『透明な英雄』大隅亮
日本列島は新幹線でつらぬかれ、街ではポルノ映画が盛んにつくられ、ラジオからは陽気な音楽がきこえた。そのような浮かれた時代に見えない悲劇からひとつの地域を救った人びとがいた。明るい未来という華やかなイメージに隠された公害という魔手から町を守ったのだ。そう、たしかにかれらの活躍は市街地で暴れるロボットや異星人と超人的な格闘を繰り広げる鉄腕アトムにくらべれば呆れるほど地味ではある。しかしフォワードの劇的で華美なゴールだけがファイン・プレーなのではない、玄人好みの堅実なディフェンスもまた称賛に値するのだ。むしろ高度経済成長期に特有の、未来にたいする盲目的な信仰という逆風のなかで、貴重な白星をあげたかれらこそ真の英雄ではないだろうか。(本文より)
東京大学先端科学技術研究センター
ジャーナリスト養成コース第一期
大隅亮
「透明な英雄」
序 文
第一部「鉄の腕」
第二部「巨大な光」
第三部「工場の体臭」
第四部「水の調書」
第五部「鎌と鍬」
第六部「水の都」
序 文
口にたまったハミガキ粉をゆすごうと東京の水をふくんだ瞬間のことをぼくは忘れない。耐えがたい苦みと悪寒が身体いっぱいにひろがって二の腕まで鳥肌がたった。生まれそだった町から上京してむかえた最初の夜のできごとだ。それから数えて三回目の春をむかえた現在ではさすがに都会の水にもなれて、毎朝そいつで顔を洗い、歯をみがき、寝ぐせを整えるようになった。しかし今度はおかしな習慣が染みついてしまった。三島に帰るとぼくは飽きもせず水ばかり飲んでいるのだ。だからこれは愛する水への感謝状なのだろう。
透きとおる水へ。
二○○五年五月、東京
第一部「鉄の腕」
宿はづれを滑らかな川が流れ、其処の橋から富士がよくみえた。沼津の自分の家からだとその前山の愛鷹山が富士の半ばを隠してゐるが、三島に来ると愛鷹はずっと左に寄って、富士のみがおほらかに仰がるるのであった。克明に晴れた朝空に、まったく眩いほどに、その山の雪が輝いてゐた。
若山牧水「箱根と富士」(大正九年)
どんな国にも明るい未来を夢想してしまう幸福とも不幸ともつかない時代があるものだが、日本でのそれは昭和三十八年頃だったと推測する。その年の元日に放送を開始した国産初のテレビアニメ「鉄腕アトム」がまさに明るい未来の象徴に思われるからだ。東京オリンピックを翌年にひかえ普及がすすんだテレビのブラウン管に映しだされた鉄腕アトムの軽やかなステップは、そのまま二十一世紀の青写真となり子どもたちだけでなく大人たちの心も躍らせたに違いない。ところでサーカスに売られていたアトムをひろったお茶の水博士は当時、科学省長官に就任したばかりだった。この新米の長官はしかしまだ環境庁なるものの存在を知らない。当たり前だ。これから科学の力によって未来を歓迎しようというときに、どうして環境問題といううしろを向いた存在に目をくばる必要があっただろう。もし博士が科学省の定例記者会見で環境破壊に関する質問を受けていたとしたら、マイクに向かってこういったに違いない。なにを邪魔しやがる、前だけを見ろ!
日本列島は新幹線でつらぬかれ、街ではポルノ映画が盛んにつくられ、ラジオからは陽気な音楽がきこえた。そのような浮かれた時代に見えない悲劇からひとつの地域を救った人びとがいた。明るい未来という華やかなイメージに隠された公害という魔手から町を守ったのだ。そう、たしかにかれらの活躍は市街地で暴れるロボットや異星人と超人的な格闘を繰り広げる鉄腕アトムにくらべれば呆れるほど地味ではある。しかしフォワードの劇的で華美なゴールだけがファイン・プレーなのではない、玄人好みの堅実なディフェンスもまた称賛に値するのだ。むしろ高度経済成長期に特有の、未来にたいする盲目的な信仰という逆風のなかで、貴重な白星をあげたかれらこそ真の英雄ではないだろうか。
さあ、見えない英雄を讃えよ。
「一緒に死んじまいたいくらいだ」
その言葉に篠田豊治は絶望した。枯れ葉のような老婆が感情をじわじわと昂揚させていき、しまいにはこういったのだった。昭和三十九年二月九日から翌十日にかけて四日市を訪れたときのことである。この老婆はまだ四十歳の篠田と心中をするつもりなのだろうか、またそれを聞いて篠田は絶望のふちに立たされたのだろうか。いやそうではない。老婆の吐く言葉がさまざまな汚染物質が染みこみ、堪えきらない悲しみをたたえた言葉だったから絶望したのだ。帰りのバスの中で篠田は自らの幸運なめぐり合わせを喜んでいた数ヶ月前のことを思いだした。
篠田は舞いあがっていた。
期末試験をおえた中学生のように晴ればれとした気分だった。なぜかというと自分は百姓という職業から解放されそうだからで、なぜ百姓が嫌かというと彼はそれほど農業に長けていないからだ。農家になったのはまだ最近のことだった。早生まれの幸運で危険な兵役をまぬがれることができた篠田は、戦争が終わってからの十年間を九州のセメント工場で送った。しかし労働組合を作りストライキを決行したことが仇となって会社を追いだされてしまった。故郷である静岡県三島市中郷に戻ってきた篠田はまもなくして父親の土地を継ぎ農家になった。そしてはじまった苦労の日々。生涯を百姓として送った父親と違って、まったく畑違いのキャリアを持つ篠田にとって農業は未知の領域であり、暗闇を手探りで進むようなものだった。
