『1969年の上野高校学園闘争』高橋直純

3章―2 バリ封
◎1969年 前期
 4月4日の始業式以降、学生の間では生徒会、ホームルーム、学校行事などについての討議が行われるようになった。分裂卒業式の影響は明らかである。4月23日の職員会議で生徒の掲示・伝達・集会の自由が長時間の議論を経て可決された。教育庁通達では高校生の政治的活動はきびしく制限されていたが、これは実質的に認めるものであった。これにより立てカンなどが校門などで目に付くようになった。
 5月に出された立てカンの中には「番付」と呼ばれたテスト毎に生徒上位者の氏名を公開する制度の廃止を訴えるものがあった。この立てカンは生徒、教師の注目を集め1ヵ月後には番付は中止された。
 その一方で生徒会は徐々に崩壊していった。4月23日には2年生の新生徒会長と副会長が選出された。しかし5月21日の生徒総会は、新生徒会長による改革案や予算案などの重要な議題があるにもかかわらず不参加者が多く流会となった。生徒会は入りたくて入った組織ではなく、入会させられたにすぎず、自主を装う非自主的集団に入ることを拒否する、という趣旨の立てカンが出された。
 当時から前期後期の二期制だった上野高校では毎年前期の最後には交友会大会と呼ばれる文化祭が行われる。ここで後にしこりを残す2つの事件がおきた。一つは「交友会大会の歌」を募集し、当選作を決めるにあたって生徒と担当教師の間で意見が一致しなかったこと。もう一つは、討論会委員会が、顧問教師に内容を知らせず反戦映画を上映しようとし、それを校長が調査しようとしたことを交友会大会弾圧と討論会委員長が言い出したことだった。この委員長は後にバリ封行動隊長になる。交友会大会の講演者はべ平連事務局長の吉川勇一氏だったいうところに時代を感じる。展示や討論会では教育課程答申、指導手引書への批判なども行われた。

◎1969年 バリ封前夜
 9月27日後期始業式。生徒会長が突然発言を求め、交友会大会が失敗したのは学校側の不当な干渉によるものだと発言した。ひどく興奮した状態での発言だったという。10月8日は後期生徒会会長の選挙が行われる予定であったが、立候補者がなく中止になった。それに先立ち2年5組では生徒会役員の選出を拒否。10月3日に「生徒会についてみんなで考えていこう」というビラが刷られ、2年5組の生徒会役員拒否は、全校に広がっていった。

 10月9日木曜日、3年4組で18時過ぎまで討論会が開かれた。議題はホームルーム制や成績についてであった。翌週13日月曜日にも再度討論会が開かれ、そして14日には授業ボイコット、自主討論会へとつながっていった。15日には定例の全校集会が昼休みに行われた。通常の全校集会では全生徒教師が校庭に集まり、校長訓話や教師の注意、生徒会の連絡などが行われるのが慣わしであった。この場で、3年4組有志は「授業とはなにか?」という問いを投げかけ、そして授業ボイコットが呼びかけられた。『自主ゼミ創出』では

「集会そのものが、活動家の生徒にのっとられようとして、ただならぬ雰囲気に包まれていた」

とある。集会は教師の判断により解散、提案に関してはクラス毎に話し合い、話し合いが終わり次第授業に入るということになった。
 翌年2月に発行された校内の文芸誌『創』には、「上高の改革」という特集が5Pほど組まれている。これは、おそらくもっとも早い学園闘争に関するまとまった文章だろう。編集委員はみな学生である。一部を引用する。

「この(全校集会)盛り上がりは、四十三年度の分裂卒業式、校友会大会での問題提起、後期役員拒否=生徒会の空洞化を経て、各個人が一人の人間として生きようとするものだった」

 10月18日土曜日にも3年、2年生の有志が携帯スピーカーで自主的集会の要求、学校側はこれを認め2限3限はすべて集会となる。討論内容は試験制度、単位制、カリキュラムの3点だった。討論会の最後に試験制度の廃止が要求として出され、学校側は2日後に回答すると約束し散会した。学校側は連日長時間の職員会議を行い最終的には10月21日からの中間考査を中止し、教育過程、評価の問題を再検討することを決定した。20日月曜日にも全校集会が開かれ、校長より発表された。この決定は多くの生徒に驚きと安堵を与えた。これにより1,2年生のほとんどのクラスで平常授業が再開された。しかし3年生の各クラスでは授業のほとんどが討論となる。
 時を同じくして3年闘争委員会、2年教育改革委員会が結成された。革マル派、民青はいずれにも合流しなかった。職員研究部による資料では

