『1969年の上野高校学園闘争』高橋直純

第4章 バリ封以後、自主ゼミ体制
4章―1 バリ封の後

 11月1日から9日までは新教育活動を開始するための時間割改革準備のための自宅学習期間となった。11月10日から新体制での授業が始まった。バリ封に参加した生徒に対する処分は「退学」「停学」等の懲戒処分は一切なされず、代わりに多数教師による自主ゼミ・普通授業の徹底した教科指導を中心とした「特別指導」を受けるということになった。
 バリ封の後の全闘委はどのように行動したのだろうか。自主ゼミ新体制の当初から全闘委は「学校当局の居直りを許すな!」「内なるバリケードの中より変革主体としての自己を創立し、"外なる闘争"を戦い抜こう!」等のビラを配り、教師の態度をギマン的なものだと糾弾を続けた。ただ、その後の活動はメンバーそれぞれであった。ある者は学外の闘争の手助けをしたり、ある者は映画祭やバンド大会を企画したり、またある者は学校に行かなくなったという。全闘委はノンセクトの学生の集まりであり、その結びつきはイデオロギーなどより友人関係が基調にあったため、バリ封の最中に意見が二分することがあっても、内ゲバや組織崩壊に至るということはなかった。翌年に3年有志(1969年時2年生)が卒業間近に編集した『自主ゼミ再確立へ向けて−総括パンフレット−』の中にも、

「(全闘委は)あくまで「個」の形で存在し、各々の欲求というものの充足に究極的なメルクマールを設定していた。 −中略− ある意味では、そうした形の組織の最も原初的な形であったと言えよう。全闘委によって、いわゆる「組織からの疎外」を被った人は決していないはずである」

と記されている。

 バリ封の後、下級生を中心に全闘委に憧れる学生も多く出てきた。そうした学生とともに近隣の白鴎高校、江北高校、東葛飾高校などと連携して「東部高共闘」を組織し、翌年1月には白鴎高校でのバリ封の手助けに向かった者もいた。もっとも白鴎高校では警察が導入され未遂に終わり、校長が上野高校生のヘルメットを取りに行った。
 また上野高校のすぐ裏手に東京藝術大学があるが、芸大全共闘の応援のためデモを企画したりもした。100人近く動員することができ、上野高校から芸大までジグザグデモを行った。100人近い学生が参加したということは、やはり全校的にそれなりの人気を獲得できたと見ても良いと思う。
 全闘委に占拠された生徒会室からは赤い旗が立てられた。約二ヵ月後には旗も降ろされ、厳冬の校庭で、全闘委解散式が行われた。参加したのはバリ封参加人数よりはるかに少数だったが、今回インタビューした人はみな解散式の存在を知らなかった。
 この年卒業式は行われず、代わって卒業集会が開かれた。「おれたちは敗北者だ」「こんな卒業式なんかおかしくって・・・」と言って去っていくものもいた。


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