『透明な英雄』大隅亮


 第六部「水の都」

 町中に富士の地下水湧きわきて
 冬あたたかにこむる水靄
 穂積忠「叢」(昭和三〇年)

 のちに「日本の公害史、いや資本主義発達史の転機をつげるような事件」とまで称されることになるこの闘争も、ついに集大成を迎えようとしていた。長谷川市長はいつものように市長室に入ると、あらためて市民集会のビラを手に取った。三島市の発展、市民の幸せのために石油化学コンビナートの進出を一挙に粉砕しようと書かれている。きょうの夕方、公会堂に各団体が集結して大規模な大会を開くことになっていた。長谷川はひとつひとつの言葉を噛み締めた。石油コンビナートの進出を拒むことが本当に三島市の発展になるだろうか。否、経済的な数字だけを考えれば、おそらくそれは後退なのだろう。しかし市民の幸せのために、というところが重要だ。
 こんにちは、赤ちゃん。わたしがママよ。
 当時の流行歌をもしかしたら長谷川は、こんなふうに解釈していたかもしれない。わたしは未来の子どもたちのママである、と。そうだったら産みの苦しみは避けられない。

 その後、石油コンビナートを拒んだことが県の逆鱗にふれ、三島市役所はさまざまな嫌がらせを受けることになるのだが、おそらく長谷川はそうなることを知っていたに違いない。それよりも重要なことは、まだ公害対策基本法ができる三年も前に地元住民が経済成長よりも環境を選択し、第二の四日市になるリスクを回避していたことであり、その戦術や精神はのちの住民運動に受け継がれていくことになる。おもしろいことに工業立国を叫んでいた人たちは、それから四十年もすると今度は環境立国を謳うようになる。かつて工業を掲げればなにをしても許されたように、いまでは環境という言葉は最強の兵器になってしまったきらいがある。政治は常に強いものの味方だ。
 また科学者と市民との対話という点でも、すぐれて先験的な場所だった。難解な言葉で一般人を巻くのではなく地域と生命に根ざしたやり方で科学者と市民が対話した。研究に鯉のぼりや牛乳ビンをつかった経験も、それまでの高価な機材を使った調査という常識を覆し、十円玉やムラサキツユクサなどを利用した方法へと受け継がれた。とはいえ、このような評価は歴史が下すもので、今朝の長谷川市長は依然として不安な思いで市長室を歩き回るのだった。

 篠田は一睡もしないまま市民大会の朝を迎えた。ついに今宵、ひとつの大きな節目を越えるだろう。それにしても、と篠田は思った、さいごまでどうなるかわからない。五月二十二日、市民集会を翌日にひかえた夜、賛成派も黙ってはいなかった。どうにかして反対派を懐柔しようと密会を開いていたのだ。偶然そのことを知った反対派と密会の帰り道の賛成派でひと悶着起こった。暴力事件にまで発展しそうな気配さえあった。それで昨晩は寝ることができなかった。

 五月二十三日を境に、三島での石油闘争は一応の終着をみる。六月には市議会も全会一致でコンビナート反対の決議を出し、三島への進出は不可能になった。しかし県は沼津での建設をあきらめることはなく、闘いは続いた。九月には二万五千人が参加する大集会が開催され、賛成派には腐った魚が突きつけられ、議員の服は脱がされた。そしてやっと静岡県東部の工業化は封印された。
 もっとも闘いはおわったのではなく、はじまったのだった。四日市で、水俣で、新潟で、川崎で、死ぬよりも苦しいという病をめぐっての果てしない闘争が。いったん空に放たれた有毒ガスには名前が書かれておらず、誰に責任があるのかがはっきりしなかったので企業は知らないふりをしたし、責任が誰にあるのかはっきりしないことについての責任を政府も取ろうとしなかった。環境に関する闘いはいつも見えない敵との闘いである。

 六時。公会堂には千五百人の市民が詰めかけていた。いつも無償でパンを提供してくれたあのご主人や、あんまり熱心に公害の怖さを語るものだから近所に気が触れているとまで噂された主婦や、四日市に派遣され喘息を患ったNHK職員(闘争のはじめから多くの助言を市民に与えていた)も勢揃いしていた。
 六時十五分、市民大会がはじまった。それまで各団体のリーダーとして反対運動を牽引してきたものたち二十六名が、つぎつぎと声明を発表した。ひとり、ふたり、さんにん、と決意を語るたびに大きな拍手がまきおこり、その場は異様な熱気につつまれた。
 そして市民の煮えたつ熱湯をおもわせる熱い視線は壇上のひとりの男に注がれた。男はいつものようにきっちりとスーツを着こなして、確かな足取りですすんでいった。二十七人目としてマイクをとったのは長谷川市長だった。
「すでに、知事には伝えたが」
 群衆は息をのんだ。
「三島市は石油コンビナート建設に反対する」
 滝のような轟々とした拍手が起こり、鳴り止まなかった。
 その情景は人びとの目に焼きついて離れなかった。それまでずいぶんと長い間、必死に闘ってきた勇敢な市民たちは、ついに市長がその言葉を口にしてくれた、これで子どもを守ることができた、市民の健康を売り渡さずにすんだ、などとさまざまな想いを交錯させながら、この涙こそが戦利品だというように、湧水のように清らかな涙を流した。
 その涙はひとすじの流れをつくり清流に寄りそって海へと放たれる。やがて日は昇り、蒸発した涙の海は富士の白雪へと姿をかえるだろう。そして数百年後にふたたび湧き出る日まで永いながい眠りへとつく。

(了)

注:プライバシー保護のため一部、登場人物の名前は架空のものになっています。

 参考文献

 「三島ニュース」各号(1963年-)
 「自治研集会における三島・沼津石油コンビナート闘争報告」(1965年)
 静岡県東部開発事務所「東部開発の歩み」(1965年)
 酒井郁造『見えない公害との闘い』(1984年・「見えない公害との闘い」編集委員会) 
 三島民報社『三島沼津 石油コンビナート進出阻止の住民運動』(1993年・三島民報社)
 星野重雄・西岡昭夫・中嶋勇『石油コンビナート阻止』(1993年・技術と人間)
 中須正「三島・沼津・清水二市一町の環境運動再考」(2000年)
 小池政臣『できることはすぐやる!』(2002年・海象社)
 船橋晴俊「社会制御システム論にもとづく環境政策の総合的研究」(2004年)
 みしま女性史サークル・女性制作室「聞き書き みしまの女性たちの歩み-昭和生まれ編-」(2004年)
 三島市立向山小学校5年4組「コンビナート反対運動を学んでの感想」(2004年)


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