『1969年の上野高校学園闘争』高橋直純


序章 都立上野高校
 台東区上野公園の一角にある都立上野高校では、かつて学園闘争があった。1969年のことである。「全日制闘争委員会」という名の有志学生が学校の一部をバリケード封鎖し、5項目の学校改善を要求した。その結果、自主ゼミナールの単位認定、生徒会・生徒手帳の廃止などが達成された。上野高校だけではない。1969年は高校生にとって闘争の年だった。各地で高校紛争が起きたが、その多くは学生の要求が聞き入れられることなく一方的な処分や、時には警察の介入によって、問題の根本的解決には至らないままに終わっている。上野高校は数少ない学校側、生徒側にとっても比較的円満解決だったと言われている。多くのマスコミでも好意的な記事が出た。
 
 現在でも、上野高校は「自主協調」という校訓とともに、リベラルな校風が個性的な学生を多く惹きつけている。制服も校則も生徒手帳もない。生徒会もなく、体育祭や文化祭などの行事はその度ごとに有志が集まって企画した。このようなシステムになったのも1969年のバリ封がきっかけである。
 
上野高校の卒業生である筆者が、学園紛争があったことを知ったのは、偶然図書室で一冊の記録集を見つけたことによる。紛争から3年後に研究部(紛争後に進路指導部が改編された組織)の教師達によってまとめられた『資料上野高校の教育改革』という名の資料には、当時のビラや学校側の配布物などが詳細に記録されている。ほとんどの学生に見られることなくひっそりと所蔵されていた。

精読すると、編者の誠実な姿勢が伝わってくる。教職員側の作成した記録であり、そのまま鵜呑みにするべきではないのは分かっている。だが、少なくとも上野高校にとっては公式にも、学園紛争は恥ずべき過去として記録されていない。その資料からは、教職員と学生が一緒になって学校を良くしようとした運動の一環として、真摯に出来事を記録しようとする意思が感じられた。他にも当時の職員が紛争に関する本を何冊か残している。

本作品は、そうした記録とともに当時の学生や教職員へのインタビューなどによって1969年に上野高校であった学園闘争を改めてみていこうとするものである。


第1章 「改革、革命」のリアリティ
現在において政治的な「運動」がもつ意味はどのようなものなのだろうか。多くの人にとっては、リアリティのある言葉ではないと思う。筆者の大学でも、構内で時折某セクトの演説やタテ看板を見かけるが、多くの人は素通りして行く。筆者もその一人だ。そのことに対して、さして後ろめたさも感じない。ましてや、高校生にとっては想像の埒外であるだろう。

1章−1 1969年の空気
 1969年ではまだそのような状況ではなかったという。多くの若者が政治や社会情勢を若者なりに真摯に考えていた。なにより世の中に変革の可能性を感じさせる空気が漂っていて、それが政治への希望を持つことを可能にさせていた。村上龍が自身が1969年に佐世保北高校でのバリ封を描いた小説『69』の冒頭から当時の雰囲気を感じさせる部分を引用してみる。

「1969年、この年、東京大学は入試を中止した。ビートルズはホワイトアルバムとイエローサブマリンとアビーロードを発表し、ローリング・ストーンズは最高のシングル『ホンキー・トンク・ウイメン』をリリースし、髪の長い、ヒッピーと呼ばれる人々がいて、愛と平和を訴えていた。パリではドゴールが退陣した。ベトナムでは戦争が続いていた。女子高生はタンポンではなく生理綿を使用していた。 −中略― この頃は、受験勉強をする奴は資本家の手先だという便利な風潮があったのも事実である。全共闘はすでに力を失いつつあったが、とにかく東京大学の入試を中止させてしまったのだ。何かが変わるかもしれない、という安易な期待があった。その変化に対応するためには、大学などを目指していてはだめで、マリファナを吸う方がいい、というようなムードがあった」

 当時教師だったある人は、僕に「60年代末期の青年を内外から動かすロマンティシズムとリアリズムの問題」を読み解く必要性を指摘する。1969年には、世の中が大きく変わるかも知れないと感じることができた。そして、その可能性は政治への意識がリアリズムの範疇にあることを可能とさせた。実際にバリ封に参加したメンバーの一人も次のように語っている。

「ノンポリ(ノンポリシー)だったやつは未だに気分的に信じていない。右だろうが左だろう関係なかった。なんか世の中変わるんじゃないか。もしかしたら幕末のような時代に生きているんじゃないか。俺達はなんの力もないけど、この活動をしていくと世の中が変って、高校だとか大学とかの制度そのものが変わっていくんじゃないかという希望をもっていた」

 現在の政治運動とは格段の差が、1969年のそれとは格段の差があった。そのことを念頭に置かないと、1969年の出来事を正しく理解できない。

1章−2 高校生の政治活動
 高校紛争については、記録も少なく当時の正確なデータを把握するのは難しい。ここでは『高校紛争 STUDENT POWER』という本の記述を中心として、当時の状況を掴んでいきたい。以下、1章−2では特に記述のない場合はこの本を参考にした。
 編者の一人の都立高教師永野恒雄は「高校紛争」の基点は67年にあると分析しており、この年に関西の高校で起こった2つの紛争を紹介している。これらの事件に先立つ例としては、1967年の上野高校新聞部が発行する学内紙・東叡新聞3月17日号が取り上げた、1964年に福岡県立修猷館高校定時制でおきた反戦活動をした生徒への退学処分への抗議事件があげられる。見開き2面全部を使った特集記事は、見出しの横には次のようなリード文が載せられている。

「平和を願って署名活動をしたことが事の原因で、学校と生徒の対立が始まり、ついには原告の奴留田(ヌルユ)文子さんは退学処分ということになってしました。そこで奴留田さんは不当に思い、学校側を相手取って福岡地方裁判所へ訴えました。現在も裁判は進行中です」

記事の最後には「実行力と忍耐力を」と小見出しがあり、

「なぜもっと動こうとしないのだ。なぜもっと真剣に平和を考えようとしない。なんだってそうだ、この学校には勝手なやつばかりいる。大事には総会には耳を傾けようともせず、ただ一部のものに流される。まるっきり衆愚政治だ。 ―中略― みんなは卑怯だ。あまりにも勝手すぎる。利己的だ、ここに自分の正しさを主張して裁判までしている人がいるではないか。もっと視野を広くもて、世界は動いているのだ。その動きを見極められずにいると取り残されてしまう。平和のためにも、正しい事を行うためにも、強い忍耐と実行力が必要だ。これは必ず真の幸福を導くだろう」

と締めくくられている。

 1968年3月には福島県立福島高校で卒業式の送辞が当初予定されていたものから、ベトナム反戦を訴えるものにすり替えられるという事件がおきた。1968年8月27日には東大安田講堂で大阪府立市岡高校と都立戸山高校の生徒が中心になった高校生による反戦集会が開かれた。翌28日の朝日新聞を引用する。

「全国高校生10・21闘争実行委員結成大会が二十七日午後、東京・本郷の社学同、革マル派など反代々木系学生が占拠している東京大学安田講堂で開かれた。高校反戦など高校生の反戦組織から百五十人(東京、大阪を中心に約百校)が参加し、十月二十一日に予定されている国際反戦デーに高校生独自の闘争を展開することを申し合わせたほか、委員長に小川敏雄君(大阪・市岡二年)を選んだ」

 1968年9月には大阪府立市岡高でPTA会費問題に端を発する校長室占拠事件が発生する。発生から約12時間後に占拠はとかれ、立てこもった生徒は校外に退散した。これが初めての高校での「占拠」事件となる。1969年1月都立新宿高校定時制でバリケード封鎖(未遂)騒動が、東京で初めて発生した。3月には各地で「荒れる卒業式」となり、都内でも38校の高校中学で騒ぎが起きた。上野高校でも分裂卒業式となった。
 1969年は高校闘争の最盛期となる。元東京都教育長指導部長の北沢弥吉郎『東京の高校紛争』によれば、1969年9月から12月までの間に「紛争」が発生した都立高校は31校、封鎖が行われたのは24校である。しかしこの24校には上野高校の封鎖が含まれておらず、25校というのが正確な数字だろう。ちなみに当時の都立高校は全部で149校である。もっとも深刻だったといわれる都立青山高校では61日にわたって授業が行われなかった。
 1969年12月以降、高校紛争は急速に沈静化していった。沈静化が進んだ要因の一つとしては行政側による取締りの強化があげられる。10月25日の朝日新聞には「指示従わぬ生徒は 退学を含む強い処分を 高校紛争授業正当化ねらう」という見出しのあと、

「高校の封鎖や授業中止が続出している都立高校の紛争に対処するため、東京都教育委員会は二十四日『紛争を早期に解決し、授業を正常に戻すためには学校長の異動や都教委独自に機動隊導入の要請も考える』との『授業正常化についての基本方針』をはじめて発表した。この基本方針にもとづき、野尻高教都教育長は同日、全都立高校長に対し『一部生徒の不法な行為は断じて許すな。学校の指示に従わない生徒は退学、停学の処分を』との強い通達を出した。生徒の処分を指示したのは今回がはじめて」

