消えた町 〜 巻町最後の十年 〜
西暦1996年8月4日、アトランタ開かれていた第26回夏季オリンピックが閉幕に近づいていた。陸上競技の最後を締めくくる男子マラソンが行われたこの日、勝利の女神は地球の裏側にも微笑かけた。
「巻原発、大差で『反対』 建設巡り初の住民投票 原子力政策に打撃」
「新潟・巻町住民投票 原発建設反対61% 計画、当面凍結へ」
「巻原発建設に『ノー』 全国初の住民投票 反対が6割越す」
翌日の全国紙の一面にこのような大見出しが飛び交った。上から順に96年8月5日の『朝日新聞』、『読売新聞』、『毎日新聞』朝刊の見出しだ。朝日、毎日新聞はその出来事をトップ記事で扱った。横には男子マラソンの金メダリスト、南アフリカのチェグネワの写真が並ぶ。アトランタと共に女神が微笑んだ地は新潟県の人口3万人ほどの小さな町、巻町。もし、日本期待のマラソン選手、谷口浩美が金メダルを獲得していたらトップ記事はどうなっていたか――。と、考えないでもないが小さな町に全国の注目が集まっていたことには変わりはなかった。
テレビ欄では「筑紫イン新潟巻町中継」と書かれ、ジャーナリスト筑紫哲也が現地から様子を伝えたことが想像できる。他局の報道番組にも巻町の名前が記されている。紙面を一枚めくると、そこには抱き合って喜ぶ町民の姿、「住民が町の将来を決めるとの意志の表れ」と会見する巻町長の姿が写っている。投票率は88.29%。同じ年に行われた新潟県知事選挙と小選挙区制だった衆議院議員総選挙の投票率が57.82%、73.2%だったことと比べることいかに町民の関心が高かったことか。
なぜ、米と雪と酒のイメージしかない新潟の小さな町がこれほどの注目を集めるようになったか。それは日本で初めて住民投票という方法を用いて、国策である原子力政策に町民が「反対」の意思を突きつけたからだった。1971年5月に東北電力が巻原発の建設計画を正式に発表してから26年の歳月が流れていた。この住民投票の結果にどれほどの実効性があるのかと疑問に思う人もいるかもしれない。しかし、巻町は原発建設の鍵を握っていた。炉心建設予定地に町有地を持っていたのだ。東北電力からすれば咽から手が出るほど欲しい土地だったが、当時の笹口孝明町長は「賛成多数なら建設の方向に向い、反対多数なら町有地の売却は行わず、建設が不可能になる」(今井 一『住民投票』)と町民に示し、町有地売却の決定を町民にゆだねた。そして、住民投票が行われた。
当日の社説にも各社が巻町の住民投票を取り上げている。一部を抜粋してみよう。「いま、巻原発計画が大きな困難に直面することになったとしても、町民を責めることはできない」(『朝日新聞』)。「原発建設は国のエネルギー政策にかかわる問題である。ある特定の地域の住民投票によって左右されるようなことがあれば、国の政策は立ち行かなくなる」(『読売新聞』)。「国策だとしても、地域住民の意見を十分に聞き、合意点を見いだしていく努力や覚悟が国や電力会社には迫られている」(『毎日新聞』)と書かれている。
この住民投票でいくつかの問題点が挙げられた。住民投票が選挙で選んだ代表が認めていた原発建設を覆し、間接民主主義の否定につながる。国策にある地域が判断を下してもいいのか。自分の地域に嫌なものは作られたくないという地域エゴだ。衆愚政治の陥る。それに対して、選挙で選んだ候補者にすべてを白紙委任するわけではない。だから場合によって間接民主主義を補完するために住民投票があってよい。地域を無視して国が決めてもいいのか。特定の地域に嫌なものを押し付けることこそ他の地域のエゴではないか。など多くの議論がなされた。
この住民投票の前後に全国紙や報道番組でこの小さな巻町の出来事が精力的に紹介された。そして巻町は「真の住民自治」、「民主主義の模範生」などとも評され全国的注目を浴び賞賛もされた。ときの首相、橋本龍太郎は住民投票制度について
「住民投票は、まさにその問題についての住民の意思の表明として許されている。それと国全体の政策推進の努力とはおのずから違う。だからこそ、理解を求めていく努力が一層必要だと申し上げている」(96年8月6日『朝日新聞』)と答えている。
――それから8年後の2004年8月8日。巻町で条例制定による2度目の住民投票が行われた。新潟市との合併を問われた住民投票の投票率は58.7%。90%にわずかに届かなかった前回の投票率とは雲泥の差があった。賛成8808票で町民は新潟市との合併を選んだ。しかし、そこには住民が抱き合って喜ぶ姿はなかった。女神は誰に向かって微笑んだのか。よくわからないまま2005年10月10日に新潟市の一部となった。
鮮やかにメディアに登場した巻町はこの日に消滅した。「真の住民自治を持つ町」、「民主主義の模範生」と呼ばれた巻町は過去のものとなった。巻町が自分たちの街づくりと自ら決める権利を手放し、合併によって得たものとは何だったのだろうか。「住民自治」と矛盾するような選択をした町民にその答えを聞くために冬の巻町をたずね歩いた。
第一章 変わる町民
住民投票へ向けて
「基本的に原発問題が掻き消えて、この町は本当の意味で静かになった。掻き消えたと言う感じですね。言葉すら発するひとがいなくなった……もう、完全に掻き消えた。掻き消してしまったような感じが、今の状態だと思っています。それが良いのか悪いのかは別の話だが……」
巻町は新潟県のほぼ中央部に位置し、日本海を臨む海岸と標高481mの角田山、秋には黄金色の稲穂がたなびく平野をもつ人口3万人ほどの町だった。
新潟市との合併から一年が過ぎたある日、旧巻町の様子を話してくれたのは幹線道路沿いで酒店を営む田畑護人。普段なら全国的にも有名な銘酒「八海山」や地酒「笹祝」の名前が書かれた大きな暖簾が店頭に張られている。田畑は巻原子力発電所建設の住民投票を成功させた「巻原発・住民投票を実行する会」(以下、「実行する会」と略称)設立者のひとりだ。日本初の住民投票はこの「実行する会」がなければ起こらなかった。田畑に新潟市との合併の住民投票について聞くと答えて言った。
「私は基本的に住民が(合併の)住民投票をして決めたという感覚すら持っていないと思う。そこが、私が一番大きな問題だと思っている。例えば、原発問題というのはこの町にとって現実に一生に一度の(投票)機会しかないわけ。大きな議論があって理論を戦わせて、いろいろな形の考え方、推進も反対もどちらでもいいからと住民投票で決めようとした。3万人のなかで徹底的に10年も15年もかけて議論を続けてきて、結果を出してきた。それと(合併の住民投票は)全くかけ離れた住民投票であったのではないかと。(合併の)住民投票をいつやったのかという記憶すらないと思う。けれども原発の住民投票は、オレは賛成と書いたとか、反対と書いたとか、この部分はきっちり残っている」
「実行する会」がなぜ原発の住民投票を成功させたのか。ひとつに既存の反対運動とは対照的に「住民投票」を行うために中立性を保ったことが挙げられる。しかし、何よりも町の保守層から起こった運動だったことが大きい。「実行する会」は地元の自営業者が中心になって立ち上げられた。巻町では町議など町の有力者や行政も原発推進の立場にあった。彼らの得意先もそのなかにあり、商売をして暮らしていたのだ。それまでほとんど運動をしたことのない人たちだった。
保守二派の争い
「実行する会」が設立されたのは1994年10月。東北電力の巻原子力発電所建設計画が正式発表から20年以上も経過していた。その頃、巻町では原発建設はいっこうに進んでいなかった。表面上保留されていたと言っていいだろう。しかし、長い眠りを揺り起こすような出来事が起こった。
94年3月8日、一期目には原発に慎重姿勢を掲げ、二期目には原発凍結の公約を掲げ当選していた佐藤莞爾町長が議会で「三選後には世界一の原発をつくりたい」と発言した。そして、94年8月7日に行われた町長選挙で佐藤莞爾は9006票を得て当選した。原発は意向調査をすると慎重姿勢を表明していた村松治夫が6245票、原発反対を掲げた相坂功が4382票を獲得したが20年の原発問題に決着がついたかに見えた。
一分でも一秒でも原発を遅らせるために慎重派の村松治夫を応援し、選挙活動をしていた田畑も「佐藤莞爾さんが三選をなさる段階で、これで終ったなと。これでつくられる」と当時は思ったと言う。しかし、このとき田畑は重要な経験をする。村松候補を推す保守派の支持者が胸を張って「うちの候補は原発を住民投票にかけるんだ」と言って回るところを目の当たりにする。
「なんとか村松さんと話をして、住民投票なら勝てると。最終的に村松さんが『住民投票をやろうじゃないか』と言った。けれども、最後まで彼はそれを選挙で言わなかった。なぜなら、自分は勝てるとふんだ。だから、当選すればそれが「あしかせ」になるから言えなかった。けれどもそのとき村松さんを応援した巻の農家のひとたちが『うちの候補は原発を住民投票にかけるんだ』といって回ったんだよ。……村松を推した人は原発が住民投票にかかることを想定したんだよ。……ここが原発の住民投票の出発点なんだ。……ものすごく斬新な感じだったね。自然と町民のなかに住民投票という言葉が入っていたんだよね」
結局、村松治夫は最後まで住民投票と言えず落選した。田畑が住民投票を言って回った経験が生かされるのはまだ先のことだった。
ではなぜ、最終的に村松治夫が住民投票を渋ったか。原発に関しては慎重姿勢だった村松にとっての「あしかせ」とは何を意味するのだろうか。そこには原発をめぐる政治的争いがあった。
それは田畑を訪れる前に訪ねた新潟市巻支所(旧巻役場)・内藤支所長の言葉にも見られた。「保守系が二つに割れていると、これが何をするにもうまくいっていなかったね。……根深いですよ。国会議員でいうと小沢辰夫さんと、近藤元次さん、どちらも保守系なんですよ。これが真っ二つになったのがひとつの起因なんですよ。戦後何十年も」。内藤の言う起因とは住民投票の起因ということだろう。
巻町では戦後、保守系二つの政治勢力が争ってきた。新潟県選出の自民党・小沢辰夫の後援会である沢竜会と自民党・近藤元次の後援会である元友会がその二つにあたる(小沢辰男は94年に新進党、無所属を経て00年に引退し、近藤元次は96年急逝)。実はこの保守二派はともに原発推進の立場だったが、保守二派の代理戦だった町長選挙では対立を繰り返していた。それは原発建設利権の争いでもあった。
1974年(昭和49年)以降、1990年(平成2年)に原発凍結を公約にした佐藤莞爾が再選されるまで、町長選挙のたびに新人の当選が繰り返された。町長が一期ごとに変わっていたのだ。その理由には原発があった。四度にわたる町長選挙の結果から言えば、原発に対してより慎重姿勢をとったほうが当選するようになっていたのだ。保守二派が分裂しているので、選挙をより有利に進めるために他の勢力と手をくむ必要が生じる。そのとき原発がバーターになった。当選した候補はその後、原発の建設同意や推進を表明し、満を持して再選に挑むと慎重姿勢を示す新人に敗れる構図が続いた。そして、佐藤莞爾が二選を果たした選挙ではお互い原発凍結を公約にするようにまでなる。拮抗した保守二派の選挙ではビール券や図書券や商品券、はたまた“実弾”が飛びかう激しい戦いをしていた。戦前から選挙のたびに繰り返されるこの様子を人は“西蒲選挙”と揶揄していた。西蒲とは巻町周辺11町村を含む西蒲原地域のこと指している。このような町政のなかで原発反対運動は広がらなかった。
