「生と死」、その二歩手前で

福島 隆聡
「死を生から分離すること、それぞれが他方の核心に侵入して、一方が他方の内密に編みこまれるのを放置しない、それこそが決してしてはならないことなのだ」 『侵入者 いま<生命>はどこに』(以文社 p22)ジャン=リュック・ナンシー


第一部

一、告知
                               
 これはフィクションではない。
 8月も終わりに近づいたある日、その日は各人にとって、そして彼にとっていかなる意味をもちえたのだろうか。
 その日の午後、総合内科の医師二人と呼吸器内科の医師二人が、突っ立ったままレントゲン写真とCT画像そしてコンピューター上の血液検査のデータを囲み、やや興奮気味に話し合っている。内容は、今後の方針のようである。話題の患者は、肺癌の末期にある。診断を確定させる検査はしていないものの、二週間前の検査で医師たちはその確信を持っていた。このことをまだ本人は知らない。本人に話すには、このタイミングがベターである。これから本人に告げに行く、まさにその直前の打ち合わせだった。

 42歳になったばかりのOさんの辿った道は、数奇なものであった。ひと月ほど前、腹痛で外来を受診した。精査が必要とのことでX線CTを撮り帰宅した。だがその日の晩のうちに、意識を失い救急救命センターに運ばれてきた。急性腎不全だった。透析を行い、急を凌いだ。10日間ほどは安静が続いたが、病棟内を歩くことがようやく許された。彼の顔色も徐々に明るみが増してきた。その翌日の午前中彼は病室のベッドの上で急激に呼吸困難に陥った。苦悶する表情は事態の緊急さを告げている。医師は足の静脈に出来た血の塊が歩きだしたことによって、血流に乗って肺に飛んでしまったと読んだ。血の塊が肺の血管につまり血栓となって血流を遮断してしまっているのである。エコノミークラス症候群と呼ばれるものである。緊急のCTが施行された。が、肺には異常はない。だがCTが示す心臓は大きく腫れあがっていた。すぐに状況はつかめた。心臓とそれを包む膜の間に大量の液体が溜まり心臓の収縮を妨げていた。心タンポナーデである。そして貯留している液体が血液成分であることも判明した。心臓の穿孔や大動脈の破裂が疑われる所見であるが、そうした痕跡はつかめない。腎不全同様原因がわからない。いずれにせよ、心臓を包む心膜を貫き心臓との間に管を挿入し溜まった血液を排出しなければならない。そうしないと心臓は液体に動きを邪魔されて、やがて止まる。
心臓外科の医師が呼ばれた。心臓をめがけ20cmほどはある針を慎重に挿入していく。液体が貯留しているスペースに管が到達すると、次第に溜まっていた液体が流れ出てきた。数分のうちに800mlの目盛りまで達した。すると、Oさんの顔色は赤みを取り戻し、表情は和らいだ。酸素マスクをつけながらも、彼は「楽になってきました。ありがとうございます。医者ってすごいですね」とわずかに微笑んだ。
 それにしても、相次ぐ彼の急変の理由を医師たちはわからないでいた。そのつどの状況を乗り越えるのに大半の労力を割いていた。しかしその一方で、原因の探索を怠っていたわけではない。それらの出来事が関係しているのかどうかですら不明のままだった。実際の医療ではこういったことは少なくはない。
翌日、心臓に管は刺さったままだったが、Oさんの容態も安定していた。苦しくもない。正午を少し過ぎた頃、昼食中だった医師のPHSが鳴った。心臓から排出された液をその成分を鑑定するための検査にまわしていた。その知らせは、これまでの原因を一挙に判然とさせるものであった。検体成分から細胞診クラスⅤが判明したのである。細胞診クラスⅤとは、癌細胞が存在するということを意味する。しかしその癌の細胞成分は心臓には存在しないものであった。ということは、どこか別の場所から飛んできたものである。全身検索の結果、右肺に直径1.5cmほどの陰影が描出された。すなわち肺を起源とする癌が、腎臓に飛んで急性腎不全がおこり、心臓に転移して心タンポナーデを引きおこしていたのであった。癌細胞は無秩序に増殖を続ける。増殖を続けるためには栄養分が必要である。そのため癌の塊は豊富な栄養血管を有している。心膜で増殖した癌細胞内の血管が破裂したのである。
 転移のある肺癌は、ステージⅣである。ステージは腫瘍の大きさと広がりによって決まる。ステージⅣは手術の適応から外れるだけでなく、平均余命が3ヶ月程度であろうと推測されるものである。手術の適応から外れるのは手術をして肺の原発巣を取り除いたところで、身体全体への見えないレベルでの癌細胞の転移があるため治療的効果が期待できないからである。それどころか開胸手術は体力の消耗が激しく、かえって余命を縮めかねない。
 この結果は、医師たちにとっても衝撃だった。通常診断を下すまでにどんな場合でも、癌は彼ら医師たちの念頭から離れない。しかし今回は、患者の若さから考えても、症状から考えても癌はあまり意識される対象ではなかった。
 Oさんの両親と兄が病院に呼ばれた。主治医がこの事実を伝えた。端的に伝えたのではなく、彼はひとつひとつ丁寧に説明した。自分たち医師にとっても意表を突かれた結果だったということ、腎臓が悪くて抗癌剤による治療は厳しいかもしれないこと、2度の危機を乗り越えたのにこうした結果になってしまうとは医師として本当に無念であるということを、涙を流しながら主治医は家族に伝えた。ベトナム戦争の従軍記者であったD・ハルバースタムは、その著書「ベスト&ブライテスト」の前書きの中で、人の死に涙を流せなくなったら、従軍記者として終わりであるといっていた。しかしなにも戦争という非日常的な場面に限る必要はない。医師といえども、同じであると思う。
 家族との約束で、本人には徐々に伝えることになっていた。検査を進めていく過程で、だんだん明らかになってきたという具合にである。主治医は了承し、Oさんに話す前に家族の了承を得ることを確認した。
この病棟では総合内科の医師は三人いる。15年目になる医師が主治医になるが、ほかに7年目と4年目の医師がいる。Oさんの今後のあり方をめぐって、肺癌専門の医師を呼んでアドバイスを受けながら、議論が交わされていたのであった。一番上の医師は、少しでも可能性を保つために抗癌剤による治療を第一に考えていた。この場合、われわれはこの患者の担当を外れ専門病棟に移ることになる。20歳代の一番若い医師は、残された時間を少しでも有意義に使うためにホスピスへの転院を考えていた。もう一人の医師は、積極的な治療はおこなわないが、最低限の処置を自分たちが面倒みてゆきたいといった。三者三様である。当たり前のことではあるが現場の医師たちも、同じ考えで統一されている訳ではない。無論、最後は家族と本人の意思で決めなければならない。しかし当事者たちの意思といっても、医師の話し方一つで誘導することは出来る。また、どれを選択するにせよ問題はある。たとえ抗癌剤を使って治療をしても、三ヶ月の余命が四ヶ月になる程度である。しかも抗癌剤による副作用で四ヶ月間ただただ苦しみ続けるだけかもしれない。おまけのこのタイプの癌には抗癌剤が効きにくい。専門の医師は、それ以前に腎臓の障害があることから抗癌剤による治療はかえって命を縮めかねないという。そんな患者を引き受けるのは、リスクが高すぎる。ホスピスを望むなら、受け入れてくれるホスピスを探さなければならない。これも医師の仕事になる。いずれにせよ今後の方針を決めるためにも本人に話をせざるを得なかった。今後の青写真は何パターンも描かれていたものの、あれ以来本人に告げていたことは、「肺に小さな影がある」ということだけだった。
 Oさんの母親に電話してこれから本人に話す旨を告げた。母は消極的であった。医師は彼に残された時間が少ないということを、そして彼には考えて身辺を整理する時間も必要だということを説明した。しぶしぶ母は了解したが、母親自身はまだ聞いてないことにしてくれとのことだった。

 ついに、そのときはきた。Oさんの部屋に、医師4名と看護婦がぞろぞろ入っていった。彼のベッドを囲み看護婦が拡げた椅子に腰を下ろした。主治医は立ったままOさんに少し笑みを浮かべながら近づく。Oさんの目をしっかりと見つめている。「お話しなければならないことがあります。もしかしたらつらい話になるかもしれません」。「はあ」とOさんはあっけにとられる。主治医は一度大きく息を呑んだ。片手には、肺の腫瘍を鮮明に映し出すCT画像を抱えている。「実はですね…」。
 ことの起こりからここまでの流れをOさんに確認しながら丁寧に振り返る。彼も尋常ならぬ状況を感じ取っていたに違いなかった。看護婦は、彼のすぐ傍に座している。だが医師も「肺癌」という言葉を避ける。「悪い顔した細胞がある」と表現している。しかもその細胞の固まりは小さいということを強調する。転移があるのだから大きさなんて問題ではないはずである。そしてまた、彼ら医師たちの理解だと肺の悪い細胞が腎臓や心臓の原因になっていたであろうことをゆっくりと彼の眼を見つめながら伝える。主治医の説明は言葉の節々を意図的に濁してはいたが、要点を確実におさえたものだった。それでもOさんは事態を十分には理解できないでいた。さっきから腕に巻かれた点滴の刺入部の包帯がわずかにずれているのを気にしている。Oさんは「つまり、もしかしたら癌かもしれないんですね」と、主治医ではなくもう一人の医師をみて尋ねた。説明をしていた医師は、「いや、そうではないんです」といったまま彼を見つめ続けていた。長く感じられる沈黙が重くのしかかった。心電図の波形は、規則正しく打っている。
 痺れを切らした呼吸器科の医師が言い放った。「肺癌が心臓に転移しています」。再び、沈黙が病室を支配した。今度のそれは明らかに長かった。遅ればせのせみの鳴き声が忙しなく病室に響いている。話しの内容をメモに書き続ける若い医師の手も止まった。彼は首をたれた。それでも、声を絞り出した。「そうですか。それじゃあ仕方ないですねよえ」。相変わらず包帯を気にしている。だが、視線は宙を彷徨っている。その場に居合わせる一人一人に確認を促すように、視線を合わせる。私は彼の視線に合わせることはできなかった。「じゃあがんばってもうひと踏ん張り治療しないといけませんよね。手術ですかね」とOさんは意欲をみせる。「手術はもう出来ません」と医師が答える。主治医は目をちゃんと見て話している。「じゃあ治療はどうしたらいいんですかね。えっ、だって治療しないわけじゃないでしょ、もちろん…」。主治医も「それはこれから考えていかないといけないですよね…」といってはみる。
 この部屋に入って1時間半以上経ったが、これ以上話は続かなかった。治療法はまずは家族に話をしてから決めるということで落ち着いた。これから家族に話すとOさんには伝えた。当初の予定であった余命の話は出来なかった。主治医の判断だった。彼の動揺の大きさを察知したからだ。「一緒に治療方針を考えましょう」とお茶を濁した。
 私は病室を出るときOさんに一礼した。このときようやく彼の目を一瞬だけ見ることができた。彼の虚ろな目は、母を想い出させた。
 早歩きで医局に帰り、4年目の医師が主治医に声を荒げた。「なぜ最後まで話さないんですか。Oさんには時間が無いんです。1日でも2日でも、少しでも長く彼の自由な時間をつくってあげないといけないんじゃないですか」と。主治医は心根の穏やかな人ではあった。多少先の見通しが遅れることがあったのは確かだが、そのときの判断は私も正しいと思った。「これ以上Oさんを追い詰める必要は今の時点ではないんだよ。明日、明後日は週末で病棟の医者もナースも少なくなる。誰が彼を見られる。君がずっとそばにいられるか。最後まで話して、自殺しちゃったら、おまえどうすんだよ」。穏やかな主治医が、顔を紅潮させ、強い調子で捲くし立てている。「Oさんが自暴自棄になって、自殺したり、点滴外して帰るといい出したりしたら、僕たちは医者として失格だよ。わかってるの。まずはここまで聴いてもらえれば十分じゃないの」。医療現場を扱ったテレビドラマのように上級医にも物怖じしない若い医師も、この時は彼に素直に頭を下げた。この日の午後はほとんどがこのことに費やされた。そのため、各々の医師たちには他の仕事が山ほど残っていた。休むこともなくそれぞれ別の仕事に散っていった。
 医師の間で、治療法や今後の方針に差が生じてくるのは、それらの選択がもはや医学的に根拠付けられるものではないからでもある。つまりそれはその医師の人生観、生き方そのものが直に反映されてくるのである。もちろん最終的に決めるのは患者本人ではある。とはいえ、そこには家族の意向や医師自身の考えが色濃く反映されているのもまた確かである。元気な時には癌になったら治療はしないと潔い最後を決めていたつもりであっても、いざその状況になればわずかな希望に託したい気持ちがないといったら嘘になる。仮に本人がそれでよくとも家族が承知できないこともある。なにもそれらは悪いことではない。  
 患者と家族と医療者は三つ巴になって、各々の希望や考え方や状況を背景に「ソフトランディング」の道を模索することが出来る。少なくとも大方の医師はそう信じて策を尽くしている、と思う。こうした姿が伝われば、患者もその家族も医師への見方が少しは変わるかもしれないと思う。

