『訴(うった)う 吉田優子とその周辺』神山幸恵
プロローグ
万葉の時代から人は歌い、三十一(みそひと)文字に想いを込めた。脈々と連なる歌人たちの系譜のなかで歌は磨かれ、光を放つ。歌人にとって師とは日常の導きを超えて、過去の偉人たちとの繋がりをも表す。
大和は気づいているだろうか。はじめての歌集を発行したその年に、優子が誕生していることを。師弟の縁とは不思議なものだ。1974年、大和克子による『無花果家族』は出版された。前年、歌集を出そうと段取りを決めて序文を前川佐美雄に依頼した。師である前川は大和の依頼を快諾したものの、健康上の理由を挙げて、いつまでもそれを書いてはくれなかった。
前川は「心の花」佐佐木信綱に師事し、1934年「日本歌人」を主宰した。大和は奈良女子高等師範学校在学中に前川と出会い、師と決めた。「日本歌人」を離れてのちに「短歌人」へ移った経緯があるものの、大和にとって師とは前川そのひとであった。予定から1年近くを過ぎてようやく出版された第一歌集は、あらためて師弟の交わりを確認するものだったにちがいない。
今、そんな大和は優子の歌集に序文を寄せている。師弟とは呼ばず、歌仲間と呼ぶ関係に時代の変化を感じるものの、そこにみる人間同士の信頼に変わりはない。「たのむところあった」若き歌人を失った、大和の悲しみも深い。
第一章
誕生
1974年9月27日、午後4時43分、よく晴れた金曜日の夕方だった。身長46センチ、体重2640グラムの女児は優子と名づけられた。父、茂25歳。母、絹子22歳。親子は横浜市神奈川区、子安通りの木造2階建てアパートに暮らしていた。
子安は旧東海道「神奈川宿」の東に位置する昔ながらの漁師町だ。広重による「東海道五拾三次之内 神奈川」は宿の西、現在の台町付近から袖ヶ浦(神奈川湊)を描いている。絵は、左に大きく海をとり沖には舟が揺れている。海の上、崖上に建ち並ぶ茶屋からは女が、列をなして坂をゆく旅人を誘っている。
現在は埋め立てによって台町から海は見えない。だが絵の右に5軒並んだ茶屋は2軒が現存、料亭になっている。「滝川」と「さくらや」がそれである。「さくらや」は「田中家」と名を変えて今もそこにある。
瀧の川を境に神奈川宿は東西にわかれる。東の地は子安。入江川沿いに長く連なる漁師小屋辺りは、子安浜と呼ばれている。戦前は江戸前のはぜやあなごの漁港として栄えていた。若い夫婦が暮らしたアパートの大家も網元をつとめていた。
優子は吉田家が迎えた初孫だった。茂の実家はアパートから徒歩15分、同じ区内にある。共働きの夫婦は、優子を実家に預けて出勤した。茂の結婚はきょうだいの中で一番はやかった。優子は伯父や伯母、祖父母にかわいがられて両親の帰宅を待った。仕事を終えた茂や絹子が優子を迎えに行き、そのまま実家で夕食を共にすることもたびたびだった。まるでアイドルのような優子と彼女を囲む大人たち。夕餉(ゆうげ)のにぎわいは祖父母を喜ばせた。
翌年の春、横浜市戸塚区(現在は泉区)に転居する。かわいい初孫ではあったが五十肩を患った祖母に優子の子守りはつらく、子どもを預けて絹子が働く生活は長く続かなかった。結局、絹子はそれまでの仕事を辞めて、あらたにしらゆり公園管理人の仕事に就いた。一家は園内に位置する管理棟に居を構えることとなった。
約4ヘクタールの公園は、古くは乳牛を飼育する農園として開拓された。あたり一面に咲いていた白百合の花から、そこは白百合農園と名がついたとか。1966年、農園の閉鎖にともない、しらゆり公園は開設された。
現在では、2か所の広場と野球場、プールを併設した総合公園として広く市民に利用されている。春の花見、夏はプールでにぎわう、区内でもっとも大きい公園の入り口に管理棟はあった。
物心のうみその天地(テンチ)開闢(カイビャク)はしらゆり公園柵の中 吉田優子
子育てをしながらでも働ける。そう考えて選んだ受付の仕事だったが、現実には苦労が絶えなかった。人見知りをしない優子は、絹子がふと目を離したすきにいなくなってしまう。広大な公園の中を何度、声を枯らして探しただろう。目の届く範囲で優子を遊ばせるために、絹子は園内に小さく柵を結った。
隣家のない優子に幼馴染と呼べる仲間はいない。時折、居合わせた子どもと遊ぶことはあっても幼い日の優子はひとりで遊んだ。
同じ年頃の子どもが人形遊びに興じる一方で、優子はひとりで物語の世界を楽しんだ。手近のえんぴつや線引きを持ち出しては、人形に見立てた。筆記用具を手に自分で作った物語を演じた。想像の世界でえんぴつや線引きに台詞を言わせては喜んだ。
優子はこの頃、茂と絹子の区別がつかない。優子の感覚では、父親も母親も同じだった。「私」の世界と「その他」の世界。「私」以外の世界はすべて混沌としていた。
優子から「小さい時はお父さんも、お母さんも同じだと思っていた。違う人格だと思っていなかった」と絹子が聞かされたのは、優子が20歳をすぎた頃だった。
幼い優子を褒めるとき、叱るとき、茂と絹子の態度は一貫している。同じように褒め、同じように叱った。同じように主張し怒るふたりは、優子にとって区別のないひとつの存在だった。絹子とふたり、女同士のおしゃべりを通して、はじめて優子は母親の考えを理解する。父親とは違う考えや人格を持つことを知った。
3歳半で再び保土ケ谷区へ引越す。市の中心に位置する保土ケ谷区は、神奈川・西・南・旭・戸塚・緑の6つの区に周囲を囲まれている。約400年前は宿場町「程ヶ谷」として栄えた街だ。今でも名所、史跡を訪ねて軽装の観光客が東海道を歩く姿を見ることができる。
JR横須賀線保土ヶ谷駅からバスに乗り、七つ目の停留場を降りれば優子の家はもうすぐだ。長くそびえる階段を上ると優子が暮らしたマンションが建つ。
新しいマンションでは、同年代の仲間もできた。
おかっぱ頭の優子がたくさんのともだちやそれぞれの母親と混ざって、テーブルを囲んだ写真が残っている。絹子のひざにちょこんとのってカメラを見つめる優子は愛らしい。同じマンションに住むともだちの送別会で撮影されたものだ。
優子の幼い頃の写真は絹子によって整理され、ていねいなコメントを添えて残っている。やがて弟が産まれてからは、その余裕もなかったが、何冊にもなるアルバムを絹子は自ら開くことはない。
優子は大人たちに囲まれて、おしゃべりは達者だった。まだ字も読めないのに読みきかせた本を暗唱してみせた。お気に入りは、せなけいこ作『いやだいやだ』。「いやだ
いやだって ルルちゃんは いうよ、なんでも すぐに いやだって
