『1969年の上野高校学園闘争』高橋直純
第3章 上野高校学園紛争
3章―1 バリ封にいたるまで
学園紛争のピークは多くの高校で1969年9月から12月の間にくることが多かった。しかし、当然のことだが、突然校舎がバリケードで封鎖されるわけではない。まずはバリ封の前年度に当たる1968年3月までを見ていきたい。
◎1967年度
この年、バリ封時3年生となるが学校群制度一期生として学生が入学してくる。最初の教師と生徒の目立った対立としてあげられるのが1967年のサンダル問題である。6月に生徒の規律向上のため、学校側が上下履きとしてサンダルを禁止することに端を発するこの問題は、3年生の有志が抗議行動を起こしホームルーム決議による白紙撤回要求が出されるにいたった。しかし学校側は決定事項を撤回しないことを全校生徒に伝える。3年有志は全校集会への発展を望んだが、禁止の決定は覆らなかった。
また、1968年は2月11日に建国記念日が制定されたはじめての年だった。この問題を話し合うために全校集会が開かれた。2月11日を祝日とすることは国家による反動的行為であるとし、抗議のための同盟登校(休日だが抗議の為に登校すること)が提案されるも、結果的に否決された。
サンダル問題で抗議行動をした3年生有志は、卒業式で反戦バッチをつけ、「君が代」斉唱時に起立しないという行動をとる。式後、校長・学年主任・学級担任および卒業生一同に『声明』文章を手渡した。一部を引用する。
「生徒の己に対する信頼を要求するのみで、生徒の言動には一遍の信頼すらもかけようとしない教師を私たちは許すことはできない。私達には、教師はわれわれとともに在るという意識を持ち得ないことに対する焦燥感がある。教師と生徒との間に亀裂が存在することは不幸なことだと私たちは考える。私達の志向が教師によって繁く阻害される事実の中に、その不幸は集中的に表れている。−中略― 学友諸君! 教師のみなさん! 私達は根無し草だ。だが私達は雑草だ。右声明する」
この「根無し草」という表現は当時の上高生を表現する比ゆとしてしばしば使われていた。当時社会科教師だった秋葉安茂は後に『学校の草』という題で、学園闘争を題材とした小説を発表している。
生徒会活動の沈静化が進んでいた中、この事件は下級生たちに強烈な印象を与えた。
◎1968年度
学校群制度になって2回目の生徒が入学。学力低下が顕在化し、現状は「上高の曲がり角」だとの認識が教師の間で出だす。この年、闘争の解決に大きな影響を与える校長森杉多が新たに赴任してきた。森校長は「根無し草」の高校生を内面から知りたいとして3年日本史を週4回担当し、昼食時には生徒を数名ずつ読んで雑談をした。
11月30日は全都反戦闘争実行委員会主催の高校生による反戦集会が開かれた。上野高校からも約20人の生徒が参加。上高教師も様子を見に行ったそうだ。
翌年1月19日には全共闘が立てこもっていた東大安田講堂が「落城」。その様子が校舎の窓から見えた。上野高校から東大本郷キャンパスは歩いても15分ほどの距離である。多くの卒業生もいたため、東大の情勢は上野高校生に大きな影響を与えていた。この年、東京大学は入学試験を中止している。
そうした中、卒業式が近づいていった。卒業式の4ヶ月前から「卒業式準備委員会」が結成される。これは各クラス2人の生徒委員と教師によって構成されている。興味深いことに、職員会議で「君が代」の代わりに「校歌」「蛍の光」を歌うことが決まっている。卒業式についての3年生へのアンケートで、「君が代」を歌ったほうがいいという生徒が過半数をぎりぎり超えたにすぎなかったため、問題が発生するかもしれないとの配慮の結果だという。
◎1969年3月18日 分裂卒業式
だが、受験もあらかた終了した3月の中旬になると、卒業式とは高校生活の総括であり、討論会を主たる内容とする卒業生、在校生、教師の自主集会とするべきだという声があがりだした。この声をあげたのが、3年3組を中心とした「三年三組卒業式研究会(通称ミミ研)」と呼ばれる有志集団である。彼らは教育基本法、学校教育法、学習指導要領などを調べ、ガリ版刷りのパンフレットを一週間ほどで作成した。その内容を要約してみる。
「高校とは主体的に教育を受けるべき場であり、本来の教育は対話であり教育の主体は生徒であるべきだ。卒業式とは高校生活の総括の場であるべきである。しかし、この定義を採用すると、上野高校では真の教育はありえず、現状のままだと今後もありえないだろう。現行の卒業式は対話の場ではない。対話・自由発言の場としての卒業式こそが今後の教育の発展の場になるはずだ」
多くの大学や他の高校で見られたような「帝国主義的儀礼を拒否する」というような、教条的、左翼的な言説に彩られることはなかった。「教育」に闘争の主眼を置くことは、これ以後も上野高校では一貫していた。
