『透明な英雄』大隅亮
第三部「工場の体臭」
三島の町に入れば
小川に菜を洗う女のさまも、
やや、なまめきて、面白や、
どの橋からも、秋の不二
正岡子規「旅の旅の旅」(明治二五年)
明るい未来からの手紙を受けとったはずの篠田は迷っていた。小西記者の発行する地域新聞「三島民報」には毎週のように石油コンビナートへの批判記事が掲載されていた。もし石油コンビナートが建設されれば亜硫酸ガスが町を襲うのだという。篠田は「未来」と「公害」という文字を交互に見比べてみた。工業化によって富をもたらそうとする県側の攻撃と、公害を危惧する革新系の守備と、どちらに加担するべきかはしかし判断がつかなかった。まだ公害という言葉が一般的でない時代である。近所の奥さんはつい最近まで公害のことを工場の害だから「工害」だと思っていたくらいだ。そんな折、四日市の視察の話が舞いこんだ。
「実際に行ってみたらわかるんじゃないだろうか」と酒井県議は中郷の農家を四日市へと誘った。「県や企業から難しい言葉で百聞するより、両眼で石油コンビナート工場を見にいったほうがはるかに納得できる、もし被害がなければ工場の建設を歓迎しよう」
そうして二月九日の深夜、市民百人を乗せた二台のバスはまだ舗装されていない道を進んでいった。
「まったくもって銀ピカだ」
数ヶ月前の長谷川市長とおなじ印象を持ったのは篠田豊治であった。まだ夜明けまえの暗がりに工場が煌煌と浮きあがってみえた。雨のなかぼんやり輝く夜景を素直に美しいと思った。こんなにきれいなものが毒ガスをまき散らすはずがない。でこぼこした道を夜通し来たから尻が痛んだ、肩が凝った、などと軽口を叩きながら午前中は石油工場を見学した。現場の職員は三島からはるばる来たPPMも知らない市民視察団に対して嘲笑的な態度をとりつつ、このような説明をおこなった。人間にも体臭があるように工場にも臭いがあるんです。それは自然なことです。ちょっとくらい臭かったり煙があるからって騒ぎ立てる必要はありません。
それもそうだなと篠田は思った。おそらく公害はおそれるほど深刻ではないだろう。第一に工場の職員だってそこで暮らしている以上、危険物質をやたらとまき散らすわけにはいかないはずだ。毒ガスが放出されれば職員も被害を受ける。第二に三島に来るのはこれより新しい設備だ。日進月歩の科学技術をもってすれば亜硫酸ガスだってなんだって徐々に減っていくだろう。これらの証拠として富士石油のパンフレットにはこのように書いてある。「工場公園、それは製油所です。敷地が芝生やみどりと花に囲まれ(…)音もなく煙も見えず、深閑と静まり返っている」ほら、やっぱり大丈夫だ。
午後は手分けをして四日市の住民からじかに話を聞こうということになった。篠田たちはまず四日市保健所の森田所長のもとへ行き、公害について説明を受けた。
「とんでもない!」
森田所長がいった。
「風呂屋の煙突からもガスは出ているじゃないかですって? 普通の浴槽が六十年かかってたく重油を、工場は一日でたくんです」
「はあ。そんなですか」
「ええ、ええ。風呂屋と工場を一緒にしちゃいけない。それにね、聞いてください。最近では保健所に毎日四回くらい『赤ちゃんが死にそうです』っていう電話がかかってくるんですよ。騙されてはいけません、石油コンビナートの建設には十分注意したほうがいいです」
篠田は驚いた。午前中に聞いた石油工場の職員の話とは正反対だったからだ。これは念入りに状況を把握する必要があると感じた篠田たちは8ミリカメラやテープレコーダーを用意して住民への取材を開始した。道行く人に話を聞こうと市内を歩いていると向こうから枯れ葉のような老婆が洗濯ものを籠に入れてやってくるのがみえた。ちょっとすいません、と声をかけて工場から出る煙と汚水の被害を聞こうとした。公害という言葉を聞いた刹那、老婆は表情を変えた。
「被害なんてものじゃありません」
