『1969年の上野高校学園闘争』高橋直純

第6章 闘争後の荒廃
 上野高校におけるバリ封を含む紛争が成功したと言われているのは、以上の2点によって説明できると思う。これは、改めて僕が分析したことではなく、多くの人によって言われていることである。
 バリ封は成功裏に解決し、その後校内体制は大きく改革された。多くのマスコミが注目し、そして賞賛した。では、その現実の姿はどうだったのだろうか。
 まず、改革の直後から、全闘委のメンバーはこの改革は欺瞞的なものとする批判的なビラや立てカンを出している。一連の改革も最大の攻撃目標としていた文部省指導要領の枠を超えることが出来ていなかった。東京都教育指導部長の北沢弥吉郎が1969年12月の『週刊朝日』によるインタビューの中で

「結構なことだと私は思いますよ。今まで大学受験を目指す考え方が強すぎた。今の指導要領のワクからはみ出しているわけではないし、しかも従来の高校教育のワクを一歩踏み出したことを、私は高く評価しています」

と述べているように体制側も十分に認める範囲のものでしかなかった。

 さらに、一般学生においてはどうだったのだろうか。卒業単位が85単位に削減されたため、3年生においては実質的に単位取得の必要性が大幅に減少した。クラスがなくなり、クラスメイト同士で顔を合わせることもなくなってしまった。登校時間もばらばらになり、ゼミ形式なので顔を合わせるのも限られたメンバーだけである。この状況は卒業するまで変わらなかった。ある人はバリ封後の学校の印象は「暗かった」と語った。
 翌年から自主ゼミは徐々に衰退していく。バリ封から2年後、バリ封時2年生だった学生が卒業間近に書いた『日和見者の小唄』というレポートの中を引用する。

「現在、上野高校に〈自主ゼミ〉があるのか、ないのか、わからない。しかし、どんな形の〈自主ゼミ〉にしても、あまり歓迎を受けてないように思われる。教師にとってお荷物であり、生徒にとって重荷である。受験というような直接的利益に結びつくなら、まだやる気もするかもしれないが、それは、「学校」で〈ゼミ〉などやらなくてもことはすむ」

 一般生徒がどのように闘争をとらえていたのかを知るために、1970年の交友会大会(文化祭)時に、3年生有志と新聞部が共同で行った展示のためのアンケート結果の一部を見ていきたい。全文を引用することにする。3年生とあるのは、69年には2年生だった生徒たちである。回答数は151人。

「(問) 昨年の上高闘争についてどう感じていますか
<肯定的意見>
1 いろいろなことを考えさせた点において有意義だった(6人)
2 自覚を促した、自己を意識、政治・人生観などにめざめた、あるべき高校生活、受験体制について意義があった(10人) やってよかった、すばらしい
3 意義はあったがみのりなし、運動が継続しなかった、受験という壁で思うことができない、その精神は急速に消滅せんとしている。これから維持する困難、全生徒に伝えていくことが大切、自分の意志が弱いので試験・通知表の廃止で勉強するかいがなくなった。(7人)
4 その他
・ あの闘争は絶対的に必要、必然なものであった。その後の混乱は、以前の教育から僕らが受けた「受け身」「自主的でない」ことによるもので、この混乱は当然のものだ。しかし、それをのりこえないかぎり、よく真に近代的な学校はできあがらないだろう。そして何度でも昨年の闘争のようなことがくりかえされるだろう。
・ 解放区バンザイ! 解放区の中で時間は止まる。物は存在物であることをやめ、物自体に回帰する。そしてその中でオレは支配者になる。すべての王、われこそは神ぞ。
・ 学校生活において一つのよい経験。
・ 今になるとそんな気持もわかるように思う(2人)
・ 個性を出したことは確か。バラバラの中に淘汰された人々のつながりがある。1組などはそのよい例。体制ベッタリの人に大きな転換をもたらした。私にとってもプラスだった。
・ 各人が現在行動しているならそれでよい。
・ もし闘争がなかったら、順調に受験勉強にはげんで、番付が目の前にチラついて青白くなっていただろう。ゾッとする。

<否定的意見>
1 なんの意味もなし(13人) むだ、ばかばかしい、心情三派、つまらない、一時的動揺、
しない方がよかった、今年と去年の入試状況を比較すればアキラカ。

2 一部の生徒によってなされた感じ(14人) 排他的過ぎた全闘委、傍観者多し、無関心、
無発言全校集会が多く、すみずみまでいきわたらなかった。

3 その他
・ 特に指導的立場の中のほとんどは冷静を欠き、単に一時的興奮の結果、旧体制を破壊した感がある。もし自己や皆の能力をもっと考慮に入れていたらそう簡単には起こらなかったと思う。もちろん現状の状態が悪いというのではない。もはやこうなった以上、建設的な心構えでいかなくてはなるまい。
・ 個人主義徹底のはずが、実際は全体主義復活と、利己主義の横行に終わっている。
・ ゼミは改革しなくてもできたはずで、改革以来の学力低下はひどいものだ。
・ 背伸びしすぎ、受験体制には勝てなかった。
・ 真剣に考えたものがどれくらいいるか。
・ 破壊されたものが多すぎた。
・ 自己改革なしえず。
・ 学校がバラバラになってしまった。(2人)
・ 真の改革はなしえなかった。(生徒自身が下降ぎみ)

