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   <title>WORKs 2006</title>
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   <subtitle>2006年度ジャーナリストコース受講者の作品</subtitle>
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   <title>大学　——「東京海洋大学　海洋科学部　海洋政策文化学科」を問う——</title>
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   <published>2007-02-27T08:46:10Z</published>
   <updated>2007-02-28T02:09:18Z</updated>
   
   <summary>白本 俊樹 　2004年4月、東京海洋大学、海洋科学部、海洋政策文化学科の一期生...</summary>
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      <![CDATA[<div class="entry-bodyNAME">白本 俊樹</div>

　2004年4月、東京海洋大学、海洋科学部、海洋政策文化学科の一期生として東京海洋大学、品川キャンパスに潜入した。もっとも、当初は別の大学に潜入するつもりだった。だが、センター試験に失敗……。これは、潜入要員としては致命的なミスだったはずだ。ところがこのミスが幸いする。潜入するには立地条件も良く、国立大学で経費も安く抑えられる東京海洋大学を発見したのだ。]]>
      <![CDATA[<div class="entry-moreNAME">白本 俊樹</div>

<strong>潜入</strong>

　潜入に成功した。
　ビルが立ち並び、新幹線も停車する品川駅から徒歩10分、高浜運河を渡った先に人知れず大学が居る。正門を抜け、セミクジラの全身骨格標本を通り過ぎ、左に目を向けると開発が続く品川には似つかわしくない広大なグランドがぽっかりと広がっている。その横を首都高速羽田線が沿うように走っていて、グランドは人々から丸見えだ。校舎は国立大学らしく、良く言えば趣があり、悪く言えばボロボロ。メインストリートを食堂まで歩く頃には、至る所に猫が潜んでいることに気が付く。以前まではメインストリートから東京タワーを目にすることができた。しかし、現在では高層マンションが乱立し、タワーはその陰に隠れてしまっている。敷地の外に目を向けさえしなければ、ここが都心であり、しかも六本木ヒルズと同じ港区に存在するということを忘れる。ここが今回の調査地だ。
　
　2004年4月、東京海洋大学、海洋科学部、海洋政策文化学科の一期生として東京海洋大学、品川キャンパスに潜入した。もっとも、当初は別の大学に潜入するつもりだった。だが、センター試験に失敗……。これは、潜入要員としては致命的なミスだったはずだ。ところがこのミスが幸いする。潜入するには立地条件も良く、国立大学で経費も安く抑えられる東京海洋大学を発見したのだ。なにより「東京海洋大学」という名称が良い。誰しもが一度はそこに何らかの夢を感じる「海」。これを東京という日本で最も最先端の都市で学ぶことができるというイメージがある。また、大学が数隻の船を所有している点も見逃せない。これは他の大学では滅多にできない経験ができることを意味し、潜入意欲をかき立てるには十分。これが、かつての名称「東京水産大学　水産学部　資源管理学科」であったならば、潜入することはなかっただろう。


<strong>プロローグ</strong>

　大学とはいったい何なのだろう。東京大学だけが大学なのか。それとも学校教育法、第五章　第五十二条による大学の定義が大学なのか。同法によれば「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」とのことだ。しかしこれに適合するものが社会的に受け入れられた大学なのだろうか。
　2007年度には「大学全入時代」を向かえ、大学に行きたい者であれば誰でも入学することができると言われるようになった。現在の日本において、大学の意義はある意味では大きくなり、ある意味では薄れてきた部分があるように感じる。なぜならば「少子化」「大学全入時代」「国立大学独立行政法人化」などの要因が重なり、各大学は生き残りをかけて必至にならざるを得ない時代でもあるからだ。そのような時代において、それぞれの大学は試行錯誤し、工夫の一つとして多種多様な学部や学科を設立してきた。一見、学部や学科の名称を聞いただけではそこでどのような学問が教授されているのか見当が付かないものも増えた。また、技術者教育プログラムの審査や認定を行い、国際的な水準の保証を行うJABEE制度の導入の他、執拗に「産学連携」を謳い、それらを求める大学も増えた。このように、各大学は創意工夫を施し、社会的知名度を上げ、学生の質の向上を目指し、学生数の確保を始めた。では、それらが実際に大学に所属する学生にとって、どのような影響があるのだろうか。以下はそれらを再考するために、私がその一例として東京海洋大学、海洋科学部、海洋政策文化学科に潜入、約3年近い年月をかけて調査したものである。