いうよ」。こんな語りで絵本は始まる。ルルちゃんは何でも嫌がり、お母さんを困らせてしまう。「いやだ いやだ」は子どもの反抗期の行動を客観的に見つめられるように配慮された絵本だ。優子はルルちゃんをゆうちゃんに読み替えて、ご満悦だった。
『ねないこだれだ』もまた、せなの絵本だ。夜更かしする男の子はおばけの世界に連れられてしまう。「こんなじかんにおきてるのはだれだ?」。今でもこの本で寝かしつけられる子どもは多いと聞くが、優子もそのひとりだった。絹子にとっては育てやすい子どもだった。でも、幼稚園へ通いだしても優子はともだちと上手に遊べない。
先生の吹くしゃぼん玉大嫌い園児は潰す片っぱしから
感情表現の苦手な優子は幼稚園でも小学校でも担任を悩ませた。「口ばかり達者な大人子ども」。絹子はそう言って笑った。何をやっても手は遅く、口ばかりが立った。「ゴミを捨てなさい」。「宿題をしなさい」。教師から、何度注意を受けても優子は変わらなかった。絹子が忘れ物を届けるたびに教師は絹子を注意した。「お宅のお子さんは……」。天真爛漫、思いのままに振舞う優子に集団生活はなじまなかった。
絹子も努力した。「なるべく私も学校へかかわったほうがいいと思って」。優子が3年生にあがるとPTAの役員を引き受けた。
優子は目立つ分だけ叩かれた。ともだちや弟に比べて要領も悪かった。口で言われたのに手がでたり、ちょっと言われて騒ぎ立てたり。だが先生に叱られても納得はできない。「先にちょっかいをだしたのは私じゃない」。優子の心には言葉にできない思いが残る。やがて言葉はかたちを変えてあらわれた。優子は突然パニックになる。「ギャー」と叫んでは大騒ぎになった。いちど感情が高ぶると自分でも止められなかった。通信簿の連絡欄、並ぶ言葉はいつも同じだった。「協調性に欠ける」。 子ども同士のいさかいはやがて、いじめへとつながった。異なる者を排除する心理は子どもにも強い。ともだちとの衝突が明らかになるのは小学校の高学年。優子は4年生を迎えていた。
バスケット
優子も興味を示し、また両親の勧めもあって4年生でミニバスケットをはじめた。ミニバスケットは優子が楽しみを覚えたはじめての球技だ。標的にされ、あてられっぱなしのドッジボールは嫌いだった。
優子は学校の体育館を利用して楽しくボールを追いかけていた。だが、やがてつまずく。指導していた教員が転勤になったのだ。指導者を失った校長は茂に指導を仰いだ。茂は学生時代からバスケットに親しみ、それまでもいくつかのチームを指導してきた。優秀な指導者を得てチームの成績はあがった。
しかし、父がコーチとなったチームに優子の居場所はなくなった。ともだちと上手くいかないのだ。「うちのお父さんすごいんだよ」。ともだちは父自慢の優子を快く思わない。悪気なく、ただ無邪気に父を自慢する言葉がともだちからは反感を買った。
はじまりは十二歳 すでに「人の屑」なんて他己紹介されてた
いじめは日増しに激しくなった。
優子が入学時に贈られたランドセルは卒業をまたずして使えなくなった。女子による陰湿ないじめ、男子による暴力。いたずらをされてランドセルはボロボロだった。
投票へ行く道の途中その昔つき落とされた池の底のぞく
さんがつの砂場にあいて拵えて泥人形の級友ならべ
いじめについて優子は多くを語らなかった。「嫌だったら休んでもいいんだよ」。絹子が何度声をかけても学校へでかけた。
6年生のとき、転校生がやってきた。のちにミニバスケットで男子部のキャプテンを務める彼を優子は好きになった。バレンタインデーにマフラーを編んで渡しに行った。玄関に迎えた母親は「本人がイヤだと言っているから受け取れない」。そう言って優子を帰した。
3月、優子は傷心のまま卒業した。中学へ進学した優子はもうバスケットは辞めようと思った。茂もバスケットを続けることには賛成しなかった。心をなかば決めかけていた時に、マフラーの彼がひとこと言った。「入ってもいいよ」。すでに入部していた彼が優子に声をかけた。茂の反対を押して優子はバスケットボール部に入部した。
国道1号線を走る正月の箱根駅伝。権太坂はランナーたちにとって難所として知られる。駅伝のコースから少しはずれるが、優子の家のある元町橋付近から中学校へと通じる坂道が旧東海道の権太坂にあたる。優子は、朝練に学用品や部活動の重い荷物を持って権太坂を登った。
江戸を発って8里半、最初の難所がこの権太坂だ。現在では舗装され、なだらかな坂道がえんえんと続くこの道を優子はどんな思いで歩いたのか。頂上手前に位置する中学校、その先を少し進んで境木地蔵尊を拝めば権太坂は頂上にでる。境内に立つ大ケヤキは、かつて武蔵国と相模国の国境だった。
裏切りはすでにあきらかだった。「みんなから嫌われてる優子から好かれて、その男の子も大変だったと思うけどあのひとことは余計だった」。マフラーの彼の誘いを絹子は悔やんでいる。誘われて入部したものの、現実は反対でマフラーの彼や男子によるいじめは急激に優子を追い込んだ。「いじわるする子も発散する場がなかったんでしょうね。でも、いじめるぐらいならなんで誘ったの? 誘った方は、そんなひとこと忘れてるでしょうけどね」。絹子の中で、何度も繰り返されたであろう問いは答えを見出せないままだ。
中学ではじめて迎えた夏休み、優子は部活を休んだ。優子の精神は変調をきたしていた。絹子と向きあっておしゃべりをしていた優子が、ふっと口を止めて、目を据える。「今、いじめた子がそとを通った」。絹子が窓の外を確認しても、通りを行くのは別人だった。
9月、学校を休んだ。かかりつけの医師に紹介を受けて神奈川県立こども医療センター精神科を受診した。「病院へ連れてって」。優子も願った受診だった。はじめて訪れたそこで、医師は時間をかけて優子の話を聞いてくれた。優子はやっと安心した様子をみせた。児童精神科医、山田正文との出会いだった。
主治医となった山田は、絹子にあらゆる情報を遠ざけるよう指示した。学校は行かなくていい。本やテレビも禁止。とにかく休むこと。何もしなくていい。本棚から本が消え、ダンボールに入れられた本はガムテープで封印された。くすりの処方も受けた。
主治医が命じた、一時的な情報の遮断は極度の緊張を和らげるためだ。すりへった神経は過剰な情報を嫌う。バスで15分ほどの距離を週に1回、親子は病院へ通った。ひとりでは留守番のできない小学生の弟が一緒に付いてくることもあった。
封印は主治医の指導のもとやがて解かれたが、登校は再開されない。優子は両親から贈られたお気に入りのクマのぬいぐるみを抱えて1日を家で過ごす。学校へ通えないこの日々に、絹子は少しずつ家事仕事を教え、編み物やミシンを出して優子と共に時間を過ごした。
