや、これからは2世、3世の時代。せっかくこうやって彼らも会場に来てくれて日本のことを好きになろうとしている。彼らのそんな気持ちを大切にしてあげてほしい」

 中嶋にとっても、それは十分に分かる話だった。でも苦労した方々に、今日はせめてでも日本からの歌を聞いて、安らかな時間を過ごしてほしい、そう思ってやってきていることは絶対にゆずれない。これは、遠く日本から離れた地で望郷の念を持ち続けた人たちへ贈る時間……。若い日系人スタッフと中嶋、両者の思いは決して交わらず、平行線をたどるしかなかった。

 パンツスタイルの上から浴衣をはおったり、工夫して着物を上下に切り分けて着たり、「正統派」ではない井上祐見のスタイルに、「日本から歌いに来るなら、せめて振袖の3枚でも用意してきなさい」と言ってきた人もいた。でも、「あの人のことは放っておきなさい。日本からわざわざ南米まで私たちのために歌いにきてくれる。それだけで十分わたしたちには伝わる」と、そっと話しかけてくれた人もいる。

 そんな南米公演を続けているうち、マネージャーの中嶋の元に「あんただったら読んでくれるかと思って。もらってくれるか?」と言って、分厚い本を持ってきた人がいた。それは本とはいえないかもしれない。A4のコピー用紙にタイプしたものに、二穴パンチで穴をあけ、プラスチックの板で表と裏をはさんで閉じたもの。厚さは3センチ以上はある。

 縦書きで「お母さんありがとう」と書かれた表紙をめくると、「随筆集 まだ出来上がっていませんが、お送り致します。日本には日本の心があり、ブラジルにもブラジルの心があるとともに、移民の心、日系人の心を書くつもりで頑張っています」。同じ言葉のポルトガル語訳、そして自筆の漢字のサイン。その横に、丸い判子が押してあった。ブラジルの地でつくった冊子の1ページ目に、朱肉につけた判子がまっすぐに押されていた。

 1928年に家族でブラジルに移住した。それ以前の一家の歴史。移民船のなかでのできごと。渡ってから起きた数々のエピソード。時に、自分たち家族だけのことではなく、関係の深かった家族のことも書いてある。移民の歴史一般の資料、たとえば移民船の航路を印した地図、折々の家族の写真、ポルトガル語で書かれた資料、日本語の新聞記事の切り抜き、そういったものが丹念にコピーされてある。

 それは、幼少のころに家族に連れられてブラジルに移民したあるひとりの人生が、自らの手で丁寧に丁寧にバックグラウンドも含んで書かれた、まさに史料的価値のあるものだ。でも、それがたとえば立身出世の成功体験を書いたものかといえばそんなおごりはただの一行だって見当たらないし、ただのひとつも行間ににじむことさえない。

 彼にそれを書かせたものはいったい何なのだろう。後世に残さんとするその思いはどこからでてくるのだろう。移民の人生に、背伸びしても背伸びしても私の手は届かない。


ハイブリッドな日系人社会

 戦前の移住者はブラジルの地を夢見て、日本よりもはるかに経済の進んだブラジルでお金を稼ぎ、日本の故郷に錦を飾るつもりだった。いま日本で働く外国人労働者を「出稼ぎ」と呼ぶなら、戦前に移住した日本人の気持ちもまた、「出稼ぎ」のつもりだった。

 しかし、与えられたのは荒地だった。どうやったって、食べていくのに精一杯だった。都市へ出た人もいる。別の地へ、別の地へと移っていった人もいる。日本に戻った人たちもいた。でも、大概の日本人はまず物理的、経済的に動くことができなかったし、そして精神的にも、あれだけの見送りをしてもらった故郷へおいそれとは帰れないと思った。そうやってそこに根を生やし、コミュニティをつくっていった。同じ時期に同じようにやってきたイタリア人移民には、だめだと思ったらイタリアに戻っていった人たちも多かったという。でも、日本人移民は簡単には動かなかった。動けなかった、と言えるかもしれない。

 そんななか、家族で移住したひとたちは子供たちが絶対に日本を忘れることのないよう教育したという。いまでも俳句や歌を詠む会がブラジルの日系人社会にはあり、見事な折り紙細工を折りあげる伝統も残っている。