平成の大合併
新潟市との合併の住民投票の様子が浮かんでこなかった。原発の住民投票の時には毎日のように原発関連のチラシが入り、街宣や集会、町民シンポジウムが行われた。戸別訪問が繰り返された。町では「賛成派」と「反対派」がぶつかり、町は二分されていた。そのなかで町が活発に動いていた。それに引き換え、合併の住民投票ではそのような話が聞こえてこなかった。「合併の時は議論すら成り立たなかったのでしょうか」そう尋ねると、田畑は「そうそう、議論すら成り立たなかった」と答えてくれた。
平成の市町村大合併は田舎の町や村を簡単に飲み込んでいった。総務省によると平成11年3月31日から平成19年1月1日までに市町村数は3232から1816に激減した。そのうち村は568から195に、町は1994から841にまで減った。当時、新潟県でも市長村はそれぞれに合併を選択しその準備に入っていた。巻町で行われた新潟市との合併の住民投票は投票率が6割にも満たなかった。時代の流れである種の諦めがあったのだろうか。「そう。もう諦めですね。長いものにまかれろ。それと、基本的に本当に些細な問題。例えば、住所を新潟県西蒲原郡巻町と書くより新潟市巻と書くほうが簡便であるから賛成するような」。思わず苦笑してしまった。
「巻原発・住民投票を実行する会」設立
1994年8月に原発推進を掲げた佐藤莞爾が再選されてから田畑の酒屋では茶のみ話に原発のことが話されていた。「ここに笹口や菊池だのがきていて、4人くらいが集まった段階で、一度くらい住民それぞれの声が発表されていいのではないかと。発表できる場を作りたい、という話がでてきて。そこで、自主管理の住民投票をやろうという話がポっとでて」と田畑。話はトントン拍子に進んだ。笹口とは「実行する会」の代表と後に巻町長を務める笹口孝明。地元の笹祝酒造株式会社の実質的経営者(現在は社長に就任している)だった。菊池とはのちに「実行する会」の代表代行を務める菊池誠。野草の栽培、販売を営んでいた。
それでも「そんなことやっていいのかわからないから」と弁護士で義弟の高島民雄のところへ聞きに行くと「是非、やってくれ」と言われたという。高島は既に20年以上も原発反対活動をしていた。地元で商売を行っている田畑たちにとって町の有力者に反旗を翻すことは直接収入に打撃を受けることになる。
「当時を振りかって見ると、気が進まなかった人もいただろうし、怖いと思った部分もあっただろうし、私は複雑だったと思うよ。言ってはみたものの高島が断ってくれるだろうと、みんなが思っていたのではないだろうかねぇ(笑)。そうしたら『是非、応援する』と返ってきて。そして、誰も引っ込みがつかなくなって。よしやろうと覚悟が決まった。そのときのみんなの覚悟はまた素晴らしかった」
そして、「最後まで原発は住民投票で決しようじゃないかと。賛成も反対も我々は絶対に口をださないと。住民できめようと。これ以外は絶対言わんと。言うと命取りだ」と会合を重ねるうちに話は進み、田畑、笹口、菊池、高嶋ら7人が集まり100万円ずつ用意した。それを元手に土地を借り、事務所を建てた。「公正」を表す両腕に皿をのせた天秤をシンボルマークに「巻原発・住民投票を実行する会」が設立されたのは1994年10月19日だった。「実行する会」は「趣意書」を発表した。
「巻原発が建設されるか否かは、巻町にとって、又、巻町住民にとって、将来、決定的に重大な事柄であり」、だからこそ「民主主義の原点に立ち返り、主催者である住民の意思を確認すべく、住民投票を行う必要」があるとしたうえで、具体的には次の2点の活動を進めるとした。
1.町当局に対し、巻原発の賛否を問う住民投票の実施を求める。
2.町当局がこれを実施しない場合には、町民の総意を結集して、町民自主管理によ る住民投票を実行する。
「民主主義の原点に立ち返り…」と発表したその日、取引先の建設業者や料亭と袂を分かつことになる酒屋の田畑は「大半の得意先がなくなるなぁ。つぶれるかも知れないなぁ。それもしょうがないなぁ。ここまできてしまったもんなぁ」と思っていた。
自主管理の住民投票
「趣意書」を発表した「実行する会」は 94年11月に佐藤莞爾町長に条例制定による住民投票の実施を申し入れた。それと同時に町が拒否をするならば自主管理で住民投票を行うために町に施設の使用許可や立会人の派遣、選挙道具の使用を求めた。それに対して佐藤町長は住民投票の実施と立会人など公費による費用援助はできないと答えた。すぐに、「実行する会」は自主管理の住民投票運動を開始した。全国的注目を浴びた条例制定による住民投票のまえに自主管理の住民投票があった。
原発の反対運動は原発計画が表面化した1969年に社会党系と共産党系の二つの団体が結成され始まった。しかし、双方ともに具体的な活動に乏しかった。その他に政党や労働組合から距離を置いた町民主体の団体も立ち上げられた。巻町の青年や県立巻高等学校出身の大学生たちが作った「原発研究会」は原発建設予定地の土地の購入などを行ったが全体として反対活動の広がりはそれほどみられなかった。その後、1981年の住民投票署名活動のときに反対運動が最も盛り上がり8709名の署名を集めた。しかし、活動は結実しなかった。このとき初めて「住民投票」という言葉が表舞台に出てくることとなった。
佐藤莞爾が三選を果たした選挙で争い、分裂状態だった反原発運動団体は「実行する会」が設立されてから1ヵ月後「住民投票で巻原発を止める連絡会」(以下、「連絡会」と略称)を結成した。「原発研究会」を母体につくられた「巻原発反対共有地主会」、無党派の町民グループ「原発のない住みよい巻町をつくる会」、社会党系の「巻原発設置反対会議」、共産党系の「巻原発反対町民会議」、30代の主婦層を中心とした「青い海と緑の会」、「折り鶴・署名グループ」と町内全ての原発反対団体と町外のいくつかの団体が参加した。もちろん、保守派側にいた「実行する会」への批判と反発はかなり強かったが、どうにか調整をつけることができ、ここで反対派が初めて団結した。「連絡会」が原発反対を訴えることができるため「実行する会」の中立性がより明確になった。そして、自主管理の住民投票へ進んだ。
「実行する会」が行った自主管理住民投票の投票期間は1995年1月22日からの2月5までの15日間とされた。95年1月7日には阪神・淡路大震災が起きている。原発推進派は地縁、血縁、社縁を使って、またチラシを折り込んで投票ボイコットを強く呼びかけた。佐藤町長は「間接民主主義への挑戦だ」としてこの投票を否定していた。95年1月21日の『新潟日報』には「実行する会」の笹口孝明代表のインタビューが載せられている。
議会制民主主義への挑戦という声があるのでは、という問いに「議会は住民の意見を尊重して町政を行う責務がある。しかし、議会は原発について町民に何も聴かない。私たちの活動は議会制民主主義を大きく補完するものだ」。昨年の8月の町長選で推進の佐藤氏が勝ったのだから町民の意思は反映されたのでは、という問いに「佐藤さんの実績や人柄で投票した人が多い。佐藤さんも選挙戦では原発を争点にしていなかった」と答えている。
1月の新潟は寒い。地面の雪が固まり足場が悪い中、眼鏡やマスクで顔を隠しながら、または闇夜に紛れて投票に来る人がいた。それは地縁、血縁を断ち切って投票することがどれほど困難かを物語っていた。
投票結果は、原発建設に反対9854票、賛成474票。10378人が参加した投票率は45.4%だった。笹口代表は「これだけ大勢に人から足を運んでもらったことはまさに民意の表れと理解している。この結果を町政に反映していただけるように働き掛けていく」と語った(『新潟日報』95年2月6日)。
「実行する会」はこの結果を尊重するように町長に求めた。しかし受け入れられなかった。ことを急いだのか、東北電力は2月10日に原発建設の鍵を握る原発建設予定地内の町有地の売却を申し入れ、20日にその議決のための臨時町議会が開かれることになった。議会は原発推進派の議員が過半数を占めていた。「実行する会」、「連絡会」の6団体が抗議をしたが臨時議会は召集された。20日、反対派が議場前の廊下を陣取り議員や役場職員ともみ合った。そして議会は流会に終わった。
実はこの議決は必要のないものだった。「町長が議会に相談するためにわざわざ補正予算の組んだ。歳入では財産処分とし歳出では予備費に組み込んだ。…(東北)電力が前日までに契約書にハンコを押して持ってくれば議会が廃案にしても契約書は生きた」と当時の総務課長・真田徳之助は話した。町長はなぜ必要のない議決を必要としたのだろうかと尋ねると「慎重に相談したかったのではないだろうか」と答えてくれた。流会直後、強硬な推進派町議は「実力行使もできたが、町民の理解を得られるかどうかの疑問もあったので、議長判断で警察への出動要請はしなかった」と語っている(『新潟日報』95年2月21日)。機動隊は町外れの巻警察署で待機していた。実力行使は不適当だと考えた「実行する会」のメンバーは役場の外で見守っていた。
自主管理住民投票の9854票が、以前なら町民から冷たい眼でみられていた反対派の行動を後押し、町長と議員の心境にも大きな影響を及ぼしはじめた。
解職請求
その日はよく晴れていたとはいえ12月の新潟は寒い。新潟といえば堆く積もった雪を連想してしまうが豪雪地帯から離れ、海に面している新潟市は案外雪が少ない。12月に雪が積もることもほとんどない。この日にも雪はみられなかった。定休日の田畑酒屋でストーブにあたりながら、「実行する会」の立ち上げもここから始まったのか、と少し感慨にふけりながら話は続いた。
「私は根本的に三万人が適正だと思っているのです。合併問題においても。住民が政治に参加できるのは選ぶ権利と辞めさせる権利だけだと思っている。私、ここだけだと思っている。私の根本には辞めさせる権利が住民の中に本当に残るかどうかだと思っている」。
新しい新潟市は人口80万人になった。「80万都市でリコールが出来ると思いますか。自分たちの意見、この政治家はいかんと思ってもどうにもならないですね。私ね、政治に参加できるのは選挙もものすごく大事だけれども、住民が辞めさせる権利をどこまで持てるかなんですよ」
選挙が大切なのはわかるが、リコールなんて明らかに身近な言葉じゃない。リコールという言葉を反芻しながら話を聞いていた。
裏切り
1995年2月20日、東北電力への町有地売却に伴う議会が流会した。しかし、再び議会が召集されたら、議会を通さず契約が結ばれる恐れもあった。それから2ヵ月後―。「実行する会」と「連絡会」は95年4月の巻町議会選挙に自主管理の住民投票の結果を受け入れない議会へ自分たちの候補を送り込むことを決める。定員22名に対し候補者が33人という大激戦だった。短い時間のなかで「実行する会」が3名、原発反対団体が4名の候補の擁立にこぎつけた。“西蒲選挙”の異名をもつ土地柄での選挙は全く予想がつかなかった。選挙素人集団である候補者とその支持者はまったく票が読めなかった。“旧来型の選挙”はあちこちで行われていた。
