テルカット
なんて小さな機械だろう。電源ボタン一つと操作ボタン二つに、あとはマックスとミニマム程度の簡易な出力調節がついているだけである。まるで子供のおもちゃだ。でも、僕は一応警戒をした。堂々と使って返り討ちに合いたくはない。最初はそれを鞄の中に隠し入れてやった。
僕は鞄を手に抱えると電車に乗り込んだ。プレイボタンを押せばそれは妨害電波を発する。
平日の昼下がり山手線は意外と人がいない。僕はとりあえず車両の中を歩いた。全車両を一通り巡回し終えると、最後列車両に格好の獲物を見つけることができた。近づいた。
獲物は三人いた。右手の優先席に一人、左斜め前の位置に一人、離れた後部座席に一人、僕は車両の真ん中に立っていた。三人とも携帯電話を片手に通話をしていた。僕は斜め前に立っている若者に標的を定めると、彼の向かいの側にある座席にゆっくりと腰を下ろした。ひと呼吸置く。相手の表情を窺いながら僕は決行した。鞄の中に手を突っ込むとまずテルカットのスイッチを入れ、次にプレイボタンを押した。十五秒ほど経ったが彼の様子に変化はない。僕はもう一度スイッチを入れなおしボタンを押した。三十秒ほど待ったところで、突然彼に異変がおきた。
「あーもしもし? もしもし? 何だこれ」
通話が途切れたようである。彼は踵を返すと、少しだけ場所を移動して電話をかけなおし始めた。
「なんだよこれ切れてるよ、切れてんのかよ」
興奮気味な声でぶつぶつ文句を言っている。カジュアルな服装と茶色に染め上がった髪の毛から察して、おそらく彼は二十代前半の大学生だろうと思った。
「何だ、ちょっと調子が悪くてさ、お前が切ったんじゃないかと思ったよ」
どうやらまた電話をかけなおしたようである。彼は再度移動して最初いた位置からは大分離れたところに立っていた。しかしそいつはそんな感じでまだ文句を言い続けていた。
僕はほくそ笑んだ。このおもちゃみたいな機械でも一応効果があることはわかったが、非常に微妙な電波のエリアが存在するようである。秋葉原の電気屋の店員が言っていたように、効果のある範囲は五メートル以内であるとしても、状況によっては一メートルに狭まってしまうこともあるのだろう。餌食となった若者は間もなく東京駅で降りていった。
僕は携帯電話の電波を遮断した。
僕が携帯電話というものに対して違和感を持ち始めたのがいつだったのかは定かではない。一九九五年に起きた阪神大震災の頃には、少なくとも周りの人間は誰も携帯電話なんて持ってはいなかった。会社や役所が所持するもので、一般的な普及が始まるのはまだ先のことである。あの時、自衛隊や海上保安隊が救出に向かう際に、昔のビデオカメラのように本体を肩がけしていわゆる受話器だけを持って応答している場面をテレビで見た。それが携帯電話であるとは知らず、無線を業務用に変えたものだと思っていた。ただ、ハリウッド映画ではもう少しコンパクトなものが頻繁に登場していることは知っていた。トランシーバーのようなものだろうか、今の携帯電話に比べれば相当な大きさである。アメリカのビジネスの世界では使われているとしても、それはあくまでオフィシャルなビジネスツールとしてであり、民間に普及することなど想像もしていなかった。
携帯電話が一般に普及し始めたといわれる一九九九年頃、東京都市部では人々は所構わず電話をかけていた。電車に乗るとそれはいっそう僕の目につき、話し声のうるささに耳を塞ぎたくなる毎日が続いた。使用しているのは最初はビジネスマンぐらいだった。いかにも所用で使っているような様子で、アメリカのものが徐々に日本に入ってきたのだろうと思ってはいたが、それにしても迷惑極まりない行為である。次は大学生くらいの小金持ちの若者が目についてきた。彼らは仕事疲れもなくアルバイトだけをして自由を謳歌しているものだから、テンションが高い。くだらないどうでもいいようなことを話している。僕の鬱憤は溜まる一方で、未だ携帯電話というものの位置づけが見えずにいた。お坊ちゃんが金に任せて買うものであるという程度にしか思っていなかった。しかし、その後の価格破壊が進み、携帯電話は高校生に至る末端にまで行きわたるようになっていった。
