『訴(うった)う 吉田優子とその周辺』神山幸恵
エピローグ
2004年8月、筆者は初めて絹子を訪ねた。仏壇に手向けた線香が香る中でインタビューにのぞんだ。絹子にとって語ることは楽しいことよりも胸の痛むことだったろう。伏せた目に涙がたまることがたびたびあった。場所を変え、時を変えて行ったインタビューでも、幼い日の優子に話が及ぶと涙が滲んだ。
インタビューの中で絹子は言った。優子の高校での様子をたずねた時のことだ。
「通信制の高校だと親が付いてったりすると過保護とかみられるんですよね。でも、この子にとっては身障者の人と一緒なんですよね。片足が不自由だったら杖をついて、あるいは手を貸してっていう。これもそうなんですよ。世の中を歩いていくために、やっぱり支えてあげなくてはいけない状態だから親がついていくんですけれど。でもほら外見はなんでもないですので、そこまですることはないって思われる方が多いんですよね。体が病気になるのと一緒で、こころもカゼを引く、同じなんですけどね」
私は家族の苦労は病気の、それだけではないことを知った。
時を同じくして生まれた、ひとりの歌人をどうしても書きとめたくて筆をとった。優子が歌った横浜は、ゆるやかに姿を変えてゆく。歌に詠まれた場所や想いが消えてしまう前に文字にしておきたかった。
わがままを許してくださった吉田家のみなさんに感謝します。