5日間の選挙期間を終え、ふたを開けてみると。上位3名は「実行する会」、「青い海と緑の会」、「原発のない住みよい巻町をつくる会」選出の女性議員だった。原発推進派の現職議員が5人落選した。条例制定派、原発反対派の新人、現職を合わせると過半数を超える12議席を獲得したのだった。
確かに巻町は変わっていった。旧来の選挙を乗り越え、自分たちが選挙で決めるという意思が溢れていた。
ところが議会での住民投票条例の制定は難航した。当初、住民投票派として選挙戦を戦った梨本國平と「実行する会」と念書を取り交わし、推薦まで受けた坂下志が原発推進派と同じ行動をとるようになる。推進派の働き掛けが成功したのだった。議会構成で条例制定派、反対派は10名になり過半数を割った。劣勢にたたされた。
6月議会で「巻町における原子力発電所建設についての住民投票に関する条例」が提出された。議会構成は推進派から議長を出していたため賛成10、反対11で誰もが否決されると思っていた。しかし、11対10で条例案が可決されたのだった。このどんでん返しに条例制定派、反対派は歓喜した。誰が賛成票に入れたかはある意味謎のまま条例は制定された。
町長(首長)の権利に再議権がある。議会が賛成可決した議案を首長が再議に付すとその議案は再び議会で審議される。そして議決には出席議員の三分の二の同意が必要になる。でも佐藤町長はその再議権を行使はしなかった。
しかし、住民投票条例は覆された。推進派の町民が条例改正の直接請求を起こしたのだった。改正前の条例では「住民投票は、本条例施行の日から90日以内に、これを実施するものとする。」となっていたものが「住民投票は町長が議会の同意を得て実施するものとする。」と改正された。原発推進の町長と、推進派が過半数を占めるようになった議会構成は変わらないため実質的に住民投票条例は骨抜きにされた。
町有地売却の危機が去り、運良く制定された条例で住民投票は10月15日になっていた。しかし、佐藤町長は直接請求を受けて住民の希望をひっくりかえした。
「住民の意向なんて何もないじゃないか。10月15日に設定しておきながら、直接請求を受けて、町長が判断した時期にやればいいと。そして、町有地は自由に売却できると。こんな無謀な話があるのかと。じゃあリコールじゃないかと。その部分は当時の住民はよく知っておったのだと思います」
リコール運動
95年10月28日、「実行する会」と反対派の団体は佐藤町長のリコール運動をすることを決めた。町の有力者の締め付けは厳しく、署名した者が“ばれる“ことが書かれたビラがまかれた。約15年前の1981年、原発反対派が行った「巻原発住民投票要求署名」では8709名の署名が集まった。そして反対派は署名簿を持って当時の高野幹二町長と交渉を行った。そのとき高野は「私が反対なものを賛成と言わせるなら、議会に直接請求しなさい」と突っぱねた。その後、反対派は署名した町民に圧力がかけられるのを恐れて直接請求は行わず署名を持ち帰っていた。巻町にはそんな苦い過去があった。
しかし、巻町は変わっていた。3週間で10231名の署名が集まり選挙管理委員会に堂々と提出した。直接請求に必要な有権者の3分の1を超え、佐藤町長が前年の町長選で得た9006票も凌ぐ結果だった。
佐藤町長は12月15日に辞職した。選挙管理委員の集計結果はまだでていなかった。年が明けた1月の出直し町長選挙に佐藤莞爾の姿はなかった。その町長選では「実行する会」の笹口代表が当選することとなった。その後、条例が制定され住民投票が実施された。97年には条例制定派を裏切った坂下志への解職がリコールで決まった。
「せっかく住民が選んだ、条例にもとづく住民投票をやろうと言う議員じゃないか。…… 間接民主主義とおっしゃりながら、住民の意向というのはどうでもいいわけよ」と田畑は話した。「(裏切った議員に)みんなが怒りを感じた。住民も怒りを感じたと思いますよ」
町民が政治に参加できる数少ない結果を反故にされたら、どうやって住民は政治に参加したらいいのか。「そこで、わたしどもはリコールしかないよと。本当の意味での政治の参加というのは辞めさせる権利だと。ここを主張すべきだと。ここがわしらのとらえかたです」
「だから」と田畑は言った。「私自身、根本から合併に反対でした。それは、今言ったように、一般の市民が政治に参加できるのは選挙で選ぶのと辞めさせるのなんだと。どちらが重要かというと、辞めさせる権利をどこまでも自分たちが主張できるかだと私は今でも思っている。だから、新潟市と合併した段階で全てが終わったと。全てが行政のあるがままだな、という感じだね」
田畑の「選ぶ権利と辞めさせる権利が主張できる規模の町」という感覚は自分たちで資金を出し合いつくった運動で自主管理の住民投票を成功させた経験から生まれていた。
「巻町が原発を阻止できた住民投票は(条例制定の住民投票ではなく)自主管理の住民投票だと思っているんですよ。……足を運ぶだけで原発反対派とみなす宣伝を(推進派)が徹底的にやった。その高いハードルを乗り越えて、何の根拠も無い自主管理の住民投票に50%近くの人がおいでになった」。田畑は多くの人が足を運び、出した結果を町が尊守することを願った。議会選挙もリコールもすべてそのためだった。
人口が3万より大きい町なら資金や運動、すべての面で「自分たちの力が及ぶところではないと思いました」と田畑は言った。
帰り道を歩きながら巻町が「民主主義の学校」と呼ばれた所以を振り返りながら、合併を問う住民投票との差をひしひしと感じていた。「巻町の人口規模」が心に引っかかっていた。
第二章 二度の住民投票
町の適正規模
巻駅からは徒歩で約10分。田畑を尋ねてから数日後に向かった先は「実行する会」の高島民雄の自宅。その日は雪でも降り出しそうな曇り空だった。
「(住民投票を)合併との関係で考えるなら、住民が地方自治の主体として何かを考えたことを実行しうる、反映させうる場合の適正規模が絶対ありえて。そこが住民投票の成功と重なるところ。……30年やりつづけてきて、巻町だったからできたと。3万の町民の規模だからできた」と高島は話し始めた。ここで出てきたのも町の規模だった。巻町では新聞にチラシを折り込むのに一回5万円ほどかかる。「適正規模」は30年の運動経験から導き出されていた。
「5万(円)で全住民に読んでもらうかは別として、届けることはできる。我々の運動が成功した基盤はそこにあると思っている。これが柏崎になりますとね、チラシ一回入れたら、我々の一年分の経費は無くなって……新潟市だったらやらなかったと思う。最初から諦めている。私は、理念的なところだけで動ける男ではないのでね」
柏崎とは旧巻町から南西に約50km離れた合併前の人口が約9万人の市。東京電力の柏崎・刈羽原子力発電所が隣接する刈羽村にまたがって操業している。1969年に原発建設計画が発表された。世界最大の柏崎・刈羽原子力発電所には沸騰水型軽水炉が七炉ある。高島は「理念的なところだけで動ける男ではない」と言った。理念のほかに必要だったものがあった。
高島は田畑、笹口ら多くの「実行する会」のメンバーとは異なり巻原発計画が明るみに出た1969年から「武谷 三男の本を読んで最悪の事態になったら相当物騒だなと思ってね。枕元に置いておくわけにはいかん」と運動を始めている。隣の岩室村に生まれ県立巻高等学校に通っていた高島は大学の休みを利用して帰郷し、巻高校出身の大学生や巻町の青年と運動を行っていた。その後、78年に弁護士として新潟に戻り79年から巻町で住み始める。原発が高島を巻に定住させたのだった。
1982年の町長選挙に社会党巻支部は勝敗にこだわり候補を擁立しなかったが、前年の81年に原発反対派が行った「巻原発住民投票要求署名」8709名の署名者に答えるべく高島は出馬を表明した。当時、朝日新聞社記者の小林伸雄はこう書いている。「党派組織が、原発反対の理念より、勝敗の見通しにこだわったのに対し……反原発運動の責任を重視した」(小林伸雄『巻町に原発が来た』)。
「社会党や労働組合は、基本的に拒否をした。私の選挙が迷惑だったわけでしょ。しかし、そのときに町民が結構集まった」。そこから「原発のない住みよい巻町をつくる会」(以下、「つくる会」と略称)が生まれ、政党や組合に頼らない自腹の運動が始まった。「あの運動がかなり大きかっただろうと思っている」と高島は語った。
94年8月に佐藤莞爾が「原発建設推進」を掲げた選挙では「つくる会」は意見がまとまらず選挙戦は傍観するだけに終わった。多くの原発反対の町民と同じように佐藤莞爾が当選した選挙結果に落胆したことだろう。「もう一度どんな原発反対運動をするかを考えるために」と高島は町長選挙の数日後に「つくる会」を退会した。
高島のところに義兄である田畑が相談に来たのは町長選挙から一ヶ月ほどが経った9月上旬だった。田畑たちの茶のみ話から10日ほどが経っていた。このとき高島は「自分たちで住民投票をやってしまおう」という田畑や笹口の話を初めて聞いたときに、その発想の大きさと自由さに「頭を殴られたような衝撃を受けた」とマス・メディアのインビューの中で繰り返し語っている(中澤秀雄『住民投票運動とローカルレジーム』)。その後、高島を含め「実行する会」設立されることとなった。
新町長誕生
1995年12月、リコール運動の後に佐藤町長が辞職した。翌年に行われた町長選挙では「実行する会」の笹口孝明代表が出馬を表明した。推進派は候補者を擁立できず、1月21日に「実行する会」の代表が巻町の町長になることが決まった(笹口孝明 8569票、長倉敏夫 991票、投票率45.8%)。
笹口は町長就任後に条例制定の住民投票を行うため、3月議会で推進派の町民から直接請求され可決された「巻町における原子力発電所建設についての住民投票に関する条例」改正案にしたがって住民投票を7月に行うと提案をした。もちろん原発推進派の町議との混乱もあったが最終的に投票日は8月4日案が議決された。日本初の条例制定による住民投票は1996年8月4日に決まった。
日本初の条例制定住民投票
8月4日の住民投票まで推進派、反対派ともに戸別訪問、チラシ、ビラ配り、演説、街宣活動などを激しく行った。原発推進を進める東北電力、資源エネルギー庁、衆・参国会議員、県知事、県議会議員が入り乱れ幾度となく講演会や懇談会、シンポジウム、集会が行われた。
資金力に勝る推進派は原発PRのためにスポットCMを何度も流した。効果があるのか首を傾げたくなるが、仏文学者の篠沢秀夫が出演したクイズ形式のCMや“鉄人・衣笠”こと元広島東洋カープの衣笠祥雄などが出演している。
5月17日には巻町主催の「原子力発電所問題に関する町民シンポジウム」が開かれた。反対派の原子力資料情報室・代表の高木仁三郎と推進派の科学ジャーナリストの中村政雄と両派を代表する町民が講演を行い、さらに質疑応答がされる形式だった。それは原発を議論することがいかに難しいかを表しているものだった。反対派が原発の危険性を挙げるのは当然!?としても、原発で活性化を望む町民も「100%」安全神話に固執する。原発が過疎地に作らなければいけないことを隠すような言説。「近くにある柏崎の財政を圧迫する原発振興を手本にすればうまく町を活性化ができる」と傾聴すべきこといくつか言っている。それでも結局、不信があることが明らかな安全の話に終始する。もちろん、反対派にも同じような構図がみられる。反対派と賛成派の主張は平行線だった。そんな感想に高島は言った。