優子と弟のきょうだい仲は良かった。『宇宙戦艦ヤマト』をまねて、共作の脚本を書いたり、弟のともだちに混ざって鬼ごっこで遊んだり。優子は仲の良いともだちに囲まれる弟がうらやましかった。「まさし君のおともだちはいいね」。
優子が保健室への登校をはじめたのは翌年の2月だった。
雪もなくのっぺり二月の雲は垂れ 重荷をしょって子どもはかえる
はじめのうちは絹子も1日を学校で過ごした。2年生に進級してからは優子もひとりで登校した。この頃、絹子は学校にバス通学の許可を得た。学区でも外れ近くにある優子の家は、いじめっ子の自宅前を通らねばならない。許しを得た優子は登下校にバスを利用した。
「優子ちゃん飛び込みそうになってバスの運転手さんに怒られてた」。もうひとり保健室登校をしていた女の子が、そう言って絹子に教えてくれた。優子にたしかめるとほんとうだった。
義務教育の過程で、優子にもっとも理解を示してくれた教師は、養護教諭だった。保健室での優子は手当てを受けにきた生徒や授業を抜けだした生徒とおしゃべりをして過ごした。3年生に進級した春、養護教諭が転勤になると優子は保健室からも足が遠のいた。
教室に足を運んだのは2、3度だった。卒業式は校長室でひとりだけ。優子にバスケットボールを詠んだ歌は一首もない。
統合失調症
副作用いとしみて飲む糖衣錠そこはかとなく漂う敵意
ドーパミン過剰のきざし胸腺をひねもす襲う黒い混沌
ぶんれつびょうに効く漢方薬処方され頼るシナモン色の粒 粒
2002年8月、日本精神神経学会は精神分裂病を統合失調症と病名変更した。統合失調症の診断基準として国際的に認められているものは、米国精神医学会によるDSM?IVである。
DSM?IVによれば、統合失調症の定義は次のようになる。
「原因不明でさまざまな現れ方をする精神障害である。(中略)症状は思考、感情、行動、社会機能、職業機能に悪影響を及ぼす。この疾患はふつう慢性の経過をたどり、前駆期、活動期、残遺期からなる。前駆期と残遺期は、奇妙な信念や魔術的思考のような活動期症状の減弱した形、ならびにセルフケアと対人関係の欠陥とが特徴である」
生涯有病率は約1?1.5パーセント、発症は10代後半か20代前半である。平均寿命は短く、突然死と身体疾患の危険性が大きい。
診断の基準は「特徴的症状:以下のうちより2つ(またはそれ以上)、おのおのは1ヶ月の期間(治療が成功した場合はより短い)ほとんどいつも存在。@妄想A幻覚B解体した会話Cひどく解体したまたは緊張病性の行動D陰性症状、すなわち感情の平板化、思考の貧困、または意欲の欠如」などがあげられる。
原因はストレスや脳内物質の関与が指摘されているが解明されていない。治療は新薬の開発により、外来通院を中心に入院は最小限に抑える方向にスタイルをかえてきた。およそ100人にひとりが発病する。
「平成14年患者調査」によると日本における精神分裂病、分裂病型障害及び妄想性障害を持つ患者は73万4000人(平成14年10月)にのぼる。
統合失調症は服薬によってコントロールが可能な病気だが、ストレスに弱く再発の可能性も秘めている。DSM?IVでは、再発率は投薬例で2年間に約40%、無投薬例で約80%と示されている。服薬により妄想や幻覚といった激しい症状が治まると、予後はゆるやかな経過をたどる。
短歌
中学を卒業し、通信制の高校へ進学した優子は短歌を詠みはじめる。それ以前にも創作はしていた様子だが、本格的に取り組みだしたのはこの頃だ。
自己表現の手段として短歌を選んだのは、決まった型を好んだからだ。定型だからいいのだと。自由詩よりも定型の中の自由を好んだ。なにごとも確認しなければ先に進めない優子にとって、ゆるぎないルールが存在することは都合良かった。
現在も拡張工事の進む横浜駅西口付近、2008年の完成に向けた作業が続いている。1日のべ200万人の乗降客を数える横浜駅には、鉄道5社7路線が乗り入れている。
優子が頻回に利用したJR横須賀線10番ホームは駅の西端にある。プラットホームの列は東口に向かってJR東海道線、JR京浜東北(根岸)線、京浜急行線と平行して続く。
ずば抜けて視力の良かった優子は、JR横須賀線のホームから遠く離れた京浜急行線の行き先案内をはっきり読んだという。
優子は自分に見える光景は他人も見えると思っていた。だからはるか遠くの知人に挨拶をしては無視されたと怒った。盛んに運行する電車の合間にたとえ優子が知人を発見しても、知人が優子を確認することなど不可能に近い。無視した知人に他意などなくて、優子を確認できないだけとわかったのは成人してずいぶんあとのことだった。
「挨拶してるのに無視された。なんで無視するんだろう」。そう言って帰宅した優子に絹子が事情を聞いて説明をした。「そうか、私は見えすぎちゃうんだ。だから気がつかないんだね、相手の人は」。そうやってなにごとも確認しては安心した。万時がすべてそうだった。一つひとつ確認しなければ優子は前へは進めない。
だが苦労して理解した定義が、何かの拍子に崩れると再びパニックを起こした。「この間は良かったのに、なんで今日はダメなんだろう」。ひとり考えては不安になった。優子が築いた人間関係の多くも、情熱を傾けた出来事の数々もすべては不安で心細かった。
優子は五句、三十一音の創作に魅せられて人生を歌った。古来より「歌う」は「うったう(訴う)」だと伝えられている。優子は歌うことを生きるよりどころとした。
高校生活
高校での優子は、年の離れた同級生に囲まれて楽しいひとときを過ごした。15歳をすぎると、こども医療センターでは治療が受けられない。紹介を受けて神奈川県精神保健福祉センターへ2週間に1度、通院を続けていた。
優子は机に向かって、カリカリと学ぶタイプではない。書籍や新聞、日々なんとなく目にするそれらから知識を得て学業は苦労しなかった。
中学から高校へ進学する時も、教師は優子の学力をかって、普通高校への進学を勧めた。毎日の通学には耐えられないだろう、そう判断して通信制への進学を決めたが、教師の期待に応えられなかったことを優子はのちまでも気にしていた。
社会や理科も好きだったが、文学への憧れは強かった。茂のきょうだい達は、教職に籍を置くものが多い。大学や、高校で教鞭をとる伯父や伯母の影響を受けて、漠然と自分も文学で身を立てたいと考えていた。
優子は高校を卒業するにあたって、横浜市立大学の指定校推薦の権利を得た。5段階評定で限りなく4に近い成績をどの教科でも修めていなければ、この資格は得られない。学内の選考をパスした優子は張りきって集団面接に出かけた。結果は不合格。気落ちしていた優子ではあったが、「受験生の気分が味わえただけでも良かった」。そう言ってあくまでも前向きに受け止めようとしていた。両親をして「はじめて人並みの体験を味わった」と言わしめたこのエピソードは、結果はともあれ優子に大きな自信を与えた。受験票は今でも大事に保管されている。