<strong>東京海洋大学とは</strong>

　調査報告をするにあたり、まずは東京海洋大学とその基である二つの大学についておさらいしておこう。私が潜入する数ヶ月前の2003年10月、東京海洋大学は東京水産大学と東京商船大学が統合されて誕生した。その際に設置された学部は海洋工学部と海洋科学部。学科は海洋工学部に属するものが海事システム工学科、海洋電子機械工学科、流通情報工学科であり、海洋科学部は海洋環境学科、海洋生物資源学科、食品生産科学科（平成18年度より改称）、そして海洋政策文化学科となる。
　東京水産大学は1888年に設立された大日本水産会水産伝習所、東京商船大学は1875年に私立三菱商船学校として設立された学校が基になっている。しかし、統合された現在でもほとんどの場合、学生にとっては統合とは名ばかりで、東京商船大学のあった越中島キャンパスは海洋工学部、東京水産大学のあった品川キャンパスは海洋科学部と明確な棲み分けがなされている。目に見える統合後の変化を挙げるとすれば、一部の先生が両キャンパスを行き来することや、部活動が統合されただけである。大学祭もそれまで通りに両キャンパスで行われている。これが統合後の現状だ。ちなみに、海洋科学部の私も海洋工学部の講義を受けることができるようだが、実はいまだ越中島キャンパスに足を踏み入れたことすらない。
　両校とも、創立約120年の伝統校である。それだけに著名人もこの両大学から輩出している。鈴木善幸−第70代内閣総理大臣（水産講習所卒業）、中島董一郎−中島商店（現キユーピー）設立者（水産講習所卒業）、星野哲郎−作詞家、日本作詞家協会の会長（清水高等商船学校卒業）などがいる。また、元連合赤軍中央委員会書記長、最高裁で上告棄却、死刑確定し、現在再審請求中の坂口弘は東京水産大学中退である。坂口弘に関連して、品川キャンパスには不思議な地下通路が存在する。その地下通路は敷地内にある学生寮（朋鷹寮）から各建物、正門付近までとありとあらゆるところに繋がっていて出入りすることができるのだ。この地下通路は、学生運動が盛んだった時代にいつでも建物内から逃げることができるようにするために作られたという話はよく耳にする。もっとも、危険なので今では地下通路の出入り口には鍵が掛けられ、許可なく入ることができないようになっている。
　

<strong>海洋政策文化学科</strong>

　さて、今回潜入した学科は「海洋政策文化学科」。この学科の一学年あたりの学生数は40名前後。潜入から数ヶ月が経過したころ、早くもこの大学の学生達のアイデンティティーを問う事態にしばしば直面した。「東京海洋大学」という新名称にその原因が挙げられる。

　「○○君はどこの大学に潜入したの？」
　「東京海洋大学だよ」
　「へぇ〜……そこの学生は船長になるの？それとも漁師？」

　おそらく「東京海洋大学」という名を聞いて「海洋」から必至に連想したのだろう。確かに、あながち間違っているわけではない。大学を卒業した後に、田舎に戻って漁師を継ぐ者、海技士免許を取得して船会社に就職する者もいる。そもそも、海洋工学部は流通情報工学科を除いて船舶職員を養成するコースだ。海洋科学部でも学部の4年間を経た後、水産専攻科に進み、所定のカリキュラムの履修が済んでいる者であれば三級海技士の国家試験のうち筆記試験を免除される。しかしながら、とりわけ海洋科学部に所属している者からすれば、船乗りや漁師になる者は少数派である。ということで「東京海洋大学」を名乗ったからにはさらに説明を加えなければならない。

　「そういう人もいるけど、ほとんどは違うよ」
　「じゃあ、何を学んでいるの？」
　「海洋環境学科は環境を学んだり、海洋生物資源学科は海洋生物の生態系、食品生産科学科は名前の通り食品だよ」

　そう、ここまでは良いのだ。なにせ、学科の名称から学んでいることが想像しやすい。ところが「海洋政策文化学科」の学生達にとって問題なのはこのあと。

　「○○君はどこの学科なの？」
　「海洋政策文化学科！」
　「そこは何を学ぶの？」
　「う〜ん……」

　調査のために潜入した私自身ですらこの答えに詰まってしまう。この学科に所属する他の学生達も同様の様子。他の学科の学生からも何を学んでいるか聞かれてしまうのである。
　「海洋政策文化学科」という一見あいまいな名称が、そこに所属する学生達の大学での立ち位置をもあいまいにしてしまっている感が否めない。学科の名称通り、海にまつわる政策や文化を学ぶところと言ってもそれだけで即理解できる人は少ないだろう。海洋工学部はわからないが、海洋科学部には「おさかなさん大学」と自ら言う人もいる。そうしてまた最後に触れるが「おさかなさん大学」なんて言っていたら、ついに多彩な知識とその強烈なイメージを持ち合わせた「さかなクン」が客員助教授に就任した。


<strong>「海洋政策文化学科」に所属するとある学生</strong>

　では「海洋政策文化学科」に所属するある学生の一人を見てみよう。彼は私と同じ2004年４月にこの学科に入学した。彼は地方から上京し、朋鷹寮に入寮、部活はカッター部に所属した。カッターとは簡単に説明すると映画『タイタニック』でタイタニックが沈みゆく中、乗客が避難した救命艇のことである。このカッターを14名で漕ぎ、規定の距離のタイムを競うのだ。今でも海上自衛隊や海上保安庁でも訓練の一つとして取り入れられている。私もこのカッター部の試乗会に潜入したことがある。重いオールを全員で声を掛けて合わせながら進むカッターは、見た目以上に相当ハードな競技だ。
　現在、寮生でありカッター部に所属、なおかつ日本学生支援機構から奨学金を借りつつアルバイトも行う彼が、何を求めてこの大学のこの学科に入学したのか探ってみよう。