「間をとりにくい話だよね。リスクが極端であいだを考え難いのだよな。……最悪の事態が起きたとなると、カタストロフィだから。それと比較できるベネフィットがなくなってしまうのだろうな。……それと、やっぱり事実として(事故が)起きてきたことですよ。これが一番大きかったと思う。論争だけなら無理だったでしょう」と。それでも「一面に載るような世界の事故がおきたでしょ。放射線の怖さを実感できるじゃないですか。言葉で言えないじゃないですか。だから、真ん中が難しい。どちらか白か黒か挙げるしかないですよね」
巻原子力発電所の計画が明るみになってから79年にアメリカのスリーマイル島の原発事故、86年に旧ソ連のチェルノブイリ原発事故、それと前年の95年12月に日本で高速増殖原型炉「もんじゅ」がナトリウム漏れ事故を起こしていた。
7月26日に開かれた「巻原子力発電所賛成町民総決起集会」では、なぜかタレントのガッツ石松が応援演説を行っている(96年7月27日『新潟日報』)。「OK牧場」と言ったのかはわからないが、推進派は精力的!?にPRを行った。当時の地元紙『新潟日報』にも幾度となく東北電力の広告が載っている。
公職選挙法の拘束がない条例制定による住民投票だからこそ推進派の“西蒲選挙方式”が花開いたが、既に地元紙の記者やTV局だけではなく主要メディアが頻繁に報道し始め、“西蒲方式”は格好の餌食となった。観光とフランス料理などの会食がセットになった原発見学ツアーや飲食を伴う集会はお茶の間を濁すことになる。当時の笹口町長はこう述べている。
「今度の住民投票はこれまでの選挙とわけが違います。これは巻町のみならず日本の命運を左右するような重大な意味を持っているんだ、ということを、有権者はちゃんと理解していると私は信じています。もし万が一、それでも金で自分の意思を変えるという人がいれば、この町の人間はそれだけのものでしかなかったんだと私はあきらめますし、それを含めて、それが巻町民の答えだということです」(今井一『住民投票』岩波新書)。
そして、1996年8月4日、全国初の条例制定による原発建設計画を問う住民投票が行われた。
反対12478票 賛成7904票 無効118票
持ち帰り3票 有権者数23222人 投票総数20503人 投票率 88.29%
結果は冒頭にあるように華々しく報道された。そして、住民投票の結果を持って笹口町長は東北電力、資源エネルギー庁に巻原発計画の撤回を要望したがその返答は「計画には変わりない」ということだった。当時の八島俊章・東北電力社長と江崎格・資源エネルギー庁長官への面会さえ許されなかった。住民投票から一週間後には「次の町長選で推進派の候補が当選すれば町有地を(東北電力)に売ることは可能だ」と話す、ある推進派町議のコメントが新潟日報に載っていた(『新潟日報』96年8月11日)。住民投票終了後、町政はより難航していく。
膠着した議会
住民投票の結果は法的な拘束力がないため、推進派の議員は住民投票をただの「意向調査」として解釈していた。議会では原発推進派と住民投票尊重派(以前の条例制定派)、反対派の対立が続いた。議会は膠着状態に陥った。条例制定から2年以上が経った1998年10月、笹口町長から提案された老人ホーム「得雲荘」施設への太陽光発電の設置案は否決された。99年に建設中だった「巻町ふれあい福祉センター」に太陽光発電を導入する議案は、原発推進派から修正案も提出されたが共に廃案となった。そして、99年4月に町議戦をむかえた。住民投票条例制定のために盛りあがった町議選挙からすでに4年が経っていた。
町議選挙の焦点は住民投票の結果と異なる議会構成を変えられるかに絞られていた。その時、町内には住民投票で原発問題が終わったとの空気が流れはじめていた。そして、原発推進派は原発問題にほとんどふれなかった。結果は原発推進派が13議席を獲得したのに対し、原発反対派、住民投票尊重派は9議席に終わった。議会構成は変わらなかった。原発推進派へ票が集まったことで、翌年の町長選挙に暗雲が立ち込めていた。
町有地売却
1999年9月2日の午後3時、巻町役場3階第3会議室には報道陣が集まっていた。そして、姿を現した笹口町長は話はじめた。
「8月30日、巻原子力発電所建設予定地内にあります町有地のうち、角海浜字沙山5番地743㎡を売却いたしました」
緊急に開かれた会見で「実行する会」を中心に23名の町民に町有地を売却したことを発表した。この土地は95年に東北電力が売却を申し入れ、その議決のための議会が流会となった原発建設の生命線となる土地。売却額は当時と同じ1500万円だった。住民投票の結果を守るためのこの決定に、国や東北電力や知事だけでなく町民だれもがこの発表に驚いた。
高島は「非常に危険でしたよ」と話した。「これが正反対の方向に流れることもありえる。……世論が認めてくれなければ、土地の取り上げもできるからな。賭けは賭けだった」と言った。
「実行する会」で売却の話し合い行われたときに最後まで反対したのは高島だった。田畑も「高島が言うように、みんなで力を合わせて住民の出した結果をもって常に挑んでいき、それを守り続けると。それが100%、民主主義だと思う」と言っている。しかし、次の町長選挙で笹口が落選したときのことを考えたら高島も受け入れるしかなった。それほど「実行する会」のメンバーは危機感を持っていた。条例制定の住民投票から3年が経っていた。
「原発問題を終わらせるために」の見出しでチラシを入れ、「実行する会」は町民に理解を求めた。他方、「町有地売却は断じて許しません。」と書かれたチラシや町有地の売却先である「実行する会」のメンバー他23人の名前と住所、電話番号が書かれたチラシが町内に出回った。
後に原発推進派の町民が町有地売却の無効を求め提訴した。それは町長選挙で笹口が再選を果たした後だった。
00年町長選挙
2000年1月の町長選挙は現職と新人の一騎打ちとなった。選挙に出馬するために巻町農政課長を辞めた田辺新は「原発問題は町有地売却で終わった」として、県や国とのパイプを強化し「町の活性化」を行うことを公約に出馬をした。応援には原発推進派の面々がみられた。笹口は国や東北電力に計画撤回を求める「21世紀中の原発問題の決着」を掲げ5日間の選挙戦を争った。結果は笹口が267票差で辛くも再選を果たした(笹口孝明10102票、田辺新9835票、投票率82.25%)。当選直後の笹口は「東北電力や国に原発立地計画白紙撤回を求めるなど、原発問題の決着に全力を尽くしたい」と語っている(『新潟日報』00年1月17日)。
この結果について「(町有地)売却の批判票もあるが、事故がなければ完全に負けていたんだな。事故があって原発を止めることをみんなが本気になって考えてくれて、やっとだったんだろうと思ったよね」と高島は答えてくれた。事故とは4ヵ月前、茨城県東海村で起きた臨界事故のことだ。国内初の臨界事故で事故現場から半径350メートル圏内の住民約500人に退避、半径10㎞圏内の住民31万人に室内退避勧告が出された。中性子を多量に浴びた作業員二人が亡くなっていた。
笹口が再選したとはいえ、町の停滞ムードは着実に大きくなっていた。原発以外がみえる町政を望む声があちこちから聞こえていた。
一町二村の合併協議
目新しいこともなく、町政が行きづまって見えた2001年2月、新潟県庁から新潟県市町村合併促進要綱が示された。僅差で勝った町長選挙から約1年が経っていた。
7月からは各家庭に配布されている町の広報誌に市町村合併が取り上げられ始めた。その内容は県の要綱をそのまま紹介した内容となっていた。その後、県の要綱通りにならなかったが巻町は隣接する潟東村、岩室村との合併協議に入ることになった。「巻と潟東、岩室と合併したらどうですかと議員の方が確か提案されたと思うのですが。そのあと、すったもんだあって、まとまらなくて。潟東さんも岩室さんも新潟市のほうになった」巻支所・総務課・渡辺和昭はそのときの様子を話してくれた。
当初、巻町と潟東村、岩室村との合併は順調に進むかに見えた。しかし、あくる02年の1月18日に笹口町長は突如、両村に原発の住民投票を要望した。「三町村で合併しても、原発ができないという担保が欲しいので、原発建設の是非について住民投票を実施して欲しい」と提言して両村長の強い反発を受けている。笹口町長は21日に一度は助役を両村長に走らせ陳謝させたが2月6日に再び両村長に住民投票を要請した(『下越新聞』02年2月23日)。結局、この要請はかなわず合併協議は決裂した。潟東村と岩室村はその後、新潟市との合併を協議することになった。
突然の住民投票を要望した背景には近隣の11村町で構成される西蒲原郡町村会が原発推進で一致していた過去があった。田畑は笹口町長に「合併をすれば、『旧巻町に住民投票をやった結果』があったという程度ですよね。(新しい)議会は新しく議決をしましょうということになっていく。そうすると、旧巻町の住民が出した結果というのは何もなくなってしまう」と話したという。高島は当時のことを「住民投票を要求すれば、合併話はつぶれると思った。もし、やってくれれば住民の結論はでるだろうし。そしたら出身議員がいたとしても住民投票の答えを動かすことはなかなかできないだろうと思った」と話してくれた。
「実行する会」は町民が困難の末にたどりついた住民投票の結果を守るべく全力を尽くした。しかし、巻町には「原発は終わった」という雰囲気で満ちていた。町民は合併に遅れることに不安を募らせていた。潟東村、岩室村と合併が破談に終わったあと、町議会では5度の合併住民投票条例案が原発推進派の議員、町民から提出されたが笹口町長はすべてを再議に付し議案は否決されている。
国と東北電力との巻原発建設計画の撤回を表す様子はいっこうに見えてこなかった。住民投票の結果を守るため、いつ終わるともわからない「つらく、静かな」戦いは続いた。「実行する会」の設立から10年が経とうとしていた。
04年町長選挙
町長選挙を翌年にひかえた2003年、「実行する会」では町議を二期務めた高島敦子を擁立し選挙戦の準備をしていた。笹口町長はすでに三選不出馬を表明していた。「争点は原発。負ければ、世論を作り上げて土地の接収と。その流れはでてくるよね。土地収用しやすい環境だってつくれるよね」と高島は言った。
この裏には、電気事業法が96年にひそかに改正され、原発に関わる土地収用を可能にしていることが、00年ころ明らかになった。これにより巻町の住民投票の結果のみならず、町有地売却戦略まで無効になる可能性があり「実行する会」は焦りを深めていた(中澤秀雄『住民投票運動とローカルレジーム』)。
「世論が大きく転換する可能性があって、いつまたどうなるかわからない。それがひとつ大きなこと。それと合併そのもの、地元住民の意思を尊重するための適正規模の自治体を守らなくてはいけない。ということを争点に据えているわけだが、なかなか抽象的なことって難しいんだよね」
