『それぞれのもうひとつ ――日系人という社会――』近谷純子


神戸と横浜

 いま、日本は外国人労働者の受け入れをあれこれと言い、入国管理局(入管)の文字を新聞で目にする日も多い。でも、神戸で蔦のからんだ建物を見上げ、そこに「Japan Emigration Center」の看板を目にした時には、「日本人には日本からの『出国』を意識する時代があったんだ」と思うと胸がつまった。生活に余裕があって考える海外移住の話ではない。日本では食べていけないという理由で、国をあとにすることがあった――。

 Japan Emigration Center。昭和3年に設立された国立移民収容所は、のちに神戸移住斡旋所、神戸移住センターと名前を変えたが、そこは日本から海外への移住を決意した人々が神戸港からの出航前の1週間ほどを、検査や買い物や予防接種のために過ごした場所だった。移民。日本には現在のように受け入れうんぬんをいうのではなく、「送り出し国」だった時代があった。そして、それはそんなにも遠い遠い昔の話ではない。

 いまも横浜と神戸のイメージは、外国の空気をふくんだハイカラな街といったところだろうか。共に山手から海をのぞむことのできる、旧外国人居留地を残すふたつの街は、一方でその港から多くの日本人を送り出した。いま、神戸には海外移住資料室(旧神戸移住センター)があり、そして横浜には海外移住資料館が建つ。

 阪神大震災からは3、4年が過ぎていた大学時代、友達や彼と歩いたときには神戸・元町の坂道がこんなにけわしいと感じたことはなかった。トアロードから一本入った道には大好きでよく通ったカフェ、ブラッスリー・トゥース・トゥースやモダナーク・カフェがある。そこからさら数本の辻を入る。鯉川筋。移民坂と言われるこの道をずっとずっと上がっていったところに、海外移住資料室(旧神戸移住センター)があった。その名前からはちょっと想像がつかないほどに、こじんまりと、ひっそりと、冷たい廊下の壁に資料が展示してあった。

 震災後、この建物にはCAP HOUSE というアート系のNPO団体が入り、ワークショップを開いたり活動の場としたりしている。震災後、神戸の街はことごとく新しくきれいになったから、それから思うと珍しく「新旧」が完全に入り混じった、真冬のひんやりが壁から天井から伝わってくる5階建ての古い建物だった。街を見下ろす3階の窓の脇の壁に、「What do you want to be, if you would be able to reborn?」という新しいペインティングを見つけた。CAP HOUSE で活動する人が書いたものだろう。「もし生まれ変わったら何になりたい?」と、その青い文字が問う。

 当時この高台にある建物からは神戸港が見えたという。いま、3階の窓から海は見えなかった。でも、この旧神戸移住センター前の坂をまっすぐに下っていき、途中の家々や大丸百貨店、右手に神戸の中華街を見て通り過ぎると、そこはメリケン波止場、神戸港。神戸の海に出る。海につながるその道筋の真っ直ぐさは変わらない。

 昭和3年から昭和46年まで。約40万人と言われる、神戸から海外へ移住した人たちは、どんな気持ちで神戸の時間を過ごしたんだろう。広島、富山、秋田……。家族一家で、70代の祖父母から生後数ヶ月の子までが揃って旅立った。20歳前後の青年がひとりで、自らの夢を切り開くため船に乗った。移住先で待つまだ見知らぬ夫の元へ「花嫁」として嫁ぐ女性もいた。旅立つきっかけはそれぞれだった。神戸を出て40日あまりたったら、ブラジルに着く。異国の地で「生まれ変わる」覚悟だったのだろうか。

 40日あまり、一ヶ月半の船旅は、それだけで人生の1ページになりうるものだった。藤崎康夫は1973年、船としては最後の移民を運ぶことになった横浜出航のあふりか丸に乗船している。週刊誌へ記事を寄稿するためだった。現在はブラジル国内で発行されている邦字新聞であるニッケイ新聞(日本経済新聞とは別のもの)の東京支局長をつとめる。

 藤崎が長年移民を運んだ船のパーサーに聞くと、ほんとうにいろんな人がいたという。日本で船に乗りこんだ花嫁側と、ブラジルでそれを待つ男性側の双方がお互いに違う写真を手にしていたこともあった。かと思えば、むこうに将来の夫が待っているはずの女性が、船のなかで別の男性と恋におちていた……。

 見知らぬ地での生活が、生まれ変わった人生の生活だったと私は思わない。それぞれ、ひとりひとりにとって、やっぱり人生はひと続きのものだ。そう思う。

 そして横浜の海外移住資料館。JICAと併設して建つこの資料館は新しく、立派な建物だ。写真やビデオ映像などの展示史料も、地域別、年代別に追ってきれいに並べられている。それらを見て、海外に渡った日本人に思いを馳せながら、でも「ちょっと待って」という気持ちが止まない。

 ひとつの理由は、それがJICA、国際協力機構の建物だからだった。いまJICAといえば、青年海外協力隊をはじめとした開発途上国への援助活動、大災害が起きたときの国際緊急援助隊といった日本から海外諸国への援助を主な業務としている。だが、JICAの前身は日本海外協会連合会、海外移住事業団だったのだ。つまり、日本から海外への日本人移民の支援を業務の柱としていた。現在は開発途上国の援助を考える日本に、ほんの少し前まで、政府が日本国民を食べさせて行けないという理由で国民を海外へ送り出す時代があった。いや、いまも国民が政府のもとでハッピーに暮らしているかどうかはわからないのだが……。

 そしてもうひとつ、この日本人移民の話はまだ、こうやって箱のなかに展示して歴史としてしまっておく話ではないと思ったのだ。ちょうど海外移住資料館をたずねたころ、私はあるメーリングリストに移民の話を聞きたいという書き込みをしていた。パソコンを立ち上げてメールをあけるたび、アメリカのカリフォルニアから、カナダのトロントやバンクーバーから、そしてブラジル各地からメールが届いた。「こんな資料がある」「何でも聞きなさい」「誰々をたずねてみてはいかがか」。日系1世や2世と呼ばれる人たちからメールが届く。これは「現在」の話、まだ資料館に閉じ込めちゃいけないと思った。


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