ピンクの着物に紫の袴をつけて、はにかむ優子が写真に写っている。小柄な優子は着物が似合う。高校の卒業式のものだ。袴は自分で借りてきて、祖母に着付けてもらった。写真は茂の実家の玄関前で、祖父が撮影した。高校の文化祭や催しに祖父母はいつも連れ立って遊びにきてくれた。人生の節目はいつも、この前で写真を撮ったと絹子は言った。
優子のまわりにもやっと、気を許せるときが訪れていた。高校を卒業すると同時に、6年通った精神科の通院にも卒業の許しが出た。
第二章
短歌人
高校時代の優子は独学で短歌を詠んでいた。だが伝統文芸に通じる短歌の世界で独学には限界がある。あらたな学びを得るために優子も結社について考えはじめた。
短歌には結社制度がある。結社とは志を同じくする人々の集まりをいう。歌人は主宰者の歌を慕い、師匠と仰いで結社に属する。短歌は結社の歌誌を通じて発表され、歌人は歌の評価を受ける。結社制度は排他的な歌壇の象徴として、ときに批判の対象とされる。今日では結社に属さずインターネットや新聞投稿を発表の場とし、師匠を持たない歌人もいるが、依然として結社の影響力は大きい。
1995年、優子は「短歌人」に入会を決めた。「短歌人」は結社というかたちをとってはいるが、従来のそれとは異なる。会は昭和28年に主宰制度を廃止し、編集委員制をとりいれている。現在は大和克子を編集顧問とし、他十数名の編集委員は会員の投票により決定している。師匠も文学理念もない自由な結社である。
優子はここを会費が安かったからといって選んだ。学生は割り引きしてくれるからとも。毎月の小遣いから会費を捻出していた優子にとっては、もっともな理由だ。だがこの選択は幸いした。「短歌人」は希望する歌人に添削を乞うことができる。優子がはじめて指導を受けた故高瀬一誌も大和克子も優子を可愛がった。創作を通じて切磋琢磨する仲間も得た。歌会に学び、書物を買っては知識を補った。
優子には1冊の歌集がある。1995年10月から2001年1月までに「短歌人」に投稿された作品を中心に、大和克子と青柳守音によって編集されたものだ。青柳も「短歌人」に所属しており、優子とは深い交流があった。
『ヨコハマ・横浜』と題された歌集は、日々の移り変わりを、家族を、横浜を歌っている。
母を詠む
優子は『ヨコハマ・横浜』に母の歌を詠んでいる。
反町(たんまち)から菊名(きくな)のりかえ大口(おおぐち)に降りて絹子は旧姓を棄て
絹子は、20歳で吉田家に嫁いだ。幼くして父をなくし、母は苦労して絹子を育てた。「絹子」その名は母の職業に由来する。若き日を製糸工場で働き家計を支え、婚期を過ぎて後妻に入った母は若い絹子の結婚に反対した。
だが、絹子の考えは違った。区役所の戸籍課に勤めていた絹子のもとには、16歳と書き込んだ婚姻届が日に何枚も届く。すでに同期の半数も結婚していた。「言われるほど早くない」。絹子はそう思っていた。茂も絹子も互いに公務員、共働きをすれば生活のめどはたつ。だが、母の反対はかたくなだった。
それでも結婚に踏み切ったのは、茂の両親がふたりに協力的だったからだ。「安心して出て来いよ」。茂は絹子にそう言った。
だから家を出た絹子に実家との交流はない。優子を産んだときも、世話をしてくれたのは義母だった。それでも、一度だけ優子を連れて実家へ行った。3歳のお宮参りのその後で、晴れ着姿を見せに寄った。突然たずねた絹子に母は驚いていた。絹子だって長居をできないことは承知している。「ひとめ見せておこう」。最初からそう思っていた。優子と祖母との対面はそれきりだ。
優子に祖母の記憶はない。20歳を過ぎた優子にせがまれて、一度、開けられない玄関をふたり遠くに眺めたことがあったという。絹子は吉田の姓を名乗って過ごした時間が、旧姓のそれを超えてしまった。「考えてみたら主人の母のほうが近しい。ずっとね、多く付き合ってますしね」。90歳を過ぎた絹子の母は今も健在だ。
反町に五十を過ぎた独身の息子と暮らす斎藤虎じ
歌に詠まれていることを祖母は知らない。
好きなように生きなさいとか命令を出すかあさんに産んでもらった
絹子は、優子のすることに決して反対しなかった。高校を卒業して演劇をはじめたときもボランティア活動をはじめたときも、進学も。優子からも相談はなかった。いつも、事後報告だった。
優子は興味をもつといろいろなことに夢中になった。アクセルはいつも踏みっぱなしだった。「私も主人も自分のやりたいようにやってきた人間ですから、自分の子どもであってもダメとは言えませんもの」。絹子は言った。
千代紙のげた土のくつ歩けないのに走ろうと私はした
高校を卒業し、精神科からも自由になって絹子は少しほっとした。「ああ、やっと」。再発の不安は抱えていたが、それでも長く続いた通院の荷から逃れて心は自然と軽くなった。
足かせのとれた優子は学業のほかに、歌会や演劇、ボランティアの集まりに忙しく出歩いた。興味のある講演や勉強会があればそこへも出向いた。今まで我慢していた分、求める気持ちは強かった。時間や体が許せば、やりたいことはたくさんあった。
茂と絹子はそんな優子をいつも見守ってきた。あれこれとがんばり過ぎては、心身ともに消耗し疲れきってしまう娘を案じながら。「あせらなくていいんだよ」「ゆっくりやればいいんだよ」。ふたりは何度となく声をかけた。ときには、そこまでしなくてもとストップをかけたい気持ちもあった。でも懸命な優子には言えなかった。
「短歌地元抄」
優子は夜々という名で、横浜のミュージック&アート情報誌『Bay ma』に「短歌地元抄」と題する短歌とエッセイを載せていた。『Bay
ma』は残念ながら2001年9月号をもって休刊してしまったが、横浜でこれほど詳細なイベント情報誌はほかにない。優子の歌に横浜を詠んだ歌が多いのは、この連載を意識していたこともあろう。
エッセイ「“大岡川文明”への嫉妬」にはこうある。
「文明開化に始まる港ヨコハマのイメージは、“大岡川文明”と言いきってもよいのでは? 山の手文化も下町文化も大岡川周辺、区で言えば中区・西区・南区・神奈川区あたりに集中するようだ。本牧、山下公園、元町、MM21、野毛、馬車道、関内、寿町、弘明寺……場所の放つ強烈な魅力。その“大岡川文明”に、筆者の祖父母や両親はどっぷり浸り、しかも両親はプラス'60s&'70s文化も堪能していた。その時代の残り香は今もそこに。
