『在日の今』熊谷早苗



 「在日のことなんかはテーマにしない方がいいんじゃないか」
 この言葉を最後に録音は終了している。ドキュメンタリー映画監督・金聖雄(キム・ソンウン)氏にインタビューした際のテープを書き起こし、「これで終わりか……。」と思っていた私。
 金監督の最後の言葉に固まった。すぐにもう一度聞いてみる。三度目の正直、さらにもう一度聞いてみる。テープの録音をしていたのは私なのだが、その時は気に留めもしなかったのだろう。しかし、この言葉の中に金監督が抱える「在日(韓国人)」の思いが込められているように聞こえた。

 ドキュメンタリー映画監督・金聖雄(キム・ソンウン)氏との出会い
 2004年9月4日の毎日新聞<ひと>という欄の記事を見て、「この人に取材したい!」と強く思った。その人物こそが、金聖雄監督(41歳)である。記事には「今の笑顔を撮りたかった」という言葉と、「在日」の二文字。
 「今」。それが、私の求めていた言葉だった。ちょうどその頃、日韓関係について書きたいと思っていた。以前、在日韓国人の金城一紀が書いた『GO』を読み、在日の問題も日韓関係を語る時に外せないものだと知った。しかし、「在日」は自分にとって未知の存在であり、知識も乏しかった。そこで「在日」という人 生を歩んできた人物に直接会う必要があると感じたのである。
<金聖雄>名前から、監督が日本人ではないことを理解するのに時間はかからなかった。
早速、取材の依頼をと思ったが、ここにきて大問題発生!である。そもそも、金聖雄氏はドキュメンタリー映画の監督という職業であり、新聞に掲載されていた記事も映画のことを中心に話をしているのだ。
 「……私、映画見てないじゃん……」。一瞬、焦る。映画といっても、全国どこででも上映している作品ではない。全国各地で上映はするものの、今日は東京、次回は再来週に神奈川でという感じだった。取材を依頼する時点のスケジュールでは、監督に話を聞いた数日後の上映が最も近かった。この取材は無理かもしれないという思いで、不安になりながらも、「この記事を偶然見つけたのは、何かの縁。まずは、連絡してみよう!」と、気を取り直して監督と連絡が取れる所と思われる映画の上映委員会へ電話をかけた。委員会のスタッフが対応してくれ、監督に連絡してみますという返事。すぐに、今回の取材の趣旨と連絡先を記入したFAXを委員会事務所へ送信した。
 後日、監督から詳しく話を聞かせてほしいという電話が入った。取材の概要を説明し、恐れながらも作品をまだ見ていないことを正直に話した。すると、監督は「映画のことはいくらでも話せる。しかし、日韓関係のことはどれだけ話せるか分からないけど僕でいいなら」と、取材を承諾してくれたのだ。最後に、取材後の上映には必ず行くという約束をし、電話を切った。
取材のアポを取れたことにとりあえず一安心して、監督を知るきっかけとなった新聞記事に目を落とす。「今の笑顔を撮りたかった」という言葉のもと、にこやかに笑っている監督の写真が掲載されている。優しさがにじみ出ているその目は何を捉え、どんな視点から映画を撮っただろう。在日のことや日韓関係について、どのような話が聞けるのだろうか。期待と不安が交錯していた。
 
 〜ドキュメンタリー映画『花はんめ』とは〜
 「はんめ」とは韓国の方言で、おばあちゃんたちのこと。この映画の舞台は、在日が多く住む地域で知られる神奈川県川崎市桜本。そこに住むはんめたちの「今」の日常を4年間撮り続けた。作品の中に歴史的説明はほとんどない。そこには、見ているだけで元気が出るような可愛くてハツラツとしたおばあちゃんたちが映っている。
 「清水の姉さん」と慕われている、孫分玉(ソン・ブンオク)さんが住む桜本のアパートには、いつも仲間たちが集う。ここが、はんめたちの憩いの場であり、他愛もない話に明るく元気な笑い声を上げ、時には語り合い涙を流すことも。
 様々な過去を積み重ね、「今」に至るはんめたち。
「今が夢のようだよ」「今が青春」と、歌ったり、踊ったり、泳いだり。