そして、03年12月18日、町有地売却の訴訟で最高裁が上告不受理を決定し、東京高裁の判決をもって終了した。売却の手続き方法は町長の裁量権の範囲内とされた。その夜、東北電力はすぐに建設断念を示唆するコメントを出し、24日に巻原発計画を撤回することを新潟県知事に正式に報告した。土地収用法を適用せず引き下がった。なんともあっけない東北電力の決断であった。
2004年1月18日、突然争点が抜け落ちた町長選挙は再出馬をした田辺新の圧勝だった(田邉新10797票、高島敦子6605票、投票率74.17%)。「原発終わりました。ありがとうございましたって感じでした」と田畑は教えてくれた。その後、巻町は新潟市との合併に向けて足早に動きだすこととなる。
3月30日には「合併問題懇談会」が始まり、5月31日には合併について住民アンケートを行った。18歳以上の町民が対象となったこのアンケートでは新潟市との合併を賛成49.4%、反対25.8%で職員が回収に町内をまわった回収率は92.63%だった。その結果をもって新潟市との合併協議開始を申し入れたが市長に住民投票を促された。6月16日に議会が「新潟市との合併に関する決議」を行った。6月16日には田辺町長提案の「巻町が新潟市と合併することについての可否を問う住民投票条例」が可決された。そして、8月8日に合併を問う住民投票を行い巻町民は合併を選んだ(賛成8808票、反対5451票、投票率58,7%)。そして、田辺町長は新潟市市長に合併協議開始を申し入れた。まさにあっというまの展開だった。
軋轢の結果
「私は合併の可否を考え抜いて、合併を良しとした投票ではないと感じている」。と高島は合併の住民投票について話した。どういうことだろうか。「旧共同体に戻りたい。……原発があったからこそ、みんながんばったけれども、それで人間関係に軋轢がたくさん生まれてきた。……最高裁で決着がついて、電力が止めたわけですよ。それで、一気にそっち(合併)のほうへ行ったという気がしてならないのだけれども……」。さらに「合併はね、感覚的にいうと、実行する会のメンバーにとってみると原発に限らず合併はノーなんですよ。はっきりと。それは運動を自分たちが担ってきたわけだから。まさに、住民の意思に従って決めたじゃないかと。確信をもっているわけです。(合併は)適正規模に合はないわけですよね。何が合併だと」
では、なぜそれが町民に浸透しなかったのだろうか。最も聞きたいことだった。8年間の軋轢の揺り戻しだったのだろうか。「だろうね。我々は原発と離れて合併を問題にしたことはなかったわけですよ。それはできないね。……最重要課題は原発だから、それをおいといて合併一般論を論じない。それはひとつの運動体としての限界はあったけれども」。高島は続けて言った「合併をとことん論じあえる時間があれば、また状況は違ったかもしれない。あのときは原発が消えて、そして、選挙まで1ヶ月もない。その間に合併一般の論争を巻き起こすのは無理だろうな」。少し間があったあとに「……合併問題についてみんなで議論する機会があって、かつ同じような合併は許せないと運動を立ち上げる」。そして、再び間を置いて「そのエネルギーはみんななかったかもしれない。それはもう、みんなくたびれ果てたんだよ」
住民投票を成功させ、その結果を守るため懸命に活動してきた「実行する会」は満身創痍だった。
どうしたら合併をとめることができただろうか、そんな疑問にこう答えてくれた。「難しかったと思いますね。合併について運動に取り組めるとしたら、具体的な全町民が関わるような争点があって、それとの関連で合併是非論が論じられないと、難しいのではないかな。住民意思の反映、適正規模なんてね。抽象的で。あとは財政がもたないという脅しとか、大きなものに吸収されてしまえば財政的に孤立することもないし。なんとかやっていける。それを押しのけて自律、自活、自分たちの町をやっぱり守っていこうというのは容易でないかもな。どこでもそうだよな」
合併を選択した巻町民に自ら街づくりを志すものがこの十年で育たなかったのだろうか。特に8年間の笹口町政のなかでそれが出来なかっただろうか。「実行する会」は笹口町長の行政にほとんど口を出していない。高島は「いろいろ出来ることもあったと思いますよ…。でも、笹口は良くやったと思います」と、そして「かつてよりありますよ。間違いなく。選挙の結果では出てこなかったけどね。反動が相当大きかったこともあってね」と答えくれた。
高島は自宅の太陽光発電のデータを見せてくれた。変動する数字の年間平均をとると約8割の電力をまかなっていた。新潟の冬は長い。夫婦二人で、たぶん節電をしている生活とはいえ驚いてしまった。原発に反対してきた高島なりの答えなのだろう。確かに太陽光発電のコストはまだ高いが話を聞きそれなら、とも思った。「(代替エネルギーの)アピールできるわけですよ。だから、補助すればいいのですよ。国からの補助に上乗せとか……最後にはちょっと民間にやったかもしれないが」と笹口町政に関して意見もあったようだが…。そして、お宅を後にした。
第三章 原発反対運動から
揃わない足並み
2003年12月24日に東北電力の巻原子力発電所建設白紙撤回が表明された。この急な発表で、翌年の町長選挙は「原発」という最大の争点が失われてしまった。もっとも、「原発」が残っていたとしても「実行する会」から出馬を表明していた高島敦子が当選したかは疑問だ。住民投票後からの「原発問題」は終わったという流れは確実に広がっていた。前回の町長選挙で「実行する会」は267票差という“ギリギリ”の勝利だった。町は原発賛成・反対に二分し続け町政は停滞し続けた。「原発」以外の働きが見せられなかった町政に町民は離れていった(もちろん、それ以前の町長が特別に目立った町政を行ったかどうか疑問だが、原発の住民投票の後で余計に目立った)。町民はこんな声を発していた。「原発推進派だけでなく、原発だけの反対派や実行する会も問題。次の政策を打ち出して欲しい」(『新潟日報』99年4月27日)。
「実行する会」が高島敦子を擁立した2004年の町長選挙のときには巻町の周辺3町村は新潟市との合併を決め、巻町は日本海に面している西側を除き三方が新潟市に囲まれていた。まさに陸の孤島のようだった。
「住民投票の結果を守ろうと(高島敦子を支持するために)集まっていた人たちの中でも合併の賛否はバラバラでしたよ」当時をそう語ってくれたのは桑原正史。「焦っている人が結構いましたよね。合併に乗り遅れると大変なことになると。何が大変なのか私にはよくわからないけれど」
桑原は反原発団体のひとつ「原発のない住みよい巻町をつくる会」(以下、「つくる会」と略称)の中心だったひとだ。会話はこんな言葉から始まっていた。
「個人的にいえば私は合併なんてしないほうが良かったと思っています。具体的なメリット、デメリット以前に、原発運動で大変だったけれども住民投票が可能だったのは町の大きさだったと思いますよ。3万人という規模ね。これ以上大きかったら無理だったと思いますよ」
原発反対運動
桑原が反原発運動を本格的に始めたのは1982年の町長選挙のころから。桑原が参加した「つくる会」は反原発を掲げ出馬した高島民雄の支持母体として生まれた。それまでは反原発団体の会合にたまに顔をだす程度だった。原発は「まぁ、いやだな」と感じる程度だったそうだ。そんな桑原にも巻原発建設の進められ方が見えてきた。東北電力は土地、漁業権などまさに“桁違い”な金額を払って解決していく(もちろん、反対を表明して金額をかなり吊り上げ町民も少なくない)。二束三文だった田舎の雑木林が生えた土地が銀座の一等地並みの値段になり(『読売新聞』94年9月3日)、80年の漁業補償は東北電力が39億6千万円を払うことで決着がついていた(東北電力が始めに提示した額の二倍を超える金額だった)。
「正直に言われていない感じがはっきりとわかる。そこの部分をお金で、電源三法みたいなもので、お金で埋め合わせる。説明できない部分をお金で埋め合わせをさせられて、原発を引き受けさせられる。……許せないって感じがしましたね」。とはいえ政治色を嫌った桑原はすでにあった反原発団体に組しなかった。「簡単にいうと社会党ぐるみの運動になっている。社会党一派の運動にいる。彼ら(「巻原発反対共有地主会」のことを指す)が望んでいるわけじゃないのはわかってきたけれども、外部からはそうとしか見えない。そのときに、違うものをやろうと。どんなに小さくとも違うものをやろう、と思っていました」。それは、少し遅れて反原発運動に参加した桑原らしい見方だったのかもしれない。社会、共産党系の人が原発反対を示し、自民党系の人が賛成を示していた。「その枠がある間は絶対止められないと。その枠を壊さなくていけないわけですから、自分がどちらかに入っていったら終わりじゃないですか。その枠と別な設定に原発問題をしなくてはいけない。最後の住民投票に関してはその枠が消えたと思いますね」
もちろん桑原も反原発活動を行うと外部からは同じにように見られた。漠然と「もし、巻で原発がとめられるとしたら、俺たちじゃないよと。我々がついていけない種類の運動が起きて来たときに止められる」と思っていたと言う。そして、中立にたった「実行する会」が生まれたのは94年だった。
波紋の広がり
人口3万人の巻町が合併をしたことで新潟市は人口80万を超え、2007年4月1日から本州日本海側(裏日本ともいわれる)初の政令指定都市として出発する。
「いざ、という時に住民が底力をだすことが可能になる大きさが自治体として私は非常に重要だろうと気が。大きくなると名前は自治体だけれども国との関係で一定の行政権が委ねられている意味では自治体だろうけど、住んでいる住民からの自治と言われてもねぇ」
合併した新潟市の面積は巻町の9.5倍、人口は27倍の都市となった。「いざって時の機能を失ってしまうのはどうかなと思いますね」
桑原も運動を通して自治体の規模の重要性を身にしみて感じていた。ならば合併のときはなぜ反対運動をしなかったのだろうか、そんな単純な質問に桑原はこんな話をしてくれた。「合併になるとテーマが違うわけですから、そんなことしている時間もないし、それをもう一度するには新たなものを、ゼロからつくらなければいけない。続きではできない」。巻原発に決着がつくまで30年以上かかっている。もし、早い時代に住民投票をやっていたら負けていただろう。行政側は情報をたくさん持っているが、住民が情報を集め問題点を出すまでに時間がかかる。更に町の風潮が変わるのには非常に長い年月が必要なのだと教えてくれた。
「運動というのは人間の輪だから、新しい問題にたいして輪を作っていくのはそんなに簡単な話ではないですよね。更にその輪が更に波紋を広げていくようになるのは決して簡単なことではないですよね」。反対運動の経験があったからこそ簡単に運動など出来ないことを語ってくれた。
確かに当時の行政は急いでいた。2004年に新町長が誕生してから合併の住民投票まで7ヶ月とかかっていない。そのことについて内藤支所長は原発から見れば、健康被害や直接的影響があまりないとした上で、「田辺町長が合併の住民投票については、非常に細かく住民説明会を開いたのですよ」と語った。「まわりが合併して巻このままではどうなるのか」と言う住民の声に事細かに住民説明会を開いて、答えていたそうだ。
住民投票の起源
