『1969年の上野高校学園闘争』高橋直純

5章−2 全闘委のキャラクター

 当時、社会問題研究会(通称社研)と呼ばれるサークルがあった。中核派・革マル派・民青の学生が在籍しており、後に全闘委になるメンバーの多くはここにいた。
 全闘委のメンバーの何人かは前年の12月ごろ中核派からオルグ活動を受けている。ある者はそのまま中核派に入り、またある者はその教条主義的な、そして学外の活動に重きを置く姿勢に違和感を覚え、入ることはなかった。中核派のリーダーも1969年春先の街頭デモの際、麹町署に拘留されてから政治的街頭活動に上高生を動員することに無理を感じ、それ以来上部機関に逆らうようになり、行動を「教育」にしぼるようになっていた。
 後に全闘委のリーダーとなるこの学生が剣道部に在籍していたため、全闘委には多くの剣道部にも在籍していた。メンバー全員の段位を足すと20段を超えた。体育会系的なつながりを持っていたのは上野高校紛争の特徴だとある教師は言う。基本的には仲良しグループからスタートした。
 当初は中核派だったメンバーもしだいにセクトの思想や行動様式に違和感を覚えだした。

「運動には興味はあるんだけど、彼らが戦っているものは少し違うんじゃないか。」

とあるメンバーは語った。
 こうしてセクトから離れていった学生たちが、授業をサボって部室でだべったり、勉強会をしていく中で全闘委を結成するメンバーが集まっていった。コアなメンバーは夏ごろには固まっていたという。

 社研に属するセクト中心の学生が運動の主導だったころには、一般の学生からは遊離しがちだったが、運動部を中心としてノンセクトの学生が加わったことによって、校内の人気を集めることができたという。当時、上野高校内には中核派と革マル派、民青の三派が存在していたが、脱中核派とノンセクト学生による「全闘委」に対してもっとも一般生徒のシンパシーが集まっていた。
 ちなみにセクトの学生とノンセクトの学生の組み合わせがバリ封を起すというのは他校でもみられた。県立佐世保北高校では社青同解放派の学生と村上龍などのノンセクト学生、東京教育大付属駒場高校ではブントの学生と四方田犬彦などのノンセクト学生によってバリ封がなされている。
 インタビューの最中、僕が村上龍は女子生徒に持てたくてバリ封をしたそうですよと言うと、メンバーだったある人は「その必要はなかった。僕らはもてていたから」と答えた。「どこかで、俺たちにならみんなもついてきてくれるんじゃないかという計算もあった」とも述べている。バリ封時、あるメンバーのヘルメットは、「アナーキー」を表す黒に「IS」という文字が書かれていた。「IS」とは「いいじゃないの、幸せならば」というその時期に流行った相良直美という歌手のヒット曲から取られた。セクトの大仰な漢字熟語中心の言葉より、ミーイズムから出発する率直な言葉のほうが多くの学生の共感を集めたと思う。
 バリ封後も彼らは分散していったかもしれないが、けして内ゲバのような争いに陥ることもなかった。先にも記したように、バリ封後全闘委は憧れを持って入ってくる新たなメンバーを得ている。


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