『1969年の上野高校学園闘争』高橋直純

5章−1 森杉多校長と教員たち
 話を聞いたすべての人が当時校長だった森杉多の人柄と教育理念によって紛争が穏便のうちに終了できたと言っていた。話を聞いたある全闘委のメンバーは「森校長はわかっていたよ。この人にはかなわない。たぬき校長の手のひらで踊らされた」と笑いながら語った。
 大正4年に生まれ、教員生活の最中に「ノモンハン事件」「沖縄戦」に参加。その体験を「空白の沖縄戦記」「ノモンハン事件従軍記」として本にしている。「空白の沖縄戦記」はテレビドキュメンタリーにもなっている。山形国際ドキュメンタリー映画祭2003公式カタログより引用する。

「―空白の沖縄戦記 沖縄住民虐殺35年― 放映日:1980年11月2日  沖縄戦の最中、沖縄本島北部で起こった日本軍による地元住民の虐殺のあり方に迫る。元日本軍の通信兵として沖縄戦で戦った森杉多が、沖縄に単身赴き、被害者の遺族に会って「日本軍の犯罪」を詫びる内容。ディレクターの森口は本作の制作を振り返る中で、虐殺に立ち会った元日本兵のひとり(森)が東京で生存している事実を探し当て「何としてもこの人と会い、真相に迫らなければならない」と決意。カメラの前で取材に応じる森の口からは、戦時中の凄惨な経験が明らかになる」

 戦争体験が彼のその後の教育理念に強い影響を与えたのは間違いないだろう。1994年に出された『戦争と教育』という本の中で、自身の戦争体験と教師経験が記されている。森校長は上野高校の受験勉強体制をかなり批判的に捉えており、生徒の要求を理解する姿勢を持っていた。『戦争と教育』より引用する。

「街頭の政治デモで警官隊の規制を無視したため警察に留置された者の釈放には校長がよく呼び出された。私は警察に、申し訳ないと低く頭を下げて、少しも感謝の表情などを表さず私を無言のまま睨みつける活動家を学校へ連れて帰り、保護者に引き渡すのだが、どう考えてみても活動家生徒の主張のほうが正しいと思うのだった。 −中略− 安保反対、沖縄無条件返還には私は沖縄戦を戦った一人として賛成であった。もちろん高校生が街頭に出て、ジクザグデモを繰り広げ、「安保反対」「沖縄返還」「全面返還」と叫び廻るより、学校で近現代史と政治を学び、正しい知識を父母や近隣に伝え、選挙も民主的にしてもらうほうがはるかに力になるとかんがえたけれども」

 森校長の下、平均年齢が38,9歳という若い教師達が9月のうちから改革案を作成していた。紛争後、わずかな期間で校内体制を改革できたのは、そうした準備があったからであろう。
 また教師の中には学生への心情的理解を示す者も多かったが、革マル、中核、民青の三派に所属する者がいなかったことも教師の統一行動をとる上で大きな助けになったとある教師は述べている。教師の中でも大きく意見が割れたそうだが、そうした教師の努力や生徒への理解なしでは、改革は上手くいかなかっただろう。筆者がインタビューをお願いした、ある紛争の解決に最も尽力した教師の手紙を引用してみたい。

「紛争のとき、教員のこわばった心がゆるみ、生徒の言うことをも聞いてみよう、分かってみようと思うように皆で動きだせたのは、職員会議の議論のなかで、私か誰かが、ボクらが高校生だったころあの戦争直後のなかで、(いわゆる「民主化」流行の時代)どんな気分で、どんな形で勉強(授業)をしたか思い出してみては?とめいめいの10代後半の頃のことを振り返り話合ったことがきっかけでした。教室・クラスの壁をとりはらうことや、自主ゼミも結構じゃないの、という考え、生徒心得などなくてもよいという発想は、こうして生まれたものだったのです。もちろん服装も自由でよいと」

 バリ封から2年後72年3月に森杉多校長は都立練馬高校校長へと転任することになる。上野高校を最後に勇退する校長が多いことを考えると、これは校長人事としては異例のことだという。転任の翌年度、72年6月2日号の東叡新聞に掲載された森校長へのインタビューを引用する。

校長 そうねえ。上高を追放されたみたいでねえ。
―知らされたのはいつですか?
校長 3月27日に電話がかかってきてね。意外だったよ。校長でない教師として居残ることをたずねてみたけれど、ダメなんだね。「前例がないから」だそうだ。
―そうなったことの心あたりがありますか。
校長 全然ない
    −中略―
―大変失礼になりますが、私達は先生が左遷されたのではないかと思いたくなるのですが。
校長 (真面目顔になり)そう思ってはいけないね。栄転というのも変だがね(笑い)もし君らがそう思っていて練馬の人がそれを知ったらどう思うだろう。そういうわけで俗世間ではそう思ってほしくない。でも僕自身そうなった格好に不満はない。なぜなら僕は上野を踏み台にして出世したくなかったからね。

―先生はこの間の卒業集会の時、「自由のこわさを君たちに教えてやれなかった」と、卒業生に話されましたが、そのことばから、最後に在校生に何か言ってください。
校長 上高生の中には、あらゆる束縛、統制から解放されて何でもできる状態を自由だと思っている人がいる。それは間違いじゃない。が、自由の第一段階なんだ。何でもできるということは、言い換えると何もしなくてもよい、ということになる。この第一段階のみの態度を取った人が闘争後には多いんだ。その自由は積極的な意味を持たず、高校生としてこれだけでは成長せず、無気力な状態に陥って、やがてヒットラーを望むようになる。実際、今の上高生は権力を求めているんじゃないかな。−後略―

 転任の理由は、闘争後の生徒に対しての対応が甘かったためとも言われているが、真相はわからない。


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