とある。10月31日には「高等学校における政治的教養と政治活動について」という名の「文部省見解」がでる。

「学校の教育活動の場で生徒が政治的活動を行うことを黙認することは、学校の政治的中立性について規定する教育基本法第八条第二項の趣旨に反することになる〈第四の1〉」「国家・社会の法や秩序に違反するような活動や暴力的行動については、常に厳然たる態度で適正な処分を行うべきである〈第四の3(4)〉」

 生徒の政治活動に理解を示すこと自体が、教育基本法に反するというわけである。青山高校では9月14日、日比谷高校では10月28日に警官隊が導入された。
70年に入ってからは4校でのみ紛争に突入した。『高校紛争』の中で永野は次のように記す。

「高校紛争は、教育行政の強硬姿勢によって、具体的には警察力の導入と関係生徒の処分によって収束した」

こうして70年以降、急速に高校生の政治活動は減少していき、それ以上に政治に対する関心も失われていく。

第2章 1969年の上野高校
 次に、上野高校の当時の状況についてみていきたい。60年代は都立高全盛の時代であった。日比谷高校、西高校、戸山高校などの名門高校が東大合格者出身高校ランキングで上位を占めていた。下町の進学校として上野高校もその例に漏れず、東大に何人合格するかが毎年年度末の話題になり、64年度には東大合格者40人となり全国ベスト10にランクされた。上野高校の前身は旧制市立二中であり、ナンバースクールと呼ばれた日比谷高校や西高校などの旧制府立中学校が前身の高校への対抗意識も伝統的にあった。
 当時の受験体制を知るために、『上野高校創立70周年記念誌うえの』の中から69年2年生だった生徒の発言を引用してみる。

「入学時に、志望校はどこだと言われて東大と書かないと、非国民扱いされる(笑)」「上野高校の場合は、だいたい三年間のことを二年弱で終わらせるということ」「駿台予備校の模擬試験と上野高校の普通の定期テストの平均点で駿台の方が高いようであれば問題が悪いと豪語していた」

1961年度に校内で発行された歌集には次のような遊び歌が掲載されている。

「上高ブルース
1  常磐京成に乗せられて
   ゆられゆられて行く先は
   その名も名高き受験校
   東京都立上野高校
2  上野の森のヘイの中
   そこに地獄があろうとは
   夢にも知らぬシャバの人
   受験地獄の一丁目」

 こうして加熱する一方の受験体制は、しだいのその弊害が社会問題化していった。当時、新入生の間では毎年上級生の中で受験を苦に屋上から投身自殺を図った人がいるという噂がまことしやかに流れていた。68年の卒業式間近に出された『声明』と題されたビラより、当時の学生生活を学生自身がどのようにとらえていたかを見てみたい。

「この3年間――即ち1965年から1968年、私達にとっては15歳から18歳――は一体何だったのだろうか? 私達はその問いを繰り返す。それは充実した日々だったろうか? 不毛の歳月だったろうか? 総体として見るならば、上野高等学校の生徒にとっての最大関心事は「大学」であり、それ以外の何ものでもなかった。3年間、ひたすらこの「大学」のみを唯一の現実と認識し、その他一切に参与することを拒絶し続けるのである。きわめて狭量な現実認識の上に立って、無関心の、無感動の、無責任の日々を送った者がいないと誰が断言できる?」

 こうした加熱を極めた受験体制を緩和する目的で67年から導入されたのが、都立高校入試における「学校群制度」である。簡単に説明すると、都立高校を地区ごとに二〜四校のグループに分け、地区の生徒には特定の高校ではなく、その「群」を受験させる。合格圏内に入れば、機械的にそれら二〜四校に配分するというものだ。上野高校は白鴎高校と第52郡学校群を組むことになった。ちなみに1949年まで上野高校は男子校、白鴎高校は女子校であった。
 学校群制度により「・学校の格差がなくなる。・高校受験の過当競争の緩和。・過激な校風の是正。(東叡新聞66年9月24日号より)」が成果として達成させられると言われていた。学校群制度の影響はすぐに現れることになる。学校群制度導入後は各都立高の進学実績、端的にいうと東大合格者数が目に見えて減少していった。都立高校が進学において遅れをとるようになるにつれ、私立高校受験の厳しさが増していった。学校群制度導入の経緯について取材した元毎日新聞記者で法政大学教授の奥武則は著書『むかし〈都立高校〉があった』の中で「都立高校の自由で個性的な学校文化は失われ、逆に受験戦争は過熱化した」と指摘している。学校群制度は82年まで続いた。ちなみに現在では都立校入試での学区制限は全てなくなっている。

 学校群制度で入学してきた学生は多くの困難を抱えることとなる。郡で選抜されるため、上野高校を第一志望としなかったのに入学してきた生徒もいた。学校群のペアとなった白鴎高校は旧制府立一女であり、特に女子には白鴎を希望しながらも上野高校に来ざるを得なかった者が多かった。
 また、総じて学校群制度で入学してきた生徒はそれ以前の生徒に比べると学力が劣る傾向にあった。68年には学力低下が顕在化し「上野高校の曲り角」だとの認識が広まっていく。教師はそれまでの名門校としてのプライドもあって、以前と比べるような形で叱咤激励することも多かった。教師だけでなく上級生も全校集会の席などで、上野高校の伝統を守らねばならないとアジテーションのような演説をすることもあった。学校群制度ではじめて入った学生の一人は、暖かく歓迎されて入学したという印象はないと述べている。当時の教師の一人は、そのことが生徒に鬱屈とした感情を抱かせてしまったと語った。
 学校群以前に都立新宿高校の生徒だった筆者が書いた『むかし〈都立高校〉があった』という本のタイトルも、学校群以前の都立高校が本当の都立であり、それ以降は都立高校ではないという意味でつけられている。学校群以前を知る者たちの、そのような意識が学校群制度で入ってきた学生へのプレッシャーになったのは間違いないだろう。

 新聞部発行の『東叡新聞1968年9月22日号』にはアンケート特集「教師と生徒の関係は?」が組まれている。特集は次のようなリード文で始まっている。

「現在、全国で約五十校の大学が「学園紛争」の状態にある。その原因は複雑で一言では言えないが、教授と学生間の相互信頼の欠如がその一つであることは疑うことのできない事実であろう。そしてまたこの相互信頼の欠如は高校においても例外ではない」

「現在の先生・生徒間の関係に満足か?」という問いに対しては

満足している 一年52% 二年19% 三年38% 教師20%
満足していない 一年42% 二年78% 三年59% 教師80%

となっている。
 2年生が際立って満足をしていないと答える割合が高い。この学年が学校群制度入学者第一期生であり、3年生となる翌1969年に闘争当事学年となった。
 また「学園紛争の原因は?」という問いに対しては、数字の記載はないが「相互理解の不足、対話の不足」が原因として最も多くあげられている。
 69年に都立の各校でバリ封の主体となる3年生は学校群制度で入学してきた最初の生徒たちだった。



第3章 上野高校学園紛争
3章―1 バリ封にいたるまで
 
 学園紛争のピークは多くの高校で1969年9月から12月の間にくることが多かった。しかし、当然のことだが、突然校舎がバリケードで封鎖されるわけではない。まずはバリ封の前年度に当たる1968年3月までを見ていきたい。
 
◎1967年度
 この年、バリ封時3年生となるが学校群制度一期生として学生が入学してくる。最初の教師と生徒の目立った対立としてあげられるのが1967年のサンダル問題である。6月に生徒の規律向上のため、学校側が上下履きとしてサンダルを禁止することに端を発するこの問題は、3年生の有志が抗議行動を起こしホームルーム決議による白紙撤回要求が出されるにいたった。しかし学校側は決定事項を撤回しないことを全校生徒に伝える。3年有志は全校集会への発展を望んだが、禁止の決定は覆らなかった。
 また、1968年は2月11日に建国記念日が制定されたはじめての年だった。この問題を話し合うために全校集会が開かれた。2月11日を祝日とすることは国家による反動的行為であるとし、抗議のための同盟登校(休日だが抗議の為に登校すること)が提案されるも、結果的に否決された。
 サンダル問題で抗議行動をした3年生有志は、卒業式で反戦バッチをつけ、「君が代」斉唱時に起立しないという行動をとる。式後、校長・学年主任・学級担任および卒業生一同に『声明』文章を手渡した。一部を引用する。

「生徒の己に対する信頼を要求するのみで、生徒の言動には一遍の信頼すらもかけようとしない教師を私たちは許すことはできない。私達には、教師はわれわれとともに在るという意識を持ち得ないことに対する焦燥感がある。教師と生徒との間に亀裂が存在することは不幸なことだと私たちは考える。私達の志向が教師によって繁く阻害される事実の中に、その不幸は集中的に表れている。−中略― 学友諸君! 教師のみなさん! 私達は根無し草だ。だが私達は雑草だ。右声明する」

 この「根無し草」という表現は当時の上高生を表現する比ゆとしてしばしば使われていた。当時社会科教師だった秋葉安茂は後に『学校の草』という題で、学園闘争を題材とした小説を発表している。
生徒会活動の沈静化が進んでいた中、この事件は下級生たちに強烈な印象を与えた。