それはまた淳子夫人にとっても同じことだった。農家ではない家に生まれ、薬剤師になった淳子夫人にはぶ厚い百姓の手はまったく異質のものに思えたし、それまで数グラムの粉末を天秤で量ってきた細い手にどうして水を吸って重たくなったワラが運べるだろう、と不安に陥った。百姓はただでさえ体にこたえる職業だ。稲作の重労働に汗だくになって悶える夏。苺づくりのため凍るような冷たさに耐えしのぶ冬。そして夏と冬のあいだも麦の裏作のため労働は途切れることがない。それらすべての季節の重荷を考えればサラリーマンというのは、なんと軽いバーベルを持ち上げる仕事だろう。それに加えて時代の向かい風もあった。池田内閣の「所得倍増計画」にしたがって国民の所得は順風満帆に増加していったのにもかかわらず農作物の価格は据え置きだったので、成長盛りの日本のなかで農家だけがひとり貧乏くじを引いているような気分になった。実際、兼業農家が全農家の四割を超えたのはこの年だった。
そんな篠田夫妻のもとに未来からの手紙ともいうべき知らせが届いた。
「淳子さん、ちょっと」
「どうなさったの?」
「ついに石油コンビナートが建設されるようだよ」
「それじゃあ、もしかして」
「そうなんだ、ぼくたちはこの土地を売ることができるってわけさ」
それは天使の羽をつけた鉄腕アトムによってもたらされた柔らかな救済のようにも、鉄の小指との固い約束のようにも思えたので淳子夫人はこころの中でこう叫んだ。これが明るい未来なのね、と。
天上には秋の空が能天気に広がっていた。
この石油コンビナート計画は突然の訪問客というわけではなかった。来るべき二十一世紀に向けて各都道府県は自らの手も「鉄腕」にしたいと願い、新産業都市の指定をかけて激しい争奪戦を繰りひろげた。静岡県もその例にもれず政府にたいして熱心な陳情をおこなった。とりわけ斉藤知事は家柄からして資本側の人間であったし、知事選挙のときに新産業都市の指定を受けることを公約したこともあって、県の工業化にはつよい思い入れがあった。水に映った自分を好きになってしまった古代ギリシア神ナルキッソスと同じかそれ以上に、昭和三十八年の政治家は工業化に惚れこんでいたのである。結果的に静岡県は争奪戦に敗れ新産業都市の指定を逃すことになるが、それに準ずる工業整備特別地域に滑り込むことはできた。そのようにして工業に有利なように城壁を築いた上で、闘争の舞台となる三島市をはじめ、隣接する沼津市、清水町といった東駿河湾地区への石油コンビナート計画は着々とすすみ、その旅支度が整ったところで県は発表に踏み切ったのである。
「豊治さん、ぜひ売りましょうよ」
「そうだな、坪あたり三千円というのは好条件だ。このまえ繊維会社に土地を売った人は確か千五百円から二千円だったようだし、間違いない」
「なんて素敵な話なのかしら」
浮かれた時代の浮かれた人たちは、まだそのすきま風に気づいていない。篠田はあたまのなかで皮算用をはじめているし、淳子夫人はすでに百姓を引退したあとの薔薇に囲まれた夢の生活を思い描いている。また居間でテレビに夢中になっている息子たちも主人公のアトムに絶対の信頼をよせているようだ。しかし夫妻の息子たちよ、アトムばかりに気を取られていてはいけない。もっと注意してブラウン管をのぞきなさい。そうすれば鉄腕アトムにふりかかる「災難」の多くは同じく人間の科学技術から生まれていることに気づくはずだから。
第二部「巨大な光」
町中を水量たっぷりの澄んだ小川がそれこそ蜘蛛の巣のように縦横無尽に残る隈なく駆けめぐり、清冽の流れの底には水藻が青々と生えて居て、家々の庭先を流れ、縁の下をくぐり、台所の岸をちゃぷちゃぷ洗い流れて、三島の人は、台所に座ったままで、清潔なお洗濯が出来るのでした。
太宰治「老ハイデルベルヒ」(昭和十三年)
「まったくもって銀ピカだ」
長谷川泰三市長は感嘆の声を上げた。
昭和三十八年十月の終わり、三島市議会と連れだって視察のために水島製油所を訪れていた長谷川市長がそこでみたものはまさしく明るい未来だった。石油化学工場は訪れたものの目の前に現れるのではなく、その巨大すぎる体ゆえに訪問者をぐるりと取り囲んでしまうのだった。長谷川を包囲する鉄の塊はそして白く輝いていた。それまでの油にまみれたうす汚い工場の群像とは一線を画す、美しいとさえ形容できるこの圧倒的な輝きをまえに、言葉という言葉を奪われてしまった。大きさはそれだけで権力になる。もしも戦国時代の武将・織田信長が「城」という象徴的な住居をかまえず3LDKの部屋に暮らしていたら天下の統一などは不可能だったはずだし、エジプトの王族にしても日本古代の豪族にしても自らの墓の大きさによって人びとの心を縮めることに成功していたに違いない。
大きさにくわえて光の要素も工場の好印象に肩入れした。人類が光にめっぽう弱いことを示す記述が旧約聖書に見られる。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。」ヨーロッパや中東にはこの光が満ちていたし、アジアには釈迦の後光が感動的に射しこんでいた。そして日本にも古くから独自の光信仰があった。史上まれにみるプレイボーイの光源氏がその象徴だ。彼をつつむ光は女たちを魅了した。昭和三十八年の使節団を光源氏に惚れた女たちと同列に扱うのには多少ためらいを感じるが、市長をはじめとする訪問者たちはこのようなことを考えていたに違いないのである。農業という闇に科学技術の光あれ!
