『「死にがい」の現在』宮田清彦
7,恐怖を和らげる「集団志向性」
しかし、もっとも疑問として残るのは、何故、こうしたことが、死の恐怖を和らげることに繋がるのか、ということだろう。
ここで、日本人の死生観に関わりが深いと思われる「お盆」を思い起こしてみたい。
加藤周一は、「日本人の死生観 下」(岩波新書)の中で盆を分析しているが、「家族の一人が死ぬと、その魂は家族からあまり遠くない不特定の空間にあって、年に一度、『盆』の日に家族の仏壇へ戻ってくるとされる。つまり第一に人の魂は、生前も死後も同じ集団(この場合には家族)に属する」と述べている。これは、死後も現世における親密な者との関係性が継続すると捉えられているということに他ならない。死後も現世も同じ地平にある。そうであれば、死者にとって、関係性が維持され続けることが重要であろうことは明白だ。現世の関係性の維持こそが、死後の安泰をもたらす。だから、関係性の維持が、生前においても死の恐怖を薄めるのだ。
いや、薄めていたのだ、というべきかもしれない。加藤は、生存における関係性が死後においても維持されることを好む気質が日本人にはあり、それが担保されていたことが、日本で死への恐怖が少なかった一つの理由になるだろう、という意味のことを述べている。そして、「(戦後)日本社会内部での都市の人口集中、都市生活者の原子化、伝統的小集団、ことに血縁的集団の組み込み力の減退をもたらした。・・・・・・共同体は死の世話を見ることが少なくなり、死ぬ者にとっては死の恐怖が増した。日本人にとっての死はより劇的で、より非日常的なものになってゆくかもしれない」と続ける。
いま、改めて、死の恐怖が迫り出しているのは、関係性が脆弱になっているためであり、死の恐怖を訴える声は、関係性の再現を求める声であり、もっといえば、集団志向性への揺り戻しとして、それを把握できるだろう。
関係性を維持することで安心感を得たい、という考えは、現実に労苦を重ねている人々にとってすれば、非常に重要なことであるだろうのは理解できる。しかし、違和感もある。