『それぞれのもうひとつ ――日系人という社会――』近谷純子
ハイブリッドな日系人社会
戦前の移住者はブラジルの地を夢見て、日本よりもはるかに経済の進んだブラジルでお金を稼ぎ、日本の故郷に錦を飾るつもりだった。いま日本で働く外国人労働者を「出稼ぎ」と呼ぶなら、戦前に移住した日本人の気持ちもまた、「出稼ぎ」のつもりだった。
しかし、与えられたのは荒地だった。どうやったって、食べていくのに精一杯だった。都市へ出た人もいる。別の地へ、別の地へと移っていった人もいる。日本に戻った人たちもいた。でも、大概の日本人はまず物理的、経済的に動くことができなかったし、そして精神的にも、あれだけの見送りをしてもらった故郷へおいそれとは帰れないと思った。そうやってそこに根を生やし、コミュニティをつくっていった。同じ時期に同じようにやってきたイタリア人移民には、だめだと思ったらイタリアに戻っていった人たちも多かったという。でも、日本人移民は簡単には動かなかった。動けなかった、と言えるかもしれない。
そんななか、家族で移住したひとたちは子供たちが絶対に日本を忘れることのないよう教育したという。いまでも俳句や歌を詠む会がブラジルの日系人社会にはあり、見事な折り紙細工を折りあげる伝統も残っている。
第二次世界大戦中、日本に戻っていた日系人は2世も含めて日本の軍隊に徴兵された。だが、戦争が終わった途端に、ブラジルと日本の二重国籍をもつことが問題にされた。そして、「日本の国籍を捨てて、ブラジルに戻れ」と言われた。
戦争直後の荒廃した日本が、けっして住みよい国だったとは言えないだろう。夢を持てるような余裕も日本にはなかっただろう。もしかしたら、ブラジルで生きていくほうが為になるとすら思える時代だったのかもしれないではないか。そんな指摘を目にしたとき、私の心は止まった。ぐうの音もでなかった。でもやっぱり、どうして一介の日本人が、ブラジル国籍をもつという理由で日本人高官に「ブラジルに帰れ」と言われる必要があったのか、せめて本人自身が日本に残るかブラジルへ渡るかを選ぶことはできなかったのか、私にはどうしてもわからなくて、頭のなかがいっぱいになる。
さらに、戦時中もブラジルにとどまった日系人にとって戦争が終わったこと、まして祖国日本が敗戦したことは、なかなか理解できるものではなかった。だんだんに情報が伝わって、そのことが頭の中でわかりはじめてからも、戦後の日本をいっぺんに覆いつくしたアメリカ民主主義の風は、遠くブラジルの日系人社会まで、そう簡単には届かなかった。
戦後10年、20年がたち、戦後の移住者がブラジルに渡ったとき、同じ日本人どうし、日系人どうしで衝突が起きはじめた。ブラジルで、戦前と変わらない日本人教育を家庭で受けて育った日系人と、日本で戦後民主主義の風にあたってブラジルに渡ってきた戦後移民はかみ合わなかった。いったいどちらが日本人なのか……。いま、日本人以上に日本人らしいといわれる感覚が南米の日系人社会で聞かれるのは、そんな戦前からの移住者、その子供たちがまだいるからだ。
話は確かに複雑だ。でも歴史は止まることなく次の世代へ次の世代へと、しかもその世代は重なり合いながら続いていく。
群馬・大泉のブラジル人タウンの様子などを撮っているカメラマンの佐藤隆行が言う。「僕が日系人のことに興味を持ちはじめたのは、そして現在まで、飽きもせず撮影を続けているのはそれが『途切れてしまった歴史』ではなく『いま、現在まで続く歴史』そして『共存する未来』を彼らから感じたからだと思います」
日本から海外に移住した人たちがいた。そして、その生活は過去形の話ではなくて現在形で続いている。そしてさらに本人やその子供たちが日本にやってきている。「出稼ぎね、またブラジルに戻るのね」という話ではない。海外における日系人社会を見て、日本の昔のムラ社会が続いていると言っては目をそらし、日本に来る日系ブラジル人を便宜上合法的な労働者、そして一方で外国人扱いしていては、いつか日本に住む日本人、自分たちの足元がすくわれると、だんだん感じてきている。だが決してここで日系人脅威論を語りたいわけではない。