天下の東海道の旧宿場町といえども、筆者の育った「保土ケ谷区狩場町」は、平凡でおよそつまらない場所に感じられた。実際、車を持っていないと不便で、病人やお年寄りも暮らしにくい場所。短歌を詠む今では、そこが筆者の幻想の源、極私的原風景となった。それでもなお、“大岡川文明”に育った同世代が、ねたましくてならない」。
「大岡川文明」に嫉妬しつつも優子は育った場所を詠みつづけた。
狩場町グリーンヒルズD棟は春がけうえに優しく傾ぐ
まっぴるま化粧っ気もなくはなみずき狩場インター出口の喧騒
優子が好んで詠んだ歌に兵隊山がある。優子の家、大きくあけられた窓から見える幻の山だ。現在では宅地され、わずかに緑が揺れるだけだが、幼い日の優子はこの山で遊んだ。四つ違いの弟は兵隊山に特別な思い入れはない。兵隊山で遊んだ子どもは優子の年齢までだ。いまはなきその山は、優子の瞳にどんな姿を映していたのだろうか。
昔わがD棟とにらめっこをし負けた山あり名を兵隊山
のこぎり草えのころ草の騒ぎ立つ兵隊山に帰るすべなし
保土ケ谷区周辺を詠んだ歌は、幼い頃の私体験に幻想を織り交ぜたものが多いが、大岡川周辺の「ヨコハマ」を歌ったものは幻想に非日常を重ね合わせたものが多い。優子がボランティアの活動に往来した中区伊勢佐木町、2丁目あたりの風景はこうなる。
蟹の這う横浜銀行。かべにぬる蘇州夜曲という塗り薬
JRを関内駅の北口で降りて、ほどなく歩けばイセザキ・モールに出くわす。右に松坂屋を左に有隣堂本店を確認すれば、通りから二つ目の右角に横浜銀行はすぐだった。いまは、その場所に銀行はなく歌のおもかげを知ることもできないが、三つ目の角を曲がれば蟹がいる。ビルに張り付くその蟹は、飲食店の看板として大きな手足を動かしている。異国情緒あふれる横浜に哀愁漂う蘇州夜曲は良く似合う。優子が歌った三十一音の余韻はいつまでも続く。
恋のうた
「惚れっぽい人だからねぇ」。絹子はいう。恋をすると告白せずにはいられないとも。「(好きな人)幼稚園の時から何人もいるんですよ。(告白)しなかったのはふたりぐらいしかいないんですよ」と絹子は笑った。しぜん恋の歌も多い。「高校生から22、23歳ぐらいまでの歌なんて恋の歌ばかりですもの」。フロッピーに残されている短歌を愛でながら絹子が言う。
垂れ下がる電線またぎあゆみ去る男独身ほお髯深く
百年間しゃべくったとて永遠に恋は採用されない証拠
上質紙その表面にやわらかく君の名前を描くひらがな
一首だけ、優子が名前を描いた恋の歌がある。同じボランティア仲間に捧げた歌だ。
一目惚れだったのだろうか、それとも目的を同じくした活動に打ち込むうちに芽生えたのだろうか。彼だけが優子の気持ちに向き合ってくれた。
「恋は採用」されなかったが、想いを受け止めてくれた彼に優子は感謝していたという。
うしろから匂いを嗅いでたしかめて深呼吸して溝田君、ねえ
歌に自分の名前が詠まれたことを、溝田は優子から直接聞かされていた。「とてもうれしそうな顔で僕に自慢していました」。
優子と溝田はボランティアの活動を通じて知り合い、たくさんの時間を共に過ごした。ふたりで交わした会話の多くは、優子が自分のことを話していた。それでも話したりない優子からは、ほとんど毎日、日記のような手紙が届いた。言葉で伝えきれないもどかしさからか、優子は自分に苛立ちその矛先を溝田へも向けた。「見ているとつらくなるほど、自分に苛立っていた」。
ボランティアのメンバーの中で、優子の存在は際立っていた。優子のときにヒステリックな言動は代表を務める溝田を悩ませた。それでも「とても楽しかった」と振り返る溝田は限りなく優しい。その声に、笑顔に、優しさに、優子は惹かれたのだろう。
「吉田も手紙が好きだったから」。受話器を通して、溝田のやわらかい声が届く。取材依頼の返事に溝田はていねいな手紙をくれた。後日、礼を言うと溝田はそう言って懐かしそうに優子の名前を口にした。
読みあきた家出のすすめ栞には男ともだち暑中お見舞い
残された葉書には一度、破られた後がある。簡単な近況報告が記された溝田からの暑中見舞い。張り合わせ、テープで補正された葉書はソフトカバーのケースに入れられ、残っていた。「後生大事に……。とっときたかったんでしょうね」。そっと取り出して絹子が見せてくれた。
自らの気持ちをもてあまし、歌に詠むだけでは足りなくて優子の恋心は揺れていた。告白を遂げて、叶わないことを知った後、ひとおもいに葉書を破ったのだろうか。
実らぬ恋ではあったが、その後も優子と溝田の付き合いは変わらなかった。優子が告白をして、返事をくれた男性は、後にも先にも溝田ただひとりだった。
予感
一握りの錠剤を飲む一昼夜眠りつづけてまたちがう朝
逆縁の予感は絹子のこころに早くからあった。高校へ通っている頃、殺虫剤をのんだ。粉末のそれを絹子が買い置いた覚えはない。優子が買ってきたのだ。突発的な衝動、そんなものではなかっただろう。
もらった薬をためこんで、まとめて飲んだこともあった。絹子はいつまでも起きてこない優子を不思議に思って部屋へ向かった。優子は軽くいびきをかいて尋常でない様子で眠っている。「薬をのんだんだ」。絹子にはすぐにわかった。
処方された薬は致死量に達しない。絹子は束の間、安堵した。眠り続ける優子を前に絹子は、何もできない無力を思った。寝顔をみつめて過ごした時間が長かった。優子は一昼夜眠り続けた。絹子は、若くして死を考える優子のこころうちを思った。
未遂は一度や二度ではすまなかった。私より先に逝ってしまうかもしれない。絹子はそんな不安を密かに抱えていた。
茶髪にも白いの二本見え隠れ誰に問うべき二十歳の日の老い
成人式 口紅を買う余裕もなく時間もなくて唇を切る
1994年、優子は20歳を迎えた。
「私は二十歳(はたち)をすぎてからどんなふうに生きていくのか、考えたことがなかった」。20代を後半になって、ある日優子は絹子にそう言った。
若き日の優子には芥川龍之介、太宰治、そんな先人への憧れがあった。「早逝した人の方が印象が深いって、憧れてたんでしょうね」。同病を患う、芥川は意識するところがあった。
「遅くとも10代後半で世に出て早逝する」。10代の優子は先人をまねて、長生きを望まなかった。はかなく散った命は、誰の記憶にもあざやかに残ることを意識していた。
(いっときでも主役になれりゃ結構じゃないか私(あたし)にくらべればそりゃ)
優子は、自身が置かれている現状への不満や意見を世に知らしめたかった。いじめを苦に自殺する学生の事件が報道されると、ここにもいると声を上げてその名を示したかった。