「全闘委(全日制闘争委員会)に結集していくグループは、いわばノンセクトラジカルズであり、上高生徒大衆の多数をつかむという問題が煮詰まりだしたのが、10月20日以降の一週間であったといえよう」

と記されている。
 学校側は22日には現行の試験制度の廃止、通知表の廃止、評価・単位については教科ごとに基本方針を打ち出すことを決定する。
 2,3年生の有志集団は、この一週間の間に現行指導要領を購入し検討、カリキュラム編成の思案等を進めていった。2年生有志より単位制・生徒心得・顧問制、部室管理について、3年生有志より単位制・自主ゼミについて問題提起され、立てカンやビラなどの形で一般生徒へのアピールがされた。
 2週間近く続いた討論は、しだいに内容が煮詰まってくると同時に行き詰まりを感じさせ、答えの出にくい問題を扱っていたため泥沼の様相を見せてきた。
 そんな中10月27日月曜日、全闘委を結成することになる生徒とその同調者が全学生に対し五項目の要求を学校全体の問題とするべく全校集会を呼びかける。五項目の要求とは次のとおり。

1 クラス別時間割を廃止し、自主ゼミナール85単位の中に認めよ。
2 生徒会各機関の顧問制を廃止せよ。
3 生徒心得を全面撤廃せよ。
4 職員会議を公開し、傍聴を許可せよ。
5 「文部省指導要領」を拒否し、文部省に対して拒否声明を公示せよ。

 しかし雨が振っていたこともあり30人程度のメンバーだけの参加であった。学校側に対しては校長のみを呼び出し、回答を要求。森校長の著作『戦争と教育』の中に、この時のことが記録されているので引用してみる。

「昼前、校庭に全闘委とその同調者が集まり、五項目要求貫徹集会が始まった。職員室では鈴木教頭・大江生徒部部長・田中教務部長らと話し合っているところに、全闘委の行動隊長がやってきて、校長一人が集会に出るよう求められた。私は五項目については教頭・教務長・生徒部長らと相談しながら全闘委との話し合いを進めようと思い、三人に同行を促したが、行動隊長は冷たく「校長ひとり」ときびしく言った。私は、これが大学・高校闘争での各セクトの慣例かと諦めて雨のそぼ降る校庭の指揮台に近づいた。三十名くらいが水たまりの出来かけたコンクリートの上に腰を降ろして私を迎えた。二、三階の窓からは、強い関心や「野次馬」顔の生徒たちが集会を見下ろしていた。全闘委の一人が開いた傘を私に差しかけようとした。私は、「ゆっくり話そう。皆体育館に移ろう」と傘をしりぞけたが行動隊長は叫んだ。「雨が何ですか。全校生徒のためにわれわれは雨にぬれてやっている。」そんな言い廻しは、軍隊では小心な下士官の自己顕示の常套句であったな、とちらと思い出しながら私は指揮台に立った」

校長がこの場での回答は出せないと答えると、全闘委側はこれを要求への全面拒否と確認し、集会を散会した。このとき、3年闘争委、2年教育改革委中心として全日制闘争委員会が結成された。

 そして翌日よりバリ封が始まる。全闘委のメンバーはこの夜、メンバー宅に泊まり、翌日に備えた。

◎バリ封 
 10月28日火曜日、早朝5時、全闘委約10名は本館一階のうち職員室、応接室、校長室、用務員室をバリケード封鎖した。都立各校でバリ封がおこっていたため、校長は警戒して校長室に泊り込んでいた。そのため学生5人で強制的に引きずりだし、退去させることになった。ちなみに職員研究部の資料ではその際、「その振る舞いは無作法な振る舞いではなかった。」と記されている。同じように、バリ封を予想していた教師数名も校内に宿泊していた。
 一般の学生が登校してくる時刻になると、バリ封の学生たちは校庭デモを開始した。『自主ゼミ創出』より引用する。