 冒頭で「これはノンフィクションである」と、肯定文でいわないのは、ある特定のものを指すものではないということである。つまり、日常どこででも起こっている光景だからである。

 ところで、なぜ私はこの現場に居合わせていたのか。そして、私はいかなる立場でそれを記述しようとしているのか。


二、医学生

 私は現在、医学部医学科5年に籍を置く学生である。医学部は6年制だ。1年から4年の間、一通りの医学的知識を授業と試験で、ひたすら詰め込む。解剖学、生理学や薬理学といった基礎医学から内科学、外科学、診断学、救急医学、皮膚科学、整形外科学、産婦人科学、精神科学etcまで、全ての科目を学ぶ。その上で、簡単な問診や所見の取り方といった実技の試験を合格すると、5年生に進級することになる。そしてほとんどの大学で5年生になると(時期の多少のずれはあるが)、ポリクリとかBSL(Bed side learning)と呼ばれる病院内での臨床実習となる。病院内に放たれるのは初めてのことではないが、医療スタッフの一員として入るのは初めてのことになる。全てが新鮮である。そこでの体験は、想像のおよばないものであった。

 ここで、医学生から一人前の医師になるまでの流れを少しばかり紹介しよう。
 ポリクリでは、指導医にくっついて朝から晩までさまざまな現場に立ち会うことになる。全ての診療科を、それぞれ1週から4週かけてローテーションするのである。例えば、消化器内科では、患者を一人受け持つ。毎日の様子を伺い、身体所見をとり、診察を行い、それらをカルテに記す。そのつど指導医がチェックし間違いを修正してくれる。患者にレントゲンや胃カメラの検査が入れば、ベッドや車椅子を押して付き添う。検査データの解釈やレントゲンやCT画像の読み方なども指導される。教授回診があれば、患者のベットサイドに立ち教授の傍らで現在の状況を伝える。逆に予期していたのとは違う質問を返され、答えられず患者の前でたじろぐこともしばしばある。点滴のルートを取る練習のためにと、研修医や医師たちが自らの腕を私たちに差し出してくれることもある。このように現場の医師の仕事を3週間実地に経験する。
 小児科病棟では自分の診ていた患児のひどい風邪をそっくりそのままもらってしまったこともある。その児と症状がまったく同じなのである。指導医に聞けば、小児科をまわる学生や研修医は一度ならず風邪をひくという。私たちには免疫のないウイルスのようである。おまけに熱があるせいで病棟には2,3日あがれなくなる。白血病などで免疫力が極端に低下している子供たちも別の部屋には数多くいるからである。もしそんな状況で、彼らに風邪をうつしてしまえば、命取りになることも十分考えられる。 
 また、2週間の消化器外科では、朝7時過ぎからカンファレンスが始まる。9時からの手術前に一仕事終わらせようという教授の一声である。カンファレンスでは昨晩緊急入院になった症例の発表やその日行われる手術の術式を医師たちが検討するのをともに聴いている。患者の容態や手術の術式、アプローチなど入念な打ち合わせがおこなわれる。居眠りでもしようものなら、容赦なく質問が飛んでくる。その後すぐに回診し、9時からは手術に入る。滅菌した術衣や手袋を付け術野にはいって、助手を務めることもある。最後の縫合を任されたりもするが、時にはメインイベントとなる腸管の切除の大役を仰せ使うこともある。人間の腸管の滑らかさ、心臓の拍動の力強さ、血管の精緻な走行にただただ見とれていることもある。ある外科医が手術中に「人間の身体の中って、きれいだと思わないか」と聞いてきたことがあった。別の脳外科医は「脳の動脈の拍動を学生の時始めてみて、感動した。だから脳外科医になった」ともいっていた。外科医は手先が器用であるということよりも、手術が好きかどうか、人間の身体にどれだけ魅了されうるかでそのポテンシャルが決まるように思った。当然のことながら、手術が長引けばお昼ご飯は夕方になることもある。しかも外科医の食事は、やたらと早い。食事時ですら、うかうかしていられない。時には、薬業者の説明会と呼ばれる会が開かれることもある。そこでは新薬がいかに効果的であるかというコマーシャルを聞かされることになる。だが、なんといっても私たちの楽しみは、そこで配られる普段では到底お目にかかれないお弁当である。有名料亭の弁当が、業者から学生にも支給されるのである。
 教育的側面から見れば、これまで教科書の中でしかみたことのない疾患を実際の患者を通じて、フレッシュなものとして理解することが出来るということになるのであろう。それだけではない。実際の医師の業務がどのようなものかを体験することが出来る。自分がどの診療科に興味があるのかを見当を付けることも出来るであろう。もちろん学生がさまざまな場面で立ち入ることは、患者にも説明されている。手術室、家族への説明、死亡確認など、医師のわずかに後方でまるで背後霊のように私たちは申し訳なさそうに、いる。時折、患者や家族は私たちの名札を不思議そうに眺める。「なぜ学生がここに?」とでもいいたげな表情だ。それも無理はないか。お年寄りは私たちが学生ということを説明しても、「先生、先生」と声をかけてくれる。医者と同じ白衣を着て病棟を歩いているのだから、そう見えるのも当たり前だが、それはそれで歯がゆい思いをすることもしばしばである。
 病棟での一年間の実習を終えて試験に通れば、6年生に進級することになる。6年生なんて、小学生以来の響きだ。国家試験の突破に向けて、ただひたすらに試験勉強に打ち込むことになる。それとともに研修病院を探す。現行の医師の研修システムは平成17年より開始された。これにより医師免許取得後2年間の初期研修が必修化された。私たちは、自分達がどこで研修を受けるのかの選択しなければならない。希望する病院の試験を受けて、順位付けする。それをオンラインで申し込む。全国の研修指定病院も欲しい学生に順位付けする。めでたくマッチすれば、その病院で研修を受けることになる。全国一斉にオンラインで発表になる。首都圏の国立病院機構や民間病院の人気が高い。もちろん大学に残るものもいる。首都圏でその傾向は強い。だが、地方の医学部では、卒業生が5,6人しか残らなかった大学もあるという。最も機動力のある研修医がその数であれば、大学病院の危機感は相当なものであることは容易に想像つく。どの世界でも現場の仕事をまわしているのは、最下層の人間であることに変わりはない。それは大学病院に限った話ではない。地方の民間病院などは給料がものすごく高い。右も左もわからないできたてほやほやの研修医に、年収1000万円出す病院もあるくらいだ。その一方で首都圏の私立大学病院の1年目の給料は、200万円に満たないところもざらにある。一般の大卒初任給よりも低い。
 病院毎に組み立てられた研修プログラムに多かれ少なかれ違いはあるものの、2年間の研修までは皆同じ道を辿ることになる。初期研修が修了して初めて自分の専門とする診療科に入る。入局というやつだ。臨床から離れ、基礎系の研究をおこなう医師になる人もいる。官僚になるものもいる。大学院に行くものも半分以上いる。大学院に行けば学位は取れるが、4年間学費を払いながら病棟で働くことになる。もちろん無給である。週に1,2日バイトに行き生計を立てる。1日あたり6~10万ほどになる。研究もある。

 話を戻そう。
 冒頭の「告知」の場面は、私が実際に遭遇することになった場面の一コマであった。
 私は、そこに医学生として居合わせていたのである。だが、告知の場面に立ち会うのはこれが初めてではなかった。かつて告知を受ける側になったことがあった。それは母の余命宣告だった。

 
三、母の出来事

 母は、私が24歳の時、脳腫瘍により他界した。49歳だった。当時私は哲学を専攻する大学院の学生であった。将来は研究者を志していた。学部の4年生の時に母は病に倒れた。弟の高校受験が終わるまでは入院したくないということで、数ヶ月先送りして手術を行った。そして術後の病理検査の結果、脳腫瘍の中でも性質の最も悪いものの一つである脳神経膠芽腫であることが判明した。主治医にいわれた言葉に、頭を金属バットで殴られたような衝撃を受けた。「この症例の場合、半年もたない割合が90%以上です。抗癌剤による治療も脳の場合、あまり効果的なものはありません。放射線治療があるのですが、これもあまり期待できません。ですが、まずはそれをやってみましょう」。ようやく親の手を離れた甘ったれた20歳そこそこの男に、親孝行などということはあるわけがなかった。それなのに、母は逝ってしまうのか。何とか平静を装い病棟の母を見舞う。母は当時延々と流れ続けていた阪神大震災に関するテレビ番組に見入っていた。母は自分が薬剤師の資格を持っていたこともあり、病名は分っていた。ただ医師から告げられていた余命は、話してはいなかった。手術してよくなるものと思っていた。術後すぐにリハビリしながら、左半身の麻痺に必死に抗っていた。
 医師の見立て通り放射線治療も抗癌剤治療もあまり効果はなかった。保険適応のない新薬も試したが、まったく効きやしなかった。母の体調も次第に悪くなっていった。立つことはおろか、言葉をしゃべることすらままならなくなった。腫瘍が言語野にあったからだった。治療がないので、在宅での介護が続いた。病院付属の研究所で実験的に取り組んでいた免疫療法というものに、藁にもすがる思いで飛びついたりもした。それは私や弟の白血球を採取培養し、母の身体に投与するというものであった。主治医はこの治療に積極的ではなかった。効果が確立していないからだった。幸いなことにこの治療がこの治療が功を奏した。半年はもたないと告げられてから2年半、母は生きた。最後は瞼を閉じることも出来なくなった。高校生の弟のことを最後まで案じていた。
 この間、徐々に朽ちて動かなくなっていく母を父と私が介護した。まさかこの年で母の下の世話などするとは思ってもいなかった。母にとってもどれほどかつらいことであっただろう。夜中に二回も三回もトイレで起こされることがあった。次第に部屋の内線電話が鳴るのさえ恐ろしくなっていった。母の病気や介護を私自身、充分には出来なかった。出来ればそのことから逃げたいとさえ思っていた。身体のケアすら出来ないのに、死に瀕した母の気持ちなど汲み取ってあげることなど当然出来やしなかった。母が時折こぼす「ナンデワタシガ・・・」、「シヌノガコワイ」といったかろうじて聴き取れる言葉に、私はただ「大丈夫だから」としかいい添えることができなかった。何一つ大丈夫なことはないのに。なぜ母の気持ちを少しでも一緒に背負ってあげることが出来なかったのだろうか。母が亡くなったとき、それが最大の後悔でもあった。しかし、それが当時の私の背一杯でもあった。私自身、ひどく傷ついていたのだと思う。
 