◎1968年度
 学校群制度になって2回目の生徒が入学。学力低下が顕在化し、現状は「上高の曲がり角」だとの認識が教師の間で出だす。この年、闘争の解決に大きな影響を与える校長森杉多が新たに赴任してきた。森校長は「根無し草」の高校生を内面から知りたいとして3年日本史を週4回担当し、昼食時には生徒を数名ずつ読んで雑談をした。
 11月30日は全都反戦闘争実行委員会主催の高校生による反戦集会が開かれた。上野高校からも約20人の生徒が参加。上高教師も様子を見に行ったそうだ。
 翌年1月19日には全共闘が立てこもっていた東大安田講堂が「落城」。その様子が校舎の窓から見えた。上野高校から東大本郷キャンパスは歩いても15分ほどの距離である。多くの卒業生もいたため、東大の情勢は上野高校生に大きな影響を与えていた。この年、東京大学は入学試験を中止している。
 そうした中、卒業式が近づいていった。卒業式の4ヶ月前から「卒業式準備委員会」が結成される。これは各クラス2人の生徒委員と教師によって構成されている。興味深いことに、職員会議で「君が代」の代わりに「校歌」「蛍の光」を歌うことが決まっている。卒業式についての3年生へのアンケートで、「君が代」を歌ったほうがいいという生徒が過半数をぎりぎり超えたにすぎなかったため、問題が発生するかもしれないとの配慮の結果だという。

◎1969年3月18日 分裂卒業式
 だが、受験もあらかた終了した3月の中旬になると、卒業式とは高校生活の総括であり、討論会を主たる内容とする卒業生、在校生、教師の自主集会とするべきだという声があがりだした。この声をあげたのが、3年3組を中心とした「三年三組卒業式研究会(通称ミミ研)」と呼ばれる有志集団である。彼らは教育基本法、学校教育法、学習指導要領などを調べ、ガリ版刷りのパンフレットを一週間ほどで作成した。その内容を要約してみる。

「高校とは主体的に教育を受けるべき場であり、本来の教育は対話であり教育の主体は生徒であるべきだ。卒業式とは高校生活の総括の場であるべきである。しかし、この定義を採用すると、上野高校では真の教育はありえず、現状のままだと今後もありえないだろう。現行の卒業式は対話の場ではない。対話・自由発言の場としての卒業式こそが今後の教育の発展の場になるはずだ」

 多くの大学や他の高校で見られたような「帝国主義的儀礼を拒否する」というような、教条的、左翼的な言説に彩られることはなかった。「教育」に闘争の主眼を置くことは、これ以後も上野高校では一貫していた。
3月11日ごろから校内は騒然とした雰囲気に包まれだす。ミミ研の他にも、卒業式そのものの粉砕をもくろむ「粉砕派」と呼ばれる学生も数名現れ、校内でアジテーションをおこなった。学生は、実行委員会、ミミ研、粉砕派のいずれを支持し、どのように行動するかを選ばなくてはならなかった。卒業式前日、学年集会が開催された。夕方4時過ぎに始まった集会は、はやばやと粉砕派の主張は退けられ、8時近くまで実行委員会による通常の形式の卒業式と、ミミ研による自主集会のどちらを行うかが話し合われた。最終的には卒業式に賛成する生徒百数十名、自主卒業式が九十余名となり、卒業式が行われることが決まった。
 翌日、卒業式に出席するものが四分の三程度、残りは校庭に集まった。卒業式自体は大きな問題もなく終了した。ここで卒業生のアンケートによって書かれた答辞の一部を引用しておく。

「私達は空虚感に陥りました。久しく心の底から笑うことも、感動することもなくなり、私達を"受験生"として見る周囲の眼によって自由に外出することや本を読むことさえつつしまなければならないほどでした。−中略―それが益々、自己嫌悪を生み出し言いようのない絶望、孤独、無気力にさいなまれた記憶があります」

このように答辞らしからぬ高校生活にたいする煩悶が延べられた。しかし、最後のほうでは

「このような問題に対して私達高校生の中に、何とか解決していこうとする努力の兆しが芽ばえ始めています。生徒のみならず先生との対話を積極的に復活させようとする研究会の試み、討論会、自由サークルの活動などはその表れといえないでしょうか」

とあり、後輩に対して

「あなた方を取りまく身近な問題に真摯な態度で取り組み、自ら考え、満足できる行動を取ってください」

と述べ、閉められている。

 卒業式の最中も校庭では自主討論会が行われていた。粉砕派のリーダーは他校の生徒を応援に呼ぶも、警備係りの説得で退去していった。
 卒業式終了後には、討論会に校長も出席。校長へのつるし上げは執拗なものとなった。初めてこのような情景を見た、保護者の中にはショックを受けたものもいたという。討論会はますます熱を帯びていく中、PTA会長が発言をも求めて壇上に上っていった。この会長は、戦時中は陸軍大尉であり、現在は家具製造会社の社長という人物だという。彼の話は次のようなものだった。非常に印象的なので、『自主ゼミ創出』の中で紹介されている言葉をここでもすべて引用してみたい。

「私にも一言言わせてもらいたい。このように先生方と生徒諸君がともに満足できるような教育を求めて話し合うことは立派なことだと私は信ずる。大いにやるがいい。しかしここにいる200名くらいの生徒諸君の中で、現実にある大学入試に合格しなくてもいいと、しっかり腹に決めているものは何人くらいいるだろう。あまりいない、と私は思う。現実に目の前にあるものは、完全とは言えないが、なければならない理由と、それだけの価値があってのことだと私は思う。この堀の向こうに道路があることは、われわれ上野高校にとってはじゃまだ。第二グラウンドに行くのに大変じゃまだ。だからといってあの道路を直ちになくすわけに行かない。大学入試、受験教育を改善するための討論会をいくら続けても、結局はどうにもならないところがどうしても残る。さきほどの卒業式の立派な答辞の中にもあったように、先生と生徒が静かに話し合って、学校内で改善できることを改善するのはまことに結構なことだと思う。しかし今日は卒業式である。諸君誰しもがほんとうは心の中で感じている学校や先生方や家族や社会に対する感謝の気持ちを表すべき日だ。感謝の気持ちは口に出さなくてもいい。けれども、人間として大切なその気持ちがあったら、この集会はここら辺で、校歌でも皆で歌って、めでたく整然と散会にしたらどうだろう。私のいいたいことはそれだけです」

 この言葉により集会は感動的に終わったと『自主ゼミ創出』は記している。主義主張や論理ではなく、このような情を前面に押し出した意見によって、解決に向かうところが高校生による運動の特徴といえるかもしれない。

 3月下旬に行われた最後の職員会議では卒業式問題についての総括が職員間で行われている。各自の意見を表明するにとどまったと記録されているが、問題の根底には、生徒は教育とは何かをという真摯な問いかけをしていると解釈する者と、単なる家庭環境と性格において特殊な生徒が先導したにすぎないとする者に分かれた。『上野高校の教育改革闘争』という教員研究部が出したレポートには

「すでに43年以来、教育改革について討議がなされていながら、実はこの二つの見解について対立を徹底的に掘り起こし討議を深めておかなかったことが、44年度の教育方針をめぐっての教師集団の現状分析、具体的改革立案能力を鈍化させたように思われる」

と記されている。

3章―2 バリ封
◎1969年 前期
 4月4日の始業式以降、学生の間では生徒会、ホームルーム、学校行事などについての討議が行われるようになった。分裂卒業式の影響は明らかである。4月23日の職員会議で生徒の掲示・伝達・集会の自由が長時間の議論を経て可決された。教育庁通達では高校生の政治的活動はきびしく制限されていたが、これは実質的に認めるものであった。これにより立てカンなどが校門などで目に付くようになった。
 5月に出された立てカンの中には「番付」と呼ばれたテスト毎に生徒上位者の氏名を公開する制度の廃止を訴えるものがあった。この立てカンは生徒、教師の注目を集め1ヵ月後には番付は中止された。
 その一方で生徒会は徐々に崩壊していった。4月23日には2年生の新生徒会長と副会長が選出された。しかし5月21日の生徒総会は、新生徒会長による改革案や予算案などの重要な議題があるにもかかわらず不参加者が多く流会となった。生徒会は入りたくて入った組織ではなく、入会させられたにすぎず、自主を装う非自主的集団に入ることを拒否する、という趣旨の立てカンが出された。
 当時から前期後期の二期制だった上野高校では毎年前期の最後には交友会大会と呼ばれる文化祭が行われる。ここで後にしこりを残す2つの事件がおきた。一つは「交友会大会の歌」を募集し、当選作を決めるにあたって生徒と担当教師の間で意見が一致しなかったこと。もう一つは、討論会委員会が、顧問教師に内容を知らせず反戦映画を上映しようとし、それを校長が調査しようとしたことを交友会大会弾圧と討論会委員長が言い出したことだった。この委員長は後にバリ封行動隊長になる。交友会大会の講演者はべ平連事務局長の吉川勇一氏だったいうところに時代を感じる。展示や討論会では教育課程答申、指導手引書への批判なども行われた。

