『「死にがい」の現在』宮田清彦

 変わったな、という感覚はあった。最近、何かが変わっている。
たとえば、電車の中のつりこみ広告。雑誌の見出し、「死」という文字の量が増えた。本屋に行ってもそうだ。「死」に関係する本が平積みになっていたりする。
なんでだろうか。確かに切迫する死を前に途方もつかないような苦しみの中にいる人もたくさんいるのは間違いし、それはキチンと考えられるべきだから、社会が「死」を問題にする事自体は当然だろう。自殺者は激増し、世界中で戦火の炎は絶えない、凶悪犯罪も激増中らしいし、「ネット自殺」なる新語も登場した。その渦中 にいる方々のことは本当に真摯に考えられるべきだと思う。 「死」が増えたから、「死」に関する情報が増えたという説明はしごく納得がいくのだけれど、しかし、それはどういう意味を持っているのか。どんな影響があるのか。
 今回、取り上げるのは、2004年において社会に流通している「死」だ。でも、リアルな死を切り取りたいわけではなくて、みんなが「なんとなく」考えている死。私達の社会がなんとなしに抱いている「死」、無意識下にある死のイメージをこのルポで拾い出して、少しだけ、見つめてみたいと思う。

注(このルポは未だ暫定稿で、調査を継続中です。まとまりのある読み物に仕上げているつもりではありますが、今後、内容を変えることも考えていますのでご了承下さい。)

  0、方法
 
 しかし、2004年における死。そんな物はどこに行けば見えるのか。頭を捻った。見つからない。そんなものが簡単に見える場所など見つからない。仕方がないので、不十分とは分かりつつも道具立てを用意し、「死」を集めることにした。
 今回、「死」を集めるために用いた手法について説明したい。1988年以降から最新まで約400誌の雑誌に掲載された約200万件の記事索引データベース「Web OYA−bunko」を利用し、「死生」というキーワードを入力し、検索を行った。そして、その件数と内容を年ごとに比較した。また、2004 年の記事に関しては、一通り通読した上で、その分析を行った。検索の範囲が及ぶのは、掲載されている雑誌の記事のタイトルと、大宅壮一文庫が作成している独自のインディックスである。即ち、タイトルとインディクスに「死生」が含まれる記事が抽出される。
 雑誌の記事には、その時々の人々の考えや雰囲気が表れている。つまり、雑誌の記事の量や内容の推移と社会における「死」への考え方には相関関係があるはずで、雑誌記事を検討することにより今の人々の死に対する考え方を抽出しようという試みだ。もちろん、こうした方法は限界もあるわけだが、一つの方法としてやってみる価値はあるだろう。本来ならば、新聞、映画などを範囲に含めて調査の精度を上げるべきだと思うのだが、労力の問題から割愛する。しかし、新聞に比べて市場の影響を受けやすい雑誌は、時々の人々の欲求を表しやすい。より今回の調査対象として、適したメディアと考えられる。


1、増える「死」と一人称

 下の数値は、実際に抽出された、年ごとの記事の量を示している。

死生の記事の量
(上の画像をクリックすると別ウインドウで大きな画像が開きます。)