「ピッピィ、ピッピィとなる笛の音に合わせて、『闘争―、勝利』『闘争―、勝利』の掛け声高く、狭い校庭をじぐざぐ前進する花々しい武装隊列は、学校を一種のお祭り気分に湧き立たせた。登校してきた生徒の反応はさまざまであった。ついにやったか、と胸を躍らせる興奮の顔、バカなやつらだと舌打ちしただけで教室へ急ぐ三年生、げらげら笑いさざめきながら「仮装行列」に拍手をおくる女性徒たち。中には、腕組みをして見物している沈黙の教師に、あの無法を許しておくのか、と喰ってかかる生徒、われ関せず、と今日の午後の球技大会にそなえてバレーボールの練習を始めるグループもあった」

10月28日(火)        (※以下の時間表は『戦争と教育』より引用)
8:10〜8:15 職員打ち合わせ
9:00〜9:30  校庭全校集会(校長より全校生徒に現状報告)
9:30〜10:00 ホームルーム
10:25〜11:10 職員会議
11:30〜12:30 講堂で全生徒に五項目要求説明(校長他)
14:40〜22:15 職員会議(五項目要求中心に審議白熱)

 午前中は全校生徒を講堂に集めて全校集会が行われた。ヘルメットをかぶったバリ封学生も参加している。
校長から事件の経緯と要求に対する回答が述べられた。
1 85単位以上をもって卒業認定の単位とし自主ゼミは当該教科の指導によって条件をみたすものは単位として認める。(なお、クラス別時間割の全面的廃止は不可能だが、同時開講制、選択講座制の実施等により希望にはこたえていく。)
2 生徒心得は廃止する。
3 顧問制は活動の支障のないよう運営されることを前提として廃止の方向で検討する。
4 職員会議は公開できない。ただし、生徒の諸活動に関して必要なことがあれば共同討議の場所を作る。
5 学習指導要領問題については、本校教育課程を編成するにあたって、人間教育の原点に立って検討を深め、教師それぞれ組合活動や研究会組織等をもってとりくむ。学校としては拒否声明は出さない。

 回答の内容はこれ以後もほとんど変更はなかった。
当初全闘委はこれを欺瞞的回答だとして拒絶。第一項と第五項は同じ内容の対内的、対外的声明であるということ。自主ゼミとは教師は誰でもよくテーマも生徒の自由とするべきだと反論した。

10月29日(水)
9:30〜11:30 全校集会(五項目中心に学校の考えを説明、全闘委20名前列にあって、ナンセンスという言葉を連発した)
11:30〜12:30 ホームルーム
13:45〜22:15 職員会議(五項目要求に対する学校の回答の結論と封鎖解除説得方針決まる)

 昨日に引き続き、午前中は全校集会での質疑応答と各クラスでの討議が行われた。2年生の学生が全闘委にたいして、五項目について我々は何も聞いてこなかったし、バリ封も寝耳に水だった。このようなことは学校全体に対して相談してやるべきではないかと指摘すると、

「今の質問は取るに足らない質問である。われわれは昨日の午前中、雨の中の校庭集会で全校生徒に集まるように呼びかけた。しかし諸君はその呼びかけに対して沈黙を守った。沈黙を守ったことは、承認したのだとわれわれは判断したのだ。」「それに、生徒全体の意思を結集する生徒会は、交友会大会終了後存在しないことは諸君も知っているはずだ。生徒会は学校の御用機関でしかありえなかったし、生徒一人一人の自由意志によって入会したのではなく、学校側によって入会させられた組織であるわけだ。したがって全校生徒の意思をまとめてその意思を行動まで高めるやり方は、文化祭のとき、べ平連事務局長の吉川勇一氏が講演したように、誰かが問題を提起して皆に呼びかけ、皆の賛成を得て同士を拡大する方法以外にはない。これでわれわれのやり方の正当性がわかると思う」

と答えた。
 集会後、全闘委が資金カンパをはじめるとたちまち8000円の大金が集まり、女子生徒を中心におにぎり等の差し入れも活発におこなわれた。ちなみに当時と現在の物価水準の違いを示すために再び村上龍の『69』を引用してみる。