「『花はんめ』は2004年の今だからこそ、描くことのできた映画であり、今だからこそ日本中で見てもらいたい映画です」という思いが込められている。
 
<インタビュー>
 9月某日、ついに取材の日が訪れた。まだ明るい夕方。中央線に乗り、それまでに集めた映画の資料や聞きたいことをまとめたメモを見ながら今日の取材の構想を整理し、監督との待ち合わせ場所・三鷹へと向かった。
 三鷹駅に着き、改札を出ると、すぐに辺りを見渡した。私は対面相手の顔を知っているけれども、監督はこれから会う人物の顔を知らないのである。
 いつもなら、その十分な甘さと香りを楽しむキャラメル・フラペチーノだが、この時は喉から胃へと冷たさが流れ込むのを感じるのが精一杯だった。しばらくすると、私が待っていた人物が現れた。頭に思い描いていた印象と比較すると、心持ち、監督の表情が険しいように思えた。まぁ、初対面の人物に何の警戒もなく満面の笑みを浮かべるのは接客業ぐらいであろうが。
改めて監督と挨拶と自己紹介を交わし、面と向かってこれから行う取材概要等の話をした。
そして、取材を始めた。
 
 『花はんめ』が2004年の今だから作ることができたわけ 
──私は新聞記事で在日の「今の笑顔を撮りたかった」という文を読み、監督にお話を聞きたいと思ったわけですが、「今」だからというのは何故ですか。

 まず、在日の話を抜きにしては語ることはできない。在日である僕自身も含め、自分のことを話したり、写真を撮られたりすることがすごく嫌だった。一つ目として、慣れていないこともあるが、二つ目には在日である自分たちが写真や映像を撮られたりすることを恥ずかしく思っていたからだ。照れてではなく、表に出すモンじゃない、みたいな感じかな。自分たちが悪い、そんな意識があった。
 在日一世のおばあちゃんたちは、ほとんどの人が教育を受けていないので、字の読み書きができない人が多いのが実情。そのことや、在日が差別されたことを、自分たち一世のせいにして生きてきた所がある。
 在日一世の人たちは、自分たちがどこで生まれて、どんなふうに日本にやってきたのかっていうのはちゃんと認識している。しかし、本人たちはあまりにもその渦中にいすぎて、歴史的に見た時にどういうことがあって、どんな働きかけによって自分たちが「ここ」にいるのかを客観視することがほとんどなかった。
 僕がこの映画で撮った川崎市の桜本という所は、関東の方では在日が比較的多く住んでいる地域である。桜本は地域活動として在日の子供たちに勉強を教えることをしている。そのような交流が発展し、地域運動なども盛んになっていった。
 そんな中、地域の人たちが集まれる場所をということで、公設運営の建物・ふれあい館が建設された。そこで文化的な交流をはじめとし、子供からお年寄りまでみんなで学ぶようになった。その取り組みの一つに、在日のおじいちゃん、おばあちゃんの識字学級ができ、70?80歳くらいのおじいちゃん、おばあちゃんが字を習い、学ぶ喜びを味わっていた。
 そうやって、文字や歴史を学ぶにつれて、自分たち「在日」というポジションを恥ずかしく思うことはないのではないだろうかと感じ始めた。自分たちの生き様や、今まで積み重ねてきたことの話を求められる機会は多かったし、自分たちが語れるものを語っていこうという思いがそれぞれに生まれていったようだ。
 そういう流れの中で、1999年に僕たちとはんめたちが出会って、それから彼女たちと共に時を過ごし、お互いに関係性を築くことができ、その姿を映像として形に残すことができた。数年前だったら、撮ることは難しかっただろう。それに、撮影していると感じさせないほどの、自然なものにはならなかったのではないかと思う。
 