◎1969年 バリ封前夜
 9月27日後期始業式。生徒会長が突然発言を求め、交友会大会が失敗したのは学校側の不当な干渉によるものだと発言した。ひどく興奮した状態での発言だったという。10月8日は後期生徒会会長の選挙が行われる予定であったが、立候補者がなく中止になった。それに先立ち2年5組では生徒会役員の選出を拒否。10月3日に「生徒会についてみんなで考えていこう」というビラが刷られ、2年5組の生徒会役員拒否は、全校に広がっていった。

 10月9日木曜日、3年4組で18時過ぎまで討論会が開かれた。議題はホームルーム制や成績についてであった。翌週13日月曜日にも再度討論会が開かれ、そして14日には授業ボイコット、自主討論会へとつながっていった。15日には定例の全校集会が昼休みに行われた。通常の全校集会では全生徒教師が校庭に集まり、校長訓話や教師の注意、生徒会の連絡などが行われるのが慣わしであった。この場で、3年4組有志は「授業とはなにか?」という問いを投げかけ、そして授業ボイコットが呼びかけられた。『自主ゼミ創出』では

「集会そのものが、活動家の生徒にのっとられようとして、ただならぬ雰囲気に包まれていた」

とある。集会は教師の判断により解散、提案に関してはクラス毎に話し合い、話し合いが終わり次第授業に入るということになった。
 翌年2月に発行された校内の文芸誌『創』には、「上高の改革」という特集が5Pほど組まれている。これは、おそらくもっとも早い学園闘争に関するまとまった文章だろう。編集委員はみな学生である。一部を引用する。

「この(全校集会)盛り上がりは、四十三年度の分裂卒業式、校友会大会での問題提起、後期役員拒否=生徒会の空洞化を経て、各個人が一人の人間として生きようとするものだった」

 10月18日土曜日にも3年、2年生の有志が携帯スピーカーで自主的集会の要求、学校側はこれを認め2限3限はすべて集会となる。討論内容は試験制度、単位制、カリキュラムの3点だった。討論会の最後に試験制度の廃止が要求として出され、学校側は2日後に回答すると約束し散会した。学校側は連日長時間の職員会議を行い最終的には10月21日からの中間考査を中止し、教育過程、評価の問題を再検討することを決定した。20日月曜日にも全校集会が開かれ、校長より発表された。この決定は多くの生徒に驚きと安堵を与えた。これにより1,2年生のほとんどのクラスで平常授業が再開された。しかし3年生の各クラスでは授業のほとんどが討論となる。
 時を同じくして3年闘争委員会、2年教育改革委員会が結成された。革マル派、民青はいずれにも合流しなかった。職員研究部による資料では

「全闘委(全日制闘争委員会)に結集していくグループは、いわばノンセクトラジカルズであり、上高生徒大衆の多数をつかむという問題が煮詰まりだしたのが、10月20日以降の一週間であったといえよう」

と記されている。
 学校側は22日には現行の試験制度の廃止、通知表の廃止、評価・単位については教科ごとに基本方針を打ち出すことを決定する。
 2,3年生の有志集団は、この一週間の間に現行指導要領を購入し検討、カリキュラム編成の思案等を進めていった。2年生有志より単位制・生徒心得・顧問制、部室管理について、3年生有志より単位制・自主ゼミについて問題提起され、立てカンやビラなどの形で一般生徒へのアピールがされた。
 2週間近く続いた討論は、しだいに内容が煮詰まってくると同時に行き詰まりを感じさせ、答えの出にくい問題を扱っていたため泥沼の様相を見せてきた。
 そんな中10月27日月曜日、全闘委を結成することになる生徒とその同調者が全学生に対し五項目の要求を学校全体の問題とするべく全校集会を呼びかける。五項目の要求とは次のとおり。

1 クラス別時間割を廃止し、自主ゼミナール85単位の中に認めよ。
2 生徒会各機関の顧問制を廃止せよ。
3 生徒心得を全面撤廃せよ。
4 職員会議を公開し、傍聴を許可せよ。
5 「文部省指導要領」を拒否し、文部省に対して拒否声明を公示せよ。

 しかし雨が振っていたこともあり30人程度のメンバーだけの参加であった。学校側に対しては校長のみを呼び出し、回答を要求。森校長の著作『戦争と教育』の中に、この時のことが記録されているので引用してみる。

「昼前、校庭に全闘委とその同調者が集まり、五項目要求貫徹集会が始まった。職員室では鈴木教頭・大江生徒部部長・田中教務部長らと話し合っているところに、全闘委の行動隊長がやってきて、校長一人が集会に出るよう求められた。私は五項目については教頭・教務長・生徒部長らと相談しながら全闘委との話し合いを進めようと思い、三人に同行を促したが、行動隊長は冷たく「校長ひとり」ときびしく言った。私は、これが大学・高校闘争での各セクトの慣例かと諦めて雨のそぼ降る校庭の指揮台に近づいた。三十名くらいが水たまりの出来かけたコンクリートの上に腰を降ろして私を迎えた。二、三階の窓からは、強い関心や「野次馬」顔の生徒たちが集会を見下ろしていた。全闘委の一人が開いた傘を私に差しかけようとした。私は、「ゆっくり話そう。皆体育館に移ろう」と傘をしりぞけたが行動隊長は叫んだ。「雨が何ですか。全校生徒のためにわれわれは雨にぬれてやっている。」そんな言い廻しは、軍隊では小心な下士官の自己顕示の常套句であったな、とちらと思い出しながら私は指揮台に立った」

校長がこの場での回答は出せないと答えると、全闘委側はこれを要求への全面拒否と確認し、集会を散会した。このとき、3年闘争委、2年教育改革委中心として全日制闘争委員会が結成された。

 そして翌日よりバリ封が始まる。全闘委のメンバーはこの夜、メンバー宅に泊まり、翌日に備えた。

◎バリ封 
 10月28日火曜日、早朝5時、全闘委約10名は本館一階のうち職員室、応接室、校長室、用務員室をバリケード封鎖した。都立各校でバリ封がおこっていたため、校長は警戒して校長室に泊り込んでいた。そのため学生5人で強制的に引きずりだし、退去させることになった。ちなみに職員研究部の資料ではその際、「その振る舞いは無作法な振る舞いではなかった。」と記されている。同じように、バリ封を予想していた教師数名も校内に宿泊していた。
 一般の学生が登校してくる時刻になると、バリ封の学生たちは校庭デモを開始した。『自主ゼミ創出』より引用する。

「ピッピィ、ピッピィとなる笛の音に合わせて、『闘争―、勝利』『闘争―、勝利』の掛け声高く、狭い校庭をじぐざぐ前進する花々しい武装隊列は、学校を一種のお祭り気分に湧き立たせた。登校してきた生徒の反応はさまざまであった。ついにやったか、と胸を躍らせる興奮の顔、バカなやつらだと舌打ちしただけで教室へ急ぐ三年生、げらげら笑いさざめきながら「仮装行列」に拍手をおくる女性徒たち。中には、腕組みをして見物している沈黙の教師に、あの無法を許しておくのか、と喰ってかかる生徒、われ関せず、と今日の午後の球技大会にそなえてバレーボールの練習を始めるグループもあった」

10月28日(火)        (※以下の時間表は『戦争と教育』より引用)
8:10〜8:15 職員打ち合わせ
9:00〜9:30  校庭全校集会(校長より全校生徒に現状報告)
9:30〜10:00 ホームルーム
10:25〜11:10 職員会議
11:30〜12:30 講堂で全生徒に五項目要求説明(校長他)
14:40〜22:15 職員会議(五項目要求中心に審議白熱)

 午前中は全校生徒を講堂に集めて全校集会が行われた。ヘルメットをかぶったバリ封学生も参加している。
校長から事件の経緯と要求に対する回答が述べられた。
1 85単位以上をもって卒業認定の単位とし自主ゼミは当該教科の指導によって条件をみたすものは単位として認める。(なお、クラス別時間割の全面的廃止は不可能だが、同時開講制、選択講座制の実施等により希望にはこたえていく。)
2 生徒心得は廃止する。
3 顧問制は活動の支障のないよう運営されることを前提として廃止の方向で検討する。
4 職員会議は公開できない。ただし、生徒の諸活動に関して必要なことがあれば共同討議の場所を作る。
5 学習指導要領問題については、本校教育課程を編成するにあたって、人間教育の原点に立って検討を深め、教師それぞれ組合活動や研究会組織等をもってとりくむ。学校としては拒否声明は出さない。

 回答の内容はこれ以後もほとんど変更はなかった。
当初全闘委はこれを欺瞞的回答だとして拒絶。第一項と第五項は同じ内容の対内的、対外的声明であるということ。自主ゼミとは教師は誰でもよくテーマも生徒の自由とするべきだと反論した。

10月29日(水)
9:30〜11:30 全校集会(五項目中心に学校の考えを説明、全闘委20名前列にあって、ナンセンスという言葉を連発した)
11:30〜12:30 ホームルーム
13:45〜22:15 職員会議(五項目要求に対する学校の回答の結論と封鎖解除説得方針決まる)