存在の巨大さと輝きによって惑わされた職員のひとりは、なにを思ったか工場の排水を手ですくってぐいと飲み干した。そして胸を叩いてなんともないことを主張した。たしかにそこには海水よりも排水のほうがきれいだと言わんばかりの小魚の群れがそよいでいた。それをみた長谷川は視察団に帯同していた地域新聞「三島ニュース」の堀江記者に、公害はないねともらした。毒素は体内に堆積することで有害なことが多いのに、飲んだからといってすぐに症状が現れることはないのに、巨大な光に混乱したあたまには職員の行動を大げさなパフォーマンスだと判断できなかったのだ。
ところでこの巨大な光の種明かしをすると、長谷川市長がまばゆいばかりの工場を後にした数日後、天皇陛下が水島製油所を訪れることになっていたのだった。そのために製油所の職員は工場をきれいにしていたのだ。煙と排水にさらされた石油コンビナート工場がそもそも美しいはずがないのだが、陛下の通る道とあっては仕方ない、せっせとブラシをかけ、ペンキを塗った。その結果、あくまでその結果として、三島から来た使節団は少女マンガのように瞳を星でいっぱいにして工場に恋い焦がれることになってしまった。
東海道五十三次の宿場町として栄えた三島市は古くから「水の都」としての誇りを持っていた。庭を一メートルも掘れば、富士の雪解け水が湧き出てくるとも言われたほど、市内のいたるところから名水が芽をだした。市の中心部にある楽寿園の小浜ヶ池にはなみなみと水が満たされ、ゆらゆらとなびく水面には園の木々や建築物の虚像が気持ちよさそうに映し出されていた。
土田寿山もまた物心ついたころから市内の川で泳いで育った市民のひとりだ。地面から溢れかえる水は永久の赴きをたたえていたので、冷たい湧き水に泳ぐ若き日の土田少年に、それから数十年後に三島の水が枯れることを想像しろといっても不思議な顔をされるだけだっただろうが、成人をむかえ市役所の水道課についた土田青年がみたものは枯渇しゆく井戸と水位の低くなった小浜ヶ池だったのである。それもこれも前年に隣町の長泉町に建設された東レ株式会社が繊維の製造のために柿田川の水を大量に汲み上げているからに違いなかった。明るい未来はどうやら都の水をがぶ飲みするらしいぞと市民が気づいたころには、すでに篠田夫妻の暮らす中郷地区の田植えの水にも影響が出ていた。
「この機会を逃したら三島の開発は二十年は遅れるぞ!」
革新派の反対に苛立った静岡県庁の永江企画調整部長は声を荒げた。昭和三十八年十二月十四日に県が正式な「石油計画」を発表してからというもの市議会からは靴に入りこんだ小石のように微小ではあるが腹立たしい反対の声が上がっていた。永江部長は睨みをきかせながらこう思った。三島市ごときに県の計画をつぶされてはたまらない。
その気持ちは斉藤知事もまた同じだった。明るい未来を公約した男として、なんとしても静岡県に石油コンビナートを建設しなければならなかった。斉藤知事は永江部長ほど声を張るタイプの人間ではなかったため、市議会からの質問にはしたがって静かにこう答えるに留まった。
「風呂屋の煙突からも亜硫酸ガスは出ているじゃないか」
昭和三十九年一月九日のことである。
日本全土で保守派の自民党が絶大な影響力を誇っていた時代、三島市も大勢は保守系であったが、なかには酒井県議を中核とする革新系の勢力が存在した。市民の健康を良識的に配慮すると石油コンビナートの建設は防がねばならないと考えたかれらは、石油計画の発表後すぐさま仲間の経営する料理屋に集まって対策を練った。酒井県議はかつて東レ株式会社が建設されるとき、市内の水源に問題はないのかと尋ねたことがあった。県の回答は問題ないとのことだったが、現実に市内の水位は日増しに低くなっている。今度もまた同じではないか。県は財政的な潤いを求めているにすぎない。
しかしこの時点では運命の天秤は賛成派に傾いていた。というより完全に県に掌握されているといってもいい。工業立国の時代へと吹く大風のなかで大資本の政治的権力はそれはもう大きかったので、それまで工業化を拒んだ住民運動が成功した例はなかったし、これからもないだろうと思われていた。そんなわけで斉藤知事は抵抗勢力を鼻で笑った。なにを虫けらどもが。
会議室の窓からは雪化粧した富士山がでんと座っているのがみえた。
そういえば、と斉藤知事は思いだした。三島市長は嫌なやつだっけ。
ちょうどそのころ、横浜に革新系の飛鳥田市政が誕生して話題になっていた。そして三島市の長谷川市長も革新系だった。市議会のほとんどが保守系だから心配はいらないものの、斉藤知事は長谷川市長にやりにくさを常々感じていた。嫌いな理由はもうひとつあった。三十代と若くして三島市長に当選した長谷川はアメリカ合衆国のケネディ大統領と重なって人びとの目に映った。細身で爽やかなケネディに比べて、どっしりした体格に禿げ上がった長谷川市長は外見でこそ見劣りはしたが(もちろんケネディと比べられたら誰だって白旗を上げるだろう)その政治家としてのリーダーシップは目を見張るものがあった。市民からの人気を背景に長谷川市長は保守の時代のさなか、ひとり奮闘していたのだ。ある日、長谷川市長が県庁まで知事を訪ねたことがあった。知事室のドアを開けて入ってきた嫌なやつに対して知事はわざと聞こえるようにこういった。「ああ、嫌なやつが来た」
長谷川市長は机に足をのせるという言語道断なポーズで自分を嫌なやつだと罵った斉藤知事のことを本当に嫌なやつだと思った。なんだか服もシャレているし、もともと企業の社長であるし、とにかく嫌なやつだ。
そのような具合にふたりは仲が悪かったのである。
第三部「工場の体臭」
三島の町に入れば
小川に菜を洗う女のさまも、
やや、なまめきて、面白や、