 「数年前ならできなかった」
 この言葉の意味について、もう少し知りたくなった。数年という年月が一体、何を成しえたのだろうか──。
 映画の舞台になった川崎市桜本地区は、川崎の南部に位置し、在日韓国・朝鮮人が多く住んでいる。(市全体で9445人。田島地区(桜本)で2081人。2003年度のデータより)
川崎の在日の多くは、他の地域の強制連行とは異なる。日本占領下で働く場所がなくなった人たちが京浜工業地帯の工場に働きに来たという。
 1969年以来、この地域で保育事業などに実績のある「社会福祉法人青丘社」(在日基督教川崎協会を母体として、1973年法人許可)は、1982年に「桜本地区青少年会館(仮称)設立等に関する統一要望書」を川崎市長に提出した。市は、検討に入り、庁内に「設置検討委員会」をつくり、青丘社との協議が足掛け7年にもわたって継続された。そして、会館は、こども文化センターの役割を担うと共に、民族の壁を乗り越え、日本人と在日韓国・朝鮮人とがふれあい、子供からお年寄りまでが共に生きるふれあい交流の場として計画された。しかし、地元町内会は、建設に難色を示したのである。
 地元関係者は、「会館建設そのものは反対するものではない」としながらも、「市の構想をする会館を社会福祉法人青丘社に民間委託するのは反対である」などという理由からである。市は、1986年以降、地元に対して説明会を粘り強く行い、地元に理解を深め、ついに、1987年6月29日、川崎市と地元5町会との間で合意を見ることが出来た。
 そして、建設費1億6000万円をかけて、日本人と在日韓国・朝鮮人が同じ市民として交流しあえる全国でも初めての公的施設「ふれあい館」が1988年6月14日にオープンしたのである。(『いま 元気!』2003年8月29日「日本人と在日韓国・朝鮮人との相互のふれあいめざして」川崎市ふれあい館・館長ペエ・ジュンド氏 より抜粋)

 金監督が話していたように、ふれあい館は、こどもの遊び場であり、成人・高齢者の学ぶ場所となっている。在日が多く住む川崎では、地域の人たちと交流を深めようとする活動がかなり前から行われてきた。そして、その結果が「ふれあい館」という実際の形になり、その場所で民族という枠に囚われることなく、人と人が交流を深めてきたのである。川崎の地域において「ふれあい館」は建設以降、在日と日本人の距離を縮めることに多大な貢献をしてきた。在日と日本人の架け橋となった建物の建設は、年月をかけた市の積極的な努力と、地域住民の理解なしには不可能であった。
 ゆえに、ここでの「数年」という年月は川崎においてのことなのである。

在日一世の今の笑顔を撮りたかった
 ──それでは何故、「今の笑顔」を撮ることにしたのですか。

 僕は在日の今の姿、日常の中にこそ逆に現在まで語られることのなかった歴史がある気がした。この映画には、歴史的なことはほとんど含まれていない。はんめたち個人がどう生きてきたかなどにも触れていない。つまり、彼女たちが何故この場所にいるのかさえ、説明していないことになる。でもそれは、「在日」を切り口に物事を語る以外にも方法があると思ったから。
 歴史的な説明がほとんどなくても映画として成立しているのは、やはり2004年の「今」作品になったからであろう。ある程度、徐々にではあるが在日に関する情報が浸透してきて、映画を見る側が在日のことを断片的にでも知ることになり、どんな存在か興味を持つ人が少なからずいる。そういうベースがあって、「今」、この映画が成立している。数年前だったら、総スカンくらっていることだろう(笑)。
 
  「花」はんめとの出会い
 ──はんめたちとの出会いについてお聞かせください。

 在日一世の代表でもなんでもない、普通のおばあちゃんを撮ることになったのは、僕たちが別の撮影をしていて「面白いおばあちゃんたちがいる!」と聞いて向かった先にいたのが、数人で賑わうはんめたちだった。僕は、このおばあちゃんたちを「かわいい」と思ったし、心が動いた。彼女たちがこうして輝いている、かわいくて美しい姿を残したいという思いで作った映画。だから、作品の始まりとして「在日」があるわけではない。
 歴史は重要なことだし、彼女たちが何故ここにいるのかってことも大切なことかもしれない。けれども、映画という枠の中でその全てを語りつくすことはできないだろう。僕が感じた彼女たちのエネルギーを、見る人にも感じて欲しい。今を生きる彼女たち、在日の生き様を見て欲しい。
手や顔の皺、話し方、そういう中にこそ歴史が含まれていると思うからね。説明的に語られる歴史じゃなくて、彼女たちの皺のように、積み重ね、刻まれてきた歴史。それを見て、感じる歴史の方が伝わるものがあると思う。

