『国民と共に歩みたい党、共産党』河合顕子


■政治離れ

 若者の政治的無関心が言われて久しい。たしかに、安保闘争や学生運動が盛んであった1960年代の若者に比べると、今日の若者は政治に強い関心を示す者が少なくなっていることは事実である。また、数々の世論調査の結果からも、若者は中高年層よりも政治関心度が低く、政治参加の度合いも低いことが明らかになっている。民主政治が有効に機能するためには、国民の多くが政治に関心を抱き、政治に参加することが必要条件であることを考えれば、世代交代の進行によって必然的に次代の担い手になる今日の若者が政治に関心を示さないということは憂うべき状況ともいえる。
 多くの若者がなぜ政治に関心を示さないのか。明治大学・井田正道助教授がかつて実施したアンケート結果によると、無関心の理由の中には「政治は難しすぎるので、自分の理解をこえる」「身近に感じられない」「自分とどこかでかかわっているのだろうけど、それが目に見えない」「難しく、汚れた社会のように感じられるから」などという回答が見られたという。政治のわかりにくさと汚いイメージが若者を政治から遠ざけているようである(竹尾隆、井田正道編著『現代政治を見る眼』八千代出版2001年)。
 たしかに政治現象を把握することは容易ではない。選挙のときは候補者が「国民が主人公の政治を」と訴えても、選挙が終わると永田町という閉ざされた、国民の目の届かない空間で国の方向性がよくわからないプロセスで決定されているようにみえる。1995年の東京都知事選と大阪府知事選でみられた青島・ノック現象、1999年の東京都知事選での石原慎太郎の圧勝、2000年の長野県知事選での田中康夫知事の誕生、そして2001年4月に成立した小泉内閣に対する異常ともいえる国民の高い期待は、議会不信の裏返しとしての「強いリーダーシップ」と「近寄りやすいリーダー」を求めた結果ともいえるし、また「わかりやすい政治」いいかえれば「政治の単純化」を求めていると解釈することも可能である。また、これらの現象の基底には、わが国の議会制民主主義の実相に対する国民の根強い不信・不満が存在することも忘れてはならない。
800年ほど前のイギリスでは国王が税金をめちゃくちゃにかけるものだから、議会で誰かが「税金が高すぎる」と言ったら国王に殺されかねない時代だった。そこで、発言したことで殺されないように、みんなで言論の自由を守ろうというのが、議会の役割になっていく。それが言論の自由というものだし、議会の存在理由でもある。
「小泉首相の『俺の言うとおりにせよ』的発言はおかしい。それでは議員の存在は何なのか。総裁選の投票だけが仕事なのか。中身を議論しない=民主主義の原点を避けている。基本の議論がなされないのは異常であり、民主主義の危うさを感じる」と、前出の自民党参議院議員・脇氏も懸念を表明した。
今回私は政治家に会いに行った。取材を口実にして会いたい人に会った。どの方も忙しい中、快く会ってくださった。学生だからといって、適当に答えるという方はいないように思った。勉強不足、準備不足で訪ねていった私に、「そんなこたあ全部わしの出した本読みゃわかるがや」と言いながらも丁寧に説明してくれた方々。もともと私は「政治=汚い」とは思っていないが、これからもそのようなことは思わない。汚い政治家がいるのは、性格の悪い友達がいるのと同じで、その友達にも長所と短所があり、たまたま自分には短所しか映っていないだけなのだ、きっと。「もっと怖い人だと思っていました」という私に、「やっぱりテレビだと真剣に討論してるからみんな怖い顔になるけど、みんな本当は面白い人たちなんだよ」とその政治家は笑っていた。
政治のバラエティ番組化で、政治が面白いものになってきている。テレビの役割について、田原総一郎は「政策が決まるまでのプロセスを透明化し、国民に理解してもらうこと」としている。しかし、感性に訴えるテレビゆえ、物事を単純化し、視聴者の情緒的な反応を助長する危険性を持つ。前出の自民党・脇氏は「共産党のマイナスイメージはマスコミがはやし立てている。それに対してどうムードを作るかだ。最近はムードが悪い、傾いてきた。たいていの人はただ『嫌い』と思っている。ムード作りは難しい。マスコミは受け手読者との共同作業であり、能動的に動いているのは10%だけ」だという。また、塩川氏は「共産党はなかなかテレビに出してもらえないというのがあるんだけど、面白おかしく取り上げてもらうというのに乗っかりたいとは思わないよね。やっぱり国会の活動を通して、一歩でも二歩でもよりよくしていく活動を国会を通して続けていくことが、結果的にマスコミに注目してもらえるし、そういう載り方がいいと思う」という。メディアを通して伝えられるニュースは世の中のほんの一部でしかない。情報化社会で私たちは能動的な情報収集が可能になった。メディアに操作され、踊らされがちだった私たちが主導権を握るのだ。
自分のことを自分で決めることができ、それが実感できれば、必ず政治は面白くなる。間違った意思決定をしても、自分のせいだと納得できる。もちろん、政治的な決定は社会全体を拘束するから、自分に関わることでも、何でもかんでも自分の思い通りに決められるわけではない。しかし、その意思決定に間違いなく自分も関わっていると実感できれば、それなりの手応えが得られる。そうであればこそ、生きていることに張り合いが出てくる。自分が自分の人生の主人公であるという感覚が沸く。この感覚こそが、人民主権ということであり、民主主義の価値である。
身近な不満が大きな声に変わることを私たち国民が気づいて、まじめに政治を考えるようになれば、共産党の存在価値が出てくるのかもしれない。その声を届けてくれるものこそ、共産党なのかもしれない。どんな小さな声でも、共産党なら耳を傾けてくれるのかもしれない。「国民とともに歩む党」と公言しているのだから、どんどん頼めばいい。そして、その時こそ共産党はもっと国民に理解してもらえるよう、柔軟な姿勢をとるべきだ。一部の過激な人たちによる支持と、それに対する過激な反発でも、かなりの人に誤解を与えているのかもしれない。昨年11月に東京大学駒場祭で開かれた志位委員長講演会でも、聴衆の中に敵「かくまる」が数人潜んでおり、公演中に幾度なく罵声を上げては一時中断に繰り返し追い込んだ。最初こそ耐えていた志位委員長も、しまいには「かくまるも落ちぶれたものだ」と挑発に乗る始末。そんな様を見てしまったら、とても支持する、頼る気にはなれまい。
「共産党はかわいそうだよ。一度掲げたものにこだわってる。自分の主張をむりやり現実に結び付けている。本人たちもきっとそんなことはやりたくない。少し折れて、みんないっしょにやろうとリーダーシップをとるべき党なんだから」


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