 まず、1990年と2004年を比べてみると17件の増加が見られ、90年代前半に比べて、2000年以降は多くの記事が流通していることがわかった。従って、「死にがい」に関係する情報量は以前に比べて増加しているという私の直感を裏付けるものとなった。
 さて、その増加の理由は明らかではないが、数値が最高値を示したのは1998年だった。この影響としてすぐに思いつくのは、1995年に発生した阪神大震災とオウム真理教地下鉄サリン事件である。しかし、1995年を見てみると、計測した14年間中で下から三番目である9件に留まっている。このことから、事件の影響は数年遅れる形で、やってくるということが言えるだろうか。
 また、今回採用した「死生」というキーワードにもそうした結果がもたらされる理由があるだろう。データベース上で「死生」というキーワードにもっとも反応しやすいのは「死生観」という言葉だった。その言葉は、どちらかと言えば、日常生活からは乖離しているかのような印象がある。具体的な事件、事故、災害などに直面している時期には、より抽象的な「死生観」には触れられないことが予想される。そうした予想が出来てしまうだけに、この調査にバイアスがかかっていることは否めない。
 内容的な特徴にも簡単に触れよう。90年代前半においては、「世紀末を読む 宗教と科学の接点を問う 西洋人と日本人の死生観 死の瞬間 銀河鉄道の夜をめぐって」(鶴見俊輔、河合隼雄、吉本隆明 潮 1990.5)など、知識人などによる死生観の分析の他に、「『尊厳死』『ホスピス』『臓器移植』いま問われる日本人の死生観」(『週刊時事』 1990年12月8日)や「『脳死鎖国ニッポンの悲劇』5・最終回 カトリック信者A・デーケン(上智大学教授)との対話『日本人の死生観が脳死・臓器移植の壁になっている』」(アルフォンス・デーケン/渡辺惇一 『週刊現代』 1991年5月25日)など、医療との関係で、死を語る形式が目立つ。意外なことに95年まで、老いとの関係で死に言及しているのは、「ヤングエグゼクティブの老いと死は? 昭和34年以降生まれの社会人、死生観調査」(『ACROSS』 1990年11月)、「臨終期 ※50年連れ添った妻を喪くして」(野口富士男 『新潮45』 1993年6月5日)「中高年も若者も『充実して生きる』ために考えよう よく老い 良く死ぬ人生設計」(アルフォンス・デーケン 山折哲雄 『現代』 1994年11月)、「『生き方』にこだわる 幸福な私の『死に方』 100歳以上の老人を撮り続けてたら100歳の死生観が見えた ※小野庄一写真集『百歳王』」(『自由時間』 1994年12月01日)など数本に留まっている。また、若年者層の死生観としては、94年には、SPA!が「SPA!世代とブルセラ世代との『死生観』」(1994年5月25日)と題する特集記事7件を掲載しているのが目を引く。
 95年以降の記事を見てみると、読者と死の距離が縮まったような印象を受ける。「クリスマスの夜 自分の死亡記事を書きませんか」(『ダ・ヴィンチ』 1996月1日)や「今日『あなた』が死ぬとしたら 生と死の基礎知識 もしも あなたが今日『死ぬ』としたら"ゆっくりしいや"にみる日本人の死生観」(芹沢俊介 『自由時間』 1996年5月16日)など、「誰か」の死ではなく、受け手自身が自らの死を考えるように志向された記事が登場する。いわば、一人称の「死」が90年代後半から語られるようになってきた。


2,2004年の「死」

 次ぎに2004年の状況を詳しく見ていきたい。2004年における「死」を表した記事は30件あった。全体的に見るなら、90年代後半の傾向を踏襲するように、「ときめいて『最期』に向かうー死に方を選びとりたい人々-」(『週刊朝日』2004年7月9日)や「これがアメリカ版『死の壁』という精神科医の処方箋『生きるための死に方』」(『週刊新潮』04年6月24日)など、受け手自身の死が想定された記事が目立つ。また、90年代後半と比較して中高年向けの記事の割合が多く感じられ、若年者層向けの記事は少なくなった。例えば、中高年向けライフスタイル誌、「オブラ」や「日経マスターズ」はそれぞれ特集を組んでいるが、一方、若年者層向けの雑誌にそうした記事が掲載された例は少ない。このことから、2004年における「死」は主に中高年へと向けられた言説であることが伺える。
 
 2004年の詳しい分析に入りたいが、その前に記事の中から専門誌や論壇誌は余り読者が獲得されていないものとして除外する。すると、残るのは週刊誌やエンターティメント誌である。では、記事の中に見える特徴を見てみよう。


3,恐怖の表れ
 記事の中に見られる一番の大きな特徴は、「死を考えることは、生を考えるため」という認識だ。この考えをほとんど、全ての記事が前提にしている。
 たとえば、「養老猛司さんと死を想い、生を愉しむ」(オブラ 2004.5)の特集の巻頭では編集部による口上が次ぎのように述べられている。
「そう、私達は意識的に死の話を避けてきたのかもしれません。
 しかし、オブラでは、この話を皆さんとしてみたいのです。
 死を想うことが、より生きることの大切さ、
 愛おしさを実感することになると思うからです。」同じくオブラ誌の記事の中で、哲学者の梅原猛は「死を意識することで、生はより輝くのです」と、端的な形で、その認識を示している。
 また、多少ニュアンスは違うが、週刊新潮の記事「これがアメリカ版『死の壁』という精神科医の処方箋『生きるための死に方』」(週刊新潮04.6.24)も、同じようなメッセージを伝えている。米国精神科医へのインタビューによって構成された記事の締めくくり結論部分には、「この本は、『死の壁』と併せて読むと、死に対する恐怖感が軽減し、これからの人生もより充実し、軽快に生きることができるのではないだろうか」とある。前者と多少異なるのは、死が恐怖であるという認識だろう。こうした認識は、実は前述のオブラ誌の中にも間接的に表現されていた。例えば、梅原は「人は、死んでいくとき、また生きていくとき何を拠り所にするでしょう。(中略)心の安らぎは、やはり精神の豊かさ、宗教的なものにあると思うのです」と、生き方、死に方を指南しているが、安らぎを必要とするのは、やはり、恐怖感があるからだろう。「生を考える」ために「死を考えている」側面はあるのかもしれないが、とにかく、死を問う記事の増加は死を恐怖する人々の増加を示しているように思われる。
 一方、死が恐怖であるという認識は、若年者層には見られない。例えば、女性誌『an・an』(2004年2月28日)は「BOOKS著者 インタビュー 中山可穂『弱法師』 深く愛し尽くせば、行き着くところは・・・。能の死生観をモチーフに描く 叶わぬ恋のかたち。」で、恋愛小説の著者インタビューを掲載している。その中で、「(小説の各編の)タイトルはすべて能の名作から取ったもの。能をモチーフにしたのは、能が背景に持つ死の匂いに、究極の恋愛と通底するものを感じるからだ。愛と死は背中合わせのもので、愛し尽くしたら行き着く先は死しかない、と中山さんは言う」と指摘しながら、死を導入することにより、愛もまた輝くであろうことを示唆している。死に対して何かの期待を抱いているかのような語りぶりは、中高年層が死を恐れる姿とはだいぶ異なる。
 