それと同時に僕は、女子高生が歩きながら携帯電話で喋っている姿をよく見かけるようになった。携帯電話を購入してさらに通話料金を払うとなると決して安い金額ではない。しかしそれでもこれだけ多くの女子高生が所持しているということは、どう考えてもすべての家庭で親がお金を負担しているとは思えなかった。やはり彼女らはなんらかの形で資金を調達しているのではないかと思った。僕は渋谷に行った。センター街を歩くと「おじさーん、パンツいくらでも売るよ」と女の子のキャッチセールスが横行していた。当時援助交際はいくらでもやっていた。たった一枚の下着が三万円にも五万円にもなって売れる。そりゃあ自前で通話料金くらい払えるよなと思いながら見ていた。別に僕は風俗とかそういうものに関しては、夫人方が騒ぐように絶対悪とは思わない。売春は古典的な仕事であり歴史は長い。日本では芸者がいてヨーロッパでは高級娼婦がいた。彼女たちはプロである。ヨーロッパの高級コールガールと呼ばれる人たちは、身体だけではなく教養もなければならない。上流階級の人たちと付き合えるほどに頭は良い。日本の芸者も同じだ。春を売るということに対する定義付けや責任やサービスに、プロ意識を備えている彼女たちを僕は尊敬している。しかし、女子高生は違う。彼女たちがやっていることはプロを侮辱した行為だ。パンツを売ることがそんなにやりたいのであればプロになれと言いたい。寂しいからという理由でやる人もいる。わからなくはないが、だったら金を介在させるなと言いたい。
そういう風に見ていると、僕は女子高生たちが許せなかった。携帯電話の存在によって、今まで何となく憚られていた売りや援助交際をやる名目が発生してしまったのである。親に迷惑をかけずに自分でお金を捻出しているのだと自らの行為を正当化する。今まで後ろめたいと思われていたものが、そうではなくなってしまう可能性に僕は懸念を感じた。科学技術の進歩によってこれまでの価値観が一変してしまうのだろうか。渋谷のセンター街を歩きながら汚く曇り行く空を眺めていた。
それから僕の「女子高生携帯電話狩り」は始まった。一九九九年から約一年半年間、ほとんど偏執狂的にやった。電車内で通話をしている女子高生を片っ端から注意していった。
「君たちここをどこだと思っているの? 周りの人に迷惑になると思わない? 恥ずかしいと思わない?」
と、僕は半ば厭きれた声を彼女たちに浴びせ続けた。「うざいよ、何でいけないの」と完全に居直る人、背を向けて無視をする人、少し驚いた顔で「すみません」と謝る人、いろんな女子高生がいたが、僕はあるとき気付いたことがあった。
集団でいる女子高生たちだった。五人の中の一人が、彼氏と思しき相手と人目も憚らずに大声で電話をしている。すると、珍しく一人の女の子が注意をした。
「まずいんじゃないの」
と。僕はそんな子もいるのかと感心したが、すぐにその言葉は打ち消されてしまった。
「別にいいじゃん、私の好きなことしてるんだから。今忙しいのよ」
隣に座ってその一部始終を見ていた、礼節ある初老のおばあさんがおだやかに言った。
「あなたね、こういう場所で電話をかけちゃいけないでしょう。お母さんにそういうこと言われなかった?」
「うっさいなー。言われてねーよ」
すかさず僕は出た。
「君さ、今こちらのおばあさんが言ったように思っている人は、おばあさんだけじゃないんだよ。俺も思っているんだよ。さっきから君はどれだけ長い時間電話をかけていたか知っているか。親に言われなくても、そういうことが迷惑かどうかくらい、自分で考えることはできるでしょう」
この場に居合わせてから結構時間も経っていたので僕は冷静な声で言った。注意をした女の子もけんもほろろだった。すると、彼女の態度は変わった。僕の目を見て頭を下げると、「またかけるからきるね」と言ってたちまち携帯電話を鞄の中に入れ戻した。
