『「死にがい」の現在』宮田清彦


9,拒否の弱さと強さとしてのやさしさ
 しかし、井上にはそれでも、少し不満が残る。
 井上は、死にがいを想定できないことの弱点を指摘する。もしも、「極限状態」に置かれた場合、「精神的な死」を避けるために「肉体的な死」を選ばなければならない時もあるということ。単純な死の「拒絶」(=生存)は、そのまま人間としての辞任を意味する(=「精神的な死」)こともあるという。基本的には若者達の「拒否」姿勢を肯定しながら、そこに潜む「弱さ」を指摘することで、生の中に強さを導入する視点を井上は求めている。
 井上が指摘する「極限状態」は、若者たちを死へと追いやった全体主義と密接に関係している。「極限状態」とは、直接的には、高橋三郎の「強制収容所における『生』」(世界思想社)の中に描かれたナチスによるユダヤ人強制収容所を指している。そして、高橋はそこで、囚人同士により繰り広げられた生存競争の様子を描き出しながら、生存条件としての収容所内における「社会的地位」に着目している。食料にありつけるなどの利権を享受できる特恵的な地位につくことが、生存条件であり、それは大多数の他者を踏み台にすることでもあった。それをさして、「精神的な死」という言葉が用いられている。

 そうした状況の再来を危惧する井上からすれば、70年代の若者たちの素朴な「拒否」の仕方は、弱いものとして映る。
 それを乗り越えるために井上が導入するのは、「生の中に死を包摂する視点」である。その視点の具体例は、彼の友人で『最も『過激』といわれるセクトの活動家』が、獄中から投じた手紙の中にあると示唆されている。その友人は、結局は事前に逮捕されてしまったのだけれど、命を落とす可能性の高い計画に参加するはずだった。その手紙の中には、計画に参加するにあたって死の可能性をどのように受け入れて、納得したのかを示す記述がある。「『僕は一応マルキストのつもりでいる訳だけども』・・・『僕の生の総体のなかの大きな要素として、マルキシズムが・・・・・・重要な要素を果たしているということは、やはり否定できないとは思う』のだけれども、その反面、自分の現在の行動が『なぜそのような行動でなければならないのか? また、どうしてそうするのか? という問題を、なんらかのイデオロギーでは表現しきれない』という感じ、『どうもそれだけではシックリしない』という気持ち、それが『僕の根底にいつもある』と彼はいう」。この文章からも伺える通り、井上が大義に殉じる死にがいを彼の中に見だしているわけではない。セクトの中には革命の樹立を目標に掲げて突き進み、思想に殉じることの生き方を極めようとする余り、組織の正当性を訴えようとする余り、機能不全をおこした団体もあったことを思うなら、大義への同化が手紙に記されているだろうことが連想される。しかし、それは戦時中の「レディメイド」の死にがいを逆立ちさせたものでしかない。井上の中で、大義と、個人が自ら作り上げた死にがいは区別され、手紙から生の強さを想定できる視点が抽出される。井上は手紙を引用しながら、述べる。
 「『人間というのは、何か燃えるように生きる、その中にヒューマニズムがあるのではないか・・・静的に積み上げていく、主知主義的・合理主義的な生は・・・・・・青白く、非人間的なものに思え、本物ではないと感じた。・・・・・・無論、この考え方自体は、必ずしも革命運動と結びつくというものでもないが、僕の場合は・・・・・・それまで考えていたアカデミックな生き方をやめようという方向から、大衆運動への参加ということになった。・・・・・・そして、去年の秋の闘争へと・・・・・・登っていった訳だけども・・・・・・僕自身は、ここでいっぱつやって、生き残ったら、まったく新しく、次の時代を生き抜いてやろうと考えていました』・・・
 自分らしく、自己の同一性(アイデンティティ)を失うことなくいきていこうする態度、そしてそのように生きていくことが死につながることになったとしても、それはそれでやむをえないとする態度・・・決して積極的に死を求めるものではない。彼らは、死を選んでいるのではなく、あくまで生を選んでいる。ただ、ある生を選んだために、結果として死をひきうけざるをえないこともある、と納得しているのだ。その限りにおいて、死は消極的に受容され、彼らの生の全体のなかにある位置を与えている。それはあくまでも生を尊重しながら、いやむしろそれゆえに、生の総体のなかに死を包摂してゆく方向である」。死を引き受けながらも自らの同一性に従って、生を歩むことこそが、井上にとっての強さを想定する視点だろう。そして、その同一性の準拠点として「私自身をふくめて『弱い人間』にとって最も近づきやすい道」として井上が提出するのは、当時の若者の中にも見られたであろう「やさしさ」である。やさしさをアイデンティティーの準拠点にすえることで可能になる「殺すことを拒んだ、殺すことに加担させられる組織や制度から脱した」生き方。それをもって、全体主義的な圧力を覆すことができるのでは、と井上は望んでいたのだろう。

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