3月11日ごろから校内は騒然とした雰囲気に包まれだす。ミミ研の他にも、卒業式そのものの粉砕をもくろむ「粉砕派」と呼ばれる学生も数名現れ、校内でアジテーションをおこなった。学生は、実行委員会、ミミ研、粉砕派のいずれを支持し、どのように行動するかを選ばなくてはならなかった。卒業式前日、学年集会が開催された。夕方4時過ぎに始まった集会は、はやばやと粉砕派の主張は退けられ、8時近くまで実行委員会による通常の形式の卒業式と、ミミ研による自主集会のどちらを行うかが話し合われた。最終的には卒業式に賛成する生徒百数十名、自主卒業式が九十余名となり、卒業式が行われることが決まった。
翌日、卒業式に出席するものが四分の三程度、残りは校庭に集まった。卒業式自体は大きな問題もなく終了した。ここで卒業生のアンケートによって書かれた答辞の一部を引用しておく。
「私達は空虚感に陥りました。久しく心の底から笑うことも、感動することもなくなり、私達を"受験生"として見る周囲の眼によって自由に外出することや本を読むことさえつつしまなければならないほどでした。−中略―それが益々、自己嫌悪を生み出し言いようのない絶望、孤独、無気力にさいなまれた記憶があります」
このように答辞らしからぬ高校生活にたいする煩悶が延べられた。しかし、最後のほうでは
「このような問題に対して私達高校生の中に、何とか解決していこうとする努力の兆しが芽ばえ始めています。生徒のみならず先生との対話を積極的に復活させようとする研究会の試み、討論会、自由サークルの活動などはその表れといえないでしょうか」
とあり、後輩に対して
「あなた方を取りまく身近な問題に真摯な態度で取り組み、自ら考え、満足できる行動を取ってください」
と述べ、閉められている。
卒業式の最中も校庭では自主討論会が行われていた。粉砕派のリーダーは他校の生徒を応援に呼ぶも、警備係りの説得で退去していった。
卒業式終了後には、討論会に校長も出席。校長へのつるし上げは執拗なものとなった。初めてこのような情景を見た、保護者の中にはショックを受けたものもいたという。討論会はますます熱を帯びていく中、PTA会長が発言をも求めて壇上に上っていった。この会長は、戦時中は陸軍大尉であり、現在は家具製造会社の社長という人物だという。彼の話は次のようなものだった。非常に印象的なので、『自主ゼミ創出』の中で紹介されている言葉をここでもすべて引用してみたい。
「私にも一言言わせてもらいたい。このように先生方と生徒諸君がともに満足できるような教育を求めて話し合うことは立派なことだと私は信ずる。大いにやるがいい。しかしここにいる200名くらいの生徒諸君の中で、現実にある大学入試に合格しなくてもいいと、しっかり腹に決めているものは何人くらいいるだろう。あまりいない、と私は思う。現実に目の前にあるものは、完全とは言えないが、なければならない理由と、それだけの価値があってのことだと私は思う。この堀の向こうに道路があることは、われわれ上野高校にとってはじゃまだ。第二グラウンドに行くのに大変じゃまだ。だからといってあの道路を直ちになくすわけに行かない。大学入試、受験教育を改善するための討論会をいくら続けても、結局はどうにもならないところがどうしても残る。さきほどの卒業式の立派な答辞の中にもあったように、先生と生徒が静かに話し合って、学校内で改善できることを改善するのはまことに結構なことだと思う。しかし今日は卒業式である。諸君誰しもがほんとうは心の中で感じている学校や先生方や家族や社会に対する感謝の気持ちを表すべき日だ。感謝の気持ちは口に出さなくてもいい。けれども、人間として大切なその気持ちがあったら、この集会はここら辺で、校歌でも皆で歌って、めでたく整然と散会にしたらどうだろう。私のいいたいことはそれだけです」
この言葉により集会は感動的に終わったと『自主ゼミ創出』は記している。主義主張や論理ではなく、このような情を前面に押し出した意見によって、解決に向かうところが高校生による運動の特徴といえるかもしれない。
3月下旬に行われた最後の職員会議では卒業式問題についての総括が職員間で行われている。各自の意見を表明するにとどまったと記録されているが、問題の根底には、生徒は教育とは何かをという真摯な問いかけをしていると解釈する者と、単なる家庭環境と性格において特殊な生徒が先導したにすぎないとする者に分かれた。『上野高校の教育改革闘争』という教員研究部が出したレポートには
「すでに43年以来、教育改革について討議がなされていながら、実はこの二つの見解について対立を徹底的に掘り起こし討議を深めておかなかったことが、44年度の教育方針をめぐっての教師集団の現状分析、具体的改革立案能力を鈍化させたように思われる」
と記されている。