去年9月、小泉首相はブラジル訪問の際、グァパタラの日本人移住地に「歓迎」の文字が書かれているのを上空ヘリコプターから見て、急遽その場に降り立った。そして、彼は移民の話を聞いて、苦労されたんですねとブラジル国内で涙を見せた。そのときは、また一級のパフォーマンスだなあと思っていた。でも、ただ日本から小泉首相の動向を眺めるのではなく、移住地にいる日系人の気持ちになって考えると、心がないのは、小泉首相の涙をただのパフォーマンスだと鼻で笑ってしまう自分のほうだった。「これまで日本の首相の誰が私たちのために泣いてくれたか」とそういう捉え方をする人もいたのだ。「En sou Japonesa」の歌詞にある、「白地に赤く燃える想い」。今回のこの文脈で聞いていなければ、私は「また日の丸だ」と思って間違いなく拒否感をもったと思う。
海外に移住した日本人のことを考えると、そんな自分の価値観がことごとくひっくり返されはじめた。さすがに私もそれには慌てた。混乱もした。
なんでこんなに揺れるんだろう。そう考えたとき、大阪で生まれ育って現在は東京在住の、日本人であるところの自分の姿に行き着いた。日本に生まれ育った日本人こそ、なにも日本を知らない。よく言われることだ。一度は海外留学も経験し、「日本人」である自分を意識したこともあったはずなのに、結局またそこに戻ってしまった。
外国人との対比で考えたことはあった「私は日本人」の意識。今回は「日本人とは」の話を日系人、つまりは海外に移住した日本人に気づかされたみたいだ。2世、3世、4世と世代が変わってくるにつれて、彼らのなかに出てくる揺らぎや弱さは絶対にあるはず。ブラジル国内の日本人家庭で育った子がブラジルで教育を受けて、ブラジルで大学を出ている。もう何代も。そんな日系2世、3世である日系ブラジル人が日本にやってきて、その子供が今度は日本で育って日本の大学を出ている。
「私は何者?」。ひとりひとりが、そのコミュニティが考えてしまう問題だろう。「日本人の顔をした」日本語を話せない日系ブラジル人は、日本に来てますますそのことを実感するのかもしれない。しかも、日本人は彼らを外国人扱いするのだから。
でも、ハイブリッドな育ちや血のその複雑さは、難しさも当然生み出すだろう一方で、必ず強さも発揮すると私は思う。
横浜移住資料館に寄った帰り道、横浜の街で聞くとはなしに前を歩く女子中学生の会話を聞いていたら、「わたし、外国人じゃなくてハーフがいい! ハーフとつきあってみたい」としゃべっている。「ひゃあ、いろんな子がいるもんやなあ」とそのときはびっくりしながら思ったけど、あの女の子は意外にも本質をついていたのかもしれない。なにが格好いいか、どこに強さがあるか、本能的に無防備に見抜いているのかもしれない。
ブラジルは日本人移民だけではなく、イタリアやドイツなどたくさんの国の移民からなる多民族国家である。ブラジルで学校や大学に進めば、ネットワークは移民どうしを通じて一気に世界にひろがる。日系2世、3世を都合のよい労働者として入国させ、「出稼ぎ者」、一時の滞在者ととらえているならば、もう一度ちゃんと鏡のなかをのぞいたほうがいい。逆に彼らは日本を単に「拠点」、あるいはステップアップとしている可能性がある。ビジネスは日本国内だけでするものじゃない、ブラジルにいようが、たとえ日本にいようが、相手はどっちみち世界。そう考えている。
日本とブラジルなどの二重国籍を持つ人はどんどん増えている。日本は二重国籍を認めていない国なので、日系人社会では「大使館なんてめったに行くものじゃない」と思っている人もいるという。そんなところに顔を出したら、日本国籍を選ぶのか選ばないのかと迫られるから。
日本国籍のパスポートを持っていたら、世界中をフリーパスで行けるようなものだ。それを「すごいことだなあ」って思えるならまだいいだろう。「当たり前だ」と思っているなら危ない。そんな情勢は、いつひっくり返るかわからない。日本で生まれ育って日本人であることをなにも意識しないまま過ごしていたら、いつか足元の板をはずされたとき、何につかまってよいかわからないまま真っ直ぐにストンと闇のなかに落ちてしまうことになると思う。
そうはいっても、簡単に日本人「だけ」である自分の立場を変えられるわけではない。日本人であるしかない自分の状況は怖いなと思う。でも、せっかく日系人社会のネットワークが南米や北米を中心にひろがっているのだから、時には彼らに助けてもらったらいいじゃない。そう考えたら、少しほっとする。日系人のネットワークを活用するという「恩返し」の形が日本人のなかにあってもいいと思うのだが、どうだろう。