 「感じる」こと
 ──監督の今のお話を聞いて、私自身、歴史や情報ばかりを頭に詰め込もうとしていました。歴史というのは、そればかりではないということなのですね。

 みんな誰もが、生きてきた道のりは違う。しかし、人間同士、同じ感じ方をすることができる。つまり、人間である以上、五感を持つという共通点がある。例えば、かわいいとか、ご飯が美味しい、楽しい、悲しいなど。この映画もそういったことを感じる気持ちを大事にして作っている。言葉の違い、生きてきた背景が違っても、歌ったり、踊ったりして楽しいと感じる部分は同じ。だから、人間のそこを信じてというか、敢えて色んな説明を加えることをしなかった。また、そういう歴史的なことを極力削ぎ落としている。
 僕は、おばあちゃんたちをかわいくって、とてもチャーミングだと思った。それは、何も在日という背景があるからではないのだ。
メディアは強制連行されてきたことなど、在日に対し、やたらと修飾したがる。そういう行為によって、ステレオタイプの日本人が生み出され、在日のイメージだけが一人歩きし始めた。いまだに、そしてこれからもその傾向にあると思う。その理由の一つに、歴史の当事者たちは70、80歳という高齢になり、歴史の事実を語れる人自体、少なくなっていくことが挙げられる。
 歴史を知らないこと・無知=罪である、というようなことが今でも言われたりする。確かに、歴史を知っているに越したことはないし、歴史って重要であると思う。しかし、僕は歴史に囚われすぎても、お互いの距離が縮まらない気がする。例えば、100年前の出来事を深く掘り下げて勉強していても、歴史を変えられるわけではないのだから。
 そうじゃなくて、今を生きる人たちにはもっと身近なことに目を向けて欲しいと思う。「感じる」こと。それによって興味が湧き、深く知りたいという知的好奇心が生まれる。韓国のキムチがおいしそうとか、取っ掛かりは何でもいいだろう。おいしそうだなって思うことで、すでに第一歩を踏み出していると僕は思う。そのことでさえ、食文化を理解することに繋がるだろうから。

金聖雄が映画監督になるまで
 ──監督の生い立ちはどのようなものですか。

 僕は、言葉からもわかるように大阪で生まれた。大阪は日本で一番、在日が多く住んでいる所で、とある公立小学校の生徒が7割在日だったこともある。だから在日はマイノリティでもなんでもない、そういう場所で僕は育った。
 周りにいる日本人も在日の存在をわかって生活していたのだが、名前は通称名を使っていた。日本の学校に通っていたのだけれども、中学・高校と、進学するにつれて、接する人がどんどん増えていき、そんな風に世界が広がっていくときに、自分の名前のことや、在日のことなどを漠然と「何なんやろう?」って思っていた。徐々にだけれど、どうやら名前で差別されることもあるらしいなどと知る。僕自身、差別などそういう経験は、ほとんどないのだけれども。もちろん、「在日だから」誰もが差別されるわけではなく、個人のキャラクターや、経済的な問題など様々な問題があってのことだと思うのだが。
 日本で生まれているけれど、僕は韓国籍だ。「キム」という名前があって、通称名の「ウエダ」という名前もある。日常の中で在日っていうのを「何モンやろうなぁ」って考えていた。
 周りの人間が始めたこともあり、高校2年生のときに本名宣言をした。宣言したからには、後に引けないなという気持ちはあったけれども、僕自身が変わることは特に何もなかった。
 ちょうどその時期、指紋押捺拒否が問題になっていて、義理の兄が川崎で最初の逮捕者になった。その運動も広まっている中、自分のやりたいことに壁を感じたことがあった。例えば、海外旅行をするのに、再入国許可の手続きが必要なことなどである。手続きをすればいいという話ではあるけれども、僕にしてみればとても面倒なことであり、葛藤があった。その頃は、誰もが持つ若さゆえのモヤモヤ感と在日っていうものに対するモヤモヤ感の両方があったこともあるのだろう。そういうのを抱えての20代だった。
 僕は、ずっと映画監督になりたかったわけではない。音楽やサーフィン、色々なことをやっていた。ただ、根拠もなく自分は何かできると信じていたし、人とは違うことをやりたいというのはあった。今思えば、幻想に近いものかもしれない(笑)。でも、そういう気持ちを抱き続けたから今の仕事につながったのだろうと思う。

  ドキュメンタリーの題材について
 ──ドキュメンタリー映画を撮るとなると、題材はいくらでもあるように私は思うのですが、監督はどのようなことを選んでいきたいとお考えでしょうか。

 若い頃、最初は「在日」を撮りたいと思ってスタートした。でも、やればやるほどに、そうではないなと。というのは、先行して題材が存在するわけではなく、そこに目を向けるかどうかの問題だと思う。人間が何かを作り出すのに、ベースになるのは、自分が生きて感じてきたことであるから。僕自身が引っかかること、何かに惹かれて立ち止まることに目を向け、掘り下げて形にしたい。そういうものは、人生でそれほど多く存在しないだろうから。たくさんの経験をすること、たくさんの人と出会うことは、大切なことだと僕は思う。 取材日・場所  2004年9月22日・三鷹市にて