 この体験が私を医学部進学に導いた、といったら聞こえはいいかもしれない。実際医学部入試の面接の時や私の経歴を不思議がる知人には、「なんで医者になろうと思ったの」と尋ねられれば、必ずこの話をした。受けも上々だった。しかし、ただそれだけで、まったくの畑違いの道に進もうと決意できるはずがない。若くして親を亡くすものは、いくらでもいる。私以上にその看病に自身を費やした者も多いに違いない。
 哲学の研究者ではなく、医師として生きていこうと思った理由は、一つではない。母の死は一つのきっかけだった。ハイデガーのことば論を取り扱った修論の評価は上々だったが、自分の力量の限界はそう遠くない気もしていた。職に付くことも至難である。博士課程に六年間いるならば、医学部に六年間いった方が、先は開けるに違いないと思った。もし受験に失敗しても、そのときは大学院に帰ればいい。今まで避けてきた数学、物理や化学といった教科を勉強できるチャンスだと思えばよい。それは哲学を続けていく上でもキャパを広げるために必要だ。そうやって、自分に言い聞かせてきた。しかしやはりそれは、哲学の研究からドロップアウトを意味するものに違いなかった。哲学は世間に頓着することなく、それの役に立つことを考えるのでもなく、自分の将来の不安などあってもただその問いの純粋さにとりつかれ、歩みを進めるものでなければならないと考えていた。
 そしてなにより自分がこれまで哲学の名の下で考えていたことがらが、人間の生についてであることを母の出来事をもって、改めて確信した。しかし、生について考えているつもりでいた私が、母にかけることが出来た言葉は「大丈夫。心配ない」といったごくごくありふれたものでしかなかった。彼女の生を考えることが出来やしなかったのである。彼女のターミナルに臨んで、彼女の実存にかかわる気の効いた言葉一つ思いつくことはできなかった。理由はこれだけでもない。だが、それはよい。
 テキストではなく、人間を前にして何が問えるのか。

 医学生という立場で記述し、そこからいま何を提示することが出来るのであろうか。

 それは、病棟実習により俄かに立ち上がってきた人々の「顔」である。「顔」とは死に面した人々、大きな病を抱え生きようとする人々、またそういった人々とかかわる医師達の姿である。「医師になる」ということの中に、これまで具体的な「患者」というのは、意識されてこなかった。母の体験はその端緒ではあるが、母は「患者」ではなかった。そこから現代医学の孕む問題を炙り出すなどといった社会正義は、ここでの問題ではない。
 この作品は、断片的ないくつかの体験とインタビュー、そしてモノローグから主に構成されている。生きようとする人間の混迷とおのれの死に直面せざるを得ない状況での人間の姿を対照的に描き出したかった。そこには何か通底するものがあるのではないかと。それを医師ではなく、一般市民ともいえない一人の医学生という曖昧な立場から、書いてみたかった。そうした人々の姿を描くことで、生きて死に往く人間の一部を示すことができれば十分である。一方でこれは、あと一年もすると医師となり世の中に出て行く自分自身に対しての一つのまとめという意味を持つ。極論すれば、この記述はこれから医師になろうとする私のための記録に過ぎない。


四、ホスピス

「告知」での、Oさんは積極的な治療はおこなわず、その年の12月、あの時と同じ病棟で静かに息を引き取った。
 日本では、年間100万人が死亡する。2004年のデータでは、3大死因の死亡数は、第1位悪性新生物32万1000人、第2位心疾患15万9000人、第3位脳血管疾患12万7000人と推計されている。2000年に新たに診断されたがんは538345例(罹患全国推計値)ある。Oさんがそうであったように、癌患者のほとんどが病院で最後をむかえる。2005年現在、全国でホスピスや緩和ケア病棟を有する施設は144ヶ所、2732床である。ホスピスで最後をむかえる人はほんの一握り、数%にすぎない。
 ホスピスでは積極的な治療はおこなわず、痛みや精神的なケアに主眼を置いている。単に死をベッド上で待っているわけではなく、煙草や飲酒も可能である。ペットと暮らすこともできる。ときには、最後の願いをといって医師や看護師皆で、想い出の地に連れて行ってくれることもある。なかには、ここで結婚式を挙げたりする患者もいるという。夫婦や家族が一緒に最後まで暮らすこともある。

 長野県長野市にOBが院長をしている民間のホスピスがある。50床足らずの小さな病院であるが、常に満床である。その大多数が末期癌の患者であった。緩和ケア病棟は17床しかないが、一般内科病棟では、緩和ケア病棟の空きを待つ患者が入院している。
 昨冬の大雪とはうって変わって、暖冬の長野駅に到着した。正月の門松もまだ残っていた。雪はないもののそれでも東京の冬より寒い。10分ほど歩いてこの病院に到着した。ちょうど一つの小さな「お別れ会」が終わった直後だった。院長が往診に出かけており、不在だった。対応するものがでてきてくれるまで、そのお別れ会が開かれた直後の静まり返ったシンプルな小さなチャペルで、荷を降ろして待っていた。暫くして看護師長が出てきてくれた。簡単な挨拶を交えると、早速病院内を案内してくれた。大学病院や大病院とは違って、落ち着いた澄んだ空気が漂っている。早足の人はいない。所々に西日が差し込む陽だまりがまぶしい。テラスではよく手入れされた色とりどりの西洋花が風に揺れている。
 その後、面談室で温かいコーヒーと洋菓子で私の旅の労をねぎらってくれた。「告知」、「母の出来事」のような話しをし、将来はいずれどこかで終末期医療に携わりたいという話をこちらからした。師長は、うんうんと私の話を首尾よく聴いてくれた。母に対して何一つできなかったという思いが、私をここまで連れてきたと話すと、「よくやった人ほどそういうものですよ」といわれ、何かが熱く込み上げてくるのを感じた。いかん、いかん。私が「緩和」されてしまっている。他にも、一時間ほど師長と終末期医療やこの病院でのエピソードの談話を続けたところで、院長が往診から帰ってきた。後輩の来訪を心から喜んでくれた。様子を伺いながら、恐る恐る患者とじっくり話したいということ、しかもそれを取材としても扱わせていただきたいと申し出た。すると院長は、「まあそれは、君の力量次第だ」といった。ほっと胸をなでおろした。とりあえず患者と話すことは許されそうだ。けれどそれは、初対面の見知らぬ男に、どこまで末期癌の患者が本音を語るか、どうやって相手の心をほぐすことができるか、やれるものならやってみなさいということであった。
 院長は、一冊のカルテを手渡してくれた。それは、市内の大きな基幹病院から紹介され20日ほど前にこの病棟に来たK子さんのものだった。K子さんは、55歳だった。診断名の欄に「膵臓癌」とある。原発巣を取りにいくための手術をしたが、開腹するとすぐに腹膜への無数の転移があり、そのまま胆嚢だけ摘出し、閉じてしまったことが記されていた。この時点での余命が4ヶ月であった。それから2ヶ月以上経過している。しかし、膵臓癌で転移がひどく治療は難しいということは伝えてあるが、余命の診断は本人には話していないとのことであった。現在は、お腹の痛みがひどい。一通りの目を通したところで、白衣に着替えて名札をつけ、鏡で身なりを確認して、彼女の病室に向かった。

 ドアをノックすると、「どうぞ」と声が届いてきた。ドアを開けると、K子さんが上半身をベッドに起こしていた。口もとの筋肉をわずかに動かし、軽く笑顔を見せてくれた。ぱっとみたところ、やせは目立つが元気そうだった。折りたたみ式の椅子を彼女のベッドのすぐ傍らに広げ腰を下ろすとき、院長にいわれた言葉が変にプレッシャーになっていることに気づいた。とりあえずこれまでの病気の経過を彼女の言葉で聴かせてもらおうと、話しを始めた。
「始め夜中に急に気持ち悪くなったんですよ。おかしいおかしいって思って、それで夜間救急病院に自分でいったんですが、黄疸があるねっていわれただけで、翌日また来てくださいって、帰されたんですよ」。
彼女は、割りと張り艶のある声で、しゃべり始めた。
「今流行のノロウイルスかと思って、孫に移したら大変だと、次の日の朝、いったらそのまま大きな病院行ってくれといわれて、そこでそのまま入院になっちゃったんです」。
 経過はおおよそ記載の通りだった。だが、離婚して女手一人で二人の娘を育て上げたこと、下の娘は看護師の卵であること、彼女の病気が判明した日が長女の娘、つまり初孫のお宮参りの日だったこと、そしてお宮参りのあとで入院したいといったのだが先生が許してくれなかったことなどは、そこには記されてはいなかった。話の間しばしば、「おえっ」と顔を歪める。「生唾がこみ上げて、吐き気みたくなるんですよ」といって、ティッシュで口を拭う。今は、お腹の痛みよりもこちらのほうが辛いという。オピオイドと呼ばれる麻薬性鎮痛剤により痛みが抑えられているのであろう。この薬の副作用に嘔気がある。ただ、そういった種類の嘔気とも違った印象を受けた。オピオイドを使う前から、あったという。「向こうの病院でも私の吐き気を止めるのにすごく苦労したんです。トラベル何とかってって名前の点滴が、よく効くんで看護婦さんにお願いしたんですが、こっちにはないというんですよ。問い合わせてみるって。モルヒネもほんとは使いたくないんですけどね」。痛みや吐き気は相当滅入る。
「よく寝られますか」。
「眠剤もらっているんで、4時間は寝られますね。4時間できっちり目が覚めちゃうんですけれどね」。
オピオイドの有名なもう一つの副作用には、眠気がある。K子さんには、眠気はないようだが、これが嫌という人もいる。K子さんの場合は、やはりある程度オピオイドのコントロールはついているように思われる。
 
