『それぞれのもうひとつ ――日系人という社会――』近谷純子


日系ブラジル人寮の管理人をつとめて

 「あんたの国もたいしたことないねえって私、言ってやっただよ」
 そんなことを言うから、私はびっくりしたけど、でもこういうことが言える人っていいなあと思った。

 きっかけは日系ブラジル人だった。東京に住んでいて日系ブラジル人に気がつくことはこれまでなかった。でも、愛知や静岡や群馬の工業地帯に「日系ブラジル人」がいると知って、「日系人? ブラジル人? 日本の血をひいているなら、日本人じゃないの?」と混乱しはじめた。一番わからないのは「日系人」という言葉だった。ブラジルに住んでいても、日本から移り住んだっていうなら、それは日本人だろうと私は思った。

 静岡に、ヴィラ・ヴェルディという日系ブラジル人の住む寮がある。現在は人材派遣会社が管理する、いわゆる貸しアパートになっているのだが、佐藤恵津子はここで1993年から2003年までの10年間、夫と共に住み込みで寮の管理人をしていた。多いときは一度に100人ほどが住んだ。朝・晩の食事の支度、寮の管理が仕事だった。とても広いキッチンの調理台に、ある日はたとえば冷麺の皿がずらっとならぶ。味噌汁だったら具材も公平に入るように、まずはひとつひとつのお椀に具を平等に入れてから、汁を注いだ。大きな鍋に大きな調味料のボトルに、とにかく大人数が相手だった。

 佐藤家は元々、羽振りがよかった。自営の仕事をしていたが、バブルの時代に銀行は頼めばいくらでもお金を貸してくれた。帳簿は恵津子が管理していた。夫は借金の額をまったく知らなかった。ある日、恵津子は「おとうさん、いまだったら間に合う。全部売ってしまえば、何も残らないけど、でもマイナスにはならない」と夫に話した。90年代はじめのことだった。

 そしてそれは現実の話となり、見事にほんとうに何も残ることはなかった。家も、残らなかった。泣いて泣いて泣いて暮らしたある日、新聞の求人欄に「夫婦で寮の管理人ができる方」を不動産会社が募集していた。場所は同じ静岡県内だった。「おとうさん、こんなのどう?」「おまえがそれでいいっていうなら、一からのやり直しもいいな」。電話を掛けて、ふたりはその言われた場所に向かった。

 そこがまさか日系ブラジル人の住む寮だとは、一行も書いてなかったし、電話口でも一言も聞いていなかった。不動産屋が建てた4棟の建物。大手電機メーカー関連子会社が、その4棟を15年の約束で借り上げていた。工場で働く、日系ブラジル人が住むための寮としてだった。A・B棟が独身男性寮、C棟が独身女性寮。D棟が子供のいない、夫婦用。日系ブラジル人が相手だというのは予想外だったが、でも新築のきれいな建物が気に入って、佐藤夫妻は寮の管理人として住み込むことに決めた。

 恵津子が言う。「私がごはん担当だったんだけど、何作っていいかわからなくてねえ」。杏仁豆腐はあまり食べられずに、そのまま残されていた。ある日、どんなものを食べているかと思って仲良くなっていた寮生のところへ食事を見せてもらいにいった。夫婦用のD棟には各部屋にキッチン設備もついているのだ。一口食べて、これはだめだと思ったという。味気というものがない。強いて言うなら、塩気だけ。

 「日本の料理は砂糖を使うでしょ。ブラジルはそれがまったくないの。味付けは塩とにんにくだけ」。和食の味の繊細さは、だしやしょうゆもさることながら、砂糖に決め手があったのだ。「でもやっぱり人間の体は糖分を求めるのよね。食事で糖分を取らないかわりにどうするかといったら、コーヒーにどぱーっと砂糖を入れて飲むのよ」。食事ルームの机においておく砂糖のスティックが入った箱は、すぐに空になる。

 寮内においてあった自動販売機の補充にくるお兄さんは、はじめてヴィラ・ヴェルディを尋ねてきたときにブラジル人が住んでいると知って、これはコーヒーが売れますねえとホクホク顔だった。でも充実した缶コーヒーのラインナップ、「無糖ブラック」「甘さひかえめ」はちっとも売れない。唯一、「UCCの缶コーヒー」だけが売れた。赤とコーヒー牛乳色に塗り分けられた、あの細いコーヒー缶。それは、日本ではもう製造が少なめになってきている種類だった。

 日系ブラジル人。ときに日本人そのままの顔をした、日本人の血をひいた人たち。でも甘い食事は口にしない、日本語が満足に通じない……。「『大変だー、大変だー』って最初のころは毎日言ってね、でも会社の所長さんがいい人で、私たちのことも、日系ブラジル人のこともよく面倒みてくれてね、それでやってこれた」

