『「死にがい」の現在』宮田清彦

8,70年代の「死」とその拒否
 いったい、何がおかしいのか。それを探るために、昔を振り返ってみたい。
 実は、現在の中高年層がまだ若者だった70年代において、彼らはまったく逆の反応を示していた。社会学者井上俊により、1970年に書かれた論文「『死にがい』の喪失−戦無派世代の死生観−」(リーデディングス日本の社会学 12文化と社会意識1985.12 東京大学出版会)によれば、70年代の若者達は死を拒否する態度によって大雑把に特徴づけられるという。井上の論文は冒頭に「『生きがい』論はますます盛んであるが、『生きがい』の裏返しである『死にがい』の問題については、近年ほとんど語られることがなくなった。しかし、かつて『生きがい』ではなくむしろ『死にがい』という言葉が真剣に問われた時代があった」と述べながら、戦中、BC級戦犯との比較の中で、70年代の若者の「死にがい」を問うものである。井上は自身の若者達との交友関係などから、あえて死にがいを問うのだとしても、それは単なる「事故死」と取られるか、もしくは、最後まで死を否定し続ける「難死」として表れるだろうと述べている。積極的、消極的の差はあるものの、大部分の若者達は、死を拒否するだろうと推測している。

 井上は、かつて戦中にあったような死にがいの喪失を嘆くわけではない。むしろ、それを評価している。「(若い友人たちは)天皇のためであれ、国家のためであれ、あるいは革命のためであれ、人民のためであれ、ともかくいかなる『大義名分』にも、ひとつしかない自分の命を賭けるのはごめんだという。この意見にはだいたい私も賛成だ。原則的には、人間は自然死以外の死に方でしぬ(あるいは死なされる)べきではない、と思う。だから、彼らの態度は基本的には健全だと思うし、いいことだと思う。なによりもホンネに忠実で無理をしないところがいい」、と若者達を褒め称えている。しかし、この褒め方には少しエクスキューズのような物も感じられる。何か別のことを主張するために、あえて言っておかなければならないとでも言うかのような遠慮が井上の文章には感じられる。

 その遠慮はどこから来るのかと考えれば、戦中の若者たちの死に様にその理由があるだろう。井上は、戦中派知識人の対談集の中から、「ともあれ、わたしたちの世代で兵隊に行ったものは・・・共同体のために死ぬことに何か意義づけをしないではすまされない心境に追いやられたわけです」という言葉を引いている。(注 井上の論文に関して「・・・」は私自身による略記号、「・・・・・・」は井上による略記号とする)
 そんな状況だと、生きがい論よりしにがい戦争遂行を目的にする国家も、そこに動員される個人も、死にがいの付与装置を求める。論文の中で、彼は作田啓一によるBC級戦犯受刑者の遺稿集『世紀の遺書』の分析を紹介しているので参照してみよう。死の意味づけは四つのタイプに分けられるという。
@贖罪死ー自分の犯した罪に対する償いとして死を受け入れる(674人中29名)
Aとむらい死ー死者との一体感を基盤にして、既に逝った仲間達への弔い
Bいけにえ死ー自分が所属している集団、メンバー(日本国家、その象徴である天皇、上官、同僚、部下)のために自己を犠牲にすることに見いだすしにがい(211名)
C自然死ー刑死であるにもかかわらず、運命ないし宿命として受け入れる

 この他には、最後まで死を拒否したものが含まれる(68名)というが、もっとも多かったのはBのいけにえ死だという。また、注目すべき点は「とにかくなんらかの仕方でみずからの死を受容した人々が圧倒的多数を占めていた」ことだ。それは、国家の側からの「精神的動員の要請」と他方では、動員され死の可能性を強制される個人の側からの「死の意味づけの要求」があり、それ故に生み出された「死にがい付与装置」に依存したことの結果だということを井上は述べながら、「最後の詠嘆までもが型にはまらざるをえない悲しさ」(作田)に想いを馳せている。つまり、その時代、真剣に問われた死の意味づけは「レディメイド」として用意されていたものだった。

 こうした状況を踏まえて、井上は筆をとっているわけだが、70年代においても、「人間がたがいに傷つけあわざるをえない競争社会の仕組みのなかで、あるいはちょっと耳をすませばどこかからかきこえてくる軍靴のひびき」の中で、全体主義の再来があり得るという感覚を井上は持っている。だからこそ、それとは逆行するような考えを持つ70年代の若者たちの態度を「基本的に健全だと思う」と述べているのだろう。


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