 病気になる前はまったくの健康体で、それが唯一の自慢だと思っていた。風邪一つひいたこともなく、健康には誰よりも自信があった。離婚してからも、団体職員として働いてきた。仕事のストレスも多かったが、ようやく初孫を抱けるようにもなった。下の娘もあと一年もすれば看護師として独立する。「ようやくって時なのに、あたし昔からそうなのよね。ついてないのよ。大体が」。今回の病気の原因もきっとストレスが大きかったという。そればかりが原因じゃない。「あたしって昔から新陳代謝が悪くて、体温も36度とかもいかないんですよ。お水もあまり飲まなかったから。そういうの癌体質らしいですよねえ」。私にはあまり聞いたことのない話だった。現代の医学で説明が付く話かは知らない。ただ、そうやって彼女には、自分なりのストーリが必要なのだろう。仕事と子育てに追われ、初孫を抱きようやくひと段落つけそうだというときに、自分が既に末期癌の状態にあるなんてどんな理由であろうとも受け入れられるわけがない。それでも、何らかの理由が必要にはなる。そうやって何とか自分のおかれた状況を了解しようとする。それが、理性的動物の性であるのだろう。
 
 治療もすべて断った。
「抗癌剤や放射線を使おうかって、向こうの病院ではいわれたんですが、使ったら、また吐くでしょ。あたし嫌なんですよ、そういうのが。それで治るんならいいですけど。どうせ駄目なら、何にもしなくっていいって、いったんです。それでいんですよ。でも丸山ワクチンだけは、今でもやっているんですよ。効いてるか分らないから、それもやめてもらいたいなって思っているんですけどね」。
「そんなに治療したくないのですか」。
「治るならいいけど、こんな状態でずっといくなら、早く楽になりたいんですよ」。
「でも娘さんが看護師さんの卵なら、治療しようっていうんじゃないですか」。
 「ええ、そうなんですけど。でももういいんです。あたし・・・」。
と小さな声で呟くようにいた。またこみ上げるつばを拭い取る。ベッドのパイプにはゴミ袋が結ばれており、ティッシュペーパーがどっさりと入っていた。一日で一箱空けたときもあったという。

 少し先を急ぎすぎたと思い、飲み物を買ってくるといって、間をおいた。たまたまだったが、なかなかうまく話が進まないときに、とっておきのネタをカルテから仕入れてあった。紙パックのジュースにストローをさして、ひと飲みした。私も随分と肩の力が抜けてきた。
「あっ、そういえば、さっきカルテで見たんですけれど、誕生日が僕と同じなんですよね。2月23日ですよね。僕もなんです。皇太子と同じなんですよね」。
「えっ、そうです、そうです。へー、同じなんだ」。そういうと、また顔に明るさが戻った。好きなお笑いタレントの話や正月番組の話をしてくすくすと笑っているうちに、日もとっぷりと暮れてしまった。病室のライトを点けると、光量を弱くして欲しいといわれた。
私は、自分の母親の話をした。子供の立場からすれば、やっぱり一日でも長く頑張って生きて欲しいって思いますよと話した。
「吐き気や痛みがよくなれば、少しは治療してみようかなって気持ちにもなりますかね」。
「うーん。それはどうかな。でも、どうしても違うところにすがりたくなっちゃうのよね。おかしいと思われるかもしれないですけれど、やっぱしなんか、精神的に支えになってくれるところに縋りたくなっちゃうんですよね。それで、あの、いまあたしも徐霊センターみたいなところに通ってるんですけどね。今日も後できてくれるっていってましたけど・・・」。
意表を衝かれた。「そこは、お祈りするようなところなんですか」。
「祈祷とは違って、光を与えてくれるところなんですよ」。
「それで少しは楽になれますか」。
「ええ、別に高いお金取られているわけでもないし。精神的な安定を求めているとは思うんですけれどね」。
この病院には、チャプレンと呼ばれる病院専属の牧師がいる。牧師と対話することもできる。
「ここには牧師さんもいるようですけど、キリスト教か徐霊センターかの違いくらいで、求めてらっしゃるものは、きっと同じなんですよね」。
「ええ。やっぱ怖いんですよね。いなくなってあとのことが。自分の行き先が。いなくなって、どこ行くんだろうって。いろいろ考えちゃうんですよ。不安になっちゃうですよ。いや、怖いのが先なのかなあ」。「もちろん孫もできたばかりで、できれば成長を見ていたいって思いますよ。娘だって、やっと片付くって時だし」。「でもご飯も食べられないし、なんせこの吐き気じゃ」。「あっ、でもね。孫が毎日来てくれるんだけど、孫を抱いている時だけは、不思議と吐き気も止まるんですよ。精神的なのもあるかもしれませんね。昔から車に乗っていても、酔うかな酔うかなって思っていると必ず酔っちゃったし」。
癌が拡がることで十二指腸が狭窄していた。そのためご飯が、ほとんど通らない。ここ二ヶ月液体以外のものを口にしていない。おそらくは込み上げてくる吐き気もここからきているのではないだろうか。癌が大きくなり、胃を圧迫しているのではないだろうか。本人もそう考えていた。やりたくはなかったが食べ物が通れるようにする二回目の手術を周りの説得で受けた。が、結果はよくなかった。
「だから嫌だったんですよ。あたしは悪いほう悪いほういっちゃうんですよ」。 
「随分と冷静に自分の状況を分っていらっしゃいますね。お強いのですね」。
「いや、強いわけないじゃないですか。諦めですよ。もうしょうがないんですよ。娘も来年から働きに出るし、そしたら忙しいだろうから、あたしがいたらかわいそうだし」。
「いや、娘さんにしてみれば、僕もそうだったから思いますけど、家族にしてみれば、そんなこと絶対にないですよ。どんなに介護で大変だって、やっぱり生きて欲しいと思いますよ。そんなこと心配なさらないで」。
「そうなんでしょうけどね。こういう病人が出れば、家族から親戚までみんな大変だから」。

「お仕事はどうなさったんですか」。
「辞めました。でも、病気になってすぐに入院して、荷物や机の整理もあるんですが、一度もいってないんです。こんな姿誰にも見られたくないから、上司や部下やらがお見舞い来るっていってくれたんですけれど、全部断ったんです」。

「ところで、ホスピスに入るといったのは、ご自分で選んだのですか」。
「そうです。大きな病院だと、ずっと点滴につながれているでしょ。人も大勢いて忙しないし。自由も利かないし。外にも出れないし。そんなの気狂いそうよ。その辺の窓から飛び降りたいって気持ちが始めてわかりましたよ。生きてるほうがつらいんですよ」。
「ご家族はどうでしたか。ホスピスに入りたいっていうと、諦めちゃってるんじゃないかっていいませんでしたか」。
「うん、そう。でもね、みんな口では大丈夫だよとかいうんですけどね。あたしの性格も知っているし、諦めてるんじゃないかしらね」。
「どなたか、パートナーみたいな方は、いらっしゃらないんですか」。
「いますよ。います。よくここにも来てくれますよ。申し訳ないですよ。娘が独立したら、一緒になる予定ではいたんですけれどね。こんなんなっちゃって・・・」。
「みんなに申し訳ないんですけれど、あたしもそういうのもだんだん負担になってきちゃうね」。
「いや、ここではもっとわがままなさっていいんですよ。みんなのことなんか気にすることはありませんよ。師長さんに聴いたんですけれど、想い出の患者さんて、ものすっごく困らされたような人らしいですよ。そういう人の話しは、今でもナースステーションでするらしいんですよ。『誰某さんは、こんなことしてたよね』って想い出話に花が咲くって」。「先生や看護婦さんはどうですか。頼りにできませんか」。
「いやそんなことないですよ。ここの先生も、向こうの先生も、みんなあたしのいうこと聞いてくれんですよ。看護婦さんが優しいよね。ほんとに。ひと言ひと言に励まされるんです。涙出てきちゃうよね。ほんとよくして下さるし。みんなに感謝するんだけども。手術だけはしないでもらいたかったけれど・・・」。

「あたしのカルテの画像とか見ましたか」。
「ええ、拝見させていただきましたよ」。
「それで、あたし、あとどれくらいとかわかりますか」。
「いやー、正直全然分らないです」。
 「きたっ」と思った。といっても一介の医学生に画像から余命が判断できるほどの臨床能力は備わっているわけもない。ただ、私に聴いてくるというのは、やはり皆が敢えていわないでいるというのを感じとっているのであろう。何かうまいこと続けて話さないと。
 「そういえば、さっき師長さんと話していたんですけれど、ここに来るといわれていた余命より長く生きる方が多いようですよ。食欲とか性欲が強い人は、特にそうだっていってましたよ」。
 K子さんが、くすくすと笑った。「先生、ほんとは隠しているんじゃないかなとか。ほんとはあと3ヶ月とか」。
 余命は、医師の経験とステージより統計的に得られるデータからおおよそ判定されている。大きく外れることもしばしばある。
 「ほんとのこと教えてもらいたんですよね。気になるんですよ」。

 止め処もなく話しを続けていると、徐霊センターの人がやってきた。どこにでもいるおばさんだった。K子さんが私を紹介すると、少し訝しそうだった。K子さんも察したようだが、「この先生は分ってくださるから大丈夫よ」と彼女を気遣った。彼女がコートを脱ぐと、K子さんが「よろしくお願いします」といって、背を向けた。彼女は、K子さんの後頭部に一メートルほど後ろから手を翳している。時には二、三歩歩いてさまざまな角度から、頭に向けて手のひらを翳す。K子さんは目を瞑って、じっとしている。15分ほど続いた。K子さんは、「温かくなってきたと」いって横になった。
 
 翌日もK子さんの病室のドアをノックした。その日は、長女が孫を連れてきていた。K子さんの表情も昨日より遥かに柔和であった。長女が「おばあちゃんによくなってもらわないとね」と赤ん坊をK子さんの腕に抱えさせた。K子さんは「いやあだ。おばあちゃんなんていわせないで。ねえ。」といって、朱色の柔らかな孫の頬をさすっていた。生まれたばかりの者と死を間近に控えた者が慈しみあっていた。
 家族の団欒を邪魔するのは忍びなかったが、居てくれて構わないというので小一時間ほどご一緒させていただいた。確かに吐き気のような咽頭の反射はないようだった。帰りの新幹線の時刻が迫っていたので、そのことを伝え、院長や看護師たちに挨拶を済ませた。宿直室に戻り、私服に着替え荷を背負った。そのまま玄関まで出てきたが、K子さんへ一声掛けていこうと思い直し、そのまま再び病室に入った。娘や孫も帰ったようで、部屋は静かだった。私が最後に掛けた言葉は、こうした人々に掛けるべき言葉ではないとされている言葉だった。それは承知の上だったが、それでもそういいたかった。そう。「頑張って!」と。
 

五、救急救命センター

 クリスマス直前のある寒い夜、私は救命救急センターに宿直していた。差し迫った浮かれ調子の夜の街を彩る青や白や緑やらの華やかなイルミネーションとは対照的に、センターの夜は救急車の赤色灯が騒がしく回っている。この時期は特に脳卒中や心筋梗塞といった急病が増えるときでもある。
 大学病院の救命救急センターは、第三次救急医療機関である。それは、極めて重症な救急患者に対して、高度な治療をおこなうことができる施設のことである。心肺停止患者が運ばれてくることも毎日、一度や二度ではない。