僕はそのとき咄嗟に思いついた。彼女たちは、異性からちゃんと怒られた経験がないのではないかと。ここでいう異性とは父親ではなくボーイフレンドのことだ。付き合っているという場合はどちらからともなく惚れ合っている。そんな相手に何かを言われる、特にマナーについて注意を受けることは女性にとっては少なからず恥ずかしいことではないだろうか。彼女たちが公共の場で電話をしていることをボーイフレンドから注意された経験なんて、携帯電話を持ち始めてただの一度もないのではないかとそのリアクションを見て思った。この一件は偶然の出来事だったかもしれないが、大なる部分でそういう可能性があるのではないかと思った。携帯電話のことに限らず、男に注意を受けるということは、ちょっと恥ずかしいことかもしれないと彼女はその時初めて感じたのかもしれない。嫌われてでも言わなければならないことが僕はあるような気がする。彼女たちの素行について、そんなことやっちゃまずいだろうと諫める勇気さえあれば、彼女たちはそれを受け入れる心を持ち備えている。そういう経験のない女の子が大勢いるのであれば、僕はガツンと言ってあげるべきなのではないかと思った。それでもし恥ずかしいと思う女の子が十人のうち一人でもいるならば、それはそれでいいことではないかと思った。
いつの頃からか、シートに座って携帯電話のディスプレイを食い入るように見つめる女の子の姿を見かけはじめた。僕はそのとき通話狩りの方が忙しくてあまり気には留めていなかったが、メールやインターネットの利用が広く見られるようになっていた。それと並行して、電車内では通話を控えるよう警告のアナウンスや張り紙を出すようになり、高校生が通話をするという現象も徐々に減っていった。しかし、今度はおばさんが車内通話を始めるようになった。エネルギーのある女子高生の声に比べ、おばさんはどことなく抑制のとれた声を出す。それがまた僕の癇にさわった。今まで生きてきた中でとりあえず公共性というものを知っているはずのおばさんが、興奮のあまり公の空間を忘れて瀕死のカラスみたいな声を出さないでくれと思った。結局、僕が観察するところでは、おばさんの次に今度はいい歳をしたおやじが通話を始めるようになって、それを見た若者がまた復活してきたように思える。どこまでも限りがない。
テルカットは僕にとって車内通話を根絶させるための最後の手段だった。
テルカットが市場に出回り始めたのは二〇〇一年頃である。大手新聞では小さく取り上げられ、専門雑誌にはその有用性が声高に叫ばれた。僕がテルカットの存在を初めて知ったのは友人の口からであるが、手に入れたのもその時分だった。世の中は携帯電話の急激的な普及に伴う数々の弊害に対し、対応策を迫られていた。一九九九年十一月には道路交通法で、自動車・オートバイを運転中に携帯電話を使用して事故を起こした場合の罰則事項が追加され、二〇〇三年九月には関東圏の一七の鉄道事業者で、「優先席付近では電源を切り、それ以外ではマナーモードに設定して通話は禁止する」と携帯電話の利用マナーを統一した。総務省は電波の医用機器等への影響に関する調査結果を報告し、心臓ペースメーカー利用者への配慮を呼びかけた。しかし、僕にとってそれらは遅すぎる対応でしかなかった。
テルカットの存在を知る以前から、僕は独自に色んな対策を考えていて、とにかくあの電波を何とか遮断できないかと常に思っていた。最初に思い浮かんだのは、車両に防護シールドをつけることだった。妨害電波を出すような装置を各車両に取り付け、それで何とかできないかと思った。会社が動かなければ意味はないので、僕は思い切ってJRに申し出た。技術的に可能かどうかはわからないが防護シールドを張ってもらいたいということ、そして何故そう思うのかという理由をとうとうと喋った。梨の礫であることは初めからわかっていたが、それでも僕はこの憤りを何とかしたかった。本音を言えば、それで社会が改善されるだろうというような倫理的な思惑は一切なかった。非常に個人的なものだった。公共空間を躊躇いもなく私的空間へと化してしまう人々への、個人的な怨恨だ。頭の中でストーリーを組み立てるだけで実効性はないとわかっていながらも、最後には、携帯電話の鉄塔のトランスの部分を狂わせてしまえばいいのではないかと僕は真剣に考えていた。つまり、鉄塔と言っても電気がないと送電線の役割を果たせないわけで、その電気を送るトランス(変電機)を狂わせてしまえばいいと思った。そこに巻きついている四角いグレーのコイルを破壊すれば、とりあえず使えなくなるだろうとほとんどテロリストのようなことを考えていた。
