『透明な英雄』大隅亮
第五部「鎌と鍬」
三島町へ行くと道の両側に店舗が立ちならび、町の中央に映画の常設館があって、その前には幟旗が何本かはためいていた。私たち山村の少年たちは、ひとかたまりになり、身を擦り合わせるようにくっつき合って、賑やかな通りを歩いた。
井上靖「少年」(昭和二九年)
「ピーピーエンム!」
近所の空き地で缶蹴りをしている子どもたちを見て篠田は驚いた。どこから聞いたのかPPMという化学用語をかけ声に遊んでいるではないか。ここまで石油闘争は身近になったのか。そういえばこのまえ聞いた話では近所の女の子が、お母さんは石油コンビナートだからおとなしく寝んねしなさいねとお人形さんを寝かしつけていたという。もう四月も終わり、今年は桜を楽しむ余裕もなかった。まったく長期化してしまった。しかし、と篠田はぼさぼさの髪の毛をかきながら思った、この子どもたちのためにも負けるわけにはいかない。
四月十日にはNHKがドキュメンタリー「時の表情」で四日市公害の特集を放送した。もはや公害は無視できないものになっていたのだ。四日市では昭和二十八年頃から犬やニワトリが見向きもしないような魚がとれはじめ、三十四年頃からは亜硫酸ガスを原因としたぜんそく患者が増えるようになった。そして白い霧が町を包んだ。これをみた三島市民は決意の上塗りといった様相で、石油計画反対への結びつきを強めた。商店街には石油コンビナートへの反対を示すポスターが貼られた。水は淡白なようで思いもよらない粘り気を見せつけることがある。ポスターは踏み絵の役割を果たし、貼られていない店の売り上げは落ちた。
四月二十八日、篠田たち地元代表三十八名は富士石油の創立総会に押しかけ、直接株主たちに反対意見を伝えようとした。それを阻止しようとする会社側との険悪な押し問答のあと、代表者同士の話し合いが持たれることになった。東京パレスホテルの一室にとおされた篠田たちは八名の前には豪華なメニューがずらりと並び、銀縁の食器がきらりと輝いた。しかし反対運動として訪ねてきた手前どうしても食べるわけにはいかない、そう思った篠田は、ジュースだけ飲んで我慢することにした。ささやかな、ささやかな抵抗。思えば地方の一農家である自分たちにできることは、いつだってこのような小さな抵抗だった。そのころ土地の不買同盟の会長になっていた篠田は、会社の重役五名を前に名簿を叩きつけ、こういった。石油会社に売る土地はない。
名簿の一部を会社に渡すつもりで来たのだが一部貰えないかと聞かれたとき惜しくなって自分たちで取りにこいと言ってしまった。富士石油には特に住民に油を注ごうという気はなかったし、その日はなんといっても創立総会だったので穏便にことを運ばせた。帰りがけ篠田はジュース代の百円をテーブルに置いてホテルを後にした。
「おい、ラーメン食べにいこう!」
ところでこの東京訪問にはひとつの悲劇が起こってしまった。帰りのエレベーターのなかで富士石油の社員四名と三島から来た山木保子ひとりになってしまったのだ。あの個室の中ではささやき声も鮮明に聞こえるものである。それにも関わらず大声で怒鳴った人がいるとは。
「一歩でも私たちの土地に足を踏み入れてごらんなさい。みんな鎌も鍬も用意してありますよ」
その言葉を聞いた富士石油の社員は見事な後ずさりを見せた。まさかこの三十過ぎの女性が、自分の生命を脅かそうとは。エレベーターから降りてきた山木にそのことを聞くと、彼女は以前にも住友化学に対して「肥だめに叩きこむぞ!」と凄んだことがあったから、またやってしまったかと篠田は笑った。いつでもつよいのは女たちである、男たちが「会社がある畑がある」と前に出るのを恐れているときに、彼女たちは鎌を片手に敵を恐怖に追いやっている。篠田はこの石油闘争のほとんどは女性たちに支えられていると思った。
つよいだけでなく、やさしさもあった。風の冷たい夜、反対運動をしたときのことだ。寒がる自分に対して、カーディガンをかけてくれた主婦がいた。
「わたしはいいから、篠田さんが風邪をひいてしまったら困るもの」
その言葉に篠田は泣きそうだった。
石油計画を溺死させるために、人びとはねばり強い闘いをつづけた。初めの視察から何度も四日市へバスを走らせ公害についての見識を増やしたし、沼津市や清水町といった隣の町へもでかけてゆき反対運動を行った。富士石油に限らず毎週のように東京へ出向き、企業や省庁に計画の撤退を求めた。
三島の住民運動は成熟に達した。ひと言かければ口伝えで町中から数百名が集まった。特定の誰かが運動の首長になり命令を下すのではなく、各組織に多くの頭を持つことで自発的な活動を可能にした。このおそるべき結びつきと流動性に企業と県は苦戦した。何かをしようとすればすぐに数百名が座りこみをしてしまうし、ひとりやふたり賛成側に引き込んだとしても無駄だったからだ。 安保闘争などによって日本人が本格的に闘争を学ぶ五年も前に、三島で頑強な市民軍が誕生したのには三島という土地柄が肩入れしているように思われる。江戸時代に活躍した韮山の名藩主、江川太郎左衛門が日本ではじめて農民を軍隊にした。それが三島にも波及した。
嘉永三年の正月、柏木総蔵は、酔っていたのかは知らないが、長崎から持ち帰ったノーエ節を歌ってみた。するとそれを耳にした藩主の江川太郎左衛門がぎろりとこちらを見ているではないか。質素節約を旨とする厳しい藩主なので、ああ、また怒られるなと柏木は新年早々気落ちしてしまった。しかし江川太郎左衛門はその音頭をいたく気に入って、これを農兵節とすることを決めていたのだ。江川は前々から諸外国との戦いに備え、農民を常備軍に鍛え上げようとしていた。そこに柏木がうたう珍しい音律が聞こえた。これは農民を鼓舞する軍歌になる、江川は閃いた。
富士の白雪ノーエ、富士の白雪ノーエ、富士のサイサイ、白雪朝日でとける。
これが隣町の三島に伝わり、有名な三島農兵節になった。ペリーが来航する十六年も前にその日が来ることを予言し、お台場計画を幕府に助言していた男は、ここでも素晴らしいタクトさばきだったと言える。全国から藩主がこぞって見学に訪れたという、農兵の伝統が伊豆のこの地方には眠っていたのだ。その証拠に現在でも三島の夏祭りでは農兵節が踊られている。