4,自分らしい「死」
 では、恐怖感を和らげるものとして提出されている方法は何か。梅原は「宗教的なもの」を上げているが、どういうものなのかはイマイチわかりかねる。ほかの記事も見てみよう。

 ひとつには、「自分らしくある」ことがあげられる。週刊朝日の記事「ときめいて『最期』に向かうー死に方を選びとりたい人々-」(2004.7.9)は、「ピンシャン・コロリ」「ピンと健康にシャンとした精神で最期はコロリ」する会について報告している。会の事務局長を務める弁護士の藤森勝念は、「老いに病気はつきものですが、薬漬けとチューブに巻かれたままの延命治療を望まないお年寄りは多い。一生懸命に生きた人生なら死に方も選べていいのではないかと考えたのです」と述べ、自分らしく生きる途上で死んでいくために会を作ったと述べている。
 また、自分らしく生きるということなら、もう少しラディカルにそれを貫いた人もいることを記事は報告している。文化功労者で洋画家の野見山暁治さんの母親は、88歳で亡くなったそうなのだが、自死に近い死に方をしたということだ。「私ね、死ぬことにしたの。花のきれいな5月がいい。このお金はそのときに使ってほしいの」とお金を渡され、しばらくすると一切の食事を断ち、逝ってしまったということらしい。何故彼女は死んだのか。野見山さんは「母の美学だと思う」「母は毎日お店に刺し身を注文するのに、ある日届かない。お店の従業員は届けたと言う。冷蔵庫を開けたら刺し身が入っていた。母は受け取ったことを失念してしまったんです。別の日、家の廊下にウンチが落ちていた。母は怒ったが、実は自分の不始末とわかり、引き時かなと決めたようです」。ここでは、自分の望む自己像を維持することの重要性が示唆され、維持が不可能になったとき、「潮時」として死が選び取られている。ここでは、死よりも自己を維持できぬことのほうが耐えられないという、そんな認識が垣間見える。死の恐怖をやわらげる一つの方法は、「自分らしさの維持」だ。

5、関係性の維持としての「死」
 「自分らしさの維持」に加えて、死の恐怖をやわらげるための、もう一方にある方法は関係性の維持だ。同じく週刊朝日の記事「末期がん患者のメッセージを子供たちに ホスピス医が語る『命の授業』(2004年7月2日)は結論部分をこう締めている。「『人は誰かとつながっているから強くなれます。第一線から退いたとか、役立たずになったから、自分は生きる価値はないと思う人もいる。でも、家族や友人は、その人がいるだけでいい、生きているだけでいいと願っている。そんな、ささやかな人間関係がつらさを乗り越え、幸せを見いだす力になるんです』」。また、前述のオブラ掲載、竹下節子による記事「大切な人に旅立たれた時に 愛しているなら泣かないで」は、親しい者の死についてこう述べている。「人間存在の真実は、多分、関係性のなかにある。誰かと物理的にすぐ近くにいても無限の孤独や疎遠を感じることは誰でも覚えがあるだろう。逆に、たとえ死によって分かたれても寄り添って一体化することは可能なのだ。
 死によっていったん失われたように思える関係性は、実は再構築できる。死ぬ前の痛がったり、苦しんだりする姿や年老いて弱った姿など、ハードウェアである体に由来する負の部分は消えて、心のもっとも深い部分で紡いできた関係性の核がよみがえってくるのだ」。親しいものとの関係が恐怖を和らげ、そして、それは死後においても続いていく。ここでは、そういう認識が死の恐怖を和らげるものとして把握されている。