 第二次世界大戦中、日本に戻っていた日系人は2世も含めて日本の軍隊に徴兵された。だが、戦争が終わった途端に、ブラジルと日本の二重国籍をもつことが問題にされた。そして、「日本の国籍を捨てて、ブラジルに戻れ」と言われた。

 戦争直後の荒廃した日本が、けっして住みよい国だったとは言えないだろう。夢を持てるような余裕も日本にはなかっただろう。もしかしたら、ブラジルで生きていくほうが為になるとすら思える時代だったのかもしれないではないか。そんな指摘を目にしたとき、私の心は止まった。ぐうの音もでなかった。でもやっぱり、どうして一介の日本人が、ブラジル国籍をもつという理由で日本人高官に「ブラジルに帰れ」と言われる必要があったのか、せめて本人自身が日本に残るかブラジルへ渡るかを選ぶことはできなかったのか、私にはどうしてもわからなくて、頭のなかがいっぱいになる。

 さらに、戦時中もブラジルにとどまった日系人にとって戦争が終わったこと、まして祖国日本が敗戦したことは、なかなか理解できるものではなかった。だんだんに情報が伝わって、そのことが頭の中でわかりはじめてからも、戦後の日本をいっぺんに覆いつくしたアメリカ民主主義の風は、遠くブラジルの日系人社会まで、そう簡単には届かなかった。

 戦後10年、20年がたち、戦後の移住者がブラジルに渡ったとき、同じ日本人どうし、日系人どうしで衝突が起きはじめた。ブラジルで、戦前と変わらない日本人教育を家庭で受けて育った日系人と、日本で戦後民主主義の風にあたってブラジルに渡ってきた戦後移民はかみ合わなかった。いったいどちらが日本人なのか……。いま、日本人以上に日本人らしいといわれる感覚が南米の日系人社会で聞かれるのは、そんな戦前からの移住者、その子供たちがまだいるからだ。

 話は確かに複雑だ。でも歴史は止まることなく次の世代へ次の世代へと、しかもその世代は重なり合いながら続いていく。

 群馬・大泉のブラジル人タウンの様子などを撮っているカメラマンの佐藤隆行が言う。「僕が日系人のことに興味を持ちはじめたのは、そして現在まで、飽きもせず撮影を続けているのはそれが『途切れてしまった歴史』ではなく『いま、現在まで続く歴史』そして『共存する未来』を彼らから感じたからだと思います」

 日本から海外に移住した人たちがいた。そして、その生活は過去形の話ではなくて現在形で続いている。そしてさらに本人やその子供たちが日本にやってきている。「出稼ぎね、またブラジルに戻るのね」という話ではない。海外における日系人社会を見て、日本の昔のムラ社会が続いていると言っては目をそらし、日本に来る日系ブラジル人を便宜上合法的な労働者、そして一方で外国人扱いしていては、いつか日本に住む日本人、自分たちの足元がすくわれると、だんだん感じてきている。だが決してここで日系人脅威論を語りたいわけではない。

 去年9月、小泉首相はブラジル訪問の際、グァパタラの日本人移住地に「歓迎」の文字が書かれているのを上空ヘリコプターから見て、急遽その場に降り立った。そして、彼は移民の話を聞いて、苦労されたんですねとブラジル国内で涙を見せた。そのときは、また一級のパフォーマンスだなあと思っていた。でも、ただ日本から小泉首相の動向を眺めるのではなく、移住地にいる日系人の気持ちになって考えると、心がないのは、小泉首相の涙をただのパフォーマンスだと鼻で笑ってしまう自分のほうだった。「これまで日本の首相の誰が私たちのために泣いてくれたか」とそういう捉え方をする人もいたのだ。「En sou Japonesa」の歌詞にある、「白地に赤く燃える想い」。今回のこの文脈で聞いていなければ、私は「また日の丸だ」と思って間違いなく拒否感をもったと思う。