 昨日に引き続き、午前中は全校集会での質疑応答と各クラスでの討議が行われた。2年生の学生が全闘委にたいして、五項目について我々は何も聞いてこなかったし、バリ封も寝耳に水だった。このようなことは学校全体に対して相談してやるべきではないかと指摘すると、

「今の質問は取るに足らない質問である。われわれは昨日の午前中、雨の中の校庭集会で全校生徒に集まるように呼びかけた。しかし諸君はその呼びかけに対して沈黙を守った。沈黙を守ったことは、承認したのだとわれわれは判断したのだ。」「それに、生徒全体の意思を結集する生徒会は、交友会大会終了後存在しないことは諸君も知っているはずだ。生徒会は学校の御用機関でしかありえなかったし、生徒一人一人の自由意志によって入会したのではなく、学校側によって入会させられた組織であるわけだ。したがって全校生徒の意思をまとめてその意思を行動まで高めるやり方は、文化祭のとき、べ平連事務局長の吉川勇一氏が講演したように、誰かが問題を提起して皆に呼びかけ、皆の賛成を得て同士を拡大する方法以外にはない。これでわれわれのやり方の正当性がわかると思う」

と答えた。
 集会後、全闘委が資金カンパをはじめるとたちまち8000円の大金が集まり、女子生徒を中心におにぎり等の差し入れも活発におこなわれた。ちなみに当時と現在の物価水準の違いを示すために再び村上龍の『69』を引用してみる。

「一九六九年当時、百五十円は大金だったのだ。真に極貧の家庭の息子、娘達は、五十円という金額で二十円の牛乳と十円のあんパンと二十円のカレーパンで飢えをしのいでいた。百五十円といえば、ラーメンを食べて、牛乳を飲んで、カレーパンとメロンパンとジャムパンが買えた」

 おおよそ現在の6〜7万円ちかい金額がカンパされたことになるだろか。彼らの人気ぶりを表していると言えるだろうか。一般生徒の大多数は、積極的に賛同はしないまでも、好意的な心情を持っていたという。両日とも午後は当初から計画されていたように球技大会が行われた。都教育庁指導部の指導主任や雑誌記者などが監視を続けていたが、拍子抜けするほど、教師や学生は明るい雰囲気の中で過ごしていたという。連日夜の十時近くまで職員会議は続けられている。
 29日の各クラスでの討議は、受験勉強のため帰宅する生徒も多く、3年生では成立しなかった。
 
10月30日(木)
9:30〜11:00 全校集会・講堂(五項目中とくに自主ゼミのA・B・Cにつき教務部長説明)
11:30〜12:00 ホームルーム
15:50〜20:10 職員会議(教師一同が今までの教育反省として出す「声明」中心に論議)
 
 30日にも全校集会とクラス毎の討議。生徒の間でも自主ゼミに対する理解が深まっていった。この日の夜、学校側と全闘委の話し合いで教師の自己批判の証拠として学校側が声明を出すことになる。五時間近い職員会議のすえ、教師による『声明』を出すことが賛成された。五項目要求に対する回答は了承された。
 31日、講堂の全校集会において、校長が上野高校全日制職員一同として声明を読み上げた。全闘委からは「異議なし」と賛意表明があり、一般生徒からも読み終わった後に熱烈な拍手が与えられた。全闘委代表は自主解除を宣言。革マル派と民青の代表が闘争に対する批判を述べ、教員3人も個人的見解を述べた。一人は、「この声明で人間が信じられるか、この声明が明日から実行されると思うのは幻想だ」と叫んだという。
 集会終了後、全闘委は封鎖解除を始めた。一方教師は職員会議を行い、父母への通知と今後の日程について話し合いを行った。その最中、作業を終えた全闘委が「闘争、勝利」「自主ゼミ貫徹」と叫びながら校内デモを繰り広げ、会議場にもやってきて教員も解除式に参加し、声明どおりに一人ずつ決意表明をすることを要求した。『自主ゼミ創出』には

「多くの教員は顔が蒼ざめ、膝に置いた手がぶるぶると小刻みにふるえているものもあった。私もそうであったが、「声明」でかれらのいう「自己批判」は終わったと安心していたのに、「声明」は今日から始まる自主ゼミ体制において教師一人一人に絶えざる「自己批判」を迫る性格のものであることに気づかされた驚愕で蒼ざめたのだ」

とある。
 結局2人の教員が解除式に出席した。午後4時に厳粛な決意表明もって、解除式は執り行われた。行動隊長はバリケード封鎖の成果や今後の闘争のあり方について、「自主ゼミ体制を進展させ、学習指導要領を乗り越える可能性をもって内なるバリケード封鎖を構築するべきだ」と述べた。涙を流すメンバーもいた。

 3日ぶりに校長が校長室に戻ると、部屋は荒らされた形跡は一切なく清潔に保たれていた。全闘委のメンバーは「封鎖生活規律」を作り、第一条に「室を清潔に保ち教師の私物に触れてはならない」と定めたことがきちんと守られていた。夕方、全闘委のメンバーが校長に会いたいと言って呼び出した。処分の減免をお願いされるのではという校長の予想に反して、「校長先生のくびは大丈夫でしょうか。もしそういうことになりそうでしたら、わたしたちは全力で運動します」というものだった。この日に出された「高等学校における政治的教養と政治活動について」という「文部省見解」で政治活動に理解を示すこと自体が教育基本法に反するという文部省の姿勢を受けてのことだと思う。こうして警官隊の導入もなく一応の平和的解決をもってバリケード封鎖は終了した。


第4章 バリ封以後、自主ゼミ体制
4章―1 バリ封の後

 11月1日から9日までは新教育活動を開始するための時間割改革準備のための自宅学習期間となった。11月10日から新体制での授業が始まった。バリ封に参加した生徒に対する処分は「退学」「停学」等の懲戒処分は一切なされず、代わりに多数教師による自主ゼミ・普通授業の徹底した教科指導を中心とした「特別指導」を受けるということになった。
 バリ封の後の全闘委はどのように行動したのだろうか。自主ゼミ新体制の当初から全闘委は「学校当局の居直りを許すな!」「内なるバリケードの中より変革主体としての自己を創立し、"外なる闘争"を戦い抜こう!」等のビラを配り、教師の態度をギマン的なものだと糾弾を続けた。ただ、その後の活動はメンバーそれぞれであった。ある者は学外の闘争の手助けをしたり、ある者は映画祭やバンド大会を企画したり、またある者は学校に行かなくなったという。全闘委はノンセクトの学生の集まりであり、その結びつきはイデオロギーなどより友人関係が基調にあったため、バリ封の最中に意見が二分することがあっても、内ゲバや組織崩壊に至るということはなかった。翌年に3年有志(1969年時2年生)が卒業間近に編集した『自主ゼミ再確立へ向けて−総括パンフレット−』の中にも、

「(全闘委は)あくまで「個」の形で存在し、各々の欲求というものの充足に究極的なメルクマールを設定していた。 −中略− ある意味では、そうした形の組織の最も原初的な形であったと言えよう。全闘委によって、いわゆる「組織からの疎外」を被った人は決していないはずである」

と記されている。

 バリ封の後、下級生を中心に全闘委に憧れる学生も多く出てきた。そうした学生とともに近隣の白鴎高校、江北高校、東葛飾高校などと連携して「東部高共闘」を組織し、翌年1月には白鴎高校でのバリ封の手助けに向かった者もいた。もっとも白鴎高校では警察が導入され未遂に終わり、校長が上野高校生のヘルメットを取りに行った。
 また上野高校のすぐ裏手に東京藝術大学があるが、芸大全共闘の応援のためデモを企画したりもした。100人近く動員することができ、上野高校から芸大までジグザグデモを行った。100人近い学生が参加したということは、やはり全校的にそれなりの人気を獲得できたと見ても良いと思う。
 全闘委に占拠された生徒会室からは赤い旗が立てられた。約二ヵ月後には旗も降ろされ、厳冬の校庭で、全闘委解散式が行われた。参加したのはバリ封参加人数よりはるかに少数だったが、今回インタビューした人はみな解散式の存在を知らなかった。
 この年卒業式は行われず、代わって卒業集会が開かれた。「おれたちは敗北者だ」「こんな卒業式なんかおかしくって・・・」と言って去っていくものもいた。


4章−2 自主ゼミ体制
自主ゼミの仕組みは次のとおり。

教科担当教授の指導のもとに、生徒との話し合いで、自主ゼミをおくことができる。
自主ゼミはA,B,Cの3種のゼミを置く。
@ ゼミAは履修科目の標準単位内におかれるもので必ず担当教師の指導を受け、評価されるもの。
A ゼミBは、学校で置かれた教育課程の単位内には含まれていないが、生徒の希望により評価をし、増加単位としてとくに認めることができるもの。ただし各学年でとることのできるゼミBの単位数については別に定める。
B ゼミCは生徒の希望によっておかれるもので、単位として認定しないもの。
C なおすべてのゼミは、生徒の希望と教師の指導相談の上、テーマと時間を設定し、原則としてグループ活動による。
   ――以下略――