 そして、「自分らしさの維持」と「関係性を維持」することの重要性は、他の記事の中でも繰り返し表れて、時に両方混ざり合うような形で主張されていることが確認できる。この二点が、特徴的なものとして挙げられる。


6,自分らしい「死」の裏側
 しかし、前者の「自分らしさの維持」については、もう少し考える必要があるだろう。
 自分らしさを維持できなければ自ら死んでいく。それは、結果論的に、関係性を維持するためにあるのではないか。というのも、記事を読んでいると、「自分らしさ」と「迷惑を掛けない」ことが、重なり合うように聞こえてくる。
 前述の週刊朝日の記事、「ときめいて『最期』に向かうー死に方を選びとりたい人々-」は、作家、佐江衆一のインタビューを載せている。彼は老人介護問題を主題にした小説、「黄落」(新潮社)によりドゥ・マゴ文学賞を受賞しており、その小説の中で、自身の母親の死に様とその介護をする夫婦の苦悩を描いている。食事を作り、下の世話をし、体を動かさせ、部屋を片付け、風呂に入れる。毎日、繰り返される介護は、夫婦に重荷となってのしかかる。しだいに、夫婦の中には母親が死ぬまでの辛抱だという気持ちが芽生えてくる。やがて、母親は痴呆を発症し、昼間からビールを飲んでは、失禁を繰り返す。夢うつつの中で、夜中、70年間連れ添った夫を絞め殺そうとする。明治生まれの夫は決して妻の心を顧みようともせずに、自らの要求だけを息子夫婦に突きつけ続け、老醜をさらし続ける。
 しかし、夫が息子夫婦を犠牲にして醜く生きながらえる一方で、母親はやがて、絶食を始める。自死だ。夫を絞め殺したときの悪鬼のような形相もなく、最後には「娘に還って穏やか過ぎる」程の死に顔を見せて、死んでいく。自分がもっとも楽しかった昔のことを抱いて母親は死んでいく。夫婦は母の死後、こんな会話を交わす。「子供たちには、俺たちのような苦労をさせたくないな」「ええ、絶対にさせないわ」「あまり、長生きしないことだね」「最後はおばあちゃまのようにすればいいのよ」。作者は、母親の死を振り返り、こう述べている。「そうなのだ、母は死に方まで教えてくれたのである」。
 
 自己の望む自己像、その中心にあるのは、他者に迷惑を掛けてはならない、という考え方なのではないか。小説の全編を通して、主人公は、介護が夫婦により担われるべきものと考え、公的援助などは彼らの補助としてしか登場しない。本来は家族が背負う労苦は社会が代替すべきものだが、そういった抽象論は彼らの実生活に直接的に役立つものではない。そして、それが故に、息子夫婦の苦痛を解放するという意味で、母親が自ら「死」を選び取ることは、現実的だ。小説の中には描かれていないが、母親がそんな感覚を感じ取っていたとしてもおかしくはないだろう。迷惑を掛けまいと考えたことが、自ら「死」を選んだ理由の一つだとしても否定しきれないだろう。

 「自分らしくある」ということの前提には、「迷惑をかけない」という考えがあり、そして、「迷惑をかけない」ということは、良質な「関係性」を維持するために必須の考え方だ。こう考えてみると、関係性を維持し続けたいという気持ちと、自分らしくあるということが、非常に似通った考えであることがわかる。どうやら、「自分らしさの維持」の前提となる「関係性の維持」が、2004年における恐怖をやわらげるための中心的な方法のようだ。


7,恐怖を和らげる「集団志向性」
 しかし、もっとも疑問として残るのは、何故、こうしたことが、死の恐怖を和らげることに繋がるのか、ということだろう。
 ここで、日本人の死生観に関わりが深いと思われる「お盆」を思い起こしてみたい。
 加藤周一は、「日本人の死生観 下」(岩波新書)の中で盆を分析しているが、「家族の一人が死ぬと、その魂は家族からあまり遠くない不特定の空間にあって、年に一度、『盆』の日に家族の仏壇へ戻ってくるとされる。つまり第一に人の魂は、生前も死後も同じ集団(この場合には家族)に属する」と述べている。これは、死後も現世における親密な者との関係性が継続すると捉えられているということに他ならない。死後も現世も同じ地平にある。そうであれば、死者にとって、関係性が維持され続けることが重要であろうことは明白だ。現世の関係性の維持こそが、死後の安泰をもたらす。だから、関係性の維持が、生前においても死の恐怖を薄めるのだ。

