『「死にがい」の現在』宮田清彦

6,自分らしい「死」の裏側
 しかし、前者の「自分らしさの維持」については、もう少し考える必要があるだろう。
 自分らしさを維持できなければ自ら死んでいく。それは、結果論的に、関係性を維持するためにあるのではないか。というのも、記事を読んでいると、「自分らしさ」と「迷惑を掛けない」ことが、重なり合うように聞こえてくる。
 前述の週刊朝日の記事、「ときめいて『最期』に向かうー死に方を選びとりたい人々-」は、作家、佐江衆一のインタビューを載せている。彼は老人介護問題を主題にした小説、「黄落」(新潮社)によりドゥ・マゴ文学賞を受賞しており、その小説の中で、自身の母親の死に様とその介護をする夫婦の苦悩を描いている。食事を作り、下の世話をし、体を動かさせ、部屋を片付け、風呂に入れる。毎日、繰り返される介護は、夫婦に重荷となってのしかかる。しだいに、夫婦の中には母親が死ぬまでの辛抱だという気持ちが芽生えてくる。やがて、母親は痴呆を発症し、昼間からビールを飲んでは、失禁を繰り返す。夢うつつの中で、夜中、70年間連れ添った夫を絞め殺そうとする。明治生まれの夫は決して妻の心を顧みようともせずに、自らの要求だけを息子夫婦に突きつけ続け、老醜をさらし続ける。
 しかし、夫が息子夫婦を犠牲にして醜く生きながらえる一方で、母親はやがて、絶食を始める。自死だ。夫を絞め殺したときの悪鬼のような形相もなく、最後には「娘に還って穏やか過ぎる」程の死に顔を見せて、死んでいく。自分がもっとも楽しかった昔のことを抱いて母親は死んでいく。夫婦は母の死後、こんな会話を交わす。「子供たちには、俺たちのような苦労をさせたくないな」「ええ、絶対にさせないわ」「あまり、長生きしないことだね」「最後はおばあちゃまのようにすればいいのよ」。作者は、母親の死を振り返り、こう述べている。「そうなのだ、母は死に方まで教えてくれたのである」。
 
 自己の望む自己像、その中心にあるのは、他者に迷惑を掛けてはならない、という考え方なのではないか。小説の全編を通して、主人公は、介護が夫婦により担われるべきものと考え、公的援助などは彼らの補助としてしか登場しない。本来は家族が背負う労苦は社会が代替すべきものだが、そういった抽象論は彼らの実生活に直接的に役立つものではない。そして、それが故に、息子夫婦の苦痛を解放するという意味で、母親が自ら「死」を選び取ることは、現実的だ。小説の中には描かれていないが、母親がそんな感覚を感じ取っていたとしてもおかしくはないだろう。迷惑を掛けまいと考えたことが、自ら「死」を選んだ理由の一つだとしても否定しきれないだろう。

 「自分らしくある」ということの前提には、「迷惑をかけない」という考えがあり、そして、「迷惑をかけない」ということは、良質な「関係性」を維持するために必須の考え方だ。こう考えてみると、関係性を維持し続けたいという気持ちと、自分らしくあるということが、非常に似通った考えであることがわかる。どうやら、「自分らしさの維持」の前提となる「関係性の維持」が、2004年における恐怖をやわらげるための中心的な方法のようだ。


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