ほらこれを見てくださいと言って老婆は洗濯物を突き出した。いまじゃ工場の煙のせいで洗濯物を家で干すこともままなりません。だからこうして工場に持っていって乾かしてもらうことになりました。自分はいま帰ってきたところです。わたしたちはそんな空気のなかでいっしょう暮らさなければならないのでしょうか。さいきんじゃ魚も臭くて食べられません、老婆はそう捲し立てた。
「でも工場のひとたちもここに住んでるんでしょう」
「あいつらは山の向こうにマンションつくってのうのうと暮らしています。わたしらだけがどす黒い空気を吸って暮らしています。引っ越す余裕なんてあるわけもなく。そんなこと、そんなことがつづいています。高校は県立だから移転できましたが、小学校は市立のためお金がなくて移転できません。小さい子どもがこんななかで暮らすと思うと悲しくて。工場のせいで病気になって死んだ人もいます。これから先も苦しんで暮らすくらいならいっそ」
枯れ葉のような老婆が感情をじわじわと昂揚させていき、しまいにはこういったのだった。
「一緒に死んじまいたいくらいだ」
篠田は絶望した。老婆の吐く言葉がさまざまな汚染物質が染み込んだ、耐えがたい悲しみをたたえた言葉だったから。篠田のあたまにはその言葉が古くからあった汚れのようにこびりついて落ちなくなった。いっしょにしんじまいたいくらいだ。息子たちの顔が浮かんだ。黒い煙のなかで走り回る子どもたち。悪臭。いっしょに。汚染。煙。しんじまいたい。魚。黒い。どす黒い。絶望。
これはなにか、説明はつかないけれど、ものすごいことになってしまったと思った。なにかはわからない、なにかはわからないけれどこれは止めなくてはならない。そうでないと、子どもたちが死んでしまう。そのように興奮しながら混乱しながらバスは四日市から三島へと戻っていった。
窓の外には昨日と同じ銀ピカの夜が広がっていたけれど。
その二日間のことを三島民報の小西記者はさっそく二月十五日と二十日に市民に向けて発行した。四日市を体験した市民百人もそれぞれに公害の実態を伝えあった。石油計画への反対の気運は水の都のなかを波紋のごとく広がっていった。二月二十二日、中郷地区に反抗の芽吹きを感知した県は説明会を開いた。永江部長と篠田は互いに向きあった。三島に建設される工場は最新のもので公害はないと永江が説明すると、それだけの技術があるなら四日市の悩みを解決してからバスで案内でもなんでもしてくれ、と篠田が切り返した。拍手が巻き起こった。永江は興奮してこういった。
「この計画が流れたら、これに見合うものはないぞ」
「しかし、まだ自信がない」
今度は長谷川市長がいった。
「いましかチャンスはないのだぞ」
「もし子孫に影響が出たらわたしの汚名は一生消えない」
「あんたらはずっと牛をひいてればいいんだ!」
永江の顔は軍人のそれになっていた。大戦中に敵国とたたかった大きな体と冷たく光る義眼は、いまや市民に向けられていたのだ。
中郷地区の反対同盟の中心になっていた篠田は毎晩のように勉強会に呼び出された。篠田さん、篠田さん、と苺の手入れをしているさいちゅうにも声がかかる。呼ばれちゃ仕方ないと着の身着のまま、四日市で収集したテープを持って出掛けていった。このまま朝を迎えたら霜が降りて苺がだめになってしまうわ、と敦子夫人は開けっ放しになったビニールハウスのドアを見て思った。豊治さんたらいつもこうなんだから。
一晩に二度も勉強会を開いた日もあった。呼ばれていくとお婆さんがひとりで座っているという日もあった。東京から学者先生を招いて公害についての教えを請うたし、工業高校の先生にも空のしくみを教えてもらった。戦後、庶民大学という地域密着型の教育システムを培ってきた三島の風土はこのようなとき絶大な力を発揮し、すぐにPPMや逆天層などという化学用語が田舎の畦道で聞かれるようになった。誰が教える側というわけではなく、知っている者が知らない者に教え、それを聞いた者が別の誰かに伝播した。ご立派に会場を借りることもなく、たとえば篠田家の居間でも掘りごたつを囲んでたびたび勉強会は開かれた。敦子夫人はそのたびにお茶やおにぎり、ふかし芋などを出した。勉強会という名前でなくとも、女性特有の何時間でも身上話で花を咲かせる井戸端会議によって情報はずぶずぶと水田を伝わっていった。