どの橋からも、秋の不二
正岡子規「旅の旅の旅」(明治二五年)
明るい未来からの手紙を受けとったはずの篠田は迷っていた。小西記者の発行する地域新聞「三島民報」には毎週のように石油コンビナートへの批判記事が掲載されていた。もし石油コンビナートが建設されれば亜硫酸ガスが町を襲うのだという。篠田は「未来」と「公害」という文字を交互に見比べてみた。工業化によって富をもたらそうとする県側の攻撃と、公害を危惧する革新系の守備と、どちらに加担するべきかはしかし判断がつかなかった。まだ公害という言葉が一般的でない時代である。近所の奥さんはつい最近まで公害のことを工場の害だから「工害」だと思っていたくらいだ。そんな折、四日市の視察の話が舞いこんだ。
「実際に行ってみたらわかるんじゃないだろうか」と酒井県議は中郷の農家を四日市へと誘った。「県や企業から難しい言葉で百聞するより、両眼で石油コンビナート工場を見にいったほうがはるかに納得できる、もし被害がなければ工場の建設を歓迎しよう」
そうして二月九日の深夜、市民百人を乗せた二台のバスはまだ舗装されていない道を進んでいった。
「まったくもって銀ピカだ」
数ヶ月前の長谷川市長とおなじ印象を持ったのは篠田豊治であった。まだ夜明けまえの暗がりに工場が煌煌と浮きあがってみえた。雨のなかぼんやり輝く夜景を素直に美しいと思った。こんなにきれいなものが毒ガスをまき散らすはずがない。でこぼこした道を夜通し来たから尻が痛んだ、肩が凝った、などと軽口を叩きながら午前中は石油工場を見学した。現場の職員は三島からはるばる来たPPMも知らない市民視察団に対して嘲笑的な態度をとりつつ、このような説明をおこなった。人間にも体臭があるように工場にも臭いがあるんです。それは自然なことです。ちょっとくらい臭かったり煙があるからって騒ぎ立てる必要はありません。
それもそうだなと篠田は思った。おそらく公害はおそれるほど深刻ではないだろう。第一に工場の職員だってそこで暮らしている以上、危険物質をやたらとまき散らすわけにはいかないはずだ。毒ガスが放出されれば職員も被害を受ける。第二に三島に来るのはこれより新しい設備だ。日進月歩の科学技術をもってすれば亜硫酸ガスだってなんだって徐々に減っていくだろう。これらの証拠として富士石油のパンフレットにはこのように書いてある。「工場公園、それは製油所です。敷地が芝生やみどりと花に囲まれ(…)音もなく煙も見えず、深閑と静まり返っている」ほら、やっぱり大丈夫だ。
午後は手分けをして四日市の住民からじかに話を聞こうということになった。篠田たちはまず四日市保健所の森田所長のもとへ行き、公害について説明を受けた。
「とんでもない!」
森田所長がいった。
「風呂屋の煙突からもガスは出ているじゃないかですって? 普通の浴槽が六十年かかってたく重油を、工場は一日でたくんです」
「はあ。そんなですか」
「ええ、ええ。風呂屋と工場を一緒にしちゃいけない。それにね、聞いてください。最近では保健所に毎日四回くらい『赤ちゃんが死にそうです』っていう電話がかかってくるんですよ。騙されてはいけません、石油コンビナートの建設には十分注意したほうがいいです」
篠田は驚いた。午前中に聞いた石油工場の職員の話とは正反対だったからだ。これは念入りに状況を把握する必要があると感じた篠田たちは8ミリカメラやテープレコーダーを用意して住民への取材を開始した。道行く人に話を聞こうと市内を歩いていると向こうから枯れ葉のような老婆が洗濯ものを籠に入れてやってくるのがみえた。ちょっとすいません、と声をかけて工場から出る煙と汚水の被害を聞こうとした。公害という言葉を聞いた刹那、老婆は表情を変えた。
「被害なんてものじゃありません」
ほらこれを見てくださいと言って老婆は洗濯物を突き出した。いまじゃ工場の煙のせいで洗濯物を家で干すこともままなりません。だからこうして工場に持っていって乾かしてもらうことになりました。自分はいま帰ってきたところです。わたしたちはそんな空気のなかでいっしょう暮らさなければならないのでしょうか。さいきんじゃ魚も臭くて食べられません、老婆はそう捲し立てた。
「でも工場のひとたちもここに住んでるんでしょう」
「あいつらは山の向こうにマンションつくってのうのうと暮らしています。わたしらだけがどす黒い空気を吸って暮らしています。引っ越す余裕なんてあるわけもなく。そんなこと、そんなことがつづいています。高校は県立だから移転できましたが、小学校は市立のためお金がなくて移転できません。小さい子どもがこんななかで暮らすと思うと悲しくて。工場のせいで病気になって死んだ人もいます。これから先も苦しんで暮らすくらいならいっそ」
枯れ葉のような老婆が感情をじわじわと昂揚させていき、しまいにはこういったのだった。
「一緒に死んじまいたいくらいだ」
篠田は絶望した。老婆の吐く言葉がさまざまな汚染物質が染み込んだ、耐えがたい悲しみをたたえた言葉だったから。篠田のあたまにはその言葉が古くからあった汚れのようにこびりついて落ちなくなった。いっしょにしんじまいたいくらいだ。息子たちの顔が浮かんだ。黒い煙のなかで走り回る子どもたち。悪臭。いっしょに。汚染。煙。しんじまいたい。魚。黒い。どす黒い。絶望。
これはなにか、説明はつかないけれど、ものすごいことになってしまったと思った。なにかはわからない、なにかはわからないけれどこれは止めなくてはならない。そうでないと、子どもたちが死んでしまう。そのように興奮しながら混乱しながらバスは四日市から三島へと戻っていった。
窓の外には昨日と同じ銀ピカの夜が広がっていたけれど。