 1969年の11月から70年の3月までに開講された自主ゼミの数は実に313にも上る。その中からいくつかをタイトルだけピックアップして見る。「丸山真男「日本の思想」」「小林秀雄研究」「サルトル研究」「ヘーゲル現象学」「フッサール現象学」「パリ・コミューン」「実数と微積の基礎概念およびテーラー展開」「行列と行列式」「コハク酸脱水素酸素の研究」「清酒の分析」「マルクス・エンゲルスを英語で読む」など。
 生徒の88%が自主ゼミをやってよかったと述べている。実際に僕がインタビューした人のすべてもやって良かったと語っている。多くのマスコミからも取り上げられることになった。1969年12月の「週刊朝日」に掲載された「灰スクールよ、さようなら =“バリ封”を授業革命で解決した都立上野高=」という記事のリード文を引用する。

「紛争は「処分」で収拾という“タカ派高校”が多いなかで、東京の都立上野高校では、試験廃止、自主ゼミをもりこんだ大胆な授業改革にふみきって、世間をアッといわせた。先生、PTAから教育庁、生徒にまで評判のいい、この'新教育'の教室をのぞいて見ると――」

 その他にも、基礎科目においては同一科目を最大限同時間帯に開講し学生が自由に教師を選択出来るようにする教師の自由競争制の採用、男子クラスの廃止、男女混合名簿の採用などのジェンダーの否定などが行われた。これらの取り組みは今日においても非常に先進的な取り組みだったと思う。

第5章 闘争を成功させもの
 ここまで駆け足で1969年のバリ封を頂点とする上野高校で起きた一連の改革を見てきた。そして改めて最初の問いについて考える。上野高校における闘争は比較的成功裏に終結することが出来たと言われている。教育評論家の丸山邦夫氏は1970年2月号の「蛍雪時代」の中で、上野高校の改革を「(学生の処分がなかったことと ※筆者)高校紛争における、これも(3つの要求が通ったこと ※筆者)はじめての「無血革命」といえるのかもしれない」と述べている。多くの高校で、関係学生の停学、退学、警官隊の導入という処分が行われた中で、なぜ上野高校は他校と違う形で紛争を解決できたのか。それは、多くの人が述べているように、教員の大きな理解と、セクトから離れ一般学生のシンパシーを集めることが出来た全闘委の組織としての性格によるものだと思う。
 
5章−1 森杉多校長と教員たち
 話を聞いたすべての人が当時校長だった森杉多の人柄と教育理念によって紛争が穏便のうちに終了できたと言っていた。話を聞いたある全闘委のメンバーは「森校長はわかっていたよ。この人にはかなわない。たぬき校長の手のひらで踊らされた」と笑いながら語った。
 大正4年に生まれ、教員生活の最中に「ノモンハン事件」「沖縄戦」に参加。その体験を「空白の沖縄戦記」「ノモンハン事件従軍記」として本にしている。「空白の沖縄戦記」はテレビドキュメンタリーにもなっている。山形国際ドキュメンタリー映画祭2003公式カタログより引用する。

「―空白の沖縄戦記 沖縄住民虐殺35年― 放映日:1980年11月2日  沖縄戦の最中、沖縄本島北部で起こった日本軍による地元住民の虐殺のあり方に迫る。元日本軍の通信兵として沖縄戦で戦った森杉多が、沖縄に単身赴き、被害者の遺族に会って「日本軍の犯罪」を詫びる内容。ディレクターの森口は本作の制作を振り返る中で、虐殺に立ち会った元日本兵のひとり(森)が東京で生存している事実を探し当て「何としてもこの人と会い、真相に迫らなければならない」と決意。カメラの前で取材に応じる森の口からは、戦時中の凄惨な経験が明らかになる」

 戦争体験が彼のその後の教育理念に強い影響を与えたのは間違いないだろう。1994年に出された『戦争と教育』という本の中で、自身の戦争体験と教師経験が記されている。森校長は上野高校の受験勉強体制をかなり批判的に捉えており、生徒の要求を理解する姿勢を持っていた。『戦争と教育』より引用する。

「街頭の政治デモで警官隊の規制を無視したため警察に留置された者の釈放には校長がよく呼び出された。私は警察に、申し訳ないと低く頭を下げて、少しも感謝の表情などを表さず私を無言のまま睨みつける活動家を学校へ連れて帰り、保護者に引き渡すのだが、どう考えてみても活動家生徒の主張のほうが正しいと思うのだった。 −中略− 安保反対、沖縄無条件返還には私は沖縄戦を戦った一人として賛成であった。もちろん高校生が街頭に出て、ジクザグデモを繰り広げ、「安保反対」「沖縄返還」「全面返還」と叫び廻るより、学校で近現代史と政治を学び、正しい知識を父母や近隣に伝え、選挙も民主的にしてもらうほうがはるかに力になるとかんがえたけれども」

 森校長の下、平均年齢が38,9歳という若い教師達が9月のうちから改革案を作成していた。紛争後、わずかな期間で校内体制を改革できたのは、そうした準備があったからであろう。
 また教師の中には学生への心情的理解を示す者も多かったが、革マル、中核、民青の三派に所属する者がいなかったことも教師の統一行動をとる上で大きな助けになったとある教師は述べている。教師の中でも大きく意見が割れたそうだが、そうした教師の努力や生徒への理解なしでは、改革は上手くいかなかっただろう。筆者がインタビューをお願いした、ある紛争の解決に最も尽力した教師の手紙を引用してみたい。

「紛争のとき、教員のこわばった心がゆるみ、生徒の言うことをも聞いてみよう、分かってみようと思うように皆で動きだせたのは、職員会議の議論のなかで、私か誰かが、ボクらが高校生だったころあの戦争直後のなかで、(いわゆる「民主化」流行の時代)どんな気分で、どんな形で勉強(授業)をしたか思い出してみては?とめいめいの10代後半の頃のことを振り返り話合ったことがきっかけでした。教室・クラスの壁をとりはらうことや、自主ゼミも結構じゃないの、という考え、生徒心得などなくてもよいという発想は、こうして生まれたものだったのです。もちろん服装も自由でよいと」

 バリ封から2年後72年3月に森杉多校長は都立練馬高校校長へと転任することになる。上野高校を最後に勇退する校長が多いことを考えると、これは校長人事としては異例のことだという。転任の翌年度、72年6月2日号の東叡新聞に掲載された森校長へのインタビューを引用する。

校長 そうねえ。上高を追放されたみたいでねえ。
―知らされたのはいつですか?
校長 3月27日に電話がかかってきてね。意外だったよ。校長でない教師として居残ることをたずねてみたけれど、ダメなんだね。「前例がないから」だそうだ。
―そうなったことの心あたりがありますか。
校長 全然ない
    −中略―
―大変失礼になりますが、私達は先生が左遷されたのではないかと思いたくなるのですが。
校長 (真面目顔になり)そう思ってはいけないね。栄転というのも変だがね(笑い)もし君らがそう思っていて練馬の人がそれを知ったらどう思うだろう。そういうわけで俗世間ではそう思ってほしくない。でも僕自身そうなった格好に不満はない。なぜなら僕は上野を踏み台にして出世したくなかったからね。

―先生はこの間の卒業集会の時、「自由のこわさを君たちに教えてやれなかった」と、卒業生に話されましたが、そのことばから、最後に在校生に何か言ってください。
校長 上高生の中には、あらゆる束縛、統制から解放されて何でもできる状態を自由だと思っている人がいる。それは間違いじゃない。が、自由の第一段階なんだ。何でもできるということは、言い換えると何もしなくてもよい、ということになる。この第一段階のみの態度を取った人が闘争後には多いんだ。その自由は積極的な意味を持たず、高校生としてこれだけでは成長せず、無気力な状態に陥って、やがてヒットラーを望むようになる。実際、今の上高生は権力を求めているんじゃないかな。−後略―

 転任の理由は、闘争後の生徒に対しての対応が甘かったためとも言われているが、真相はわからない。

5章−2 全闘委のキャラクター
 当時、社会問題研究会(通称社研)と呼ばれるサークルがあった。中核派・革マル派・民青の学生が在籍しており、後に全闘委になるメンバーの多くはここにいた。
 全闘委のメンバーの何人かは前年の12月ごろ中核派からオルグ活動を受けている。ある者はそのまま中核派に入り、またある者はその教条主義的な、そして学外の活動に重きを置く姿勢に違和感を覚え、入ることはなかった。中核派のリーダーも1969年春先の街頭デモの際、麹町署に拘留されてから政治的街頭活動に上高生を動員することに無理を感じ、それ以来上部機関に逆らうようになり、行動を「教育」にしぼるようになっていた。
 後に全闘委のリーダーとなるこの学生が剣道部に在籍していたため、全闘委には多くの剣道部にも在籍していた。メンバー全員の段位を足すと20段を超えた。体育会系的なつながりを持っていたのは上野高校紛争の特徴だとある教師は言う。基本的には仲良しグループからスタートした。
 当初は中核派だったメンバーもしだいにセクトの思想や行動様式に違和感を覚えだした。