  〜金聖雄監督 プロフィール〜
1963年6月 大阪・鶴橋生まれ。大学卒業後、(株)リクルート勤務。1年間のサラリーマン生活を経て、 自ら商売を始めるが失敗。
1988?90年まで東京の吉森写真事務所にて料理写真の助手を務める。1990年からフリーの助監督、1993年からフリーの演出家としてスタート、現在に至る。
 
  作品履歴
 ドキュメンタリー映画
1994年 「ムーダン?受けつがれる民族文化」(OH企画)脚本・監督
1997年 「在日?戦後在日50年史」(製作上映委員会)演出補
 PR映画
1993年?日本通運「東京ドームへの闘い」(一隅社)監督
1997年 「人、街、地球」(テレビマンユニオン)脚本・監督
 ビデオ作品
1997年 「酪農王国の人々?牛飼いたちの物語」(一隅社)
1999年 「みんなのありがとう」(自主制作)脚本・監督
1999?03年 シリーズ人権ってなあに(アズマックス)シリーズ中7本脚本・監督
 テレビ番組
宮崎駿の妖怪?日本人の忘れ物?(NHK) 共同演出
ハワイトレッキング紀行?幻のビーチを探して?(NHK)脚本・監督
北欧トレッキング紀行?白夜の大地?(NHK)脚本・監督
ガイアの夜明け(テレビ東京)脚本・監督


 取材後、約束通り『花はんめ』を見に行った。会場となった所は、映画館ではなかった。上映場所は町田の「勝楽寺」。名前からもわかるように、寺である。当日は、なんとお祭りがありメインストリートでは神輿が担がれていた。その通りを抜けないと、私は目的地の勝楽寺に向かうことが出来ない。最初は「すみません」と活気溢れる人々の間を、謙虚に潜り抜けるが、なかなか前に進めない。しかも、時間が迫っていた。半分やけになって、小さい体を押し進め、何とか切り抜けることが出来た。遠ざかっていく喧騒。抜けてみると、自分だけ取り残されたかのように寂しく感じた。
 さらに歩いて、勝楽寺に着くと金監督の姿が。それまでの道のりが多少困難だったため、迎えてくれた監督の笑顔を見てほっとした。中に入ると、チマ・チョゴリを着た女性が受付をしてくれた。初めて目にするその民族衣装。衣装の上部は日本の着物に似ている。しかし、着物ほど見る者に硬い感じを与えず、ふわりとしていて柔らかく着心地も良さそうである。
 寺の中は、煌びやかだった。天井にも施された装飾や絵。寺という場所は親類の葬式の際に一度訪れたことがあるが、これほど煌びやかではなく質素なイメージがあったので、しばし丹念に鑑賞。一通りに目を配ると、町田に来る電車の中でも読み漁ってきた資料を読み直す。すると取材の際、監督に頂いた資料の最初のページに目が留まった。

           1999年 夏
   私の母、金正順(キム・ジョンスン) は病死しました。
            77年の生涯
       母はしあわせだったのだろうか。
    末っ子で苦労をかけた私には、悔いが残りました。
        何もしてあげられなかったと……
         母や在日一世たちが        
        歴史の渦の飲み込まれながらも
        日本という舞台でたしかに生きた、
         生きているという証を残したい。
         この映画は私のそんな思いを
       仲間たちの力を借りて形にしたものです。
   私に出来ることは、小さなお墓を創るような気持ちで、
           映画をつくることでした。
 