 そういえば救命救急センターに初めて来たのは、この大学に入った最初の年だった。医学生といえども、一年生では実際の医療現場の光景は未知の世界そのものだった。センターでの見学が一通り終わり、教員によるまとめがおこなわれていたその最中に、ホットラインのベルが鳴った。駅ビルからの飛び降りた者が運ばれてくるという。屋上に本人のものと思われる靴が揃えられていたそうだ。
 救急車が到着すると、血まみれの男性がストレッチャーに乗せられERに大急ぎで運び込まれた。一目見て一刻を争う状況であることは、素人目にも明らかであった。左の大腿骨が太ももから飛び出ていた。頭からも出血が続いており、顔面は血で染まっていた。ベッドに移されるやいなや7、8人の医師が飛びかかった。あるものは衣服を引き千切り、別のものは点滴のルートを確保し、またあるものは大声を張り上げながら患者の顔を叩いている。虫の息だ。血圧を測っている医師が、「73です!」と叫ぶ。左目の瞳孔は開いたままである。脳内の損傷が疑われる。CTを撮るとそれは裏付けられた。患者は呻き声を上げている。私は固唾を呑みながら忙しく動き回る皆の動きの邪魔にならところで、肩をすくめその光景をただ眺めていた。ベッドの上のライトが、血に染まった顔面と大きな骨に突き破られた太ももをこうこうと照らし出している。一人の医師が私を呼び寄せた。手をとられ患者のすぐ傍らに立たせられ、状況を説明してくれる。「これから緊急手術になる。頭蓋内の出血が致命的になる可能性があるが、それよりも今は出血を止めることが優先される。骨折による動脈損傷のため血圧の低下が止まらないからだ」。
 医師の呼びかけに、患者はわずかに反応している。それをみたとき、自然と私は「頑張れ」と叫んでいた。知らぬうちに強く握り締められていた両手を開くと、手のひらには汗を書いていた。そしてそこには爪あとが深く刻印されていた。
 緊急手術は成功したものの脳の挫滅がひどく、この患者は4日後に意識を戻すことなく亡くなった。やはり、自殺だった。
 自分自身に驚いた。私はそれまで、自殺といえどもその人間の一つの生のあり方だと考えていたからだ。それはその人間の倫理であると、その人の生きる道であると。だが私は彼を目の前にして、内心「生きろ」と叫んでいた。少なくとも私に知識と技術があれば、何の躊躇もなくそこに参加していただろう。

 救急救命センターに来ると、このことをいつも想い出す。
 それから5年経ち、多少の知識は得た。

 深夜二時過ぎ、ホットラインのコールがなった。
 78歳の男性が自宅トイレで倒れていたところを娘が発見した。すぐに救急車を要請した。救急車到着時には意識があったが、救急車に収容するやいなや心肺停止状態になったという。
 だとすれば、心肺停止からまだ数分。救命の可能性が十分ある。
 寝ぼけ眼をこすりながら、白衣に袖を通し救急車の到着を入り口の外にでて待つ。出るやいなや、真冬の冷たい空気に全身が包み込まれる。手をこすり合わせ、息を吐き出して暖めようとするが、真っ白な息が眼鏡を曇らせるだけだった。まもなく救急車が到着した。
 後部の扉を開けると、救急隊員がエアバックによる人工呼吸と心臓マッサージを施していた。娘と奥さんと思われる人たちが、今にも泣き出しそうな顔で「お父さん、お父さん」と手を握り締めている。救命センターのベッドまでも心臓マッサージは続く。ベッドに移ると、医師たちの出番である。既に機材や薬剤は、準備万端である。すかさず医師は気管内挿管を施し、静脈路を確保する。身体はまだ温かい。心電図の波形は、フラットのままである。
 心臓マッサージは両方の乳首を結ぶ線の真ん中に両手を当て、1分間に100回のペースで胸が5cmほど沈み込むようにおこなう。肋骨がきしむ感覚が掌に伝わってくる。当直の医師は二人しかいない。心臓が完全に止まってしまった患者には除細動器は効果がない。心静止治療のプロトコールに従って、数分おきに薬剤を投入している。特に焦る様子もない。私や救急士が交代して、心臓マッサージを続ける。5分もすれば額に汗がにじみ始める。心電図には心臓マッサージによる波形やPEAと呼ばれる心筋の一瞬のひきつりのような波形が入るものの、心拍は帰ってこない。私は心の中で「動け、動け!」と一押しするたびに、叫んでいる。私という外力によって血流がわずかに保たれている。脳や組織は、かろうじて生き続けているはずだ。
 20分ぐらい経ったのだろうか。どれくらいかはよく憶えていない。上の医師が、じゃあそれで最後にしようと私に告げた。私は「はい」と答えた。私の手が止まれば、この人のわずかな望みが絶たれることになる。力がはいる。何とか動けと念じ続けた。「よし終わりにしよう。家族を呼んでくるから。挿管外しておいて、きれいにしといてくれる」。手を止めて、額の汗をぬぐった。大きく一つ息を吸い込む。どこの誰だかは知らないが、彼の一番傍で終焉を見届けた。またしても私は無力であった。
 娘と奥さんが、恐る恐る寄り添って入ってきた。父の姿を見て、二人ともぼろぼろと涙を溢し始めた。「お父さん、おきて。ねえ、お父さん・・・、おきて・・・」と身体をゆすった。私や他の医師は、少し離れたところからその光景を眺めている。私が悪いわけではないのだが、申し訳ないという気持ちが込み上げてくる。家族がひとしきり泣いて現実を受け入れ始めたころ、上の医師が家族に声をかける。「大変おつらいところ申し訳ありませんが、私どもの時計で2時52分になります。これから死亡確認させていただきます。それからですね、病院に来たときに既に心肺停止の状態で、こちらでもできうる限りのことをさせていただいたのですが、心拍が再開できませんでした。そのため警察の方に来ていただいて、検案させていただかなくてはなりません。その間またお待ちいただかなくてはなりません」。亡骸の顔を撫でている愕然としていた家族にとっては、「警察」という言葉は違和感があったには違いない。しかし思慮するだけの力はなく、コクリと頷いた。ハンカチで目頭を押さえ肩を落としたまま、待合室の冷え切ったソファーにそっと腰を落とした。
 病院以外の場所で亡くなった場合、ある特別な場合を除いては、それは異状死体として取り扱われることになる。もし病院で一度でも心拍が再開していれば、それは病院での死亡となるのである。
 もう一人の研修医に誘われて、暖かい缶コーヒーを握り締め外に出る。寒さで皮膚が収縮して、鳥肌が立つ。暖かいコーヒーが胃に流れ込むのを感じる。煙草を大きく肺に吸い込む。そして、煙を大きく吐き出す。白い煙と白い息が混じりあい、深夜の真っ暗な寒空に舞う。センターの脇を走る道には、新たな赤色灯の回転する明かりが近づいてきていた。

 突然自宅で倒れそのまま息を引き取ることは、医療の恩恵を十分に受けさせることが出来ないということになる。この点においては医療者にとっては悔いの残ることであるかもしれない。しかし、本人にとっては病院でさまざまな機器や管につながれたままよりも、好ましい死に方の一つではあろう。そういってみせる人は多い。もっとも突然逝かれた場合、その哀しみは家族に直撃することになる。
 医療がなしうることは、本人やその家族が直撃弾に中らないようにするための緩衝材のようなものでしかないのかもしれない。

 
「尊厳ある死」とは、どのような死のことであろうか。急性の心臓疾患、脳血管疾患、癌死、老衰、ALS、AIDS、不慮の事故死、自殺、他殺などさまざまな死因があるであろう。どのようなプロセスを辿るのであれ、死そのものは同一の結果をもたらすのだとすれば、「尊厳ある死」とは、死そのものに属する尊厳をいうものではない。「尊厳」はその過程に関していわれているのである。しかし、医療として提供できる穏やかな死へのプロセスは、ごく一部に与えられるものであり、しかもそのほんの直前でしかない。もちろん、それでも意味はある。病になる前から人間は死に向かって生きているのだ。
 声高らかに尊厳ある死を主張することは、どこか死に属する本来の過酷さを隠したてることにはなりはしないだろうか。かつてキューブラロスは、死に往く過程を否認、怒り、取引、抑鬱、受容として段階的に捉えた。しかしそれとて、諸段階を駆け上がり発展的に解消されるものではない。堂々巡りを繰り返す。
だが、いかなる人間の生にも尊厳があるのだとすれば、その臨終にも、虚飾をまじえなくても必然的に尊厳は胚胎している。しかしそれは過酷さの中にしかないのかもしれない。 それを「尊厳」の名において隠してはならない。
 この章を綴じるにあたって、小泉義之の『病の哲学』(ちくま新書)から、その一節を引いておく。

「末期状態の病人を見るに忍びないのは誰か。末期状態の人間に嘱託されるのは誰か。末期状態の人間に手を下すのは誰か。親密な人びとだ。親密圏が末期状態の人間に死を与えるのだ」。  p100

第二章

一、自己と非自己

 ここまで、死に臨む医療の現場をいくつか垣間見てきた。だがしかし、その一方で現代医学は、不治の病を克服するためにいくつもの途を切り拓いてきた。むしろ、それこそが現代医学の主題であったといえるであろう。その一つに移植医療がある。移植とは非自己を自己に生着させることである。このように移植を定義すると、当然輸血もその一つである。
 輸血の始まりは、1492年ローマ法王イノセント8世が危篤状態に陥ったとき、3人の青年の血が死に到るまで絞り取られ、法王がそれを飲まされたところに端を発するといわれている。その後輸血が盛んになったのは、17世紀になってからのことだった。
 1667年、フランス国王ルイ14世の侍医であったジャン・バプティストゥ・デニ-は、4名の貧血患者に仔羊の血液を輸血したと記録されている。しかし副作用で患者は真っ黒な尿を出し、4名のうち1名が死亡した。そしてデニ-は殺人者として裁判にかけられることになる。長い法廷闘争の末、結局無罪となった。これを機に輸血禁止令が出されたという。
 現在のように輸血が日常的におこなわれるようになるためには、さらに200年以上を要した。1900年ウィーン大学のカール・ラントシュタイナーが、ABO式血液型を発見した。その10年後アメリカのモスらが、これまでの輸血による死亡事故の主な原因はこの血液型不適合によるものであると発表した。こうして初めて輸血が医療現場に登場することになる。
輸血一つ取り上げても、日常的に利用される医療資源となるには500年以上の歴史を有している。しかもHIV感染者の血液製剤、肝炎ウイルス、未知のウイルス等未だに問題は後を絶たない。しかし、非自己を自己に導入するという移植の発想は、この輸血という概念があって始めて成り立つ。
 臓器移植は20世紀に始まった医療である。人間の体の失われた部分を他のもので補ったり、機能しなくなった部分を交換しようという試みは古くからあったようである。他人の身体の一部を使うものでは、皮膚、角膜などの移植が、19~20世紀にかけて、普及した。
 臓器の代替物としては人工物を使用するものでは、人工腎臓(透析器)が1945年頃から発達した。これは現在広く用いられている。日本の透析患者は20万人もいる。人工呼吸器、人工心臓なども開発された。しかし、ほとんどは体外で使用する装置であり、制約が大きかった。
 1902年、ウィーンの外科医ウルマンはイヌの腎臓を摘出し、同じイヌの首に移植した。移植された腎臓は正常に機能し、この結果が報告され当時の医学界の話題をさらった。その三年後にはフランス人のカレルもイヌの腎臓移植を行った。カレルはその後ネコを使って、他のネコからの移植実験を重ねたが、一時正常に機能した腎臓がやがて機能しなくなることにに、何らかの生物学的因子が働いていると考えた。これが後に拒絶反応と名付けられ、この克服が臓器移植の最重要課題となる。
 1906年には、ヒツジやブタの腎臓をヒトに植える異種移植も行われた。これらはいずれも失敗に終わった。ヒト間の腎臓移植がはじめて行われたのは1936年のことだった。ウクライナのボロノイは急性腎不全患者を救うため、死者の腎臓を患者の大腿部に移植した。患者は、36時間後に死亡した。 
 他方日本では、京都大学の山内半作がその先駆けだった。イヌやネコを使った腎臓移植の実験結果を1910年に「臓器移植」として発表している。1956年新潟大学で、楠隆光が急性腎不全の患者の大腿部に腎臓を移植した。これが日本初の腎臓移植となる。1964年には東京大学の木本誠二が慢性腎不全患者に対する生体腎移植を行った。またこの年、千葉大学の中山恒明らによって、日本初の肝臓移植も行われた。患者は五日目に死亡した。その前年には、スターツルによる世界初の肝臓移植が行われている。