 海外に移住した日本人のことを考えると、そんな自分の価値観がことごとくひっくり返されはじめた。さすがに私もそれには慌てた。混乱もした。

 なんでこんなに揺れるんだろう。そう考えたとき、大阪で生まれ育って現在は東京在住の、日本人であるところの自分の姿に行き着いた。日本に生まれ育った日本人こそ、なにも日本を知らない。よく言われることだ。一度は海外留学も経験し、「日本人」である自分を意識したこともあったはずなのに、結局またそこに戻ってしまった。

 外国人との対比で考えたことはあった「私は日本人」の意識。今回は「日本人とは」の話を日系人、つまりは海外に移住した日本人に気づかされたみたいだ。2世、3世、4世と世代が変わってくるにつれて、彼らのなかに出てくる揺らぎや弱さは絶対にあるはず。ブラジル国内の日本人家庭で育った子がブラジルで教育を受けて、ブラジルで大学を出ている。もう何代も。そんな日系2世、3世である日系ブラジル人が日本にやってきて、その子供が今度は日本で育って日本の大学を出ている。

 「私は何者?」。ひとりひとりが、そのコミュニティが考えてしまう問題だろう。「日本人の顔をした」日本語を話せない日系ブラジル人は、日本に来てますますそのことを実感するのかもしれない。しかも、日本人は彼らを外国人扱いするのだから。

 でも、ハイブリッドな育ちや血のその複雑さは、難しさも当然生み出すだろう一方で、必ず強さも発揮すると私は思う。

 横浜移住資料館に寄った帰り道、横浜の街で聞くとはなしに前を歩く女子中学生の会話を聞いていたら、「わたし、外国人じゃなくてハーフがいい! ハーフとつきあってみたい」としゃべっている。「ひゃあ、いろんな子がいるもんやなあ」とそのときはびっくりしながら思ったけど、あの女の子は意外にも本質をついていたのかもしれない。なにが格好いいか、どこに強さがあるか、本能的に無防備に見抜いているのかもしれない。

 ブラジルは日本人移民だけではなく、イタリアやドイツなどたくさんの国の移民からなる多民族国家である。ブラジルで学校や大学に進めば、ネットワークは移民どうしを通じて一気に世界にひろがる。日系2世、3世を都合のよい労働者として入国させ、「出稼ぎ者」、一時の滞在者ととらえているならば、もう一度ちゃんと鏡のなかをのぞいたほうがいい。逆に彼らは日本を単に「拠点」、あるいはステップアップとしている可能性がある。ビジネスは日本国内だけでするものじゃない、ブラジルにいようが、たとえ日本にいようが、相手はどっちみち世界。そう考えている。

 日本とブラジルなどの二重国籍を持つ人はどんどん増えている。日本は二重国籍を認めていない国なので、日系人社会では「大使館なんてめったに行くものじゃない」と思っている人もいるという。そんなところに顔を出したら、日本国籍を選ぶのか選ばないのかと迫られるから。

 日本国籍のパスポートを持っていたら、世界中をフリーパスで行けるようなものだ。それを「すごいことだなあ」って思えるならまだいいだろう。「当たり前だ」と思っているなら危ない。そんな情勢は、いつひっくり返るかわからない。日本で生まれ育って日本人であることをなにも意識しないまま過ごしていたら、いつか足元の板をはずされたとき、何につかまってよいかわからないまま真っ直ぐにストンと闇のなかに落ちてしまうことになると思う。

 そうはいっても、簡単に日本人「だけ」である自分の立場を変えられるわけではない。日本人であるしかない自分の状況は怖いなと思う。でも、せっかく日系人社会のネットワークが南米や北米を中心にひろがっているのだから、時には彼らに助けてもらったらいいじゃない。そう考えたら、少しほっとする。日系人のネットワークを活用するという「恩返し」の形が日本人のなかにあってもいいと思うのだが、どうだろう。


エピローグ

 ある日、大江健三郎の『沖縄ノート』を読んでいた。日系人の歴史や生活を見聞きするなかで、日本人であるしかない自分の姿を考えるなか、本土復帰前の沖縄に住む友人たちと会話し、沖縄人である友人たちと自分を照らし合わせることで本土に住む日本人であるところの自分を反問する大江の言葉の一行一行をなぞっては自分も深くうなずきながら、でもどうしても看過できない箇所があった。