「運動には興味はあるんだけど、彼らが戦っているものは少し違うんじゃないか。」

とあるメンバーは語った。
 こうしてセクトから離れていった学生たちが、授業をサボって部室でだべったり、勉強会をしていく中で全闘委を結成するメンバーが集まっていった。コアなメンバーは夏ごろには固まっていたという。

 社研に属するセクト中心の学生が運動の主導だったころには、一般の学生からは遊離しがちだったが、運動部を中心としてノンセクトの学生が加わったことによって、校内の人気を集めることができたという。当時、上野高校内には中核派と革マル派、民青の三派が存在していたが、脱中核派とノンセクト学生による「全闘委」に対してもっとも一般生徒のシンパシーが集まっていた。
 ちなみにセクトの学生とノンセクトの学生の組み合わせがバリ封を起すというのは他校でもみられた。県立佐世保北高校では社青同解放派の学生と村上龍などのノンセクト学生、東京教育大付属駒場高校ではブントの学生と四方田犬彦などのノンセクト学生によってバリ封がなされている。
 インタビューの最中、僕が村上龍は女子生徒に持てたくてバリ封をしたそうですよと言うと、メンバーだったある人は「その必要はなかった。僕らはもてていたから」と答えた。「どこかで、俺たちにならみんなもついてきてくれるんじゃないかという計算もあった」とも述べている。バリ封時、あるメンバーのヘルメットは、「アナーキー」を表す黒に「IS」という文字が書かれていた。「IS」とは「いいじゃないの、幸せならば」というその時期に流行った相良直美という歌手のヒット曲から取られた。セクトの大仰な漢字熟語中心の言葉より、ミーイズムから出発する率直な言葉のほうが多くの学生の共感を集めたと思う。
 バリ封後も彼らは分散していったかもしれないが、けして内ゲバのような争いに陥ることもなかった。先にも記したように、バリ封後全闘委は憧れを持って入ってくる新たなメンバーを得ている。

第6章 闘争後の荒廃
 上野高校におけるバリ封を含む紛争が成功したと言われているのは、以上の2点によって説明できると思う。これは、改めて僕が分析したことではなく、多くの人によって言われていることである。
 バリ封は成功裏に解決し、その後校内体制は大きく改革された。多くのマスコミが注目し、そして賞賛した。では、その現実の姿はどうだったのだろうか。
 まず、改革の直後から、全闘委のメンバーはこの改革は欺瞞的なものとする批判的なビラや立てカンを出している。一連の改革も最大の攻撃目標としていた文部省指導要領の枠を超えることが出来ていなかった。東京都教育指導部長の北沢弥吉郎が1969年12月の『週刊朝日』によるインタビューの中で

「結構なことだと私は思いますよ。今まで大学受験を目指す考え方が強すぎた。今の指導要領のワクからはみ出しているわけではないし、しかも従来の高校教育のワクを一歩踏み出したことを、私は高く評価しています」

と述べているように体制側も十分に認める範囲のものでしかなかった。

 さらに、一般学生においてはどうだったのだろうか。卒業単位が85単位に削減されたため、3年生においては実質的に単位取得の必要性が大幅に減少した。クラスがなくなり、クラスメイト同士で顔を合わせることもなくなってしまった。登校時間もばらばらになり、ゼミ形式なので顔を合わせるのも限られたメンバーだけである。この状況は卒業するまで変わらなかった。ある人はバリ封後の学校の印象は「暗かった」と語った。
 翌年から自主ゼミは徐々に衰退していく。バリ封から2年後、バリ封時2年生だった学生が卒業間近に書いた『日和見者の小唄』というレポートの中を引用する。

「現在、上野高校に〈自主ゼミ〉があるのか、ないのか、わからない。しかし、どんな形の〈自主ゼミ〉にしても、あまり歓迎を受けてないように思われる。教師にとってお荷物であり、生徒にとって重荷である。受験というような直接的利益に結びつくなら、まだやる気もするかもしれないが、それは、「学校」で〈ゼミ〉などやらなくてもことはすむ」

 一般生徒がどのように闘争をとらえていたのかを知るために、1970年の交友会大会(文化祭)時に、3年生有志と新聞部が共同で行った展示のためのアンケート結果の一部を見ていきたい。全文を引用することにする。3年生とあるのは、69年には2年生だった生徒たちである。回答数は151人。

「(問) 昨年の上高闘争についてどう感じていますか
<肯定的意見>
1 いろいろなことを考えさせた点において有意義だった(6人)
2 自覚を促した、自己を意識、政治・人生観などにめざめた、あるべき高校生活、受験体制について意義があった(10人) やってよかった、すばらしい
3 意義はあったがみのりなし、運動が継続しなかった、受験という壁で思うことができない、その精神は急速に消滅せんとしている。これから維持する困難、全生徒に伝えていくことが大切、自分の意志が弱いので試験・通知表の廃止で勉強するかいがなくなった。(7人)
4 その他
・ あの闘争は絶対的に必要、必然なものであった。その後の混乱は、以前の教育から僕らが受けた「受け身」「自主的でない」ことによるもので、この混乱は当然のものだ。しかし、それをのりこえないかぎり、よく真に近代的な学校はできあがらないだろう。そして何度でも昨年の闘争のようなことがくりかえされるだろう。
・ 解放区バンザイ! 解放区の中で時間は止まる。物は存在物であることをやめ、物自体に回帰する。そしてその中でオレは支配者になる。すべての王、われこそは神ぞ。
・ 学校生活において一つのよい経験。
・ 今になるとそんな気持もわかるように思う(2人)
・ 個性を出したことは確か。バラバラの中に淘汰された人々のつながりがある。1組などはそのよい例。体制ベッタリの人に大きな転換をもたらした。私にとってもプラスだった。
・ 各人が現在行動しているならそれでよい。
・ もし闘争がなかったら、順調に受験勉強にはげんで、番付が目の前にチラついて青白くなっていただろう。ゾッとする。

<否定的意見>
1 なんの意味もなし(13人) むだ、ばかばかしい、心情三派、つまらない、一時的動揺、
しない方がよかった、今年と去年の入試状況を比較すればアキラカ。

2 一部の生徒によってなされた感じ(14人) 排他的過ぎた全闘委、傍観者多し、無関心、
無発言全校集会が多く、すみずみまでいきわたらなかった。

3 その他
・ 特に指導的立場の中のほとんどは冷静を欠き、単に一時的興奮の結果、旧体制を破壊した感がある。もし自己や皆の能力をもっと考慮に入れていたらそう簡単には起こらなかったと思う。もちろん現状の状態が悪いというのではない。もはやこうなった以上、建設的な心構えでいかなくてはなるまい。
・ 個人主義徹底のはずが、実際は全体主義復活と、利己主義の横行に終わっている。
・ ゼミは改革しなくてもできたはずで、改革以来の学力低下はひどいものだ。
・ 背伸びしすぎ、受験体制には勝てなかった。
・ 真剣に考えたものがどれくらいいるか。
・ 破壊されたものが多すぎた。
・ 自己改革なしえず。
・ 学校がバラバラになってしまった。(2人)
・ 真の改革はなしえなかった。(生徒自身が下降ぎみ)

<中間的意見>
1 闘争以来各人がバラバラになった。この状態は正常な高校生活とはいえないと思う。なぜなら高校生はまだ大人ではなく、大人の監視下にあると思うからで、正常な高校生活というものは、自由と義務がある割合で含まれている状態だと思う。
2 本質を知っているのは今3年のわずか。過去の出来事として葬り去られようとしている。五年後位には受験校上野が再スタートしようとしている。
3 今は何とも言えない。(4人)
4 今から考えると夢のように矛盾だらけだが、あのころの一つのことを真剣に考える態度はまさに若者、青年だと思う。
5 あの闘争は一部の生徒の行動が目立ったが、生徒の中にも多数の同調者がいたことは事実。本当は勉強につかれた苦痛が自分の生き方に迷った、そんなエモーションによってできあがったのではないか。
6 現在は最低の状態であるが、新しい芽が吹くときも間近か。
7 昨年ほど短時間にものを考えたことはなかった。
8 外部から熱病のように言われているが反論はできない。
9 起こるべくして起きた。「政治は力によってなされる」ということを実感した。
10 昨年のことより現状を見よ。
11 当然の結果に終わった。
12 現実ばなれしていた、日常生活に根をおろしていなかった。
13 理想と現実の差に。
14 私にはついていけなかった。
15 良悪両面あり。
16 その他。わすれた、無関心、授業がさぼれてよかった、大変楽しかった、はしかのようなもの」


 この他にも、紛争の一年後、二年後に出された多くのビラやパンフレットが改革後の荒廃を指摘している。ある全闘委のメンバーは、学校郡が都立高のレベルの目的を下げるのが目的だったなら、俺たちもその貢献者として表彰してほしいよ、と自嘲気味に語ってくれた。
 
 たしかに、前年、前々年から見られた学生の学校やそれを取り巻く社会への不満や憤り、1969年の10月にあった2週間以上に及ぶ話し合いの中で顕在化していった改革への思いがそこにはあった。だが、それらは、インタビューに答えてくれた人がいうように「徹底的な話し合いをしたからといって見えてくるわけじゃない」問題であった。