 さて、現場に戻ろう。


二、小児科病棟

トクントクン、トクントクン。心臓は力強くリズムを刻んでいる。聴診器を当てる私の目の前で、その児はすやすやと眠りについている。真白な布に包まれて、乳児特有の甘い臭いがする。生まれて二ヶ月を過ぎたばかりの女児である。こんな邪気のない顔をみれば、やがて訪れるであろう豊かな未来に思いを馳せ、大きな希望を寄せるのは、この子の親でなくともごく自然なことであろう。彼女がなにも知らないと思えばなおさらである。ただその児の場合は、違っていた。いやより正確にいえば、希望がないわけではない。ただ希望を寄せる前に、まず生きる手立てを見出さなければならなかった。生きる希望を見出す必要があった。ここは、大学病院の小児科病棟である。
 生後50日を過ぎた頃、うんちが灰色になってきたのに母親は気づいた。次第に白目の部分が黄色くなってきて、あわてて近くの小児科医院に駆け込んだ。しかしそこでは扱えるものではなかった。大学病院への紹介状が手渡された。ここで「先天性胆道閉鎖症」と診断が下った。文字通り生まれつき胆道が閉鎖しているため胆汁の排出が滞り、肝臓を破壊する病気である。破壊が進行すれば、やがて肝硬変へといたる。放置しておけば、数ヶ月の命である。一万人に一人の割合で発症する原因不明の難病である。
誕生を喜ぶ時間はあまりに少なかった。この疾患では通常、誕生二ヶ月以内に手術を行い胆汁の排泄路を造ってやらなければならない。腸管を切断し、その一方の断端を胆汁の出る根元に繋ぎ、もう一方の腸管を肝門部に繋いだ腸管の側面に繋ぎなおす。胆汁を腸管に排泄させてやるルートを造ってやる。葛西法と呼ばれる術式である。この術式が開発される以前は、なす術がなかった。数十年前に葛西法が考案されてからは、この疾患の予後は劇的に改善した。術式もバージョンアップしていった。それでも今でも10年生存率は30%程度である。肉眼では分らないレベルでどこからともなく漏れ出る胆汁により、肝硬変がゆっくりと時間をかけて進行してしまうからである。現代医学は幾重もの失敗を重ねたその上に、こうした命を差し当たり繋ぎとめるだけの技術を身につけてきたのである。奇しくもこの階上の産科病棟では、20年ほど前にこの病院で同じ手術を受けた女性が臨月を迎えていた。
 この女児にも葛西法が施行された。手術は成功した。数日で排泄物の色も元の色に戻り始めた。黄褐色の胆汁が排泄されてきた証拠である。皮膚の黄疸も取れ始めてきた。差し迫った危機は過ぎた。
 母親は病棟でこの子を抱き上げ慈しんでいる。その前で父親は音の出る玩具を振りながら、子の気を引こうとしている。改めて、わが子の誕生を喜ぶ両親の姿そのものである。ナースステーションから扉越しに見えるその姿に、思わず胸が熱くなる。横にいる主治医に「いい光景ですね」と声をかける。彼は「ああ、そうだな。外科医冥利だよ。けど、あの子もいずれ肝移植が必要になるだろうな」と静かに独言のように呟く。彼ら親子にとっても、この医師にとっても手術の成功はまだ長い道程の始まりでしかなかった。
 この時はじめて「移植」という言葉が、私にとってリアルなものとなった。もしあと何年かしてこの児に移植が必要になったとしても、この両親ならきっと自らの身体を喜んで差し出すに違いない。「生きろ」と願うであろう。

 1989年11月13日、日本で初めておこなわれた生体肝移植は、この先天性胆道閉鎖症に対するものであった。世界で3例目だった。ドナーは父親だった。患児は術後285日目に短い一生を終えた。当時は健康な人の身体にメスを入れる移植の是非が大きな議論になった。
 以来、生体肝移植の件数は右肩上がりに増え続けた。2005年には561件おこなわれた。累積件数は2005年までに3782件を数える。1999年に始まった脳死肝移植が30件であることに比べれば、決して少ない数ではない。脳死移植が普及しない分、生体肝移植の件数は、国内では増え続けているのである。

 あなたならば、どうするであろうか?あなたの大切な人があるいはあなた自身が、他人の身体の一部がなければ、生きていくことが出来ないと告げられたならば。
 同じことをひっくり返していってみよう。他人の身体の一部があれば、あなたやその大切な人は生きていくことが出来る。


三、あるドナーの場合

 2006年のある夏の日、つくばで私が会ったその女性(F.S)は、力強い切れ長の目が印象的な人であった。今年で33歳になる。図らずも私と同い年である。音楽大学を出てから、実家で音楽を教えている。2歳違いの弟(F.M)が病魔に倒れたのは2002年7月9日だった。それ以来、彼女は慌ただしく手繰り寄せる運命の糸の中に絡みこまれていったのであった。

「生体肝移植」
 この日弟は大量の吐血により地元の病院に救急搬送された。診断は食道静脈瘤破裂だった。食道の静脈が風船状に膨らみ破裂したのである。病態生理的に見れば、肝硬変が進んできた状態をも意味していた。お腹の中に水が溜まり、皮膚は黄色くなり白目が黄色くなっていた。貧血も極度にひどく、肝臓がまったく働いていない肝不全の状態にあることは確かだった。出血源を止め、状態はすこし安定した。黄色くなった肌を案じたのであろうか、入院中病院の屋上で弟は日焼けし黄褐色となった。そんな弟を見て、姉はあきれた。だが思い起こせば倒れる以前それまで年に何度かしか会わない弟が、なぜかいつもオーバーオールを着てサングラスをしている姿は確かに不自然ではあった。黄色くなった眼球と腹水により腫れた腹を目立たないようにしていたのだろう。弟は身体の異変を隠していたのである。
 数値が安定し一ヶ月ほどで退院することが出来たが、依然として貧血はひどかった。血液内科のある別の病院で溶血性貧血とわかった。造血機能に異常はないものの、何らかの原因で造られた赤血球が次々に壊されていた。その原因はわかっていなかった。内科的治療を続けてはいたが、好転する兆しはない。肝臓の状態は落ち込み、医師からはいつ危険な状態に陥っても不思議ではないと告げられていた。余命半年という診断が下された。
 そんな状況にあるにもかかわらず、弟は医師との折り合いが悪く退院してしまう。その年の11月のことだった。なんとか元旦は迎えたものの、肝臓は彼を甘やかしはしなかった。正月三日、父は姉に向かって叫んだ。「Mがだめだから、病院行くぞ!」弟は意識が朦朧としたなかで、意味不明な言葉をつぶやいていた。おそらくは肝性脳症であったのだろう。肝臓の機能が悪く体内に毒素がたまり、意識障害を引き起こしているのである。「肝移植」という言葉が俄かに現実味を帯びてきた。それから10日後には両親が東京の大学病院の移植外科を訪れていた。教授から「いいキモがあればねえ」といわれた父親は頭にきていたが、適合検査を受けた。数日後にはドナー不適合という連絡が入った。父親の落胆はひどく、言葉を失ったままだった。姉が声を上げた。「私がドナーになりたい」。もともと姉はドナーになることに躊躇はなかった。母親は肝臓に持病を抱えていた。嫁入り前の娘の体に大きな傷あとを残すなどは、父親にしてみれば言語道断であった。しかし、いまや娘の提案を無言のまま引き受けざるを得なかった。無念さはあったにせよ、息子の命には代えられない。姉の思いもまた同様であった。とはいえドナーに適合する確率は半分である。   
 生体肝移植は三親等以内であることが決められている。おじやおばがドナーになることも可能ではある。しかし家族のなかの問題だから姉がもしだめであれば、移植は諦めると決めていた。適合の検査を受けてからの数日間は、電話が鳴るたびに飛び上がりそうになったという。