<中間的意見>
1 闘争以来各人がバラバラになった。この状態は正常な高校生活とはいえないと思う。なぜなら高校生はまだ大人ではなく、大人の監視下にあると思うからで、正常な高校生活というものは、自由と義務がある割合で含まれている状態だと思う。
2 本質を知っているのは今3年のわずか。過去の出来事として葬り去られようとしている。五年後位には受験校上野が再スタートしようとしている。
3 今は何とも言えない。(4人)
4 今から考えると夢のように矛盾だらけだが、あのころの一つのことを真剣に考える態度はまさに若者、青年だと思う。
5 あの闘争は一部の生徒の行動が目立ったが、生徒の中にも多数の同調者がいたことは事実。本当は勉強につかれた苦痛が自分の生き方に迷った、そんなエモーションによってできあがったのではないか。
6 現在は最低の状態であるが、新しい芽が吹くときも間近か。
7 昨年ほど短時間にものを考えたことはなかった。
8 外部から熱病のように言われているが反論はできない。
9 起こるべくして起きた。「政治は力によってなされる」ということを実感した。
10 昨年のことより現状を見よ。
11 当然の結果に終わった。
12 現実ばなれしていた、日常生活に根をおろしていなかった。
13 理想と現実の差に。
14 私にはついていけなかった。
15 良悪両面あり。
16 その他。わすれた、無関心、授業がさぼれてよかった、大変楽しかった、はしかのようなもの」


 この他にも、紛争の一年後、二年後に出された多くのビラやパンフレットが改革後の荒廃を指摘している。ある全闘委のメンバーは、学校郡が都立高のレベルの目的を下げるのが目的だったなら、俺たちもその貢献者として表彰してほしいよ、と自嘲気味に語ってくれた。
 
 たしかに、前年、前々年から見られた学生の学校やそれを取り巻く社会への不満や憤り、1969年の10月にあった2週間以上に及ぶ話し合いの中で顕在化していった改革への思いがそこにはあった。だが、それらは、インタビューに答えてくれた人がいうように「徹底的な話し合いをしたからといって見えてくるわけじゃない」問題であった。

 その一つとして否定できないのが、バリ封自体への憧れであろう。インビューに応じてくれたメンバーの一人は、バリ封のための要求だった面もあると語った。要求の4と5、職員会議の公開と文部省指導要領の拒否というのは、学校側も絶対に飲めないと分かっていて、だからこそ要求に入れられたという。27日の雨中の集会はバリ封の理論的根拠を得るためのものだった。9月から各地の都立高ではバリ封が頻発し、上野高校でもバリ封をしなくちゃ面子がたたないという思いもあったという。バリ封後に出された『全闘委の質的内部変革へ向けて』というビラには、

「ついでに、……〈カッコよく〉バリをはってみたかった意識が全闘委にあったことは否定できないし、野次馬めいて、まわりで見ていたのも否定できないだろう。それがバリを成功させた要因の一つを形づくっていたなら、それゆえに全闘委はまたくずれていったとも言える」

とある。「バリ封」への憧れは強かったのだろう。
 そして、なにより勝ち得たものの重さであった。
「自由を与えられて、ためされた。だけどそれをみな生かしきれなかった。その後ろめたさがあるんじゃないかな」

自由を生かしきれなかったからこそ、バリ封の直後から「改革は欺瞞的だ」というビラを出し、卒業集会から「おれたちは敗北者だ」「こんな卒業式なんかおかしくって・・・」といいながら去っていく者がいたのだと思う。

バリ封から30年を経た現在においても、この問題は複雑な思いが交錯しあい、いまだ当時の関係者の多くは語りたがらない。同窓会でもきちんと話し合うのが憚られる雰囲気だという。紛争時3年生だった22期生が数年前の同窓会を開く際、幹事の集まり席でバリ封について話合いをしてみないかという提案がされたが、それをするにはまだ早いという理由で採用されなかったそうだ。あるクラスの担任だった教師は、何度誘われても同窓会への出席をしない。

 東京教育大付属駒場高校でバリ封をした四方田犬彦は著書『ハイスクール1968』の中で、次のように語っている。

「高校でバリケード封鎖に係わった者たちは、処分のあるなしにかかわらず、もっとも感受性が敏感でしかも社会的に無力な時期に、深く傷ついてしまったといえる。各人各様であるが、いずれもその傷から回復するのに、長い試行錯誤を重ねなければならなかった。−中略― わたしもまた、敗北の興奮が過ぎ去った後に到来する圧倒的なニヒリズムを克服するために、多くの試行錯誤を重ねてきたことを、ここに告白しておくべきだろう。−中略― おそらくわたしの属していた十九期の同級生のなかでも、いわゆる一般の生徒にあっては、この事件の記憶はとうに曖昧で希薄なものと化してしまっていることだろう。だが、ひとたび関わってしまった者がそれをめぐる倫理的決着を付けるには、時として予期しないほどの長い時間が必要であることも事実であり、わたしはここに書いている文章を通して、あまりにも長い間放置されてきたわが救済という問題に帰着をつけようとしているのである」

 しかも、上野高校では、幸か不幸か教職員の理解があり、ある程度改革が成功してしまった。他校のように、教職員や体制、はたまた他のセクトの所為にすることはできなかった。そんなことを語ってくれた人もいた。

バリ封の後、メンバーたちは何を思ったのか。そして30年以上を経た現在においても、語りたがらないのはなにを思ってなのだろうか。

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