僕が生れて初めて携帯電話を使ったのは、ちょうど女子高生携帯電話狩りを始めた頃だった。仕事の関係でどうしても連絡しなければならない用事があり、携帯電話を持っていなかった僕は当時親しかった友人から少しだけそれを借りることになった。持った瞬間に僕の手は痺れた。小学生の頃、理科の実験で塩酸のような刺激物に触れてしまったときの感覚である。今でも思い出しただけで手が重くなる。電話をかけると、頭や目までがどんどん重くなっていくのを感じた。電源を切ると瞬時にその痺れは消えた。その時僕は、携帯電話からは相当な電磁波が出ているということを知った。
ただし、このことに関しては、僕は基本的には問題視していない。僕の感受性は特殊な例であり、大半の人たちは電磁波を気にしないで生きている。それはわかっている。普通の人たちよりも僕の閾値は低い、だからすぐに反応してしまう。確かに僕にとって携帯電話の電磁波が有害だという意識は強烈に持っている。だけど、他の人たちには決してわからないことである。自己の責任に委ねられているという以外に僕の立場で何が言えるだろうか。
テルカットについて友人から話を聞いた後、新聞や雑誌で調べてみるとその存在は確かだった。僕は欣喜雀躍して新宿の電気屋に向かい、店員にテルカットのことを訊ねてみたが皆一様に知らないと言った。しかし、考えてみればそれは当然である。本当は知っていたとしても誰が店頭に置いたりできるだろう。携帯電話を売らなければならないのに、その機能を阻害するものを同時に売るわけがない。その後、秋葉原に行けば手に入るという情報を小耳にはさみ、具体的な場所はわからないまま駅からはそんなに離れていない、電気関係の部品がたくさん陳列されている裏通りに入った。実はその時、僕はまだ、その携帯電話の電波を遮断する機械に「テルカット」という商品名がついていることを知らなかった。店に入るとレジの前に座っていたおっさんに僕は訊ねてみた。
「すみません。車内で携帯電話の通話をできなくする機械があるって聞いたんですけど、置いてありますか」
「ああ、テルカットね」
おっさんは立って在庫を確認し始めた。
「テルカットってどういう意味ですか?」
「それはもう、テルをカットするってことだよ」
僕はその返答に思わず笑ってしまった。結局在庫は見つからなかったが、聞くところよると時々買っていくやつがいるということだった。電気街で働くおっさんというのは、技術屋のような気質がある。今ある技術を解体して別の方向に応用したいという欲求が胸の内に潜んでいるようだ。「旧来の機能をゼロにできるのは面白いね」というようなノリで、わりと愉しそうにテルカットの性能や買っていく客の話をしてくれた。
それから僕は、携断連という組織を知ることになる。「携帯電話を、断固として拒否する、連合会」。今でも正体が歴然としない謎の組織ではあるが、そこの会員であった知人から、僕はテルカットを拝借することができた。
初めて使ったときのことを僕は今でもよく憶えている。
当時、長編アニメーションの映像制作に携わっていた僕は、資料収集のためにわりと自由に時間を使って毎日を過ごしていた。朝起きて新聞を読み、食パンとカフェオレとゆで卵で朝食を済ませ、早稲田や神保町の古本屋街で本を漁り、午後になると新宿御苑にある事務所へ向かって夜遅くまで仕事をした。西荻窪に住んでいたので、そこから総武線に乗って代々木で乗り換えると、山手線への接続の都合がいい。原宿、渋谷、恵比寿と移動し、所構わず昼間の映画館や劇場に足を運ぶこともしばしばあった。