手術
 1月20日夜七時を十分ほどまわった時、ついに電話は鳴った。「お姉さまの肝臓で大丈夫ですよ!」。姉は母親と号泣した。翌日にはもう過密に組まれた術前検査が始まった。2月1日には手術日が決まった。4日後の2月5日だった。適合検査を受けて入院するまでの間、両親は姉に配慮深かったという。「これ食べたほうがいいんじゃなあい?肝臓にいいみたいよ」とか、「今日はテニスよしたほうがいいんじゃない?」など、壊れ物でも扱うかのように大事にされた。姉は姉で、自分の肝臓にむかって、胎児に話しかけるように語り掛けていた。「もうすぐ行きますよ、あっちにいってもがんばるんだよ、お役に立つんだよ」と毎日繰り返し呪文のように話しかけていた。その頃、当の弟は少し前向きになっていた。手術の説明は家族全員と弟のパートナーで受けた。まるで料理の手順を説明するかのようであった。主治医は下手くそな図を描いてみせ、「これ肝臓です。きります。袋に入れます。もってきます。つなぎます。閉じます」、「わかりましたか? 」。あっけにとられた父親は「まったくわかりません」と答えた。しかしまたその大雑把さにかえって安心したという。医師たちの自信を感じていたからだった。インフォームド・コンセントなんて、案外そのようなものかもしれない。丁寧であれば、よいというわけではないのであろう。
 手術室に九時に入室し、意識がはっきりと戻ったのはその日の夜九時をまわったときだった。両親が見守るなか第一声は、「弟は? 」だった。弟はそのころまだ肝臓すら外れていなかった。25時間に及ぶ大手術であった。しかしすぐにまた血の塊、血栓ができたとかで再手術になった。翌日からの姉の術創の痛みは、想像をはるかに超えていた。寝ても覚めても、右を向いても左を向いても、とにかく痛かった。痛さで身がよじれる。術前に先生に「痛いですか? 」と聞いたとき、「相当痛いですよ」といわれたことが思い起こされる。いまさらながらその言葉が恨めしかった。今日に至っても、その言い方はひどいという。痛みのなかでデフォルメされているのだろうか。医者の側も「まあなんとかなりますよ」なんて適当なことはいえないであろう。身体的苦痛というものは、人間の孤独や不安を如実に曝け出す。だが姉のこうした不安は、手術室の前で再手術を待つ両親には届かなかったのかもしれない。「肝臓あげたのに…」。そんな姉に追い討ちをかけたのが、おなかの中から突抜けビニル製バッグと繋ぐ4本のドレーンであった。病棟内を歩く時は、常にぶら下げていなければならなかった。術後一週間ほどでチューブ類もはずれ抜糸もできた。腹部にはドレーンの痕がバツ印になっていた。「いくらなんでもバツはないでしょ。人の身体にバツだなんて」。開腹の傷跡よりもそちらのほうが、腹が立ったという。回復は順調であったが、暫く熱が続いた。胸水が溜まり、再びドレーンが挿入された。するとすぐに熱はひき、術後18日目に退院となった。
 だが弟を病院にひとり残すことに後ろ髪ひかれる思いがした。弟は薬の副作用で痙攣などがあったにはせよ、順調に回復はしていた。「今日はどう? 」と毎日のように姉の調子を気遣っていた。その一方で、パートナーに「おれの肝臓は、お前にはやれないからな」などと冗談とも付かない話をしていた。退院が出来たのは、術後32日目のことだった。しかしその二週間後にはサイトメガロウイルス感染症のためさらに二週間入院することになった。これは免疫抑制剤による影響である。この薬剤は移植した臓器による拒絶反応を抑えるために投与される。その結果、健常人であれば罹患しないウイルスにも感染しうる。HIV感染者は同じ理屈でこのウイルス感染を引き起こし、AIDSを発症する。退院後の外来では、血液検査上のデータと血中の薬剤濃度のバランスを考え投与量を調整していく。その後も入退院は再三にわたった。胆管のつなぎ目で「兄弟の仲が悪いところがあり」、たびたび胆汁の流れが悪くなったからだった。それでも弟は術後1年をかけて、毎日仕事にいけるほどに回復した。現在は月に一回通院している。「私の肝臓をあげたら彼も少しは性格が変わるんじゃないかしら」という姉の期待を裏切り、今までのようにやんちゃな弟の生活が続いている。「彼の性格のほうが強かったようだ」。
 
移植医療
 姉の退院の時、両親は姉の成し遂げた快挙を手放しで喜んでくれた。ご褒美に娘の前々からの希望であった1万円位のパジャマをプレゼントした。父親はしばしば娘の傷を見たがった。術創が徐々に癒えていくのが、ドナーになれず傷ついた父親の気持ちをも癒していったようだった。本人が見てもあまり気にならないというほどに、術創は目立たずきれいになっていった。温泉にもいける。嫁入り前の女性を気遣って丁寧に縫合してくれたであろう医師に感謝している。だが同時に姉は結婚していないでよかったと思っている。結婚していてさらに子供がいたとしたら、とてもじゃないが選べない選択肢だったからだ。術後一年はわずかな体調の変化を感じていた。風邪が長引いて肺炎になったり、胃炎とかインフルエンザになったりした。姉の考えでは、手術により抵抗力が落ちたためだ。弟に対しては「過干渉」になることが多かった。「やたら気になるんですよ。なにを食べたとか、何時に起きたとか。まさかお酒なんか飲んでないでしょうねとか。もらったんだから大事にしろよって」。
 一年を過ぎてからは、体調は手術前に戻った。弟も働きに出るようになり、それを機縁に書き続けていたブログも終了した。「過干渉」も本意ではなかった。肝臓をあげて一年、ようやく「弟離れ」の時がやってきた。

 この間彼女は離れるべき弟に何を思っていたのであろうか。彼女は弟にたんに臓器の一部をあげたのではないという。

筆者 「そうすると、なにをあげたことになるの? 」
  「んん~、何か一緒に届けているものがあると思う。大きな贈り物かな、生きて欲しいって気持ちを贈ったのかな」。
    「移植のドナーになることもケアの一環だし、お見舞いや面倒をみることの延長としてドナーになるということがあったので、別に躊躇はなかったですよ」。
筆者 「じゃあ、少し意地悪な質問だけれど、自分がもしもらう立場だったらどうですかね? 」
  「やっぱりよっぽど親しい人じゃないともらえないですね。依存して当たり前の人からじゃないともらえないです」。
筆者 「なるほど。では脳死のドナーからはどう? 」
  「脳死に関しては、まってらっしゃる方がいるので発言を控えているのですが、でも明日もし死んでも、誰かのために臓器をあげようと思って生きている時間てそんなにないと思うんですよ。ドナーカードを持っていたとしてもいつも自分の臓器に感謝して、死んだときにちょっとでも役に立つようにと思って生活している人は少ないと思うんですよ。そういう思いがなくて、人体の一部を切り取るということは、たとえ死んだとしても、何か思いが残るような気がして、すごくいやはいやなんです。いただくのも申し訳ないですし、ましてや中国のように死刑囚の人からいただくとか、モノとかパーツみたいに臓器を思っていること自体すごくいやだと思う。だから、もらいたくもあげたくもない。あげたい、もらいたいという気持ちが通じ合った時だけ、自分がもらえたらなって思う」。

 彼女にとって同じ移植医療であっても、生体移植と脳死移植ではまったくの別物だった。

 彼女の場合は、典型的な成功例の一つといえるであろう。その理由は、弟の経過がよいことがなにより大きいが、それだけではない。彼女の家族は、彼女自身がいうように昔から家族の仲がよかった。楽器演奏に全員が通じていることもあって、一家で演奏することも度々あった。小さな時から家族で何でも話し合えたし、助け合ってきた。そんな家族にあっては、今回の件でも、生体移植への迷いは微塵もなかった。そうした強い家族の絆が、心身両面で弟の強い支えになっていた。
 ドナーとなった姉は、その後3ヶ月間の通院だけですんだ。幸いなことに、後遺症もない。病院とは直接かかわることはなくなったが、今も患者家族会に参加している。

 ドナーとなる人間の不安はなかなか表には出ない。現在まで日本において、ドナーの死亡例は2003年5月、京都大学病院で娘に肝臓を提供した母親が死亡した一例のみである。しかし2006年7月には群馬大学病院で夫に肝臓を提供した妻が、両足麻痺になった事故も報告されている。海外でのドナー死亡率は0.3%~0.9%という報告もある。
 日本肝移植研究会は2006年3月、「生体肝移植ドナーに関する調査報告書」を発表した。これによれば、2000年以前にドナー手術を行ったもので完全に回復したと答えたものは65%であった。手術後の経過が良好だったと答えたものは61.6%である。後遺症については、手術後2~3年たったドナーの58%は「何らかの症状がある」と回答している。手術の傷跡のひきつれや感覚のまひ、疲れやすさ、腹部が張る膨満感・違和感などが多い。
 もともと健康な身体であったのだから、ドナーとなる人の手術や後遺症に対する不安はレシピエントのそれより大きいのは当然であろう。今回の取材に当たって、メールでやり取りしていたドナーの一人がこんな返信を寄せた。 

『早いもので、私達親子は肝臓の移植手術を受けてから4ヶ月が経ちました。父も以前と比べると見違えるほどに元気になりましたが、まだまだ完全には状態が安定しておらず、体調によって、入退院を繰り返している状況です。
術前、インターネットを中心に生体臓器移植関係の情報を片っ端から収集していた頃に気付いたのが、医療機関から発信されている情報量に比べ、体験者の“生の声”の少なさでした。
手術に対する不安はレシピエントに比べ、ドナーの方がかなり強く感じていると思います。
その不安を軽減する為にドナーは信用の出来る情報(実体験談)を集め、自分にそれを当てはめ、色々なシュミレーションを繰り返す中で「私も大丈夫だ!」と心を決めます。
私がそうだったので、きっと他の方も同じなのではないでしょうか』

 こうした不安を抱えながらも、ドナーはレシピエントに臓器を与える。それでも、彼らに「生きてほしい」と願っているのである。

 ドナーとなった彼女に限らず、健康な自分の身体まで傷つけて誰かを助けようという思いは、その相手にとってどのように受け止められることになるのか。一見同じような状況だが、このレシピエントの場合は、幾分トーンが異なる。


四、あるレシピエントの場合

 2006年8月のある暑い日、新大阪駅前のホテルで私はある男性を待っていた。待ち合わせの時刻から10分くらい過ぎたとき、その男性は息を切らせてやってきた。彼はO.Sさん、33歳。単なる偶然だが、つくばのドナーや私と同い年である。小柄で痩せていて、今日のような太陽の照りつける夏は、あまり好まないのではないかと勝手に案じた。
 
原発性硬化性胆管炎
 今から5,6年ほど前、彼は仕事のストレスからか毎日のように吐き続ける日々が続いた。忙しさにかまけて病院に行くのも億劫だったが、近くの町医者に診てもらった。胃にはこれといった所見はなく、血液検査と内服薬をもらっただけのことだった。血液検査の結果を聴きに行ったのは、それから三ヶ月してからだった。「肝臓の数値がよくないようですね」といわれても、彼には思い当たる節はなかった。酒もたしなむ程度であった。消化器内科を受診するように勧められ、血液検査の項目を増やし腹部超音波を受けた。肝機能を表す数値は高くはあるものの、基準をわずかに上回る程度だった。超音波の所見は、わずかな肝臓の腫大を示していた。肝疾患の原因となるウイルス、薬剤など一つ一つ潰していったが、どれも該当しなかった。そこで初めて、「可能性としてはとても低いのだけれど、自己免疫性肝疾患という病気も視野に入れなくてはならない」と告げられた。つくばの場合とは違って黄疸や腹水はもちろん特に何の症状もない彼にとっては、まったく予期していないものであった。
 一ヶ月ごとに血液検査でフォローすることになった。それから半年は今までと変わりなく仕事をしていた。しかし、立っているのも座っているのもしんどい日が続くようになった。これまで経過観察していた医師がK大学から派遣されていたこともあり、K大学病院で本格的に精密検査を受けることが提案された。胆道を造影し狭くなっている部分を見つけるERCPという検査の結果、やはり自己免疫性の線が濃厚ということであった。
 自己免疫性肝疾患といわれる病態には、三つの疾患がある。自己免疫性肝炎、原発性胆汁性肝硬変、原発性硬化性胆管炎である。大学病院ではちらほら見受けられるが、いずれもメジャーな疾患ではない。難しい病気である。
 最初の診察から1年以上が経過し、だるさや時折の発熱はあるものの状態としては安定していたので、そろそろ診断をつけてはという話があがってきた。肝生検である。身体の表面から肝臓へ直接針を挿入するため身体への負担が大きいので、これまで医師は踏み切らないでいたのだろう。診断は、原発性硬化性胆管炎であった。芳しくない結果だった。そのとき彼は「自己免疫性肝疾患の中で一番厄介なのが来ちゃったな」と冷静には受け止めた。当時インターネットなどを調べてもほとんど情報はなかったが、専門書を調べて情報はおおよそ頭に入ってはいた。
 医学生が使う内科学の教科書はB5版で2200ページほどあるが、この疾患についての記載は半ページしかない。この疾患は胆汁の通路である胆管が狭窄してしまい、胆汁がうっ滞し、最終的には肝硬変、肝炎へと至る予後不良なものである。医学でいうところの「原発性」とは、原因不明という意味である。根本的な治療法はなく、対症的な投薬が差し当たり中心となる。
 