 その一つとして否定できないのが、バリ封自体への憧れであろう。インビューに応じてくれたメンバーの一人は、バリ封のための要求だった面もあると語った。要求の4と5、職員会議の公開と文部省指導要領の拒否というのは、学校側も絶対に飲めないと分かっていて、だからこそ要求に入れられたという。27日の雨中の集会はバリ封の理論的根拠を得るためのものだった。9月から各地の都立高ではバリ封が頻発し、上野高校でもバリ封をしなくちゃ面子がたたないという思いもあったという。バリ封後に出された『全闘委の質的内部変革へ向けて』というビラには、

「ついでに、……〈カッコよく〉バリをはってみたかった意識が全闘委にあったことは否定できないし、野次馬めいて、まわりで見ていたのも否定できないだろう。それがバリを成功させた要因の一つを形づくっていたなら、それゆえに全闘委はまたくずれていったとも言える」

とある。「バリ封」への憧れは強かったのだろう。
 そして、なにより勝ち得たものの重さであった。
「自由を与えられて、ためされた。だけどそれをみな生かしきれなかった。その後ろめたさがあるんじゃないかな」

自由を生かしきれなかったからこそ、バリ封の直後から「改革は欺瞞的だ」というビラを出し、卒業集会から「おれたちは敗北者だ」「こんな卒業式なんかおかしくって・・・」といいながら去っていく者がいたのだと思う。

バリ封から30年を経た現在においても、この問題は複雑な思いが交錯しあい、いまだ当時の関係者の多くは語りたがらない。同窓会でもきちんと話し合うのが憚られる雰囲気だという。紛争時3年生だった22期生が数年前の同窓会を開く際、幹事の集まり席でバリ封について話合いをしてみないかという提案がされたが、それをするにはまだ早いという理由で採用されなかったそうだ。あるクラスの担任だった教師は、何度誘われても同窓会への出席をしない。

 東京教育大付属駒場高校でバリ封をした四方田犬彦は著書『ハイスクール1968』の中で、次のように語っている。

「高校でバリケード封鎖に係わった者たちは、処分のあるなしにかかわらず、もっとも感受性が敏感でしかも社会的に無力な時期に、深く傷ついてしまったといえる。各人各様であるが、いずれもその傷から回復するのに、長い試行錯誤を重ねなければならなかった。−中略― わたしもまた、敗北の興奮が過ぎ去った後に到来する圧倒的なニヒリズムを克服するために、多くの試行錯誤を重ねてきたことを、ここに告白しておくべきだろう。−中略― おそらくわたしの属していた十九期の同級生のなかでも、いわゆる一般の生徒にあっては、この事件の記憶はとうに曖昧で希薄なものと化してしまっていることだろう。だが、ひとたび関わってしまった者がそれをめぐる倫理的決着を付けるには、時として予期しないほどの長い時間が必要であることも事実であり、わたしはここに書いている文章を通して、あまりにも長い間放置されてきたわが救済という問題に帰着をつけようとしているのである」

 しかも、上野高校では、幸か不幸か教職員の理解があり、ある程度改革が成功してしまった。他校のように、教職員や体制、はたまた他のセクトの所為にすることはできなかった。そんなことを語ってくれた人もいた。

バリ封の後、メンバーたちは何を思ったのか。そして30年以上を経た現在においても、語りたがらないのはなにを思ってなのだろうか。

第7章 「自主協調」
 1969年10月に起きたバリ封を中心に当時上野高校であったことを見てきた。バリ封当事者だった1969年の3年生と筆者の間にはちょうど30年の年月の差がある。筆者の同級生たちでこの問題について知っている人はほとんどいないだろう。自由な校風や規則の少ない学生生活を当たり前のものとしてとらえていた。そして多くの同級生たちは、自由な校風を好きだったと思う。
 だが、そうした校風も変わろうとしている。2004年度から赴任した校長主導(城善範校長)で制服を導入しようという動きがおきている。2004年度は生徒に対する説明会、職員会議でも理解が得られなかった。しかし今年、2006年度からの標準服(着用の義務はないが、行事等の際に着用が推奨される)の導入が決定した。こうした一連の動きが「校風」という無形の資産に、どのような影響を与えるだろうか。卒業生からは多くの反対の声が上がっている。
 2005年7月、筆者は母校を訪れ、この問題について副校長先生に話を聞いた。制服(標準服)導入の理由は、曰く「TPOにあった服装を教える必要が教師にはある」「自由には責任がともなう」「標準服なので、着たくない生徒は着なくてもよい」「制服(標準服)があるからといって、自由がなくなるわけではない」「在校生や受験生には制服へのニーズがある」「80年の歴史の中で、制服がないのは30年に過ぎない」「周囲の人の学校に対する目が厳しくなっている」などなど。どれもそれなりに正しく、否定するのは難しい。だが、やはりそうした主張の裏に管理への意思が感じられる。

 副校長への取材の中で、何度も反論したい場面があった。議論をすることがこの場の目的ではないので控えなければという思いもあったが、それ以上に上手く言葉にすることができなかった。一年近い間、多くの人に話を伺い、資料にあたりながら、この問題を考えていながら、上手く言葉にすることが出来なかった自分自身の不甲斐なさを感じた取材だった。

 そうした筆者個人の問題とは別に、「自由」というものを語ることには、固有の困難さがつきまとう(ちなみに、副校長は本校の教育目標の中には「自由」はないと言っている)。制服があったとしても、高校生活というのはそれほど変わらないのだろう。一見すると、現在の校長の言うとおり制服を導入することによって得られるメリットのほうが大きいのかもしれない。制服を着ないですむ、着ないことを選択できる自由から僕達はいったいなにを得てきたのだろうか。現在においてもそれを上手く言葉にすることが出来ない。だが、高校生として上野高校で感じることのできた自由のもつなにかは掛け替えのないものであるという確信はしている。
 
 このルポルタージュを書き終えようとしている今、拙い手つきながら「自由」というものを真剣に考え、そして行動した1969年の高校生、それを誠実に受け止めようとした教師たちの凄さを感じている。当事者たちが意図したものがどの程度達成できたかは別としても、上野高校がもつかけがいのない校風の源泉は確かにここにあると思う。少なくとも30年後の筆者と、そして同級生たちに有形無形の影響を与える程度には息づいていた(おそらく現在の在校生にとっても)。そのことをインタビューの最中、バリ封メンバーだった人に話したら、「恨まれてなくて良かった」と言った。執筆を終えて、改めて69年の出来事に感謝したいと思う。

終わりに代えて
 本ルポルタージュは、1969年に都立上野高校で起きたバリケード封鎖とそれに付随する出来事を、残された資料・証言を元に、同校の卒業生で取材・執筆時23歳であった筆者がまとめたものである。2004年に開講された東京大学先端科学技術研究センタージャーナリスト養成コースの課題として書かれた。2004年10月に「1969年の上野高校学園闘争(前半部)として未完のまま、同コースのウェブサイトに掲載されたものに、加筆・修正されたものである。前半、後半という区切りはなくし、本作をもって完成とする。多くの人にご協力を頂いた。改めて深く感謝したい。また、完成がここまで遅れてしまったのはひとえに、筆者の怠惰による。関係者には謝罪する。
 コースの課題として、ルポルタージュの執筆が与えられた時、母校の学生闘争をテーマにしようと思った直接のきっかけは、OBとして顔を出した部活の練習の際に聞いた制服導入問題である。どのような高校生活をおくるかは在校生自身が決めればよいと思う。だが、彼らが上高の自由な雰囲気を残していこうとするのならば、本作がわずかばかりのエールになればよいと思いながら執筆した。
 本作の最後の取材は母校での副校長へのインタビューだった。繰り返しになるが、在学中に母校で感じた「自由」の価値を上手く喋れず、己の不甲斐なさを実感させられるものだった。語りづらいものを語り続けようとする意思と能力。それらがなければ、「自由」のようなものは守れないだろうと実感した。


参考文献
村上龍1987年 「69」  集英社
秋葉安茂1987年「学校の草  近代文芸社
四方田犬彦2004年「ハイスクール1968」 新潮社
東京都上野高等学校研究部1972年「資料 上野高校の教育改革」
東京都立上野高等学校1969年「自主ゼミ実施集録」 
図書サークル1976年「自主ゼミ再考察 −昭和51年度 東叡祭参加作品―」
東京都立上野高等学校1994年「創立70周年記念誌 うえの」
森杉多1976年「自主ゼミ創出 −希望の教育−」 学事出版株式会社
校友会誌「創」委員会 1969年「校友会誌「創」昭和43年度」   
校友会誌「創」委員会 1970年 「校友会誌「創」昭和44年度」 
森杉多1994年「戦争と教育−ノモンハン・沖縄敗残兵の戦後―」   近代文芸社
柿沼昌芳・永野恒雄・田久保清志 1996年 「高校紛争」 批評社
大内文一・小川吉造・武石文人・山領健二1983年 「学校新聞からの証言」  新評社
杉本一1988年「高校生「第九」を唄う アア高校紛争」    
中沢道明1971年「高校紛争の記録」 学生社 
1969年「世界は業火につつまれねばならない」  しいら書房 


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