新しい年度が始まり人々が忙しく道を行き交う四月、僕はいつものルートで自宅から山手線へ向かった。単純に循環電車は都合が良さそうな気がした。二〇〇一年春、三人の獲物を見つけたのは五反田駅だった。
その後も、僕はテルカットを持って獲物を探し続けた。
しかし、毎回うまくいくわけではなかった。乗って珍しく誰も電話をかけていないときもあった。そんなときはターゲットが現れるまで待つしかなかった。「誰か早くかけろよ」と時間をおいてまた同じ車両を見に行ったりした。なんて本末転倒な行為だろう。しかし、機械のスイッチを押したくて仕方のない自分がそこにはいた。ある意味、それはデジタルというものの怖さであるのかもしれない。目的がはっきりしているものに関しては試してみたいという欲求が僕にはある。業のようなものだろうか、それがその時に働いた。
第二の獲物を捕らえたのは中央線だった。西荻窪から東京駅までの路線を使い、折り返して高尾まで行く途中で見つかった。
六十代半ばと思われるおやじだった。真昼間から私服で電車に乗っているぐらいなので、もう定年退職したか、あるいはリストラされて職安通いをしているのかもしれない。耳が遠いのか声が大きい。競馬の話題で盛り上がっていたので、その日は土曜日だったかもしれない。車両の中は、僕たち以外に人はほとんどいない状態だった。僕はおやじが座っていた席の正面に腰を下ろした。笑っていられるのも今のうちだ、と勢い良くスイッチを押すとすぐに変化が表れた。
「あれ、聞こえないなあ。おい、聞こえる?」
おやじは携帯電話を左右に振り始めた。圏外の意味がわかっていないのか、いろんなところを見回すともう一度かけ直し始めた。
「あーあーもしもし、おい聞こえるか? なんか遠いなあ」
本当は聞こえていないのに聞こえているような気になるのだろうか、もう一回同じようなリアクションが続いた。終いには、
「もうおっかしいな!」
と、座席に携帯電話をぶつけて叩いていた。おやじの世代のリアクションだと僕は思った。僕にも多少そういうところがあるが、叩けば調子が良くなると思ってしまう。結局、おやじは携帯電話をポケットにしまい込むと新聞を広げて静かに勝ち馬を読み始めた。
少なくともおやじに関しては、使用頻度は高いとしてもたかが通話が途切れたくらいでストレスは溜まらないのだろうと思った。そういう状況になれば叩くなりして何とかしようとする。ラジオや時計のような器具に近いものを携帯電話に対して感じているのだろう。電波の影響ということが分かっているのならば、ドアが開いたときに試してみることも当然できたはずだ。とにかく以外にあっさりと通話を諦めて勝ち馬を読んでいた。そういう人は公衆電話があれば別に用は足りるような気がした。携帯電話で誰かと繋がるだの親密になるだのが目的ではなく、単純に便利に通話ができるということが目的なのではないか、とそのおやじを見て僕は思った。
本当にスカッとした一日だった。自分の力で携帯電話の電波を阻止できるなんてまだ夢のような光景だった。
僕は、なぜこれほどまでに車内通話を嫌い「公共性」というものにこだわってきたのか、その真意を自分自身に問い質してみたことはこれまでに一度もなかった。しかし、ある一人の獲物に遭遇してから僕はそのことについて考えるようになった。
そして、僕がテルカットを使ったのはそれが最後だった。
総武線で千葉へ向かったときである。僕は相変わらず鞄の中に装置を隠し入れ、座席に腰を下ろしていた。どこの駅だったかは憶えていないが、扉が開くと三十代後半から四十代前半とみられるおばさん連中が五、六人で入ってきた。全員僕の向かいのシートに座った。PTAの関係者で子供の学校で打ち合わせをした帰りなのか、今日はあれが決まりこれが決まり、今度の修学旅行はどのようにしましょうかと皆で話し合っていた。しばらくしてその中の一人が、「今日来ていなかった人は誰でしたかね。何人かいらっしゃいましたよね。連絡してあげなきゃいけませんね」と言った。すると、たちまち携帯電話を取り出して甲高い声を上げ始めた。相手の自宅は留守だったようで、あそこにいるのかしら、とその人の携帯電話にまたかけているようだった。何とかその場で相手を捕まえようとして、そのおばさんは思い当たる人へ次々に電話をかけていった。話の内容を聞いていると、案の定連絡事項だけに留まらず世間話へと広がっていた。「うちで飼っている犬の具合が悪くてどうしましょう」と素っ頓狂な声を上げたと同時に、僕はタイムリミットだと思いスイッチを入れた。