話は原発の住民投票に移っていった。巻町で「住民投票」という言葉が初めて出てきたのは昭和の大合併のころ。1955年、昭和30年に巻町は周辺の村を吸収合併した。そのとき住民税が大幅に上がったことで旧漆山村地区の人が分町運動を起こした。そのときに「漆山地区分立に関する住民投票実施請願書」が議長宛に提出されている。結果的には分町運動は脱落していく集落が出てきて収束した。そのときに分長運動から離れていった集落は、分長後の地区のあり方が明確に示されていないことへの不安が表面化したものと書かれている(『巻町史』通史編 下』)。
桑原によると「巻原発を住民投票で」という言葉は出たのは1981年に反対派が巻原発住民投票要求署名活動の時からだった。「実施したところはなかったけれども、原発問題で住民投票条例をつくったところがあるのですよ。そういうのは反対運動のなかで非常に重要な情報だから」。今井 一『住民投票』によれば、巻町が全国で初めて行ったのは条例制定による住民投票で、実際に投票は行っていないが条例を制定している自治体が巻町に先駆けて存在する。そのうち高知県窪川町(現在は四万十町)では原子力発電所の設置に関する住民投票条例を81年に制定している。しかし、当時署名活動をしていた桑原自身も住民投票はできるはずがないと思っていた。
そして佐藤莞爾が「原発凍結解除」を打ち出し、三選を目指した94年の選挙で「原発は住民投票で」という言葉が浸透していく。佐藤莞爾の対立候補で原発慎重姿勢を表明していた村松治夫(実は原発推進派)陣営がそれまで「原発は意向調査」と言っていた。しかし劣勢だとわかると選挙戦の終盤に「原発は住民投票で」と言い換えていた。それまでは表だって「反対」と言えない町の雰囲気だ。「推進側で町民の半分を仕切ってきた側から盛んにそれを言った、と言うのは非常に大きかったと思いますね」。結果は佐藤莞爾が再選された。桑原ら原発反対派は無力感と脱力感に駆られたが、浸透し始めた「住民投票」という言葉が少しずつ巻町を動かしはじめた。
ボタンの掛け違え
「実行する会」の成立後、1995年1月に行われた自主管理の住民投票には10378人が参加した。結果は原発建設に反対9854票、投票率は45.4%だった。けれども、その直後の2月に町は東北電力に原発建設予定地内の町有地売却を議決しようとする。そのときは反対派の実力行使で流会となった。桑原は議会を止めるために役場に入って町長に直接こう言っている。
「あんたは誰のために町長をしているのか。東北電力のためじゃないだろう。……なぜ町有地を売るのか」。町長を問い詰めると「町にとっていらない土地だから」。と答えた。するとすかさず「町民にとっては大事な土地だ。そんなに売りたいのならこの俺に売ってくれ」(桑原正史、桑原三恵『巻原発・住民投票への軌跡』一部改変)。
「日本の原子力行政を進めている人たちがボタンを最初に掛け違えたのだと思いますね」。それは住民投票条例制定後の町民シンポジウムの話をしているときだった。桑原の妻、三恵さんはこのとき中村政雄に質問をしている。シンポジウムでのやり取りで反対派と推進派が「あまり議論になっていないのでは」という質問に対して、桑原は原子力行政が絶対安全だと立地点に向かう姿勢が理由なのだろうと言った。「危険性があるが抑えられる。将来的にもっと抑えられるという提示ではなかった気がしますね」。行政側が最初に完全な安全を提示してその落とし穴から抜けられなくなったと。「一方は完璧を主張しているわけです。それを論理として打ち破る方は一箇所完璧が破れていることを言えば、その主張はもう終わりですよね。そういう関係に陥っていたと思います」と桑原は言った。
ゴムの原理
合併の住民投票で「住民自治」を手放したように見える巻町民に未練をもっていると、こんな例をだして話してくれた。
ひとの背中には「しがらみ」のゴムがついていると。そのゴムの反対側の端は杭で押さえられていて、ひとの行動範囲を限定している。ゴムにつながれている人が原発の住民投票には無理をしてゴムを引っ張って投票した。やっとの事で反対の票を入れた途端、ゴムでひとは戻されると。もちろんそのゴムを切ったひともいるが、大半のひとは戻ってしまうと。「(住民投票のとき)『実行する会』もこれは特殊問題だと、すごい主張をしたわけですよ。百年に一度という言い方で臨時にしたんですよ。百年に一度という言い方が何を意味しているかは、そういうことですよね」。そして「でも、」と付け加え話し始めた。「人は確かに戻るのだけれど、経験自体は消えないので」。歴史の教師をしていた桑原は続け言った。
「私は歴史をやっているけど、そうやって歴史は進んでいくのだと思います。そこだけでみると50歩も100歩も進んでいるわけです。でも、それは非日常だから可能なので。日常的に緊張感を保ち続けることは誰も出来ないわけですから、それが終わったときに、戻るわけですよ。……一見、50歩進んだことをすごいと思った研究者からは50歩から48歩まで戻るから、すっかり元に戻っているように見える。でも、よくみると2歩違う」
巻原発の運動に関わった人たちが共通に感じていたことは「自治体」の大きさだった。自腹でお金を出し合い(ときには1500万円も)作り上げてきた運動の限界が人口3万人の巻町規模だった。それが合併の時には時間がなかった。具体的な論点もなかった。そして、長年の原発運動で議論を立ち上げることも不可能だった。
話を聞いていると彼らは発展を望んでいなかった。特に田畑は大きな道ができて、交通の便が良くなると地域の商店街や経済が空洞化していくことを商売上経験してきた。「発展」と言う掛け声が空虚だと感じていた。
日本初の条例制定による巻原発「住民投票」をめぐる論争で最も言われたのが迷惑施設を作りたくない地域エゴだという批判で、Not In My Back Yard の頭文字をとったNIMBYだと非難された。高島は太陽光発電を利用していた。田畑は原発建設計画が可能な範囲で移っていけばいいと。そして、受け入れるところがあればそれでいい。なければ原発は必要のないエネルギーだ。「そのことを国は考えるべきだ」と考えていた。地域のことは地域で考えればよいと思っている田畑はたとえ隣町に原発がきても「応援にはいかない」と言った。桑原も同様に「反対するからには責任があるというけれど、責任なんかないと思うね」と言った。代わりのものを提示するのが国の責任だろうと、ボトムアップ式に意思決定がされることを願っていた。
三人はそれぞれ自分たちが成功させた「住民投票」が意思決定の最も良い方法だとは思っていない。「偶然そのとき巻でより良い方法だった」と田畑は言った。住民投票運動を担ってきた多くの人たちが04年の町長選挙を契機に表舞台から去った。政党や反対が自己目的化した運動から離れ、地域から生まれた運動は幕を閉じた。
巻原発計画が明らかになってから約35年。「実行する会」が設立されてから約10年間を費やした原発問題は決着をみたが、三人の話を聞いていると合併については意見も争点もあがらず議論もできずに流れて行ったように感じられた。合併の魅力は何だったのだろうか。果たして、本当に議論はなかったのだろうか。声をあげる人はいなかったのだろうか。そんなことを疑問に思いながら、合併の住民投票が行われたときの当事者だった巻町最後の町議のところへ向かった。
第四章 新潟市との合併住民投票まで
巻町最後の議長
合併の住民投票が行われるころの様子はどうだったのだろうか。巻町最後の議長を務めた山下清司を訪ねた。山下は合併が問題になっていた当時の風潮をわかりやすく話してくれた。
巻町の市街地から車で20分ほど走らせると砂地の畑が広がる。夏にはスイカが道端で売られている。少し傾斜がきつい長い坂を登りきると松林が続く。その先には砂浜の海岸線が続く越前浜がある。海に面したこの地域は400年ほど前に越前国から移住してきたひとが開いた地域。町議生活20年を超えた古参議員のひとりで初当選は1983年。初めて選挙に出るときは「うちのお母さんが怒って、家を出て行った」と言う。原発、合併と共に推進していた。
「今、まわってみると『水道料金が安くなりました。あとはいいことありません』と、こうなんだね」と山下は合併から1年と2ヶ月たった様子を語った。「町長と合併後に巻町に区役所が置けるように全力をあげていましたし…」
2007年から政令指定都市に移行すると新潟市は行政区分を8分割して区役所を置くことになった。区役所は地域住民の行政窓口になる。現在業務を行っている支所(旧役場)は人員、権限を大幅に縮小され、簡単な窓口業務などだけを行うようになる。区役所は地域の中核を担う。山下や田辺・前町長は巻を含む旧西蒲原郡の7町村が含まれる地域の区役所を巻に持ってこようと奔走していた。他の町村より大幅に遅れて合併協議に入った巻町だったが、区役所の設置には「是が非でも」との願いだった。それは西蒲原郡のなかで郡都として栄えていた過去を持つ巻町ならではのプライドだった。
巻町には明治時代に西蒲原郡の郡役所や裁判所、警察署が置かれ地域の中心として発展してきた。金融機関4行の支店も商店街にあり、県の総合庁舎や税務署、4校の県立高校や法務局の出張所があり公官庁が集中していた。(03年に県立高校は統合され2校に、06年に法務局の出張所も新潟地方法務局に統合された)。基幹産業は農業と建設土木業で1960年代まで順調に発展していた。しかし70年代にはいると共に低迷しはじめた。工業化にも成功せず製造業も伸び悩んだ。それに引き換え工業化に成功した近くの町が発展を遂げた。「郡都・巻」は序々に寂れていった。そんなときに発展とセットになって原発計画が持ち上がった。郡都としての誇りを取り戻すには絶好の機会だった。昔のような華やかな巻町を取り戻したい。周辺町村より優位に立ちたい。そんな気持ちがあった。合併でも同じ構造がみられた。
山下は合併をして「思うほど良くならないと思いますよ」と非常に率直に答えてくれた。逆にそれはこちらが戸惑うくらいだった。合併を進めた理由を尋ねると「地域の時代の流れがあるんだよね」と言った。
隣の岩室村と潟東村と合併の協議を重ねていた笹口町長が突如、両村に原発の住民投票を要求した。そのときは「議長なんかやっていると、西蒲原郡9か町村の連絡協議会があるのですが、笹口さんをなんとかしろと。西蒲原の区域のみなさんに言われた」と言う。話を聞いていると合併当初の思惑がわかってきた。西蒲原郡の9か町村でまず合併する。その後、西蒲原郡でつくった新しい市と新潟市とで合併を協議するというシナリオだったようだ。とはいえその9か町村のうち2村しか巻町との合併協議に参加しなかった。そう考えていると山下は言う「私らが潟東と岩室と一緒になれば集まってきたと思いますよ。4、5ヵ町村集まって、道路がよくなる、そして精神的にも一緒になって市民の声が通るからよかったんだと、いう形になればよかった」。加えて「いま大きくなったからダメだということではないのだが」と言った。
山下は巻町が合併をせずに単独で残ることは難しいと考えていた。その理由は財政的な事を挙げた。当時の巻町は累積赤字が約30億の町立病院を抱えていた。これが問題になっていた。そして、町の歳入も減少傾向にあり町の貯金も減り続けていた。ただし、笹口町長は歳出を抑えている。それに対しては手厳しい。「使い方を知らなかったのでは」と山下。様々な批判を口にした。それは長く続いた笹口町長派との確執を表していた。
