『ブランドに恋して−日本人のブランド消費の今−』加藤晶也
お洒落さんに聞け!
「周りの人と服装がかぶるのが嫌」
こう語るのは、私のサークル随一の「お洒落さん」と言われるT君だ。腰にシャツを巻いたり、横から見ると、逆さにメガネをかけているように見える妙なサングラスをかけてみたり、髪の毛の色は黒と茶色がまだらになっていたり……
それでも似合うのがT君のすごいところだ。「人とちょっと外れている服を買うように心がけている」と語る彼のファッションは実は家族には受け入れられていない。「あのファッションはお洒落なのかしら? 」とお母さんは首をかしげる。妹には「高校時代までは尊敬できるお兄ちゃんだったのに……」とまで言い放った。おばあちゃんは「あの子、今日腰に変なもん巻いて出て行ったわよ」と驚いてお母さんに報告することもあるとか。「別にそういうことを言われてもかまわない」と彼は自信を持って語る。「だって年寄りの意見じゃん」とそ知らぬ顔をしている。
それでは誰に認められたいのか。何を認められたいのか。疑問をぶつける。年代の違う人には認められる必要はない、と考えおり、同年代の人や彼がお洒落だと思う人にほめられるのがうれしいようである。
「やっぱりちょっと外れてるところをほめられるとうれしいかな。変なサングラスとか。」
彼の話を聞いていると不思議に思うことがある。外れていたいけど、それでもそのことを認めてもらいたい、と考えているのである。外れていたいけど認められたい、ということはおそらくかなり難しいことであるように思う。それはある意味では、ある程度のお約束の中で、「外れよう」としているのではないだろうか。それは、彼が街行く人や、雑誌のストリートスナップを参考にしているということからも伺える。ある程度既存のものを受け入れつつ、その中で「外れよう」としているのである。多くの人々に話しを聞いてみても、やはりファッションに関して「他の人と少し違っていたい」と主張する人が多かった。
そういう人たちもやはり、雑誌や街を歩いている人を参考にしているのである。ファッションは模倣の中の逸脱によって成り立っているのではないだろうか。周りのお洒落だといわれている人を見てほしい。おそらくそれが当てはまる、雑誌のストリートスナップに載っている人などもみんなと同じようだけどちょっと違うのである。「お洒落である」ということは「同一化」と「差異化」の微妙なバランスによって成り立っているといえるのではないだろうか。