絹子が言う。「あの頃、言ってましたよ。なんで私のところにルポライターが来ないの。こんなにいじめられてるのにって。私を発見してくださいっていう気持ちが、すごく強かった」。優子はどんなかたちでも世に出たかった。人々の記憶にその名をとどめたかった。とにかく私を知って欲しい10代の優子は強く願っていた。
二十一 首もくくらず飛び込みもせず二十一 われ二十一
21歳、優子は充実した日々を送っていたはずだ。慶應義塾大学の通信制に学び、エイズ関係のボランティアや演劇にいそしんでいた。短歌も学んでいる。精神科を卒業し、持てる時間のすべてを使って、興味の幅を広げ社会とのかかわりを築きはじめていた。
だが歌に詠まれたいのちの嘆きは、いったい何を意味しているのか。ただ漠然と名を成したかった10代とは違い、20代の優子は作品と共に世に出たいと望むようになる。その欲求は年を追うごとに増してゆく。
絹子が言う。「あだなで呼ばれたことがないんですよね。どんな時も吉田優子ってフルネームで。だから躍起になってましたよ。吉田優子の名前を世に出すのに」「ねえ、ねえ、聞いて聞いて、わたし、わたしって感じの人ですからね。黙っていられない」
「10代の頃はね、まだ自分にも自信があったんだろうなって思うんですよね。それが年とともにだんだん」。優子の短歌に絹子が意見するときなどは「お母さんは素人だから、わからないでしょ」。そんな言葉で絹子を制した。
自らの才能を疑わず、成功への強い思いを抱いた10代の日々を過ぎて、ふと自分の才能を疑うことがあった。理想と現実の隔たりが優子を弱気にさせた。「自分にはそんな力はないかもしれない」。よぎる不安に心が揺れた。
充実の日々をすごしても、なお満足することのなかった21のとき。広がってゆく人生を前に、期待と不安が交錯していた。不安を埋めるように走り続けた優子は、再び調子を崩す。
このごろは吐気催すばかりなりペン握りしめ紙に真向かう
はれあがる心を押さえ体内へ押し戻ししかし堪え切れずに
優子が大学を休学し、のちに自主退学したのは1996年のことだ。外から帰ると家でぐったりすることが多かった。
外出先では気も張って大人然とした振る舞いだったが、家へ帰れば赤ちゃんで身の回りのあれこれはすべて絹子まかせだった。体力は外で使い果たして、家ではクマのぬいぐるみを抱えて横になっていた。
優子は興味をもった活動に、いろいろと参加するうちにストレスを抱えるようになっていた。どこへ行っても人間関係はついてまわる。知らずに抱えたストレスを自身では対処できなかった。
ぐうるりと眼球(めだま)をまわすときどちらかと云えばさびしい表情をせり
紫の眼をしょぼつかせ右斜め前方の人を喰っているわれ
実は、かつて筆者が勤めていたオフィスに、同僚を尋ねて優子はたびたび訪れていた。訪問の取り次ぎや立ち話の程度は交わす見知った仲になった頃、いつだったか優子から話を聞いた。
ふと乗り合わせた電車で着飾った婦人が数人おしゃべりをしていた。聞くでもなく耳にした話は統合失調症についてだった。「ああゆう人たちは怖いわよね」と婦人は言った。「何をするかわからない」とも。あとはもう聞くに耐えないものだった。「お前の目の前に、その患者がいる」と叫びたかったと口惜しそうに怒りをぶつけたあとで、ふとさみしい顔をした。
案内した小さな会議室で椅子もひかぬままに優子は、一息にしゃべった。硬く拳を握り締め、興奮冷めやらぬまま早口にまくしたてた。丸顔の奥の黒々とした眼光の強さに圧倒されて、同僚とふたり、しばらくはかける言葉もみつからなかった。
いつもなら美味しいといって勧めた紅茶をうれしそうに飲む彼女が、カップに一度も口をつけなかった。
あれは1997年の秋か冬だったと記憶している。別れ際、見送った同僚と私に優子は主治医とうまくいってないとこぼした。肩を落として歩く優子の背中が痛々しかった。卒業していた精神科の通院をこの年、再開したのだ。
足早に立ち去る夕陽。紫雲会横浜病院前をセダンが、
再発
97年9月、優子は短歌情報紙を創刊した。療養中の手すさびに編集をはじめた。気力、体力の衰えを感じながら発行した期間限定投稿歌誌『ぱお』は、あらかじめ5号での終刊を予定していた。ワープロ打ちした原稿の間に、手書きの文字やイラストが挿入されている。現代短歌や自らの作品を紹介し、次号への投稿募集も行っていた。
しかし、二度目の発行を待たずして11月、『ぱお』は発行不能となった。廃刊の知らせには「健康その他の理由」と記されていた。
同じ月、参加していた劇団の興行案内の余白には、優子の文字で「ドクターストップで何もかも関われない」と添え書きがされている。再発は深刻だった。
絹子は「短歌人」の故高瀬一誌に手紙を書き、優子の事情を相談した。「短歌人をしばらく休ませたい。主治医が(ママ)心理的負担になるようなら、しばらく活動を休み、皆さんとのおつき会いも極力減らすようにとの指示があった」。*そんな文面で書き送った手紙に、高瀬からは、書けるときがきたら書いたらいい。気にすることはないとの返事があった。添削の指導をしていた大和克子とも、そんなやりとりがあった。
その後の優子は、年に一度の家族旅行と数回の演劇鑑賞を楽しみに、多くの日を家で過ごした。
高校時代には長く豊かに伸ばしていた黒髪も、この頃は短くそろえてしまっていた。肩を超えるほどにたらした髪を短くしてからは、何度か美容院も利用した。だが美容師とのおしゃべりが嫌で、優子はじきに自分で髪を切るようになった。家族旅行の写真に写る優子は無造作なショートカットだ。
連休やベストシーズンを避けて家族は毎年、山梨県清里のペンションへ出かけた。絹子の友人が経営するペンションは「赤ちゃんペンション」と呼ばれている。離乳食の用意や遊具が充実しており、優子もここを気に入っていた。子どもたちの遊び場として用意された部屋で、優子も絵本を眺めたという。優子や家族にとって、こころ休まるひとときだったに違いない。
這い出して食パン一斤たべ狂う深夜零時のシステムキッチン
65kgの体重ぶらさげておくのだ黄色いジャングル・ジムに
ピンク系ファンデーションをごたまぜに塗る二週間ぶりの外出
定められた小遣いのやりくりに、優子は詳細な出納帳をつけていた。おもな支出は書籍の購入にあてられていたが、この手帳から日々の様子を窺い知ることができる。1999年、優子が外出した日数は53日だった。月に平均すると5日を欠ける。
優子は昼間、床につくことが多くなった。それぞれの場所へ家族が出かけると寝入り、帰宅を待って起きだした。優子と家族の生活は微妙にずれていく。隣家の幼ともだちは遅く帰宅した夜に、優子の部屋の明かりをみつけて、その存在にほっとしたそうだ。