 いや、薄めていたのだ、というべきかもしれない。加藤は、生存における関係性が死後においても維持されることを好む気質が日本人にはあり、それが担保されていたことが、日本で死への恐怖が少なかった一つの理由になるだろう、という意味のことを述べている。そして、「(戦後)日本社会内部での都市の人口集中、都市生活者の原子化、伝統的小集団、ことに血縁的集団の組み込み力の減退をもたらした。・・・・・・共同体は死の世話を見ることが少なくなり、死ぬ者にとっては死の恐怖が増した。日本人にとっての死はより劇的で、より非日常的なものになってゆくかもしれない」と続ける。
 いま、改めて、死の恐怖が迫り出しているのは、関係性が脆弱になっているためであり、死の恐怖を訴える声は、関係性の再現を求める声であり、もっといえば、集団志向性への揺り戻しとして、それを把握できるだろう。
 関係性を維持することで安心感を得たい、という考えは、現実に労苦を重ねている人々にとってすれば、非常に重要なことであるだろうのは理解できる。しかし、違和感もある。
 

8,70年代の「死」とその拒否
 いったい、何がおかしいのか。それを探るために、昔を振り返ってみたい。
 実は、現在の中高年層がまだ若者だった70年代において、彼らはまったく逆の反応を示していた。社会学者井上俊により、1970年に書かれた論文「『死にがい』の喪失−戦無派世代の死生観−」(リーデディングス日本の社会学 12文化と社会意識1985.12 東京大学出版会)によれば、70年代の若者達は死を拒否する態度によって大雑把に特徴づけられるという。井上の論文は冒頭に「『生きがい』論はますます盛んであるが、『生きがい』の裏返しである『死にがい』の問題については、近年ほとんど語られることがなくなった。しかし、かつて『生きがい』ではなくむしろ『死にがい』という言葉が真剣に問われた時代があった」と述べながら、戦中、BC級戦犯との比較の中で、70年代の若者の「死にがい」を問うものである。井上は自身の若者達との交友関係などから、あえて死にがいを問うのだとしても、それは単なる「事故死」と取られるか、もしくは、最後まで死を否定し続ける「難死」として表れるだろうと述べている。積極的、消極的の差はあるものの、大部分の若者達は、死を拒否するだろうと推測している。

 井上は、かつて戦中にあったような死にがいの喪失を嘆くわけではない。むしろ、それを評価している。「(若い友人たちは)天皇のためであれ、国家のためであれ、あるいは革命のためであれ、人民のためであれ、ともかくいかなる『大義名分』にも、ひとつしかない自分の命を賭けるのはごめんだという。この意見にはだいたい私も賛成だ。原則的には、人間は自然死以外の死に方でしぬ(あるいは死なされる)べきではない、と思う。だから、彼らの態度は基本的には健全だと思うし、いいことだと思う。なによりもホンネに忠実で無理をしないところがいい」、と若者達を褒め称えている。しかし、この褒め方には少しエクスキューズのような物も感じられる。何か別のことを主張するために、あえて言っておかなければならないとでも言うかのような遠慮が井上の文章には感じられる。

 その遠慮はどこから来るのかと考えれば、戦中の若者たちの死に様にその理由があるだろう。井上は、戦中派知識人の対談集の中から、「ともあれ、わたしたちの世代で兵隊に行ったものは・・・共同体のために死ぬことに何か意義づけをしないではすまされない心境に追いやられたわけです」という言葉を引いている。(注 井上の論文に関して「・・・」は私自身による略記号、「・・・・・・」は井上による略記号とする)
 そんな状況だと、生きがい論よりしにがい戦争遂行を目的にする国家も、そこに動員される個人も、死にがいの付与装置を求める。論文の中で、彼は作田啓一によるBC級戦犯受刑者の遺稿集『世紀の遺書』の分析を紹介しているので参照してみよう。死の意味づけは四つのタイプに分けられるという。
@贖罪死ー自分の犯した罪に対する償いとして死を受け入れる(674人中29名)
Aとむらい死ー死者との一体感を基盤にして、既に逝った仲間達への弔い
Bいけにえ死ー自分が所属している集団、メンバー(日本国家、その象徴である天皇、上官、同僚、部下)のために自己を犠牲にすることに見いだすしにがい(211名)
C自然死ー刑死であるにもかかわらず、運命ないし宿命として受け入れる

 この他には、最後まで死を拒否したものが含まれる(68名)というが、もっとも多かったのはBのいけにえ死だという。また、注目すべき点は「とにかくなんらかの仕方でみずからの死を受容した人々が圧倒的多数を占めていた」ことだ。それは、国家の側からの「精神的動員の要請」と他方では、動員され死の可能性を強制される個人の側からの「死の意味づけの要求」があり、それ故に生み出された「死にがい付与装置」に依存したことの結果だということを井上は述べながら、「最後の詠嘆までもが型にはまらざるをえない悲しさ」(作田)に想いを馳せている。つまり、その時代、真剣に問われた死の意味づけは「レディメイド」として用意されていたものだった。