決断
 それから2年ほどは病状も安定していた。生活にもあまり影響はなかった。肝移植の話が本格化してきたのは、去年の8月15日のERCP検査が失敗してからだった。ERCPとは、造影剤を胆道に流し込みそれをX線で映し出し胆道の通りをみる検査である。しかし、胆道の狭窄が激しく造影が出来なかった。食欲は多少落ちていたが状態そのものはそれほど悪くなかった。それでも「移植しなかったら1年持つかどうかやな、なんぼ甘く見積もっても2年は持たんやろ」というのが主治医の見解だった。医師からは「他の病院行って意見聞きにいってもいいで」といわれていたが、その医師のもとを離れるつもりはなかった。しかし彼は、自覚症状が強くなかったこともあり、そう簡単に移植という選択肢を受け入れることも出来なかった。もともと生への執着は強くないタイプだという。
 移植に踏み切るかいなかの決断を下すまでに、頭髪はかなり白みを帯びた。お金の問題は確かに大きかった。自費で行った場合、医療費は1000万をゆうに超えることもある。彼の場合、保険適応こそなかったが、高額医療費ということで諸経費を含め結局90万で済んだ。これに月々4、5万の薬代がかさめば低い額ではないが、医療費の問題はとりあえずクリアできそうだった。ドナーの問題もある。両親は高齢でドナー候補から外れたが、幸い7つ上の姉が申し出てくれた。姉がだめなら「しゃあないで終わった」だろうが、姉はドナーに適合した。つくばの場合と同様、家族内の問題と考えていた。姉の肝臓は右葉と左葉の割合が好都合で、ABO式血液型が一致し、HLAも一致した。ドナーとしては申し分ない。姉が弟へ提供するというのは、つくばのケースと同じである。だが姉には、ご主人と小学生と中学生の二人の子供がいた。ご主人の両親は、嫁がドナーになることには反対だったようだ。「やいのやいのゆうなら、直接いえっちゅうの」と彼はいった。それでもなお彼は、決めかねていた。「確かに生きたいとは思う。けれど移植が成功するかどうかもわからない。もともと35くらいまでやなぁとも思っていたし」。生体肝移植の1年生存率は90%を超えている。それでも彼にとっては生きるか死ぬかの半々でしかなかった。仮に成功したとしても、「その後どう生きていけばよいのか?仕事をすることが出来るのか?出来たとしても常に突然の体調の変化や命の危険にさらされるのではないのか?ことの引延しであるなら、周りを巻き込んでまで、生きていようとも思わない」と、彼はいう。約3000例ある生体肝移植のうち原発性硬化性胆管炎によるものは、100例ほどにすぎなかった。
 そうしたことをぐるぐると堂々巡りを続け二週間ぐらい悩んだところで、彼は移植という選択肢を選択した。いや彼の言葉でいえば、「そうせざるを得なかった」ということになる。彼は移植を治療とは呼ばずに、「医療」と呼ぶ。「延命が第一ではない。同じ病棟に同じ病気で、身内にドナーになれる人がいなかった知人もいた。全てがそろっていたのに、最後の最後にドナーの家族の意向で手術が中止になったこともあった。これだけの状況がそろっていながらも、移植しないのは申し分けない」。これが彼の採択理由だった。移植への戸惑いを両親に相談したり、姉に話したりしたこともないという。「理解される話ではない」と彼自身考えていたからだ。家族は当然彼が生きる道を選ぶものと思っていた。ご主人の両親から反対されていた姉の心境にまで考えは及ばなかった。特に直接やり取りしたわけでもなかった。歳が離れていたこともあり、姉とは「付かず離れず」だった。なにより、自分のことで背一杯だった。

手術
 つくばのケースとは違って、急を要せず移植までの時間があった。ドナーとなる姉はまず一ヶ月かけてダイエットに取り組んだ。脂肪肝があったからだ。彼の方はさまざまな検査や呼吸機能をあげる訓練などのルティンをこなしていた。とにかくよく食べさせられ、よく動かされた。術後の体力を保つためだ。術後グレープフルーツは食べられなくなると知り、夢中で食べたりもした。この果物は血中の薬物濃度を上げてしまい、作用が強く出てしまうのである。
 移植プロジェクトの中には、精神科のカウンセリングも含まれていた。絵を描かせられたり、心理テストを受けた。テストの結果は、「物事, 人に対し常に距離を置いて接することにより、客観性を保っている」というものであった。移植手術を受けるにあたり精神的には非常に落ち着いていて、問題がないというのが精神科医の判断であった。
 2005年11月22日、朝9時彼も自分でも不思議なくらいに落ち着いていた。睡眠も十分に取れた。病棟から手術室に入るのにストレッチャーを拒み、自分で歩いていったという。手術室の光景を眺めながら「やっぱりテレビとはちゃうな」と思った。
 手術が終了したのは、翌日の午前1時だった。16時間に及んだ。姉のほうはほぼ同時に始まって夜の8時か9時くらいで終わったと後で聞かされた。その後集中治療室に10日間いた。彼の身体は、術後溜まった水を排出するドレーン、胆汁を排出するためのドレーン、栄養用の腸への管、鼻管、IVH、etcと10本以上の管でつながれていた。
 もともと症状が強くなかっただけに、術後の10日ほどはつらかった。その後彼もサイトメガロウイルスに罹患し、発熱が続いたりもしたが回復は順調だった。チューブ類も徐々に数が減っていった。体重は40kg台まで落ちた。
 姉は無事退院した。家族の反対を押し切って、パートタイムの仕事をやめドナーになってくれた姉にはもちろん感謝している。姉は今、別の仕事に就いている。
 ウイルス感染の影響で多少入院期間は延びたものの、2006年1月2日、彼自身も退院を迎える。この日は多少の熱が出ていたが、大学病院全体が移転作業に追われているらしく、慌ただしい退院だった。5ヶ月に及ぶ入院であった。8月の入院当初は8月中に帰れるかなくらいの軽い気持ちだったが、まさかこうして手術までして出てくるとは思わなかったという。
 手術から9ヶ月を経た現在は、月に一度の通院で検査を受け薬をもらう以外、とかく制限されていることはない。二度と食べられないと思っていたグレープフルーツも少しくらい食べても問題はないと知って、拍子抜けした。薬は5種類。免疫抑制剤のプログラフとセルセプト、胆汁の出をよくするウルソ、抗生剤のバクタ、そして胃酸の分泌を抑え吻合部の潰瘍を防止するための薬、オメプラールである。今後も状態を見ながら、数や量を増減していくことになる。

移植医療
 彼の場合、医学的に見れば移植までの流れもスムースで、その後の経過を見てもまだ一年足らずではあるが、生体肝移植という「治療」は大成功であったに違いない。実際主治医も彼にそういうという。医師にしてみれば、いい仕事が出来たというのが実感であるであろう。筆者にもそう映る。だがしかし、彼は続ける。

「移植が成功したと思うことは、永遠にないと思いますわ」。

 えっ…!? 筆者は、驚きを何とか押し殺した。彼はさらに続けて、
「やってみてよかった、わるかったの話しは、なんともいえませんわ。それを判断すんのは僕じゃなくて、ドナーの話しちゃいますか、移植したパターンとしなかったパターンと二回できるんならわかりもしますが・・・」と。
 筆者は頭をフル回転させて、何とか言葉を繋げてみる。「Oさんはとても傷つかれてしまったのですね。確かに人の命が諸々の偶然や環境に翻弄されていたわけですからね。」
「いやいや、そんなん後からの話やで。よそのこと構ってる暇なんか、ないで」。
 やはり下手な同情は出来ない。彼がどこにいるのか、わからなかった。

「移植医療を命のリレーとか、命のきずななどといいますが、そんなきれいなもんちゃいますわ」。
 術後9ヶ月、確かにまだ安定はしていないだろう。彼自身毎日移植のことは考えない日はないという。全てを整理できているはずもない。ただ、彼はもう「普通ではない」という。確かに彼の話は大地震で地上に隆起した断層のように断絶している。まさに移植という大地震で出来てしまった自己の裂け目なのであろう。その裂け目を彼はよく認知している。そしてやはり混乱しているのではなかろうか。今もまだ先が見えないのは致し方ないことなのであろう。姉がどう考えているのかは、その後も話しをしたわけじゃない。
 前の職場から仕事を少しずつもらって、徐々に仕事にも復帰してきた。それでも術前と比べてまだ半分くらい。風邪や体調には、いまでも用心しすぎることはない。心配して集まってきてくれる昔からの友人たちに彼は、「おりゃっ」とその傷口を見せる。
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五、移植という出来事

 移植医療は医学上の問題のみならず、倫理的、法的、社会的に多くの問題を抱えているのは確かである。脳死問題や臓器移植法案を筆頭に免疫抑制剤による副作用やレシピエントの合併症などが挙げられる。最近では臓器の売買までもが問題になっている。こうした問題を背景に、移植医療はその是非を問いただされている。そうした問いの正当性を否定するつもりは微塵もない。しかし、「臓器移植」という行為にかかわる根本的な出来事が、それらの視点に欠けているような気がしてならない。その根本的な出来事とは端的にいって、人間が人間におのれの身体の一部を与えるという、その事実である。そこには与える人間と貰う人間が存在する。その人間は「生きろ」という人と「生きたい」と願う人である。彼ら当事者は、いかにこの出来事を感じ、考えているのであろうか。 これが今回のここで示したかったことである。
 移植に纏わる諸問題とは別に、移植という出来事を観る視点を確保しておく必要がある。こうした視点が移植医療の抱える諸問題にいくばくの意義を与えることができるのかは現時点ではわからない。
 冒頭に掲げたことばは、フランスの哲学者、ジャン=リュック・ナンシーによるものである。彼は1991年心臓移植のレシピエントとなった。現在は、免疫抑制剤による副作用から悪性リンパ腫を発症している。その彼のことばを、もう一度引く。

「生命のある全期間に渡って、身体はまた一つの死せる身体、一つの死者の身体、私が生きながらもそれであるこの死者の身体でもある。死せるのか生があるのか、死せるのでも生があるのでもなく、私は互いに他の中に入り込んだ開放性、墓ないし口である」 『共同-体』(松籟社 p15)
最後に

 哲学のごとき理知をまつまでもなく、人間は誕生してきたし、死んできた。医療がどれほど進歩しようとも、そのことに変わりはないであろう。万が一永遠の生命が得られたとしても、死を選択する人間もいるには違いない。
 とすれば、果たして医学/医療は何を目指すことになるのか?結局は、いたずらに生と死の間を複雑化し、独りよがりにもがいていることにはなりはしないのか?いや、そうではない、といいたい。しかしそれをいうだけの持ち駒は、いまの私にはない。数年後、医師となった私にも、それを示すだけのものはないであろう。ただ、いくつか若干の記録がここに付け加えることができるかもしれない。そのときは、一歩近づけるのだろうか。

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