山下は原発推進派で原発の住民投票には反対していた人だ。それが、合併では住民投票を進めた。その心変わりはどこにあったのだろうか。合併の住民投票について聞いた。山下は言う。「原発問題もあれほど騒いだわけでしょ。私は推進するほうだったからね。あれだけの結果がでて、住民の声はそうなんだと。合併の時も住民投票をするのは住民の声を聞くひとつの方法なんだと思った」(ただし、山下は原発の住民投票の結果を認める発言をしていない)。
それにしても合併の住民投票まで原発の時のような議論がなく期間が短かったのではという問いにも「当時は(合併まで)時間がなかったのではないかな。そして、原発問題と違ったよね。あのときの情勢は」。では、住民投票で町民は何を望んで合併を選んだのかと聞くと「当時の流れというか、それだね。大合併に向けて動いていたしね」と答えてくれた。そして、「周りもやっているし、うちの町のやらなくてはという声が強かったね」と正直に話してくれた。
山下は合併の不満がまだまだ出てくるだろうと言っていた。特に農業政策には大きな不満がでているらしく、「新潟市に地域の意見をぶつけて通るようにしないと」と言っていた。意見をぶつける相手が合併によって更に遠くなることだろう。時代の流れは容赦なく厳しいのではないだろうか。
――町議経験の中で、どれくらいの町の規模がよいと考えますか。
大きいからよいものじゃないと思うわね。バランスの取れたものがよい。
――人口で言うとどれくらいですか
3,4万。5万。くらいかねぇ。大きければ良いわけでもないと思うね。
春に青々と育つ小麦や鮮やかに咲く菜の花、桃色の花を咲かせる木々、渡り蟹や夜烏の卵を採ったことなど山と海のある自然の豊かな巻町で育った話をたくさん聞かせてもらった。巻町がなくなっても自然は残るのだが、そんな話から巻町に対する愛着を感じずにはいられなかった。
ニュー・フェイス
新しい風が吹いた―2003年4月27日、……巻町にまったく新しいタイプの町議会議員が誕生した。……巻町に移り住んでまだ1年に満たない27歳の女性、山本亜希子である。(『デモクラシーリフレクション:巻住民投票の社会学』伊藤守ほか)
まるで住民投票運動の申し子のように評された山本は合併の住民投票ではどのような活動をしたのだろうか。市街地のはずれにある山本の選挙事務所を訪ねた。
山本は環境問題に関心を持ち筑波大学の生物資源学類に進学した。学生時代に有機農業に出会い自らも「農業をやりたい」と思い、つてをたどって98年7月に新潟県西蒲原郡岩室村に転居した。生活のなかで岩室村や隣の巻町の地域活動に積極的に関わるようになり、知人、友人を増やしていった。02年に友人や町政に関わる知人から町議選にでることを勧められ「各方面からお話を頂くなら、そういう道もあるのかな」と出馬を表明したそうだ。原発問題で停滞している町政に「脱原発」をめざし「原発のいらない巻町」をアピールしたて選挙戦を戦った。
選挙結果は1009票を獲得し初当選した。定数20人中3位だった。選挙翌日の『新潟日報』にもその当選は写真つきで紹介されている(03年4月28日)。若干27歳だった。原発の住民投票を「学生時代にアパートで見ていた」山本は巻町議会議員になった。
当選した山本は自筆のイラストが入った『あっきー通信』という議会だよりを作り、新聞に折り込んで配った。町長や町議の発言がイラスト入りで描かれている。町長や議員たちの顔は良く似ている。好感がもてるし、面白い。例えば、学校や漁港の整備で補正予算などが組まれたことや赤字を抱えていた町立病院のことなど、議論した内容や質問などが細かく書かれている。
合併に関しても田辺町長が就任してから「町は調子の良いことしか言わない」からと『あっきー通信』などで合併問題を何度も取り上げ発行していた。町が提示したメリット、デメリットの他にも借金に過ぎない合併特例債についても警笛を鳴らしていた。精力的に調べて発信していた『あっきー通信』のなかで「十分認識できるような話し合いになっていません」「みんなで考えましょう」と呼びかけている。それでも盛り上がらなかった。とにかく説明会にも来る人がいなかったそうだ。
最終的に山本は合併の住民投票では賛成に○をつけていた。これには正直驚いた。山本は04年の町長選挙で「実行する会」の高島敦子を応援している。「脱原発」を目指していたとはいえ、原発では「反原発派」だった。田畑、高島、桑原の三氏のように「自治」に強い意識を持っていると考えていたのでこれは以外だった。話を聞いていると結果的に「賛成」に投票することにしたようだった。
山本自身も「あっきー通信」をつくりながら、勉強しながらどちらかを考えた。そして、住民投票の2ヶ月ほど前に巻町が行った住民アンケートの結果と回りが新潟市だということ、その時期に合併すれば区役所を置けるということで賛成を選んでいた。
山本は巻町民が合併を強く望んではいなかった、それよりも取り残されるという不安が原因だったと考えている。ある年齢以上の人は「郡都・巻」が置き去りにされることを嫌ったようだ。「郡都・巻」は思い出の中で健在だった。
議論が盛り上がらなかった理由を聞くと「原発と違って命の不安がせまるものじゃないですからね。あと、争点がわかりにくい。チラシも本当に興味ある人しかみないし。……白黒つけづらい問題ですからね」と答えてくれた。
合併後の町の様子を聞くと町の人は「合併して何もいいことがないじゃないか」と言っているという。その理由のひとつはシンボルとなるハコモノが見えないから、らしい。国道460号の整備は進んでいるが確かにシンボルとなる建物はない。その後に質問した自治体の適正規模については悩んでいたが、具体的な答えは得られなかった。
「原発反対の運動があったからこそ、活発に議論できる空間があったからこそ私という議員が生まれた」と山本は言った。原発の住民投票条例の制定を目指した95年の町議選挙では22名いた町議のうち、それまで1人だった女性議員が4名になった(女性議員割合18%)。それ以降、99年の6名(27%)。03年では定数は20名に減ったが6名の女性が当選した。(30%)。新潟県内の町村議員の女性割合は4.2%(05年)、全国でも4.9%(01年)しかない。女性進出の割合が飛びぬけて高い。原発の住民投票の影響はこんなところにも及んでいた。
脱原発を掲げた新しい風、山本亜希子は新潟市との合併後の新潟市市会議員増員選挙に臨んだ。合併に伴い人口比で割り振られた3議席を前町長、町議などで争う激しい選挙だった。当選したのは巻町最後の町長・田辺新、日本共産党の竹内文雄と山本亜希子の3名だった。山本亜希子は2007年の参議院選挙に社民党から出馬を表明している。
さて、合併に反対をしていた人はなぜ、反対だったのだろうか。次は合併反対運動をしていた数少ない町議の所へ向かった。「自治」の行く先はどうなったのだろう。
守りたかったもの
「必死で合併反対運動をしていました。住民自治を考えていましたから」と坂井恵子は電話口で力強く答えてくれた。坂井は2003年の町議選挙で初出馬、初当選し巻町の最後を町議として見届けた。
坂井の支持母体「青い海と緑の会」は1994年に「原発推進」の佐藤莞爾が再選を果たした町長選挙で「原発反対」を掲げ出馬した相坂功を支援するために生まれた。それまで反原発運動をしていた人より一世代若い女性中心のグループが中心だった。運動経験がない女性がほとんどだった。テーマソングを流す街宣車で声を張り上げるのも、ドライバー、ナビゲーターもすべて女性。若い感性を持つ彼女たちは非常に目立った。町長選挙、議会選挙、住民投票、リコール運動と町内を縦横無尽に駆けめぐった。
坂井の「合併反対」は徹底していた。初めての町議選から合併反対を訴えていた。町内をくまなく回った原発反対運動で培われたものは「すみずみまで目が届く範囲は3万くらいがちょうどいい」、「80万都市の新潟市になったってリコールに必要な署名が20万以上だよ」と話を聞きに行ったときの言葉にあらわれていた。
合併の住民投票のときにも街宣して回り、つじ立ちし、チラシの折り込みや手配りも精一杯やった。それも「住民自治」を守るためだった。悲しくも「人の結婚とは違って離婚はできませんよ」と発した声は空中に消えていった。メンバーのほとんどが合併に反対だった「青い海と緑の会」でも議論や盛り上がりに欠けた。原発を問う住民投票の時のように住民が動くこともなかった。合併推進派は区役所を巻に設置し合併建設計画で潤い、郡都・巻が再び華やかになることをアピールしていた。それに対し反対派の動きは微々たるものだった。原発反対運動で世論が原発推進から反対に劇的に変わったことを体験している坂井の落胆ぶりがどれほど大きいか、ため息交じりの話し方や時折暗くなる表情から感じられた。
原発の時には満席になった議会の傍聴席に座る人もまばらになった。原発推進派の議員が「ただのアンケートに過ぎない」と反発していた原発の住民投票結果には法的拘束力がない。国や県、東北電力は圧力をかけてきた。それでも、民意だけを後ろ盾に反原発は進んできた。坂井は言う「議員の一部ががんばってもダメなんだ。やっぱりみんなの力が必要だった。……原発は素手でも止めてやろうとみんな思っていたから」
日本中の注目を浴びて条例制定による住民投票を成功させ、坂井は巻町を全国に誇れる町だと思っていた。「これだけの運動ができたのだから、巻町がどんな町になるのか期待していた」と言う。原発の住民投票を約1ヶ月後に控えた『新潟日報』は町の将来に関して記事を載せている。
「原発計画が目の前にぶら下がっていたおかげでまちづくりの可能性に手を伸ばせなかった。自らの知恵を絞ることを怠ってきた――それが巻町の不幸だ」と指摘する立教大学の五十嵐暁郎教授(当時)の声を載せ、原発以外の街づくりに全国初の地ビールを作った「上原酒造」や巻町でワインの醸造販売、レストランなどを手がける「カーブドッチ」を紹介している。その記事は次の一文で締めくくられている。
「まちづくりとは何か、地域活性化とは何か――。八月四日の住民投票は、町民一人ひとりにそれを問いかけている」(『新潟日報』96年7月10日)。
原発の住民投票を成功させた直後、坂井の耳にも「これからが大変だ」という声が入っていたが「みんなの力があれば、どんな素晴らしい町になっていくか『わくわく』していた」と言う。しかし、まちづくりは進まなかった。笹口町長が強調した「住民参加のまちづくり」のための行った懇談会や座談会も型通りの質疑応答が目立ち流れを作り出せなかった(『新潟日報』00年1月20日 一部改)。町民が立ち上げた「巻ビジョン研究会」の設立や前出の山本亜希子が参加した旧庄屋保存会の活動なども町全体に広がることはなかった。原発反対派、賛成派の構図がそのまま笹口町長派と反笹口派とに二分し、事ある毎に対立する議会。原発で割れたままになった町は動けなかった。笹口町政の8年間に原発以後が見出せずにいた。
そんな状況を坂井は「足踏みをしていて前に出られなかった感じがする。だから合併に流れたのだと思う」と言った。