 こうした状況を踏まえて、井上は筆をとっているわけだが、70年代においても、「人間がたがいに傷つけあわざるをえない競争社会の仕組みのなかで、あるいはちょっと耳をすませばどこかからかきこえてくる軍靴のひびき」の中で、全体主義の再来があり得るという感覚を井上は持っている。だからこそ、それとは逆行するような考えを持つ70年代の若者たちの態度を「基本的に健全だと思う」と述べているのだろう。

9,拒否の弱さと強さとしてのやさしさ
 しかし、井上にはそれでも、少し不満が残る。
 井上は、死にがいを想定できないことの弱点を指摘する。もしも、「極限状態」に置かれた場合、「精神的な死」を避けるために「肉体的な死」を選ばなければならない時もあるということ。単純な死の「拒絶」(=生存)は、そのまま人間としての辞任を意味する(=「精神的な死」)こともあるという。基本的には若者達の「拒否」姿勢を肯定しながら、そこに潜む「弱さ」を指摘することで、生の中に強さを導入する視点を井上は求めている。
 井上が指摘する「極限状態」は、若者たちを死へと追いやった全体主義と密接に関係している。「極限状態」とは、直接的には、高橋三郎の「強制収容所における『生』」(世界思想社)の中に描かれたナチスによるユダヤ人強制収容所を指している。そして、高橋はそこで、囚人同士により繰り広げられた生存競争の様子を描き出しながら、生存条件としての収容所内における「社会的地位」に着目している。食料にありつけるなどの利権を享受できる特恵的な地位につくことが、生存条件であり、それは大多数の他者を踏み台にすることでもあった。それをさして、「精神的な死」という言葉が用いられている。

 そうした状況の再来を危惧する井上からすれば、70年代の若者たちの素朴な「拒否」の仕方は、弱いものとして映る。
 それを乗り越えるために井上が導入するのは、「生の中に死を包摂する視点」である。その視点の具体例は、彼の友人で『最も『過激』といわれるセクトの活動家』が、獄中から投じた手紙の中にあると示唆されている。その友人は、結局は事前に逮捕されてしまったのだけれど、命を落とす可能性の高い計画に参加するはずだった。その手紙の中には、計画に参加するにあたって死の可能性をどのように受け入れて、納得したのかを示す記述がある。「『僕は一応マルキストのつもりでいる訳だけども』・・・『僕の生の総体のなかの大きな要素として、マルキシズムが・・・・・・重要な要素を果たしているということは、やはり否定できないとは思う』のだけれども、その反面、自分の現在の行動が『なぜそのような行動でなければならないのか? また、どうしてそうするのか? という問題を、なんらかのイデオロギーでは表現しきれない』という感じ、『どうもそれだけではシックリしない』という気持ち、それが『僕の根底にいつもある』と彼はいう」。この文章からも伺える通り、井上が大義に殉じる死にがいを彼の中に見だしているわけではない。セクトの中には革命の樹立を目標に掲げて突き進み、思想に殉じることの生き方を極めようとする余り、組織の正当性を訴えようとする余り、機能不全をおこした団体もあったことを思うなら、大義への同化が手紙に記されているだろうことが連想される。しかし、それは戦時中の「レディメイド」の死にがいを逆立ちさせたものでしかない。井上の中で、大義と、個人が自ら作り上げた死にがいは区別され、手紙から生の強さを想定できる視点が抽出される。井上は手紙を引用しながら、述べる。
 「『人間というのは、何か燃えるように生きる、その中にヒューマニズムがあるのではないか・・・静的に積み上げていく、主知主義的・合理主義的な生は・・・・・・青白く、非人間的なものに思え、本物ではないと感じた。・・・・・・無論、この考え方自体は、必ずしも革命運動と結びつくというものでもないが、僕の場合は・・・・・・それまで考えていたアカデミックな生き方をやめようという方向から、大衆運動への参加ということになった。・・・・・・そして、去年の秋の闘争へと・・・・・・登っていった訳だけども・・・・・・僕自身は、ここでいっぱつやって、生き残ったら、まったく新しく、次の時代を生き抜いてやろうと考えていました』・・・
 自分らしく、自己の同一性(アイデンティティ)を失うことなくいきていこうする態度、そしてそのように生きていくことが死につながることになったとしても、それはそれでやむをえないとする態度・・・決して積極的に死を求めるものではない。彼らは、死を選んでいるのではなく、あくまで生を選んでいる。ただ、ある生を選んだために、結果として死をひきうけざるをえないこともある、と納得しているのだ。その限りにおいて、死は消極的に受容され、彼らの生の全体のなかにある位置を与えている。それはあくまでも生を尊重しながら、いやむしろそれゆえに、生の総体のなかに死を包摂してゆく方向である」。死を引き受けながらも自らの同一性に従って、生を歩むことこそが、井上にとっての強さを想定する視点だろう。そして、その同一性の準拠点として「私自身をふくめて『弱い人間』にとって最も近づきやすい道」として井上が提出するのは、当時の若者の中にも見られたであろう「やさしさ」である。やさしさをアイデンティティーの準拠点にすえることで可能になる「殺すことを拒んだ、殺すことに加担させられる組織や制度から脱した」生き方。それをもって、全体主義的な圧力を覆すことができるのでは、と井上は望んでいたのだろう。