その二日間のことを三島民報の小西記者はさっそく二月十五日と二十日に市民に向けて発行した。四日市を体験した市民百人もそれぞれに公害の実態を伝えあった。石油計画への反対の気運は水の都のなかを波紋のごとく広がっていった。二月二十二日、中郷地区に反抗の芽吹きを感知した県は説明会を開いた。永江部長と篠田は互いに向きあった。三島に建設される工場は最新のもので公害はないと永江が説明すると、それだけの技術があるなら四日市の悩みを解決してからバスで案内でもなんでもしてくれ、と篠田が切り返した。拍手が巻き起こった。永江は興奮してこういった。
「この計画が流れたら、これに見合うものはないぞ」
「しかし、まだ自信がない」
今度は長谷川市長がいった。
「いましかチャンスはないのだぞ」
「もし子孫に影響が出たらわたしの汚名は一生消えない」
「あんたらはずっと牛をひいてればいいんだ!」
永江の顔は軍人のそれになっていた。大戦中に敵国とたたかった大きな体と冷たく光る義眼は、いまや市民に向けられていたのだ。
中郷地区の反対同盟の中心になっていた篠田は毎晩のように勉強会に呼び出された。篠田さん、篠田さん、と苺の手入れをしているさいちゅうにも声がかかる。呼ばれちゃ仕方ないと着の身着のまま、四日市で収集したテープを持って出掛けていった。このまま朝を迎えたら霜が降りて苺がだめになってしまうわ、と敦子夫人は開けっ放しになったビニールハウスのドアを見て思った。豊治さんたらいつもこうなんだから。
一晩に二度も勉強会を開いた日もあった。呼ばれていくとお婆さんがひとりで座っているという日もあった。東京から学者先生を招いて公害についての教えを請うたし、工業高校の先生にも空のしくみを教えてもらった。戦後、庶民大学という地域密着型の教育システムを培ってきた三島の風土はこのようなとき絶大な力を発揮し、すぐにPPMや逆天層などという化学用語が田舎の畦道で聞かれるようになった。誰が教える側というわけではなく、知っている者が知らない者に教え、それを聞いた者が別の誰かに伝播した。ご立派に会場を借りることもなく、たとえば篠田家の居間でも掘りごたつを囲んでたびたび勉強会は開かれた。敦子夫人はそのたびにお茶やおにぎり、ふかし芋などを出した。勉強会という名前でなくとも、女性特有の何時間でも身上話で花を咲かせる井戸端会議によって情報はずぶずぶと水田を伝わっていった。
第四部「水の調書」
水底にしづく圓葉の青き藻を
差し射る光のさやかに照らす
窪田空穗 歌集「卓上の灯」(昭和二八年)
長谷川市長はバイクで市内を走っていた。市長に当選してから、長谷川は生きた三島を観察するためにひとりバイクで通勤することにしていた。長谷川の政治の基盤になっているのはそれくらい市民が中心だったのだ。まだ四十にして立候補した長谷川がまさか市長になるとは誰も思っていなかった。市役所の職員のなかにはそんな青二才に対して、お前が当選したら課長を辞めるとまで馬鹿にしたものもいた。だからこそ自分に市政を任せてくれた市民は長谷川の生命だった。しかしここ数日は眠れない日が続いていた。昨晩も市役所の職員である大隅たちと麻雀を打ったとき、石油コンビナートのことが話題になった。
はてどうしたものか。
自分の支持基盤は市民である、がしかし三島市としては財源となる石油コンビナートはぜひとも誘致したいし、それが自分の使命であるような気もする。それに糸をひいているのは絶対の力をもった自民党であり資本家たちだ。三島市が万が一、石油コンビナートに反対を表明したときどのような制裁をされるかわからない。しかし中郷を中心に市民は日に日に反対の色を強めている。それは昨日も麻雀を打ちながら聞いたし、石油計画に反対しているという水道課の土田も呼び出して事情を話させた。というか怒鳴った。これはすごいことだ。三島市役所つまり体制側にも土田のように石油コンビナートに反対する人間がいるということは、言葉は悪いが支配される市民のなかにはもっと強い反対の風が吹いているはずだ。板挟み。そう支持基盤である市民と絶対的権力をもつ県からの両圧がのしかかる。
ふと長谷川のあたまには反対派の市民と警官隊が闘争しているイメージがよぎった、三島の水に市民の血か流れていく!
無事に市長室につくと長谷川は県側も手をこまねいているわけではないことを思いだした。市民が草の根的に情報を伝播しているのに対して県側は企業からの豊富な献金をつかってマス・コミュニケーションの手法で攻撃を仕掛けていた。まずは二月二十二日と三月三日に配布された「県民だより」がそれだ。それぞれ「公害の心配は全くない」「公害は全く考えられない」という見出しで市民への説得を試みた。また市民がなけなしの私費でバスを出していたのに対して県側はデラックス・バスを用意して四日市・水島への無料ツアーを企画した。そして酒宴では商品券や菓子折りを懐に接待をした。きわめつけには新聞がひと月三十五円、三島市の建材会社の初任給が一万六千円という時代に、百六十万という破格の予算を使って石油コンビナートを題材にした映画『未来を開く』を制作した。
しかしそのほとんどが市民の反抗にあって骨抜きにされた。「県民だより」は町内会長の激昂により配布を許されない地域があった。商品券や菓子折りのことは草の根を伝って市民に暴露された。切り札だった映画も映画館の反対にあって上映されなかった。そう、県の攻撃は水にじわじわと沈んでいったのだ。
三月二十六日。