たいくつな1日を優子はどうすることもできなくて、家族とおしゃべりをしたがった。トイレにまでついて行き、話の続きを待った。
ぞんざいに病名を告げ陽光のするどさをもて送り出す医師
楽しみもなぐさめも他に見いだせぬまま膝正し今日もいただく
ごろごろと喉ならす猫のよごれたる足裏ことしの正月は暗く
優子は人見知りをしない性格だった。興味があれば、どこへでも出かけて知り合いになった。毎年、正月には短歌やボランティアの仲間200人ほどに年賀状をしたためていた。だが再び調子を崩してからはそれらも控えていた。家族や親戚、ほんとうに親しい人に宛てた、わずか数十枚の年賀状を前に優子の正月は暗かった。
人見知りをしない性格だったが、その関係を維持することには苦労していた。新年のあいさつ状も優子なりの礼儀だった。
家族との会話でさえ沈黙を恐れた。何か話さなくてはと、ひとりおろおろした。教師の誰を指すでもない問いかけに責任を感じた。長く続く沈黙が気になって意を決して発言すると、積極的な子だと誤解された。短歌の仲間から「マシンガントーク」と言われたおしゃべりは、沈黙に耐えられない優子の表れだった。
優子はまた、気を遣わなくていいと言われることを一番に嫌った。そのままでいいと言われることも。優子にとって気は遣うものであり、そのままとはどんな状態をさすものなのかわからなかった。他人が抱く優子の印象と優子が抱えていた自分自身は、いつも大きく違っていた。
労働
優子は望みながらも働くことができなかった。だからだろうか、おなじ境遇にある人への関心は強かった。働きたいと思っても働けない人がいる。ホームレスの人々の存在は優子にとって身近だった。特に1日を家で過ごすことになってからは、働けないことを気にかけていた。
優子は米びつから米を取り出し、不器用な手で梱包する。週末の炊き出しに間に合うように、新宿のホームレス支援団体に送るのだ。
米カンパ絹目の二重封筒に掻き集め切手をありったけ
あまりにも肥満しがちな生活を一椀のめしにいましめられて
働かざるもの食うべからず。この無言の圧力を優子は敏感に感じていた。バブル崩壊後の社会の閉塞感や流行りだした「パラサイト・シングル」などという言葉に身を小さくしていた。
通信制の高校へ通っているときも教師の関心は就業にむいていた。「なんで家でぶらぶらしてるの」「働かないの」。優子の抱える心身の問題に理解は得られなかった。
一般に思春期に発病した患者が社会性を獲得するのは難しい。高校時代の優子は、ゆるやかな回復期にあったはずだ。激しい症状の出現が過ぎて、少しずつ社会とのかかわりを取り戻す過程に、周囲のあせりや期待は逆効果だ。しかし当時の通信制は学業と仕事を両立させて通う仲間が圧倒的に多かった。教師の言葉は身にしみていた。
20歳を過ぎて働けない自分を思うとき、優子は自分の身近にできることを探した。外出は月に数えるほどに減っていた。それでも優子はひとり、コンビニや郵便局に出向いて米を送った。
不規則な生活の中で次第に体重が増えていた。どこへ行くにもマンション前の長い階段を上り下りしなければならない。優子にとって、特に用事を終えた後の上りはきつかった。コンビニの店員に下手な梱包を叱られてからは距離のある郵便局を利用した。
「お母さんちょっとこれやって」。そんな一言が言えなかった。梱包が悪くて、郵便局へ着くまでに荷がほどけてしまったり、切手がはがれて先方へ届かなかったり。優子は気を遣ったり、慮ったりして「これやって」が言えない。それでいてゴロゴロと1日を家で過ごす優子が、張れるだけの神経を張って家族にさえ気を遣っているなどと傍目には見えない。
「なんてずうずうしいんだろう」。これが病気なんだ、そうわかる絹子でさえ時折、思うことがあった。
挙手の礼
日中を家で過ごし夜の長くなった優子は、編み物や裁縫をして時間を潰した。ほかにすることもなかった。眠れない夜は家族をつかまえておしゃべりをした。それでも優子の1日は長く、つらいものだった。
あるとき、みなには内緒と断りを入れて優子は大和に短歌を送った。止められたものの、やはり歌うことをやめられなかった。絹子の手紙によって事情を知る大和だが、次々と送られてくる短歌を前に添削することを決意する。何度も続いたやりとりの後で、その葉書は突然、大和に届いた。優子はそこで、歌の感想を書き送っている。その歌は大和の「挙手の礼の形象悔し法師蝉ただ鳴き尽してまた夏が逝く」だった。
いや、正確には「書き送った」のではない。「書き送ろうとした」のだ。「十一月八日」と記された葉書は、優子の死後、絹子の手で大和のもとに届けられた。
2000年11月10日、就寝中に心停止した優子は横浜市立市民病院へ運ばれ、30分以上蘇生術を受けた。医師も手をつくしたが午前8時7分、絶命。そのまま帰らぬ人となった。9月に誕生日を迎え、26歳になったばかりだった。
優子によって切手も貼られ、あとは投函するだけだったはずの葉書にはこう書いてあった。
「いまの私たちにはただの手かざしが、国家や死や、海やいくさに繋がっていることが??不吉でなりません」。優子は右傾化する世相を日頃から嘆いていた。
のちに大和は自らの歌を「出兵兵士の挙手は、単なる敬礼ではなかった。それはただちに『永訣の礼』であった」と解いている。大正生まれの大和と優子、年こそ離れてはいたが短歌を通じてこころ通いあうものがあった。
優子も、ただの手かざしを詠んでいる。出兵兵士こそ存在しない優子の日常だが、不吉で不安な影はこころのうちにあった。
挙手ノ礼ふざけつつ医師へ繰り返し雲脂つもる髪さらす国道
上の句のわざとはしゃいだ優子の様子と、下の句の救済のない悲しみが連呼し優子の心細さが胸に迫る。医師へ捧げた「挙手ノ礼」は優子にとっても「永訣の礼」であったのだ。
シュール
若き日に前川佐美雄を師と仰ぎ、モダニズムの影響を受けて創作してきた大和は、優子の歌いぶりをシュールと評している。添削の指導を受けながらも優子は生涯、大和に会うことはなかった。外出を禁止されてからは、もはやその機会があろうはずもなかったが、そなる前も何かの集まりで一度、大和を遠くから眺めためたことをのぞけば電話で話すことも声を聞くこともなかった。
壁を這う人影の群れ追いかける足元にふとひるがおの花
泣くんじゃないむずかる幼い傷口に綿あめの雲の包帯を巻く
カラメルをとろり煮る午後猫が鳴く昨日はどこにもありませんよう
大和によって「カラメルをとろり煮る午後」は高く評価された。遺歌集『ヨコハマ・横浜』の序文には、最大の賛辞が寄せられている。