10.「やさしさ」から「情」へ
 井上が恐れたように、70年代の若者たちは死を拒否し続けることはできなかった。そして、その恐怖と向き合わざるを得なくなったとき、集団志向性へとゆり戻しをかけることで、恐怖を減殺させようと試みている。しかし、実は、井上が強さを求めるために打ち出した「やさしさ」は、未だ現在の中高年の中においても、主軸になしている感覚のように思われる。しかし、それは強さを求めるためにあるわけではない。強さのためのやさしさではなく、やさしさのためのやさしさ、とでもいえばいいだろうか。

 現代における「死にがい」を考える記事は、生を充実させるものとして把握されている以上、どの記事も死と生との関わりは感動的なものとして表現されている。記事を読むことで、安らげる。そんな期待があり、それはまるで裏切られてはいけない約束であるかのように、記事のほとんどは感動するように読者を誘いかけている。基調になっているのは、やさしさである。たとえば、前述オブラ誌の記事の中で、雑誌に掲載されている梅原の写真ははち切れんばかりのクシャクシャの笑顔で写っている。そんな「やさしい」雰囲気というのは、多くの記事に共通しているトーンなのだ。
 記事の中でもとりわけ「インタビュー 五木寛之 『慈しみ』より『悲』を大事に生きる」(『日経マスターズ』2004年2月)は、やさしさが持つ意味を汲み取っているように思われる。五木は「慈悲」という言葉を分析しながら、こう述べている。
「『慈』とは励ましであり、人に生きる勇気を与える源になるものです。一方の<悲>は慰めという意味に近い。・・・・・・
 『慈』の意味する励ましが人を勇気づける前向きの言葉であるのに対し、一方の<悲>が意味する「慰め」はちょっと後ろ向きです。そんなことからか、<悲>はずっと軽んじられてきました。しかし私は今の時代こそ<悲>が重要なのではないかと思っています。
 戦後50年の間、大事にされてきたのは『さあ、やろう、頑張ろう』というかけ声であって、そこには前向きの励まし、『慈』が必要だったとわけです。しかし、いまや年間300万人を超える自殺者を出す時代になってしまった。人の心は非常に深く傷ついてしまったのです。
 この人達に「頑張れ」と励ましても、さらに傷つけるだけです。どんなに不安でも、どんなに淋しくても、どんなに悲しくても、いいんだよ、今のままでいんだよ、と無言のうちに語りかける、そんな<悲>の考え方が重要になっているのです」。
 五木はそんな考えを「情」のことであると、要約する。
 30年前、井上が願いを託した「やさしさ」は、本来彼が志向した方向とは全く違った形で残されることになった。抵抗のための強さは、全く影を潜めている。そして、井上の論文執筆の背中を押していた戦争の記憶は遠い彼方の物語と化した。いまや、その再来を恐れる人も少数派になりつつある。
 もちろん、実際に安らぎを必要とする人がいる以上、関係性の希求は決して悪いことではないと思う。また、私とて、今まで人の情けにすがることで生きてくることができた。情の価値は高く評価されるべきだという考えそのものに異論はない。しかし、それと同時に、情にはかなりやっかいで難しい側面があることを指摘しておかなくてはいけないと思うのだ。というのも、70年代の若者が保持していた「やさしさ」は、現在において「情」を求める気持ちへと転換した。しかし、その「情」を巡って戦中の若者たちはある問題に直面していた。
 