長谷川市長は市長室のブラインドを指で少しねじ上げると深いため息をついた。反対派の市民七百人がそこにはいた。ついに反対運動が沸点にたっし、市民は市役所前に大がかりなデモ行進をおこなったのだ。耕耘機に乗ってけたたましく音を立てながら集まった農家、白い前掛けをした数多くの主婦たち、「殺人鬼石油工業」という立て看板を持つ若者、「絶対反対」と書かれたムシロ旗を担ぐ老人、軽トラックの荷台に乗った無数の市民。熱狂。群舞。市役所前に押し寄せる人の波に長谷川は飲み込まれそうになった。これらすべての人びとをこれから説得することを考えると気が重くなった。九九パーセントの反対率を誇る中郷の農家の名簿、およそ四万の人口のうち三万二千人もの書名、全世帯で八割を越える反対の声。これらの数字を前に自分は何をどう言えばいいのか。群衆の前に立ちマイクを握った長谷川は、市民の期待に溺れそうになりながら懸命に弁解を試みた。それは二つの強大な圧力に切迫されたひとりの政治家の決死の綱渡りだった。というのも一歩間違えば市民が暴動することも考えられたからだ。もしかれらの血が流れればその姿がテレビに映し出され、全国の紙面を飾るだろう。住民運動で血が流れたときマスコミは一気に反対勢力を叩きに来る。そして自分は更迭だ。にたにた笑う斉藤知事の顔が浮かんだ。なあ長谷川くん、暴力はいけないよ。長谷川はマイクを握る手に力をこめた。
その日はなんとか市民を刺激することなく集会を解散させることができた。が、三月二十六日の洛陽はさいごの審判が近づいていることを長谷川に嫌というほど知らせていた。
四月一日、黒川調査団が発足した。これは県の説得をまったく聞かない三島市民に対して築かれたさいごの砦で、厚生大臣と通産大臣の指令で東京大学の黒川真武教授を中心とした公害調査団が結成された。国家と学会の権力をもって市民を黙らせようとしたのだ。ところでその相手が農家のあのおしゃべりな女たちであることを大臣たちは知らなかったのだろうか。国家権力による恣意的な調査結果を突きつけられたとき、市長としては公害を盾に石油計画を断ることができなくなる、そう考えた長谷川は黒川調査団に対抗するべく四月六日、市民調査団を発足させた。松村調査団という。国と県が調査団を結成するのにいったいいくつの判子を押し、厚生省と通産省と静岡県庁のあいだを何往復したかを想像して苦笑すれば、このわずか五日間での公害調査団の結成は鮮やかなタクトさばきだと評していいだろう、そしてそれを受けた松村清二博士ら国立遺伝学研究所の研究員と、沼津工業高校の四人の教員たちの調査も驚異の素早さで市内を駆け巡った。研究者特有の反骨精神をもった国立遺伝学研究所は以前から市民に対して警告を発していた。石油コンビナートは危険だということを幾度となく学習会で強調してきたし、市長にも勧告を行ってきた。松村団長はよくこんな言葉で講演を締めくくった。われわれ研究所は移転すれば良いが、みなさんはずっとそこに暮らさなくてはならない。
西岡教諭は協力を申し出た沼津工業高校の教え子たち三百名を集めて、五月上旬の連休中に鯉のぼりを観察するようにいった。集まった資料をもとに朝六時から夜八時までの鯉のぼりの向きを地図の上に書き込んだ。こうして三島地区広域の気流地図が完成した。予算はなくとも機材はなくとも、このようなアナログな手法で工場ができた場合の亜硫酸ガスの行方を弾きだした。また鯉のぼりという煙突にきわめてちかい空気層の流れを明らかにすることで、煙突は高いところにあるから公害問題はないとする企業側の主張をくつがえす結果を得ることに成功した。無数に立てられた鯉のぼりたちは水の都を泳ぐ魚は水中に限らないことを主張していたのかもしれない。
また別の班は牛乳ビンを狩野川に放流して水流を調査した。この結果は工場の汚水がいかに漁に影響を与えるかを明らかにした。五月の鯉のぼりの下を悠々と泳ぐ百本の牛乳ビンもまた、ほかのどの牛乳ビンとはちがって水の都のそれだった。鯉のぼりと牛乳ビンを陽気な女房たちが話題にしないはずがない。その研究の結果は悠々と市内を泳ぎ回った。
虚像と思われていた水の都は実在した。
脅迫電話や脅迫状に屈せず科学者の良心を貫いた松村調査団はのちに、公害の恐れは充分にあるという研究結果を発表し「高校生のレポートの採点ならともかく、これだけの広い専門分野にまたがる問題の採点がどうして工業高校の理科の先生程度で正しく行ない得るでありましょうか」という県会議員のせせら笑いを受けながらも市民の信頼を得ることに成功した。逆に二千万円という巨額の研究資金と高名な学者を投じた黒川調査団の研究結果は読売新聞、朝日新聞、毎日新聞の紙面への進出には成功したものの市民の信頼は得られることができず松村調査団との討論会での屈辱を受けることになる。高校生の採点をしている教員からの質問に東大の教授が満足に答えられなかったのだ。このエピソードも三島の井戸端会議にさんざん出汁にされることとなるのだがそれはまだ先の話、八月一日以降のことである。
第五部「鎌と鍬」
三島町へ行くと道の両側に店舗が立ちならび、町の中央に映画の常設館があって、その前には幟旗が何本かはためいていた。私たち山村の少年たちは、ひとかたまりになり、身を擦り合わせるようにくっつき合って、賑やかな通りを歩いた。
井上靖「少年」(昭和二九年)
「ピーピーエンム!」
近所の空き地で缶蹴りをしている子どもたちを見て篠田は驚いた。どこから聞いたのかPPMという化学用語をかけ声に遊んでいるではないか。ここまで石油闘争は身近になったのか。そういえばこのまえ聞いた話では近所の女の子が、お母さんは石油コンビナートだからおとなしく寝んねしなさいねとお人形さんを寝かしつけていたという。もう四月も終わり、今年は桜を楽しむ余裕もなかった。まったく長期化してしまった。しかし、と篠田はぼさぼさの髪の毛をかきながら思った、この子どもたちのためにも負けるわけにはいかない。