「一九六九年当時、百五十円は大金だったのだ。真に極貧の家庭の息子、娘達は、五十円という金額で二十円の牛乳と十円のあんパンと二十円のカレーパンで飢えをしのいでいた。百五十円といえば、ラーメンを食べて、牛乳を飲んで、カレーパンとメロンパンとジャムパンが買えた」

 おおよそ現在の6〜7万円ちかい金額がカンパされたことになるだろか。彼らの人気ぶりを表していると言えるだろうか。一般生徒の大多数は、積極的に賛同はしないまでも、好意的な心情を持っていたという。両日とも午後は当初から計画されていたように球技大会が行われた。都教育庁指導部の指導主任や雑誌記者などが監視を続けていたが、拍子抜けするほど、教師や学生は明るい雰囲気の中で過ごしていたという。連日夜の十時近くまで職員会議は続けられている。
 29日の各クラスでの討議は、受験勉強のため帰宅する生徒も多く、3年生では成立しなかった。
 
10月30日(木)
9:30〜11:00 全校集会・講堂(五項目中とくに自主ゼミのA・B・Cにつき教務部長説明)
11:30〜12:00 ホームルーム
15:50〜20:10 職員会議(教師一同が今までの教育反省として出す「声明」中心に論議)
 
 30日にも全校集会とクラス毎の討議。生徒の間でも自主ゼミに対する理解が深まっていった。この日の夜、学校側と全闘委の話し合いで教師の自己批判の証拠として学校側が声明を出すことになる。五時間近い職員会議のすえ、教師による『声明』を出すことが賛成された。五項目要求に対する回答は了承された。
 31日、講堂の全校集会において、校長が上野高校全日制職員一同として声明を読み上げた。全闘委からは「異議なし」と賛意表明があり、一般生徒からも読み終わった後に熱烈な拍手が与えられた。全闘委代表は自主解除を宣言。革マル派と民青の代表が闘争に対する批判を述べ、教員3人も個人的見解を述べた。一人は、「この声明で人間が信じられるか、この声明が明日から実行されると思うのは幻想だ」と叫んだという。
 集会終了後、全闘委は封鎖解除を始めた。一方教師は職員会議を行い、父母への通知と今後の日程について話し合いを行った。その最中、作業を終えた全闘委が「闘争、勝利」「自主ゼミ貫徹」と叫びながら校内デモを繰り広げ、会議場にもやってきて教員も解除式に参加し、声明どおりに一人ずつ決意表明をすることを要求した。『自主ゼミ創出』には

「多くの教員は顔が蒼ざめ、膝に置いた手がぶるぶると小刻みにふるえているものもあった。私もそうであったが、「声明」でかれらのいう「自己批判」は終わったと安心していたのに、「声明」は今日から始まる自主ゼミ体制において教師一人一人に絶えざる「自己批判」を迫る性格のものであることに気づかされた驚愕で蒼ざめたのだ」

とある。
 結局2人の教員が解除式に出席した。午後4時に厳粛な決意表明もって、解除式は執り行われた。行動隊長はバリケード封鎖の成果や今後の闘争のあり方について、「自主ゼミ体制を進展させ、学習指導要領を乗り越える可能性をもって内なるバリケード封鎖を構築するべきだ」と述べた。涙を流すメンバーもいた。

 3日ぶりに校長が校長室に戻ると、部屋は荒らされた形跡は一切なく清潔に保たれていた。全闘委のメンバーは「封鎖生活規律」を作り、第一条に「室を清潔に保ち教師の私物に触れてはならない」と定めたことがきちんと守られていた。夕方、全闘委のメンバーが校長に会いたいと言って呼び出した。処分の減免をお願いされるのではという校長の予想に反して、「校長先生のくびは大丈夫でしょうか。もしそういうことになりそうでしたら、わたしたちは全力で運動します」というものだった。この日に出された「高等学校における政治的教養と政治活動について」という「文部省見解」で政治活動に理解を示すこと自体が教育基本法に反するという文部省の姿勢を受けてのことだと思う。こうして警官隊の導入もなく一応の平和的解決をもってバリケード封鎖は終了した。


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