11.「情」の弱さ
 戦時中の兵隊達が皆一様に「レディメイド」の死にがいを抱えて死んでいったと書いた。でも、実のところ、それは最終的にそうなったということに過ぎない。戦時に突入し、いつ何時、死ぬかもわからないと悟ってから、皆、それぞれ死について考えていたはずだ。だから、本当は答えも皆、それぞれ違うものになるはずだった。でも、みんな同じような答えに行き着いてしまった。それは、何故か。実はみんな思考が飛んでしまったのだ。みんながみんな、「レディメイド」の同じ方向に向かって飛んでしまう、そんな仕組みが「やさしさ」が担保する情の中にはある。
 唐木順三は1950年にこんなことを書いている。「『きけわだつみのこえ』に示される若い学徒兵たち、『平和の発見』に示される巣鴨のA級戦犯たちが、すなわち思想においては共通領域をもつことのむずかしい二つの世代が、死に臨んでほとんど同じような短歌をものしていること、親と子という二つの世代が、思想をうちあけ合うことによる理解なしに、直接無媒介な骨肉の情において結びついていること・・・すなわち、二つの世代は思想的に断層がありながら、感情的には直接的に結びついているのである。」(日本教養全集5 角川書店)
 ここで言う情とは、言語による媒介なしにお互いが理解できる共通心情のことであるが、情があるために、個々人の思想が煮詰まらず、ある時点で心情に寄っていてしまうという現象が当時あった。たとえば、それは学徒兵の手記「きけわだつみの声」の中にも見られるという。「上官の罪を黙って背負い、シンガポールの獄中で、三回も通読したという田辺博士の『哲学通論』の余白に実に立派な最期の文章をかきこんで、処刑されていった一学生は、死の前後、『をののきも悲しみもなし絞首台母の笑顔をいだきてゆかむ』という歌を書いている。・・・・・・
 生死を眼前に控えて、・・・・・・自己表現をせずにはいたたまれない青年の沸騰した心が、・・・・・・そぐわない十七文字や三十一文字をつづることによって思索の線をたちきり、自己をそこへ放棄してしまう」。手記は、高い教養を保持していたが故に、超国家主義に染まりきらなかった大学生たちの葛藤が記されているわけだけども、そんな彼らでさえ、思索を深めながら、それを止めてしまうという現象。その背景には、「親と子との間には思想上の溝があるということである。或いは、親の理解と認識の絶したことを子が考えているということ」がある。しかし、それでも、情のうちでは、親子は結びついている。だから、「親と子の溝も、言挙げせず、お互に別々の心を抱いたまま、それを超えた肉親の情で触れ合うというところへ無媒介にとびこえてしまっている」のである。死とはなにかと深く考えていきながら、しかしと、思考を区切り、紋切り型の「死にがい」へと寄っていってしまう。
 情は、共感を可能にするのだけども、理解を可能にするものではないのだ。そして、なまじ感情的には分かり合っているが故に、理解を阻害しさえする。

 集団思考性へのゆり戻しとして把握できる現代的「死にがい」の様相は、かくしてその情が持つ問題点を踏まえているだろうか。
 現代における「死」を通して透けて見えたのは、関係性維持の欲求だった。そして、関係性維持のために導入されているのが、「情」であり、それは言語による媒介なしに感情のレベルで繋がることを可能にする概念だ。
 そして、「情」は、多くの若者達が戦中「レディメイド」の死にがいを抱えて死んで行かざるを得なかった一つの原因を用意した。そのことからだけでも、井上が抱いていた全体主義再来の危惧は未だ有効で、確認しておくべきだろう。
 私はやはり、関係性の欲求が「死」という言葉を通じて語られることになんとなしに不安を感じている。情の取り持つ関係性が恐怖を和らげるわけだが、例えば、情が「効き過ぎたら」どうなるだろうか。死は急速に怖いものではなくなり、私達は死を恐れなくなる所まで行き着いてしまうかもしれない。極端過ぎると言われるとは思うが、「生のために死を語る」と言いながら、「死」の方向へ社会を引きずり込んでいきやしないか。
 だから、必要なのはバランス感覚だろう。一つ一つの言説をワンオブゼムにし、冷静に見据える態度。でも、現代の「死にがい」は関係性の維持を望む声と要約できてしまった。つまりは、多様性に乏しい言説なのだ。そこに、バランス感覚は感じられない。
 多分、それも「情」のせいだ。「情」がやっかいなのは、なまじ感情で分かり合えてしまうために、理解が阻まれることだ。そして、「情」には押し流す力がある。異論を許さない側面もある。とても不合理な考えでもある。
 だから、情だけでなしに、他の方法で関係性を担保できるかどうかが、問題になってくるのだけれど、そこに至る道筋はこの調査からは見えてこなかった。この調査が余りにも不十分だったから、そういう結果が出たということだったのなら、いいのにと、私は本気でそう思っている。


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