四月十日にはNHKがドキュメンタリー「時の表情」で四日市公害の特集を放送した。もはや公害は無視できないものになっていたのだ。四日市では昭和二十八年頃から犬やニワトリが見向きもしないような魚がとれはじめ、三十四年頃からは亜硫酸ガスを原因としたぜんそく患者が増えるようになった。そして白い霧が町を包んだ。これをみた三島市民は決意の上塗りといった様相で、石油計画反対への結びつきを強めた。商店街には石油コンビナートへの反対を示すポスターが貼られた。水は淡白なようで思いもよらない粘り気を見せつけることがある。ポスターは踏み絵の役割を果たし、貼られていない店の売り上げは落ちた。
四月二十八日、篠田たち地元代表三十八名は富士石油の創立総会に押しかけ、直接株主たちに反対意見を伝えようとした。それを阻止しようとする会社側との険悪な押し問答のあと、代表者同士の話し合いが持たれることになった。東京パレスホテルの一室にとおされた篠田たちは八名の前には豪華なメニューがずらりと並び、銀縁の食器がきらりと輝いた。しかし反対運動として訪ねてきた手前どうしても食べるわけにはいかない、そう思った篠田は、ジュースだけ飲んで我慢することにした。ささやかな、ささやかな抵抗。思えば地方の一農家である自分たちにできることは、いつだってこのような小さな抵抗だった。そのころ土地の不買同盟の会長になっていた篠田は、会社の重役五名を前に名簿を叩きつけ、こういった。石油会社に売る土地はない。
名簿の一部を会社に渡すつもりで来たのだが一部貰えないかと聞かれたとき惜しくなって自分たちで取りにこいと言ってしまった。富士石油には特に住民に油を注ごうという気はなかったし、その日はなんといっても創立総会だったので穏便にことを運ばせた。帰りがけ篠田はジュース代の百円をテーブルに置いてホテルを後にした。
「おい、ラーメン食べにいこう!」
ところでこの東京訪問にはひとつの悲劇が起こってしまった。帰りのエレベーターのなかで富士石油の社員四名と三島から来た山木保子ひとりになってしまったのだ。あの個室の中ではささやき声も鮮明に聞こえるものである。それにも関わらず大声で怒鳴った人がいるとは。
「一歩でも私たちの土地に足を踏み入れてごらんなさい。みんな鎌も鍬も用意してありますよ」
その言葉を聞いた富士石油の社員は見事な後ずさりを見せた。まさかこの三十過ぎの女性が、自分の生命を脅かそうとは。エレベーターから降りてきた山木にそのことを聞くと、彼女は以前にも住友化学に対して「肥だめに叩きこむぞ!」と凄んだことがあったから、またやってしまったかと篠田は笑った。いつでもつよいのは女たちである、男たちが「会社がある畑がある」と前に出るのを恐れているときに、彼女たちは鎌を片手に敵を恐怖に追いやっている。篠田はこの石油闘争のほとんどは女性たちに支えられていると思った。
つよいだけでなく、やさしさもあった。風の冷たい夜、反対運動をしたときのことだ。寒がる自分に対して、カーディガンをかけてくれた主婦がいた。
「わたしはいいから、篠田さんが風邪をひいてしまったら困るもの」
その言葉に篠田は泣きそうだった。
石油計画を溺死させるために、人びとはねばり強い闘いをつづけた。初めの視察から何度も四日市へバスを走らせ公害についての見識を増やしたし、沼津市や清水町といった隣の町へもでかけてゆき反対運動を行った。富士石油に限らず毎週のように東京へ出向き、企業や省庁に計画の撤退を求めた。
三島の住民運動は成熟に達した。ひと言かければ口伝えで町中から数百名が集まった。特定の誰かが運動の首長になり命令を下すのではなく、各組織に多くの頭を持つことで自発的な活動を可能にした。このおそるべき結びつきと流動性に企業と県は苦戦した。何かをしようとすればすぐに数百名が座りこみをしてしまうし、ひとりやふたり賛成側に引き込んだとしても無駄だったからだ。 安保闘争などによって日本人が本格的に闘争を学ぶ五年も前に、三島で頑強な市民軍が誕生したのには三島という土地柄が肩入れしているように思われる。江戸時代に活躍した韮山の名藩主、江川太郎左衛門が日本ではじめて農民を軍隊にした。それが三島にも波及した。
嘉永三年の正月、柏木総蔵は、酔っていたのかは知らないが、長崎から持ち帰ったノーエ節を歌ってみた。するとそれを耳にした藩主の江川太郎左衛門がぎろりとこちらを見ているではないか。質素節約を旨とする厳しい藩主なので、ああ、また怒られるなと柏木は新年早々気落ちしてしまった。しかし江川太郎左衛門はその音頭をいたく気に入って、これを農兵節とすることを決めていたのだ。江川は前々から諸外国との戦いに備え、農民を常備軍に鍛え上げようとしていた。そこに柏木がうたう珍しい音律が聞こえた。これは農民を鼓舞する軍歌になる、江川は閃いた。
富士の白雪ノーエ、富士の白雪ノーエ、富士のサイサイ、白雪朝日でとける。
これが隣町の三島に伝わり、有名な三島農兵節になった。ペリーが来航する十六年も前にその日が来ることを予言し、お台場計画を幕府に助言していた男は、ここでも素晴らしいタクトさばきだったと言える。全国から藩主がこぞって見学に訪れたという、農兵の伝統が伊豆のこの地方には眠っていたのだ。その証拠に現在でも三島の夏祭りでは農兵節が踊られている。
第六部「水の都」
町中に富士の地下水湧きわきて
冬あたたかにこむる水靄
穂積忠「叢」(昭和三〇年)
のちに「日本の公害史、いや資本主義発達史の転機をつげるような事件」とまで称されることになるこの闘争も、ついに集大成を迎えようとしていた。長谷川市長はいつものように市長室に入ると、あらためて市民集会のビラを手に取った。三島市の発展、市民の幸せのために石油化学コンビナートの進出を一挙に粉砕しようと書かれている。きょうの夕方、公会堂に各団体が集結して大規模な大会を開くことになっていた。長谷川はひとつひとつの言葉を噛み締めた。石油コンビナートの進出を拒むことが本当に三島市の発展になるだろうか。否、経済的な数字だけを考えれば、おそらくそれは後退なのだろう。しかし市民の幸せのために、というところが重要だ。