生前、賞や歌壇の評価とは無縁だった優子が月刊誌『詩とメルヘン』に作品を投稿し掲載されたことがあった。絹子は、優子が大変に感激し喜んでいたことを覚えていて、責任編集の任にあったやなせたかし宛に歌集を送った。
しばらくすると「カラメルをとろり煮る午後」は、蓮田千尋による挿絵とともに『詩とメルヘン』2003年1月号に掲載された。優子が生きていれば、どんなに喜んだことだろう。そう思うと悔やまれた。生前は優子のがんばりにそこまでしなくてもとたびたび思う絹子であったが、いまでは機会を捉えて優子の読者を増やしている。
三回忌を前に上梓された『ヨコハマ・横浜』が発行された同じ月、調べた限り個人の歌集は55冊発行されていた。読ませたいと願う者が読みたいと思う者より、はるかに多いのが現状だ。この中で成功をつかむのは難しい。短歌とは、そういう世界だ。
不在
わたくしの持ちものすべて身につけてちがう舞台(ところ)へ出て行く私
二千年一月ほそい門松によりそうタンポポの狂咲き
21世紀を迎えて、春は訪れようとしていた矢先だったのではなかったか。
2000年10月、優子は決意を新たに大阪文学学校の通信添削で学ぼうとしていた。トラブルを嫌い何かあればすぐちぢこまってしまう優子が、めずらしく電話で学費の分割払いをお願いしていた。「もう一度ちゃんと文学を勉強したい」。優子には強い気持ちがあったのだ。しかし、最後の学費を払い終えた後で、優子は突然に逝ってしまった。
わずか26歳という若さで、「ちがう舞台」へ逝ってしまった優子。不在の重さは両親の胸に強い。茂の影響を受けて好きだったビートルズ。流れてくるその歌に、優子がいれば解説をつけたはずだ。小遣いをねだって買ったCDや書籍。持ち主を失ったそれらは、ひっそりと佇む。
もう、歌を詠むこともなくなってしまった。使われなかった原稿用紙は永遠にその空白を残したままだ。
歌人とは呼ばれぬままに逝きし娘の夢の形見に遺歌集を編む 吉田絹子
絹子は優子の供養に手製の歌集『短歌地元抄』を作っている。かつて『Bay
ma』に掲載された同題の短歌とエッセイをフロッピーに見つけて作りはじめた。歌はそのあとがきにある。わずか26頁の歌集は、きれいな手漉きの和紙で表紙が飾られている。糊付けされた和紙にうっすらとえんぴつの跡が残っていた。一枚いちまい、絹子が切って貼ったのだろう。
優子が逝ってもうすぐ4年。移り行く日々に気持ちも動く。長生きはしたくなかったのだろうと思う一方で、もうちょっと、あとせめて10年と願う。「マラソンコースを100メートル走のスピードで駆け抜けてしまった」。茂は優子の人生をそう言って振り返る。
優子が亡くなる1年前の秋だった。「お父さんがあと10年すれば退職するから、退職金で歌集を出そう」。茂は優子と約束していた。ふたりで交わしたあの日の約束が、こんなかたちで実現するとは夢にも思っていなかった。
居間に並んだ本棚には、今も「短歌人」から歌誌が届く。優子の名前が載らないそれを、経営が苦しい事情を察して絹子は購読を続け支えている。
「優子がよく投稿してて、ここもちょっと経営が大変なので」。そう言って取り出した冊子は「短歌人」だけではなかった。
優子亡き後、宛名を絹子と名前を変えてホームレスの支援団体からも会報が届く。優子がどこからか見つけてきては最後まで続けていた活動は、今も絹子によって続けられている。
追悼
故人をおくる日、晩秋の横浜は晴れていた。冬の気配を感じる風が、黒の着衣を揺らしゆく。突然の訃報に集まった者たちの足取りは重く、その葬列はいつまでも続いた。やわらかな笑みをたたえる遺影は若く、参列者はみな悲しみに沈んでいる。
残された手帳や住所録を頼りに連絡をつけたものの、誰とどんな付き合いがあったのか優子の交友関係は絹子の想像を超えていた。名前だけは聞き知っていた人とも葬儀の席ではじめて会った。絹子が言う。「亡くなってからですよ。えっ、あの方ともお知り合いだったのって。芥川賞作家、児童文学の先生。人見知りはしないから、どこへでも行って」「可愛がっていただいてたんですね」。
ああ優子、おまえがゐなくなってから空を見上げる癖がついたよ 石井綾乃
多くの追悼が両親のもとに寄せられている。大和は嘆く、「今さらにあまりに早くなぜそんなに急いで私共から離れてしまったのですか」。**
優子の最後の外出となった10月1日。渋谷のライブハウスで開かれた詩の朗読会。主催した浜江順子は、そのときの優子をよく覚えていて追悼詩「透明なる葬列」を捧げた。
「短歌人」の歌友、生沼義朗もまた追悼文「失われた言葉と情念?吉田優子さんを悼む」を寄せている。居留守をつかって電話の取り次ぎを嫌がった優子が彼の電話にだけは出たそうだ。前後するように「短歌人」へ入会し共に歌った生沼を絹子は戦友と呼んで紹介した。
ソフト帽かむった福島泰樹氏と神之木(かみのき)台(だい)に咲く沈丁花
交流のあった絶叫歌人、福島泰樹は今でも優子から贈られた手編みの帽子を被っているという。
訃報の知らせが届かずに、人づてに知った者たちがその後も絹子のもとを尋ねている。
遅れて弔問に訪れた溝田は当時、美容師の修行中だった。修行を終えた溝田はいま、スタイリストとして活躍している。美容院を嫌がった優子だが、きっと溝田になら髪をあずけたことだろう。
本当はだれも死にたかぁないンだと泣いて、笑って、そして、それから
エピローグ
2004年8月、筆者は初めて絹子を訪ねた。仏壇に手向けた線香が香る中でインタビューにのぞんだ。絹子にとって語ることは楽しいことよりも胸の痛むことだったろう。伏せた目に涙がたまることがたびたびあった。場所を変え、時を変えて行ったインタビューでも、幼い日の優子に話が及ぶと涙が滲んだ。
インタビューの中で絹子は言った。優子の高校での様子をたずねた時のことだ。
「通信制の高校だと親が付いてったりすると過保護とかみられるんですよね。でも、この子にとっては身障者の人と一緒なんですよね。片足が不自由だったら杖をついて、あるいは手を貸してっていう。これもそうなんですよ。世の中を歩いていくために、やっぱり支えてあげなくてはいけない状態だから親がついていくんですけれど。でもほら外見はなんでもないですので、そこまですることはないって思われる方が多いんですよね。体が病気になるのと一緒で、こころもカゼを引く、同じなんですけどね」
私は家族の苦労は病気の、それだけではないことを知った。
時を同じくして生まれた、ひとりの歌人をどうしても書きとめたくて筆をとった。優子が歌った横浜は、ゆるやかに姿を変えてゆく。歌に詠まれた場所や想いが消えてしまう前に文字にしておきたかった。
わがままを許してくださった吉田家のみなさんに感謝します。