 大阪万国博覧会の開会式が行われた日、大江はただひとつも沖縄のことが触れられずに進んでいくテレビのなかの万博式典の様子を観ている。そして結局何も沖縄が触れられなかったその日の夜、沖縄の植民地でランバート高等弁務官夫妻が見物するなか闘牛が行われている様子を放映するテレビを目にして、こう書く。

 「闘うな! このようなカメラの前で闘うな!(中略)沖縄などどこふく風といった万国博の開会式典の中継のあと、一服した日本人に、風変わりな南風風物のスケッチをやってみせるようなテレヴィ番組のために、牛の豪傑たちよ、闘うな!」そして続ける。「僕は自分の書棚の前にひきあげて中野重治氏の文章の一節を読んだ。(略)≪……生きた牛をなぐりたおして、角をもぎ取って殺してしまうといった犯罪映画を、唐手の宣伝映画のようにして映倫が通してしまったのである。(略)あの実写映画は、唐手にたいする、沖縄にたいする、そもそも人間にたいするひどい侮蔑映画だったと私は信じる。≫」(大江 1970 pp.184−185)

 それは名前こそ出していないものの、極真空手を創設した大山倍達が牛と戦う様子を撮った記録映画をさしている。フルコンタクト、実際の殴り合いを認める実践空手である極真空手は見る人が見たら、野蛮なのかもしれない。

 だが、極真空手は一見した野蛮さのむこうで、確かに世界平和を目指した。極真空手の会員は現在、全世界で2000万人ともいわれる。

 大山倍達は、朝鮮人だった。彼はだが、日本国籍を取得し、日本人になった。そして「日本」の空手を世界にひろめた。大山総裁亡きあと極真会館の会長を引き継いだ松井章生は、在日朝鮮人である。彼は生前の大山がどんなに言っても、朝鮮国籍を捨てていない。そして彼は日本代表として戦った。極真の世界大会の、ずっと途切れなかった日本人王座。その第4回の王座は松井がとったものだ。そして、ブラジルに渡った磯部師範の息子はいまブラジル代表である。

 国籍や、ルーツのうんぬんをいうのは絶対にたやすいことではない。そして、他人のそういう出自を口にするのが一番はばかれるのは、なにも迷うことなく日本人であってしまう、自分自身だと思う。

 2003年。第8回の世界王者は木山仁がとった。ブラジルから日本に王座が戻ってきた。

 日本人選手は次の大会でも、「絶対に日本が負けてはならん」と言い続けた大山倍達の言葉を背負って戦うだろう。でも、今度はまたブラジル勢が勝つかもしれない。あるいははじめてロシアの選手が優勝するかもしれない。

 私は次の大会でも日本人選手を応援すると思うけれど、でも内心で「もうだめかもしれない、負けるかもしれない」って毎試合ごとによろめいてしまう気がする。いや、でもそのころまでには移民の「前向きさ」にもっともっと触発されて、心の持ちようがポジティブになっているだろうか。

 次の極真世界大会は2007年。そしてその次の年、2008年に日本人移民のブラジル移住は100周年をむかえる。

参考資料
石川達三 『蒼氓』 新潮文庫 1951
大江健三郎 『沖縄ノート』 岩波新書 1970
桑原靖夫 『国境を越える労働者』 岩波新書 1991
深沢正雪 『パラレル・ワールド』 潮出版社 1999
藤崎康夫 『ブラジルの大地に生きて』 くもん出版 1998
ブラジル・ニッポン移住者協会 『ブラジル日本移民 戦後移住の50年』 2004
『大山倍達とは何か?』 ワニマガジン社 1995
『海外移住』 2003年12月号
『海外移住』 2004年9月号
『季刊 海外日系人』 1977年5月号
NHKスペシャル 移住31年目の乗船名簿 前・後編
「ニッケイ新聞」 http://www.nikkeyshimbun.com.br/
「ブラジル・サイト」 http://www.brazil.ne.jp/
「私たちの40年!あるぜんちな丸同船者寄稿集」 http://40anos.nikkeybrasil.com.br/

注:文中では敬称を省略させていただきました。なお、山野正雄は仮名です。


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