 上映場所に寺を選んでいるわけではない。前後の公開場所見ても、今回だけが寺なのである。しかし、この文章を読んだ時、『花はんめ』の上映場所に最も相応しい気がした。
畳の上に置かれた椅子と、直にひかれた座布団とで席数はざっと30?40席といったところであろうか。映画と上映している雰囲気も見たかったので、後ろの方に席を確保した。席が徐々に埋まっていく様子を眺める。年配者が多く、若い世代はほとんど見られなかった。
 作品の監督にインタビューしているため、内容は十分というほど頭の中に入っている。そして、それまでに在日や日韓の歴史が書いてある本を何冊か読み、インターネットで情報を収集していたため、ある程度の知識があった。上映が始まり、それまで学んできた歴史を実際に生き抜いてきた、はんめたちが目の前に生き生きと映し出されてから、私は涙が止まらなかった。これといって悲しいシーンというわけではない。金監督が「心がキュンとした」と表現するように、そこには元気で愛らしい、はんめたちが映っているだけなのに、である。
 私は、この映画を見るには少し知り過ぎたのだろうか。そんな思いさえ頭をよぎっていた。しかし、その時、金監督が発した言葉の重みを感じ取ることができたように思う。「先に『在日』があっての映画ではない。」しきりにそう話していた金監督。
 日本で何の不自由もなく生まれ育った日本人が、在日の歴史を語ることは、あまりにも説得力がないとみなされるだろう。だが、当事者ではないためにできることがある。それは、中立の立場から客観的に判断することだ。当事者は歴史と共に感情があり、それらを乖離させることは難しい。
 当事者ではない私たちは、中立の存在から真の歴史に向き合い、そこから自ら感じ取っていかなければならないのである。例えば私が、在日のことも含め日韓の歴史について?語る″ことはできない。いくら勉強して、知識を頭に詰め込んで何もかも知っているかのように振舞っても、私はただ一つの国籍と、ただ一つの名前で20年と少しを生きてきた日本人なのだから。それでも、日韓の歴史を学びたい、知りたいと思うのは、今でも日本と韓国が互いに溝を抱えているからであり、これから私たちの世代で少しでもその溝を埋めたいという願いによるものである。
 しかし、日韓の歴史を学ぶほどに、苦悶することが増えた。日本が韓国に対して行った行為・歴史に面と向かって向き合うことは、僅かな知識というワンクッションがある状態といえども目を背けたくなるような思いがした。侵略した側と、侵略された側。その関係性で、捉え方に相違が生じるのは当然といえる。だが、物事の解釈は人の数だけ存在する。そのため、歴史認識において、今でも議論がなされている。そして、ほとんどの場合、自国優位の解釈である。当たり前という認識を持つべきだろうか。いや、それではいけない。「自国だから」という理由で何の疑いもなく、国の追い風に乗っていたのでは真実に辿り着くことは困難だ。
 歴史認識を育む、教育の場で外せない問題となったのが、韓国人の反日感情を再燃させた歴史教科書問題である。そもそも韓国には国定教科書一冊しか存在しないことが背景にあり、教科書の内容は正当なもので、国のお墨付きという考え方が韓国では一般的なのである。日本には検定制度があり、幾種類もある中から各地域で選ばれていることを、韓国では、ほとんど理解されていない。

  日本の教育・教科書問題
 戦後の日本社会は、植民地支配などの歴史をできるだけ教えないようにしていた。その後、1980年代くらいからはその事実を少ないながらも記載するようになった。それは、家永教科書裁判などがあったためであり、社会的に影響を与えるような動きがなければ、今の私たちは日韓の歴史を知ることはまったくなかったかもしれないのである。
 植民地支配され、「被害者」となった者たちが、戦後補償問題を日本政府に訴えるようになった。歴史の当事者たちが高齢になり、訴えた問題が解決されぬままに亡くなっていく。そうしたことを見過ごし続けていけば、誰もそれらの問題を取り上げなくなり、人々の意識も薄れ、やがて風化されていく。「今」があるのは、積み重ねてきた過去があるからこその存在であり、自分があって親が存在するのではない。日本は、その意識が薄れてきたようだ。
 そんな中、2001年に大きな問題となったのが、「新しい歴史教科書をつくる会」により作成され、扶桑社が刊行した中学校社会科歴史教科書が文部科学省の検定を通過したことである。検定を通過したと発表した翌月には、韓国政府から公式に再修正が要求された。それに対し「つくる会」の代表者・西尾幹二氏は日本国内の問題と訴え、反発を示した。
 なぜ、韓国側が修正を要求してきたか。具体例を挙げると、従軍慰安婦、南京大虐殺、七三一部隊などの記述が大きく後退するか完全に削除され、侵略を「進出」などの肯定とも取れる用語に替え、植民地支配の実態内容等も減らされていることにある。歴史を正しく伝えない日本の教育。教育の指標となる教科書に載っていないことの詳細を、教師が教えることはまずない。よほど歴史問題に精通しているというなら話は別であるが。
 韓国では、国史の教科書に「日帝時代」の記述を、小学校で14ページ、中学校で58ページ、高校では63ページ割いているという。日本の場合は通史の中に用語として見受けられるくらいなので、形式的な用語の説明はあっても、それに至る詳しい流れや説明が文章の中に綴られることはない。