坂井は田辺町長が提出した「新潟市との合併の可否を問う住民投票条例」の採決に最後まで「迷った」と言う。そして今では賛成のために起立したことを後悔している。起立というよりは中腰に近かった。「気持ち的に『反対』だったような気がする」と坂井は言った。「住民投票はいいことだけれど…すっきりと結論が出なかった」。その言葉には町民がつくりあげた「住民投票」とは違った何かを感じ取っていたのかもしれない。
第五章 「郡都・巻」のプライド
合併の理由
巻町最後の町長、田辺新(たなべあらた)は足早にこちらに向かってきた。吹き抜け構造の地上7階、地下2階の近代的な新潟市役所で会うことができた。「お忙しい中、ご無理を言って申し訳ございません」と言うと「いえいえ」と笑顔で返してくれた。エレベーターで「眺めが良いほうがいいよね」とすでに点灯していた5階のボタンに加えて6階を押した。案内されたのは議場がある6階。ラウンジなのだろうか、廊下なのだろうか、判断がつかないまま並べて置かれていたソファーに座った。ガラス張りの窓が長く続き、等間隔に灰皿が置かれていた。「市街地を眼下に見渡せる」ほど景色には恵まれていなかったが曇り空でも光が十分差し込んでいて、ほど良い明るさといったところ。
1944年(昭和19年)生まれ。巻町農政課長を辞め2000年の町長選挙に出馬するも前職の笹口孝明に267票の僅差で敗れる。04年1月の町長選挙では「実行する会」の高島敦子に4200票の大差をつけて初当選。巻町長に就任するとすぐに合併懇談会を設ける。5月に市町村合併に関するアンケートを行い、8月8日に新潟市との合併に問う住民投票を行った。賛成8808票、反対5451票、投票率58,7%の結果を受けて新潟市との合併協議に入る。05年10月10日に巻町は新潟市と合併。その後、新潟市と巻町との合併に伴う市議増員選挙で2位以下に4700票差をつけてトップ当選をした。
委員会の合間を縫って会ってくれた田辺は合併後の住民の様子から話し始めた
「あのね。巻町の時には住民のみなさんが直接町長にものを申せば、大抵のことはできたんだよね。ところが……」
自主管理の住民投票から10年後に巻町はその歴史を閉じた。全国初の条例制定による住民投票を行い、リコール、直接請求が繰り返され「民主主義の学校」とも呼ばれるほどになった町は自ら新潟市との合併の道を選んだ。「なぜ巻町は合併を選んだのだろうか」という問いに答えてくれた旧巻町民は、まわりが新潟市になっておいていかれる。財政的にやっていけない。今なら区役所を巻に置ける。住所が新潟市になれる。特に理由はない。時代の流れ。合併特例債。財政規模が大きくなれば大きな仕事ができる。などと答えてくれた。そして「住民自治」について考えた人は極めて少なかった。
原発の住民投票のように町民の活発な動きが見えなかったのは白黒つけづらい。町民が関わる争点が見出しにくい。直接的な命の不安はない。そして論争は避けたい、争いはまっぴらだという10年間の反動があった。
合併を推し進めた当時の巻町の背景には「発展」を望む「郡都・巻」のプライドがあった。寂れる商店街。停滞していた地元経済。増える財政赤字。沈みつつあった巻町に危機感が広がっていった。特に町の有力者たちはその想いが強かったのだろう。少なくとも“今”、合併をすれば区役所が巻に設置され地域の中心地ではいれる。合併特例債で建設計画をつくり、実行もできる。停滞した8年間を払拭し、華やかだった「郡都・巻」の幻想の続きを見ようとしたのだ。そして、消極的とはいえ町民もそれにのった形となった。
望んだ「発展」
もし、本当に「郡都・巻」のプライドが高いのであれば、新潟市に囲まれても財政を再建しながら凛と立ち続けるような自立を選べたかもしれない。もちろん「住民自治」の観点からその孤高の姿勢を期待してしまう。しかし、そうはならなかった。だからといって「実行する会」や原発反対派が将来のビジョンを提示できなかったことを、批判できるだろうか。次々に政策やうまみを掲げて政治の波に乗ることをしなかったことにむしろ誠実性を感じる。運動が自己目的化しなかったのだ。ドミノ式に次の運動が出るまでの時間がなかったのかもしれない。
「住民自治」を捨て自分たちのまちづくり意識を育てられなかった巻町への社会学者・中澤秀雄の指摘は手厳しい。中澤はこの十年間に何度も巻町を訪れフィールドワークを行っている。
まちづくりとは巨大資本投下だという成長主義の先入観・呪縛から抜け出せず、自ら一歩を踏み出すことができなかった町民も、内発的発展を実現できなかったことへの責任は免れないと私は考えている。(中澤秀雄『住民投票運動とローカルレジーム』)
確かにそのとおりだと思う。ぐうの音もでない。「合併」で巻が目指したものは西蒲原の拠点としての役割を継続することだった。そのために、「郡都・巻」の維持のために合併特例債を利用した「発展」が不可欠だった。
原発のときにも「郡都・巻」は「発展」を望んでいた。街中でこんな話を聞いた。「不景気になると原発があったほうが良かった。地震や原発事故があるとやっぱり原発がなくてよかった。という声が聞こえてきますよね」。巻町民の中に原発は付いてまわっていた。原発からは脱却できなかったようだ。そして時間を超え、原発で「発展」を望んだ流れは合併のときに再び顔を出した。中澤の指摘のように同じ構図が繰り返されている。
とはいえ、「郡都・巻」のプライドがなければ日本初の住民投票すら行われなかったのも確かだろう。政治的思惑や経済的駆け引きが複雑に絡まりあって作り出された歴史と風土のおかげで残っていた町有地。原発住民投票運動でも「郡都・巻」は付いて回った。原発の住民投票運動をやっていた当時の巻町民は外部からの多くの支援を断っている。政党、党派、反対派から離れ自分たちのことは自分たちで決める。干渉を拒んだその姿勢は「巻モンロー主義」だと批判された(桑原正史、桑原三恵『巻原発・住民投票への軌跡』)。この姿勢があったからこそ町民の信頼を得られたのだろう。加えて住民投票にもその考えは一貫している。「巻町の風土と歴史的事情のなかで行われた住民投票であって、すぐ一般化できるような経験ではない」と住民投票運動をした人は考えていた(中澤秀雄 前掲書)。
「発展」から脱却できなかったが、全国初の住民投票運動は、かぎ括弧付きの“発展”を望んだ「郡都・巻」だからこそ成功できたということは忘れずにいたい。
巻町民が作り上げてきた住民投票は議会と民意の「ねじれ」から「議会制民主主義を補完する」ものとして生まれた。それとは出自が全く異なる住民投票から何が得られるか。
「10年後、20年後、あるいは50年後に合併してよかったといわれるようにしなくてはらないと思うんだよね」と田辺新は話していた。
安易な未来への丸投げはしたくないが旧態依然の町にもどり、合併を選択した町に桑原は言っていた。「……一見、50歩進んだことをすごいと思った研究者からは50歩から48歩まで戻るから、すっかり元に戻っているように見える。でも、よくみると2歩違う」と。20年以上コツコツと日の当たらない原発反対運動をやってきた経験から生まれた言葉だろう。
もちろん過度の自治意識は禁物だが「郡都・巻」という霞のようなプライドを捨て、その先に自分で決めている自覚が根付くことを願ってやまない(もちろん自分も自覚的でありたい)。また、自覚を確かめるために区制度になっても多くの権限が委譲されることを願う。古くからの結びつきが強い巻町で地縁、血縁や西蒲選挙を超えて投票に向かった10年は終わった。傷を癒すために時代の流れに身をゆだねて、町はようやく落ち着きをとり戻し始めた。失ったものは大きいと思うがその先に何かあるのか。見守っていきたいと思う。巻町の最後は朝刊2面の最下段にひっそりと記されていた。
<新市>新潟市(新潟県)=新潟市と巻町が合併 (05年10月10日『朝日新聞』 全国版)
おわりに
パソコンの液晶モニターには新潟市との合併を問う住民投票の結果が瞬いている。それをみて「故郷がなくなった」と特別な理由があったわけでもないが未練たらたらで悔やんでいたのは二年半前の自分だった。
巻を離れてまもなく10年になるが今でもなぜか寂しい想いがする。海や山や田園が広がる風景や寂れていく町がおそらく急減に変わることはないのだが、なぜか受け入れられなかった。巻町の二度の住民投票を調べようと思ったのは06年の夏が終わった頃だった。思えば、失われた故郷への雪辱戦を試みただけなのかもしれない。
巻町が熱く燃えていた時期の記憶は断片的にしか残っていない。「青い海と緑の会」のテーマソングや「原発は住民投票で」とけたたましく走っていた街宣車。TV番組で報道されていたことや一部のチラシの印象くらいだろう。意外と少ない。個別訪問を経験した記憶もない。おそらくそれは、外からみればはっきりとした原発推進派の家だったからだろう。だから無風に近かった。そして、原発の住民投票が終わって「決着が付いた」と思って自分も時代と共に流れていっていた。
巻に関してはいくつかの出版物があり当時の様子を思い描くことは難しくなかった。特に中澤秀雄氏の『住民投票運動とローカルレジーム』には合併の住民投票までが細かく分析されていて、自分はただその後を追っていただけのような気がする。書き上げてみたものの何か独自性が見出されたのか、内容があるのか、正直自分には自信がない。それでもうすうすは感づいていた住民投票の大きな落差に戸惑いながら、なんとかここまでたどりつけたのは故郷に良い思いでがたくさんあったからだと思う。
今回、取材に快く応じてくださった旧巻町の方々はもちろん、インタビュー以外にも『あっきー通信』を提供してくださった山本亜希子氏、執筆中の原稿を資料として渡してくださった桑原正史氏と多くの資料と情報を提供してくれた叔父の真田徳之助(原発推進派、町有地売却の原告のひとり)に心より感謝いたします。地元の方と接する機会が持てたのは何よりも代えがたい経験でした。なお、本文中、敬称は一部を除いて略させていただきました。
山下 祐司
参考文献
青い海と緑の会/編『住民投票行きましょう』
NHK「東海村臨界事故」取材班『朽ちていった命―被曝治療83日間の記録』 新潮文庫
伊藤守、渡辺登、松井克浩、杉原名緒子『デモクラシ-・リフレクション巻町住民投票の社会学』リベルタ出版
今井一『住民投票』岩波新書
桑原正史、桑原三恵『巻原発・住民投票への軌跡』七つ森書館
小林伸雄『ドキュメント 巻町に原発が来た』朝日新聞社
佐々木信夫『市町村合併』ちくま新書
菅沼栄一郎『村が消えた―平成大合併とは何だったのか』祥伝社新書
武田徹『「核」論―鉄腕アトムと原発事故のあいだ』中公文庫
中澤秀雄『住民投票運動とローカルレジーム』ハ-ベスト社
新潟日報報道部『原発を拒んだ町―巻町の民意を追う』岩波書店
巻町編『巻町史 通史編 下巻』巻町
巻町編『原子力発電所建設に関する町民シンポジウム報告書』巻町
巻町閉町記念誌編集委員会編『光あふれる大地から―新潟県巻町閉町記念誌―』巻町


コメント
たった1期の町政を延命させるための猿芝居だったというのは新鮮でした。衆愚です。国策としての原子力推進は、市町村合併が後先になっておれば、「でも電気は必要だし(わたしの庭にはお金はおりてこないわ)」という逆のNIMBYで住民投票で通過したかもしれない。移り気な民意とちがい発電所は40年単位50年単位ですから。
投稿者: pongchang | 2007年04月24日 05:43