「あ、もしもーし、おかしいわね」
さすがにおばさんは日常の道具をよく観察していて、「圏外なんだわね」と即座に理解しているようだった。しかし、一番端に座っていたおばさんが不審げな表情を浮かべて周りを見渡し始めた。
「どうしたのかしらね、この辺には電波を障害するものなんて何もないのにねえ」
そう言うと、彼女は、もう一度かけなおしてみたらどうかとさっきのおばさんに提案をした。電話は一瞬繋がったような雰囲気だったがまた切れた。それもよくわからないところだった。いったん切ってかけなおした場合、電波の出力が強くなってテルカットの妨害電波よりも一瞬打ち勝ってしまうのだろうか。それとも人が多いとそれにぶつかって反射してしまうのだろうか。機械は環境に左右されるほどに完璧ではない。
「おかしいわよこれ、気持ち悪いわね。誰かが外から何かやってるのかしらね。ほら、ウイルスにデータを盗まれるとかそういうの今問題になっているじゃない。うちの息子が言ってたわ」
と、彼女は再度訝った。おばさんから携帯電話を借りて自分でも試してみたようだが繋がらなかった。
「絶対おかしい、何かあるわ」
そう言い出した。なかなか原因追究をやめなかった。彼女は僕のような妙なこだわりを持っていた。外見は、お金のかかっていそうな洋服を身に纏っていたがあまりセンスはなかった。きっとそれなりの経済状況で、本人は高学歴ではないかもしれないけれどとりあえず息子は高学歴の青年に育てようと日々奔走している感じがした。僕はこのとき漠然とした危機意識を持った。深追いをしたら予測のつかないことになるかもしれないと思い、テルカットの電源を切った。
「ちょっと場所を変えてやってみるわ」
彼女は窓際に移動した。むろん守備範囲外だったので繋がった。世間話を始めるおばさんとは対照的に用件だけを言い済ませた。
「ちゃんと繋がったわよ。きっと、この辺の路線で電波が悪くなる何かがあったのよ」
彼女はそう言った。外に電波を妨害する何かがあったのだと一応思ったのだろう。
なぜ僕はあのとき二の足を踏んでしまったのか。多分、僕の中でいわゆるキレた若者よりもキレたおばさんの方が怖いという恐怖があったのだろう。そのおばさんのそういう雰囲気がなければ接近して追跡妨害しようかとも思った。しかし、何となくそのおばさんの勘が良さそうな気がした。一つたがが外れてしまうと取り返しがつかなくなってしまうような、そういう匂いのする人だった。そして、それは僕が自分の母親に対してずっと抱いてきた恐怖とおそらく同じものだった。
公共的なことになぜ僕はこれほどまで執着し続けていたのだろうか。最後に出会ったおばさんに自分の母親の影を見たときから、何となく僕は母親の影響というものを考えるようになっていた。母親の表面に出てくるものはいつも、僕が問題としているような公共性に近いものがあった。つまり、公の部分でそういうことをしたら恥ずかしいというようなことを常に口にする人であった。でも、結局その本音の部分というのは「世間体」だった。一番身近な大人の「公共性」がものすごくインチキだった。僕はそこが原点であるような気がしている。明治や大正時代に生きた昔の人からすれば、僕なんかとんでもなく公共性を欠いている人間として見られてもおかしくはないかもしれないし、僕が思うところの公共性がどれだけ正しいものなのかも正直言ってわからない。ただ、これだけは言える。人間が行動をする、特に何かについて物を言おうとする動機というのは非常に単純なものである。違和感だ。何かに違和感をもったらそれについて物を言いたくなる。
本物の公共性ってなんだろうと、僕は無意識のうちに問い続けていたのかもしれない。