 一般に、日本の若者は日韓の歴史にはほとんど無知で、ゆえに意見すら語れないとされ、韓国の若者は日韓の歴史をよく知っていて、自分なりの主張を持つと言われるが、その背景にはこうした歴史教育の差異があることがはっきりとわかる。歴史を知らないのは、教育制度によるものと片付けてしまう事は容易であるが、それ以前の問題として事実は一つだという認識を今一度持ち直すべきである。
 現在の日本における情報環境で、何ら不足することは無い。日韓の歴史事実を明確に書いた書物は書店で入手でき、インターネットによる情報収集も手軽にできる。
 このような恵まれた環境にあることに気づかない人が増えているともいえる。日韓の友好関係が発展するためにも、興味を「知る意欲」へと昇華することで、国民同士が友好関係を築くことに貢献できる。また、「知る」機会を増やす環境を作ることも重要となる。メディアにより韓国の情報を報道することや、韓国ドラマの放送など、何らかの形で湧いた興味を「知る意欲」へと発展させるきっかけを作り続けることである。
戦後から今まで、日韓両国の溝を埋めるために、さまざまな分野での努力の積み重ねが行われてきたことも忘れてはならない。両国は、溝を抱えながらも何とかその溝を埋められまいかと歩み寄る努力をしてきたが、その歩み寄りは今の「韓流」という言葉を生み出せるほど劇的なものではなかった。現在の日本における韓国ブームは、両国の国民が絶え間なく日韓関係の修復を願い続けてきた証であるといえる。


 おわりに
名前ってなに?
バラと呼んでいる花を
別の名前にしてみても美しい香りはそのまま
               『ロミオとジュリエット』シェイクスピア
 この引用で始まる金城一紀の『GO』。著者は在日韓国人である。そもそもこの本を購入したのは、映画化され人気俳優、窪塚洋介が主役を演じたことで話題になり、その原作がどのようなものなのか興味があって読んでみたいと思ったのだ。しかし、ページをめくった瞬間にその手の動きが止まった。シェイクスピアの引用によるこの書き出しは、私にとってあまりにも衝撃的だったから。
 自分と同じように、日本で生まれて日本語を話す。見た目も日本人なのに、韓国人。在日韓国人って……?
 韓国。この隣国の住人である韓国人と日本人は一見、人種の区別がつかないくらい似ている。人類学的に日本人も韓国人もモンゴロイド(黄色人種)であり、虹彩は黒褐色。毛髪は黒褐色の直毛。見た目は同じ人間。じゃあ、何が違う? 違うのは、言語と国籍だ。
 日本国内において、東北出身だから東北弁、関西出身だから関西弁が身についたように韓国人も韓国語を話しているだけのことではないか。『GO』の主人公は在日韓国人の男の子だ。見た目・言葉・名前は日本人となんら変わりはない。それでも、韓国籍を持つから彼は韓国人。そして、日本に住んでいるから「在日」韓国人と呼ぶのが日本の社会では正しいということなのだ。
 『GO』は主人公・杉原と、恋人・桜井の恋愛も軸になっている。恋人は日本人。ある時、杉原は恋人に自分がどんな存在であるか告げる。彼は問い詰められた訳ではない。恋人を大切な存在と認識する彼自身の判断によるものだった。すると彼女は、「……お父さんは、韓国とか中国の人は血が汚いんだ、っていってた」と、返す。
 また、彼女は下の名前を彼に告げずにいた。前述のやり取りのさらに後で、彼女も告白する。「わたしの下の名前はね、『椿』っていうの。『椿姫』の『椿』。桜と椿が一緒に入ってる名前なんて、めちゃくちゃ日本人みたいで教えるのがイヤだったの」
 
 歴史への無知、教育による次世代への悲劇。
「在日」自体が問題を抱えているわけじゃない。問題を抱えているのは、在日と共に生きる「日本人」の方なのではないだろうか。

 
〜主要参考文献

『GO』 金城一紀 講談社
『日韓「異文化交流」ウォッチング』 石坂浩一・編 社会評論社
『となりのコリアン』 在日コリアン研究会・編 日本評論社
『日本は朝鮮になにをしたの』 映画「侵略」上映委員会・編


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