『それぞれのもうひとつ ――日系人という社会――』近谷純子
日本人歌手の南米公演
そして、それでも私はまだ日系ブラジル人の「日系」の部分をわかりえず、もっと知りたくてさかのぼっていったら日付けは1908年までたどり着いた。1908年、笠戸丸が横浜を出航してブラジルのサントスに入港したのが6月18日。それが第一回ブラジル移民のはじまりだった。井上祐見は2003年、その第一回の移民船に乗っていた96歳になる中川トミに会っている。
日本では買うことのできない歌がある。それは日本の事務所に所属する、日本人歌手の歌であるにもかかわらず。タイトルはポルトガル語で「En sou Japonesa」。訳すと、私は日本人女性です、となる。この曲は、南米でしか歌われない。
29歳の演歌歌手、井上祐見は1999年から6年連続で南米公演を続けている。「わたし、南米で日本のおじいちゃんおばあちゃんに歌を聞いてもらいたい」と井上がつぶやくのを聞いたとき、マネージャーの中嶋年張は「それはいいねえ」と答えた。でも、それからしばらくたって、「ほんとうに行けますか」ともう一度聞かれたとき、これは本気だと中嶋は慌てたという。
そこからは大変だった。でも早かった。考えつく限り、たとえば大使館だとか領事館だとかに話をして、1999年の年明けにはブラジルのサンパウロ・アサイ・スザノ・イビウーナで4都市4公演を行った。そこから途切れることなく年に一度南米公演を続け、ブラジルだけでなく、パラグアイ、アルゼンチン、ボリビアと踏み入れる場所はひろがっている。7年目となる今年は、南米のスイスといわれるウルグアイにも行く予定だという。
その行く先々に、日系人社会がある。日本から演歌歌手が歌いにきてくれる。そう知って車で25時間かけて会場にくるひとがいれば、街灯のない道を懐中電灯で照らして足を運ぶひともいた。最初の年、井上祐見は日本では30分ほどのステージをこなしたことがあるくらいの歌手だった。でも、そんなことはもう言っていられない。マネージャーの中嶋も直前の直前まで進行表を書き、井上は2時間40分のステージをつとめあげた。この年の公演、最長時間は3時間20分にまで及んだ。
いま、「南米日系人社会が育てた演歌歌手」といえばそれは井上祐見の枕詞だ。南米での公演実績は、いまや井上祐見が日本人で一番である。
彼女が公演で語る言葉がある。「日本には四季があります。でも、わたしにはもうひとつの季節があります。それは、南米という季節です」。彼女には毎年めぐってくる、南米公演という5つめの季節。
公演は2部構成の演出を行う。前半はみんなで楽しめるような、ノリのよいものを。はげ頭のかつらをかぶって、もんぺにエプロンをして、スケートボードで観客席をまわったこともある。そうやって、いかにもブラジル仕様の陽気な心を盛り上げたあと、後半はじっくりと歌い上げる。それは観客にとって、まさに「日本の心」をゆさぶられる時間になる。
「En sou
Japonesa」
移住坂を登れば 神戸の街並み 海の向こうは 異国の空よ
ドラが鳴る 別れの メリケン波止場は
涙たそがれ いつか戻ると 心に誓う
En
sou Japonesa いつまでも
En sou Japonesa 忘れない
いつも心に 抱いている 白地に赤く燃える想い
ブラジルに四季はない。夏と冬。そんなブラジルで苦労を重ねてきた、自分の祖父母にもあたる世代の1世の人たちに、日本の四季の心を思い出させてあげたい。春夏秋冬と喜怒哀楽はともに4つ、それらは重なるかもしれない、そんな日本の心を私も持っている、そして聞いてくれているみんなも、と井上が歌う。
あるとき、いさかいがあった。大いに盛り上がった前半が終わり、ステージも後半にうつったときのこと。じっくりと歌を歌い始め、それにじっと前列で聞き入る1世のおじいさん、おばあさんがいた。だが、後方で騒ぎがおさまらない。一緒に会場に来ていた2世、3世が前半のノリのままに立って手拍子を続けて踊り、いっこうに静かにならない。マネージャーの中嶋は、会場内の進行を手伝ってくれている現地の日系人スタッフに、あの人たちを静かにさせてくれと頼んだ。
「中嶋さん、それは違う。彼らは喜んで盛り上げようとしているんだ。止めることはない」「いや、止めてくれ。前の方で聞いてくれている人たちに迷惑だ」「どうして? 楽しんでるのに、どうして止める必要がある?」「わたしたちは、1世のおじいさんやおばあさんに日本の歌を聞かせたくてここに来てるんだ」
「いや、これからは2世、3世の時代。せっかくこうやって彼らも会場に来てくれて日本のことを好きになろうとしている。彼らのそんな気持ちを大切にしてあげてほしい」
中嶋にとっても、それは十分に分かる話だった。でも苦労した方々に、今日はせめてでも日本からの歌を聞いて、安らかな時間を過ごしてほしい、そう思ってやってきていることは絶対にゆずれない。これは、遠く日本から離れた地で望郷の念を持ち続けた人たちへ贈る時間……。若い日系人スタッフと中嶋、両者の思いは決して交わらず、平行線をたどるしかなかった。
パンツスタイルの上から浴衣をはおったり、工夫して着物を上下に切り分けて着たり、「正統派」ではない井上祐見のスタイルに、「日本から歌いに来るなら、せめて振袖の3枚でも用意してきなさい」と言ってきた人もいた。でも、「あの人のことは放っておきなさい。日本からわざわざ南米まで私たちのために歌いにきてくれる。それだけで十分わたしたちには伝わる」と、そっと話しかけてくれた人もいる。
そんな南米公演を続けているうち、マネージャーの中嶋の元に「あんただったら読んでくれるかと思って。もらってくれるか?」と言って、分厚い本を持ってきた人がいた。それは本とはいえないかもしれない。A4のコピー用紙にタイプしたものに、二穴パンチで穴をあけ、プラスチックの板で表と裏をはさんで閉じたもの。厚さは3センチ以上はある。
縦書きで「お母さんありがとう」と書かれた表紙をめくると、「随筆集 まだ出来上がっていませんが、お送り致します。日本には日本の心があり、ブラジルにもブラジルの心があるとともに、移民の心、日系人の心を書くつもりで頑張っています」。同じ言葉のポルトガル語訳、そして自筆の漢字のサイン。その横に、丸い判子が押してあった。ブラジルの地でつくった冊子の1ページ目に、朱肉につけた判子がまっすぐに押されていた。
1928年に家族でブラジルに移住した。それ以前の一家の歴史。移民船のなかでのできごと。渡ってから起きた数々のエピソード。時に、自分たち家族だけのことではなく、関係の深かった家族のことも書いてある。移民の歴史一般の資料、たとえば移民船の航路を印した地図、折々の家族の写真、ポルトガル語で書かれた資料、日本語の新聞記事の切り抜き、そういったものが丹念にコピーされてある。
それは、幼少のころに家族に連れられてブラジルに移民したあるひとりの人生が、自らの手で丁寧に丁寧にバックグラウンドも含んで書かれた、まさに史料的価値のあるものだ。でも、それがたとえば立身出世の成功体験を書いたものかといえばそんなおごりはただの一行だって見当たらないし、ただのひとつも行間ににじむことさえない。
彼にそれを書かせたものはいったい何なのだろう。後世に残さんとするその思いはどこからでてくるのだろう。移民の人生に、背伸びしても背伸びしても私の手は届かない。