 1991年に入国管理法が改定され、日系2世、3世とその配偶者は、単純労働者としての日本入国が認められることになった。合法的な外国人労働者。90年代初頭から、ある商品がヒットし、電機メーカー関連子会社として部品をつくるその工場は大忙しだった。だが、エアコンという季節商品を扱うだけに、仕事の忙しさに季節変動がある。冷夏の影響もある。と思えば、暑い夏が見込まれる前の冬はフル稼働でも納品が追いつかない。

 工場では、不定期な仕事でも働いてくれる労働者が必要だった。バブル期、それは黙っていても仕事のある時代、中小企業にとって工場で働く日本人労働者を揃えるのはほぼ不可能だった。日本人は仕事を選んだ。そこで目をつけられたのが日系人だった。日本人を祖父母や父母に持つ家庭で育った日系人は勤勉だった。工場で同じラインに立ったときに、外見の違和感がないというのもポイントだった。そして、彼らは時間外労働をむしろ喜んで引き受けた。25%増しの残業代は大きな収入で、逆に残業がない仕事は、日系ブラジル人からは見向きもされないくらいだった。そうして需要と供給は、電機メーカーの工場側と日系ブラジル人側の双方で一致した。

 ヴィラ・ヴェルディの寮生だけで100人を超えることもあった。どうやってそれだけの人を集められるのかと思っていると、横のつながり、日系人どうしのネットワークの強さから、条件や待遇がよければどんどん集まってくるのだという。「うっかり誰かの悪口なんていえないねえっておとうさんと話してね。誰かのともだちは誰かの奥さんだったり、もう絶対に何かの縁でお互いがつながってるから」と恵津子は言う。

 でも、誰かの誕生日だといってはパーティーがあって一緒に踊ったこと。七夕にはポルトガル語でいいからと言って短冊に願い事を書いてもらい、笹の葉にかざったこと。夏休み、近くの川の上流に突然キャンプを張ってそこで1ヶ月ほど生活し始めた寮生にびっくりしながらも陣中見舞いに言ったこと、そのときの差し入れはたくさんの刺身、でもとにかく日系ブラジル人はまぐろの赤身をおいしいおいしいって食べるけど、それ以外の刺身はだめなこと。そんないろんなことを楽しそうに語る様子に、それがいかに恵津子にとってのよい思い出だったかがじんわりと伝わってくる。

 ある日、伊勢志摩に旅行に行ったとき、仲のよかった元寮生につくりものだけどパールのネックレスを買って帰った。「エツコさんありがとう。すごくきれい。ブラジルに帰ったら外にはつけて出られないけどホームパーティーでつけるね」。聞くとブラジルでパールのネックレスなんかを身につけて外にでたら、それを目当てにネックレスもろともひっつかみ、ひきちぎられてしまって危険なのだという。それくらい治安が悪い。それを聞いた恵津子の言葉が、冒頭の「あんたの国もたいしたことないねえ」だった。

 日本に来て、特に子供が産まれた夫婦・家族は、ブラジルと比べた日本の治安のよさに、そのまま定住を決める人もいるという。彼らにとって、けっしてそれは予定していたことではなかった。よく家が建てられるなと思うこともあるが、それくらいによく働く。そして会社の面倒見のいい所長が、保証人にもなった。

 あるとき、日本語の分からない寮生がもらった給料明細を持ってきて、これは何の控除かと聞く。明細をのぞきこんで恵津子は腰を抜かした。そこにあったのは、管理人として働く夫婦ふたり分を合わせた額よりもまだ多い手取り額。その晩は夫婦でやけ酒を飲んで寝たという。3000万円近くも貯めて、ブラジルに帰った寮生もいた。「彼のところにだけは銀行から盆暮れの挨拶が届いていたものねえ」。でも、そんな彼らを見て「自分たちも負けていられない。もう一度家を建てる」と、夫妻は心を奮い立たせた。

 寮の近所の人たち全員がよき理解者だったわけではない。「ブラジル人は人前でもキスしたりべたべたしたりするでしょ。まわりの日本人のなかにはそれが子供の教育によくない、って言う人もいたしね」。でも、夜遅くまでパーティー騒ぎになることがわかっている日にはあらかじめ佐藤夫妻が近所に挨拶にゆき、時には「今日はこれまで」と電気を消し、そんなふうに寮生に対しては手綱をひいたりゆるめたりして、近所にも気を配った。大変なことも多かったけれど、でも日系ブラジル人の寮生はいい子たちだという思いがあるから、そうやっていろんなあれこれの世話を焼くことができた。

 夫はある日恵津子にこんなことを言ったという。「いやあ、そういえば俺もむかし、ブラジルに移住しよう、っていう話を聞いたことがあったなあ。もしあのとき、話に乗ってブラジルに移民に行ってたら、今頃は日系人として出稼ぎに日本に戻ってきてたかもしれないなあ」

 人生はわからない。たとえ同じ時代を生きたとしても、同じ国に生まれたとしても、誰一人としてまったく同じ道を寸分たがわず歩くことなんてないのだ。


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