『1969年の上野高校学園闘争』高橋直純
第2章 1969年の上野高校
次に、上野高校の当時の状況についてみていきたい。60年代は都立高全盛の時代であった。日比谷高校、西高校、戸山高校などの名門高校が東大合格者出身高校ランキングで上位を占めていた。下町の進学校として上野高校もその例に漏れず、東大に何人合格するかが毎年年度末の話題になり、64年度には東大合格者40人となり全国ベスト10にランクされた。上野高校の前身は旧制市立二中であり、ナンバースクールと呼ばれた日比谷高校や西高校などの旧制府立中学校が前身の高校への対抗意識も伝統的にあった。
当時の受験体制を知るために、『上野高校創立70周年記念誌うえの』の中から69年2年生だった生徒の発言を引用してみる。
「入学時に、志望校はどこだと言われて東大と書かないと、非国民扱いされる(笑)」「上野高校の場合は、だいたい三年間のことを二年弱で終わらせるということ」「駿台予備校の模擬試験と上野高校の普通の定期テストの平均点で駿台の方が高いようであれば問題が悪いと豪語していた」
1961年度に校内で発行された歌集には次のような遊び歌が掲載されている。
「上高ブルース
1 常磐京成に乗せられて
ゆられゆられて行く先は
その名も名高き受験校
東京都立上野高校
2 上野の森のヘイの中
そこに地獄があろうとは
夢にも知らぬシャバの人
受験地獄の一丁目」
こうして加熱する一方の受験体制は、しだいのその弊害が社会問題化していった。当時、新入生の間では毎年上級生の中で受験を苦に屋上から投身自殺を図った人がいるという噂がまことしやかに流れていた。68年の卒業式間近に出された『声明』と題されたビラより、当時の学生生活を学生自身がどのようにとらえていたかを見てみたい。
「この3年間――即ち1965年から1968年、私達にとっては15歳から18歳――は一体何だったのだろうか? 私達はその問いを繰り返す。それは充実した日々だったろうか? 不毛の歳月だったろうか? 総体として見るならば、上野高等学校の生徒にとっての最大関心事は「大学」であり、それ以外の何ものでもなかった。3年間、ひたすらこの「大学」のみを唯一の現実と認識し、その他一切に参与することを拒絶し続けるのである。きわめて狭量な現実認識の上に立って、無関心の、無感動の、無責任の日々を送った者がいないと誰が断言できる?」
こうした加熱を極めた受験体制を緩和する目的で67年から導入されたのが、都立高校入試における「学校群制度」である。簡単に説明すると、都立高校を地区ごとに二〜四校のグループに分け、地区の生徒には特定の高校ではなく、その「群」を受験させる。合格圏内に入れば、機械的にそれら二〜四校に配分するというものだ。上野高校は白鴎高校と第52郡学校群を組むことになった。ちなみに1949年まで上野高校は男子校、白鴎高校は女子校であった。
学校群制度により「・学校の格差がなくなる。・高校受験の過当競争の緩和。・過激な校風の是正。(東叡新聞66年9月24日号より)」が成果として達成させられると言われていた。学校群制度の影響はすぐに現れることになる。学校群制度導入後は各都立高の進学実績、端的にいうと東大合格者数が目に見えて減少していった。都立高校が進学において遅れをとるようになるにつれ、私立高校受験の厳しさが増していった。学校群制度導入の経緯について取材した元毎日新聞記者で法政大学教授の奥武則は著書『むかし〈都立高校〉があった』の中で「都立高校の自由で個性的な学校文化は失われ、逆に受験戦争は過熱化した」と指摘している。学校群制度は82年まで続いた。ちなみに現在では都立校入試での学区制限は全てなくなっている。
学校群制度で入学してきた学生は多くの困難を抱えることとなる。郡で選抜されるため、上野高校を第一志望としなかったのに入学してきた生徒もいた。学校群のペアとなった白鴎高校は旧制府立一女であり、特に女子には白鴎を希望しながらも上野高校に来ざるを得なかった者が多かった。
また、総じて学校群制度で入学してきた生徒はそれ以前の生徒に比べると学力が劣る傾向にあった。68年には学力低下が顕在化し「上野高校の曲り角」だとの認識が広まっていく。教師はそれまでの名門校としてのプライドもあって、以前と比べるような形で叱咤激励することも多かった。教師だけでなく上級生も全校集会の席などで、上野高校の伝統を守らねばならないとアジテーションのような演説をすることもあった。学校群制度ではじめて入った学生の一人は、暖かく歓迎されて入学したという印象はないと述べている。当時の教師の一人は、そのことが生徒に鬱屈とした感情を抱かせてしまったと語った。
学校群以前に都立新宿高校の生徒だった筆者が書いた『むかし〈都立高校〉があった』という本のタイトルも、学校群以前の都立高校が本当の都立であり、それ以降は都立高校ではないという意味でつけられている。学校群以前を知る者たちの、そのような意識が学校群制度で入ってきた学生へのプレッシャーになったのは間違いないだろう。
新聞部発行の『東叡新聞1968年9月22日号』にはアンケート特集「教師と生徒の関係は?」が組まれている。特集は次のようなリード文で始まっている。
「現在、全国で約五十校の大学が「学園紛争」の状態にある。その原因は複雑で一言では言えないが、教授と学生間の相互信頼の欠如がその一つであることは疑うことのできない事実であろう。そしてまたこの相互信頼の欠如は高校においても例外ではない」
「現在の先生・生徒間の関係に満足か?」という問いに対しては
満足している 一年52% 二年19% 三年38% 教師20%
満足していない 一年42% 二年78% 三年59% 教師80%
となっている。
2年生が際立って満足をしていないと答える割合が高い。この学年が学校群制度入学者第一期生であり、3年生となる翌1969年に闘争当事学年となった。
また「学園紛争の原因は?」という問いに対しては、数字の記載はないが「相互理解の不足、対話の不足」が原因として最も多くあげられている。
69年に都立の各校でバリ封の主体となる3年生は学校群制度で入学してきた最初の生徒たちだった。