こんにちは、赤ちゃん。わたしがママよ。
当時の流行歌をもしかしたら長谷川は、こんなふうに解釈していたかもしれない。わたしは未来の子どもたちのママである、と。そうだったら産みの苦しみは避けられない。
その後、石油コンビナートを拒んだことが県の逆鱗にふれ、三島市役所はさまざまな嫌がらせを受けることになるのだが、おそらく長谷川はそうなることを知っていたに違いない。それよりも重要なことは、まだ公害対策基本法ができる三年も前に地元住民が経済成長よりも環境を選択し、第二の四日市になるリスクを回避していたことであり、その戦術や精神はのちの住民運動に受け継がれていくことになる。おもしろいことに工業立国を叫んでいた人たちは、それから四十年もすると今度は環境立国を謳うようになる。かつて工業を掲げればなにをしても許されたように、いまでは環境という言葉は最強の兵器になってしまったきらいがある。政治は常に強いものの味方だ。
また科学者と市民との対話という点でも、すぐれて先験的な場所だった。難解な言葉で一般人を巻くのではなく地域と生命に根ざしたやり方で科学者と市民が対話した。研究に鯉のぼりや牛乳ビンをつかった経験も、それまでの高価な機材を使った調査という常識を覆し、十円玉やムラサキツユクサなどを利用した方法へと受け継がれた。とはいえ、このような評価は歴史が下すもので、今朝の長谷川市長は依然として不安な思いで市長室を歩き回るのだった。
篠田は一睡もしないまま市民大会の朝を迎えた。ついに今宵、ひとつの大きな節目を越えるだろう。それにしても、と篠田は思った、さいごまでどうなるかわからない。五月二十二日、市民集会を翌日にひかえた夜、賛成派も黙ってはいなかった。どうにかして反対派を懐柔しようと密会を開いていたのだ。偶然そのことを知った反対派と密会の帰り道の賛成派でひと悶着起こった。暴力事件にまで発展しそうな気配さえあった。それで昨晩は寝ることができなかった。
五月二十三日を境に、三島での石油闘争は一応の終着をみる。六月には市議会も全会一致でコンビナート反対の決議を出し、三島への進出は不可能になった。しかし県は沼津での建設をあきらめることはなく、闘いは続いた。九月には二万五千人が参加する大集会が開催され、賛成派には腐った魚が突きつけられ、議員の服は脱がされた。そしてやっと静岡県東部の工業化は封印された。
もっとも闘いはおわったのではなく、はじまったのだった。四日市で、水俣で、新潟で、川崎で、死ぬよりも苦しいという病をめぐっての果てしない闘争が。いったん空に放たれた有毒ガスには名前が書かれておらず、誰に責任があるのかがはっきりしなかったので企業は知らないふりをしたし、責任が誰にあるのかはっきりしないことについての責任を政府も取ろうとしなかった。環境に関する闘いはいつも見えない敵との闘いである。
六時。公会堂には千五百人の市民が詰めかけていた。いつも無償でパンを提供してくれたあのご主人や、あんまり熱心に公害の怖さを語るものだから近所に気が触れているとまで噂された主婦や、四日市に派遣され喘息を患ったNHK職員(闘争のはじめから多くの助言を市民に与えていた)も勢揃いしていた。
六時十五分、市民大会がはじまった。それまで各団体のリーダーとして反対運動を牽引してきたものたち二十六名が、つぎつぎと声明を発表した。ひとり、ふたり、さんにん、と決意を語るたびに大きな拍手がまきおこり、その場は異様な熱気につつまれた。
そして市民の煮えたつ熱湯をおもわせる熱い視線は壇上のひとりの男に注がれた。男はいつものようにきっちりとスーツを着こなして、確かな足取りですすんでいった。二十七人目としてマイクをとったのは長谷川市長だった。
「すでに、知事には伝えたが」
群衆は息をのんだ。
「三島市は石油コンビナート建設に反対する」
滝のような轟々とした拍手が起こり、鳴り止まなかった。
その情景は人びとの目に焼きついて離れなかった。それまでずいぶんと長い間、必死に闘ってきた勇敢な市民たちは、ついに市長がその言葉を口にしてくれた、これで子どもを守ることができた、市民の健康を売り渡さずにすんだ、などとさまざまな想いを交錯させながら、この涙こそが戦利品だというように、湧水のように清らかな涙を流した。
その涙はひとすじの流れをつくり清流に寄りそって海へと放たれる。やがて日は昇り、蒸発した涙の海は富士の白雪へと姿をかえるだろう。そして数百年後にふたたび湧き出る日まで永いながい眠りへとつく。
(了)
注:プライバシー保護のため一部、登場人物の名前は架空のものになっています。
参考文献
「三島ニュース」各号(1963年-)
「自治研集会における三島・沼津石油コンビナート闘争報告」(1965年)
静岡県東部開発事務所「東部開発の歩み」(1965年)
酒井郁造『見えない公害との闘い』(1984年・「見えない公害との闘い」編集委員会)
三島民報社『三島沼津 石油コンビナート進出阻止の住民運動』(1993年・三島民報社)
星野重雄・西岡昭夫・中嶋勇『石油コンビナート阻止』(1993年・技術と人間)
中須正「三島・沼津・清水二市一町の環境運動再考」(2000年)
小池政臣『できることはすぐやる!』(2002年・海象社)
船橋晴俊「社会制御システム論にもとづく環境政策の総合的研究」(2004年)
みしま女性史サークル・女性制作室「聞き書き みしまの女性たちの歩み-昭和生まれ編-」(2004年)
三島市立向山小学校5年4組「コンビナート反対運動を学んでの感想」(2004年)