私「この大学を選んだ理由は？」
彼「元々理系気質で高校では理系を選択、理科は生物を選択したんだ。とりあえず生物系のことを学びたかった。人を相手にすることより、生き物を相手にしたかったから」
私「何か生物の研究をしたい、という思いが高校生のときからあったとか？」
彼「そうそう。それでどうせなら大学から専門的なことをやってたほうが良いと思って、漠然と生物をやるよりは絞って絞って……海が好きだったのもあってここに来たって感じ」
私「生物系を学びたかったのなら他の学科の方が良かったんじゃないの？」
彼「うん。学科はね……。センター試験で失敗してここの学科しかだめだったから……じゃあここでいいかって」
私「他の大学という選択肢もあったんじゃない？」
彼「高校3年生の夏にいっぺん三重大学の推薦入試を受けに行ったよ」
私「推薦……」
彼「うん。落ちたけど……」
私「同じ海洋系か生物系を受けた？」
彼「そう。三重も生物資源学科っていうとこ。そこは微生物をやるとこだったんだけど。そこはね」
私「そうか…。私立は受験しなかったの？」
彼「一校も受けなかった。金がないし、行く気がなかった。浪人するつもりもなかったよ。親は浪人しても良いって言っていたけど……うち母子家庭だから……まぁ迷惑掛けたくなかったし、浪人も迷惑掛けるし、私立も迷惑かける。だから受かるところに入ろうと……」
私「だから国立を選んだのか」
彼「もう、ここしかないぐらいの選択だった」

　彼もまたセンター試験で失敗、生物系を学びたいが他の学科を受けるにはそれ相応のリスクがあった。そこで「海洋政策文化学科」に出願、無事合格したのだ。生物を学びたいと進学してきた彼だが「海洋政策文化学科」は名前から連想できるように文系色も持っている。
　大学のホームページによると「海洋政策文化学科」に対して以下のように述べている。

　海と人との共生関係が叫ばれてから長い年月がたっています。しかし、地球レベルでの海洋汚染や漁獲高はむしろ悪化の傾向にあり、また、それにともなって海洋利用をめぐる国際的・国内的な問題も増加しています。もちろん私たちは、私たちの生命と文明を生み出し、育んでくれた海洋とのつながりを断ち切って生きることはできせん。21世紀にあって、海と人との共生関係に根ざした海洋利用と管理は、ぜひとも達成しなければならない人類的な課題なのです。
　本学科は、こうした問題意識を背景として、総合的な教育・研究を行うまったく新しい学科です。グローバルでしかもローカルな視点に立った政策提言など、新たな海洋産業・海洋文化の発展を理論と実践の両面から追求します。・・・（後略）

　キーワードは「海と人との共生」であり生物とは言い難い。生物を専門に学びたい彼にとっては不満のあるカリキュラムがこの学科には用意されていた。少々厳しいことを言うのであれば、高校時代の勉強が足りなかったのだろうと言えるが、それは彼自身も十分感じているだろうし、自分のやりたいこと、学びたいことをその時にできる環境で行おうとする彼の気持ちを無視することはできないだろう。実際に、彼は入学した後も所属する学科を変えることも考えたのだが、厳しい条件が設定されていたためにこれも諦めなければならなかった。そのために「海洋政策文化学科」でありながら他の学科の授業を、卒業するために必要な単位数に含まれる訳でもないのに所定の数（4単位）よりもはるかに上回る数を受けていた。そうして、大学4年生の研究室は他の学科の先生に所属することが決まった。そんな彼の夢はなんだろうか。

私「夢はある？」
彼「今のところ二通りあるんだよ。一つは専攻科に行って海運、商船関係に就職。もう一つは研究職に就くこと。一応、研究職の候補はでかい！」
私「教えてよ。その候補…」
彼「ちょっとでかいけど、JAMSTEC……。一応、昔の名前が海洋科学技術センター。当時は国立だったんだけどね」
私「独立行政法人化の流れかぁ」
彼「そうだなぁ。法人化したみたい。それで、JAMSTECっていう名前になった。やっていることは国営の研究機関と同じ。一応、日本で一番でかい海洋研究のところ」
私「そこに入って？」
彼「そこがいいなと思ってる。まぁ、ようはそういうことがやりたい。船に乗れる技術、資格を持っている方がただの院あがりより当然良くなってくるわけじゃん。あと、単純に専攻科に行きたいのはこの大学じゃないと行けないから」

　
　夢の話をするときは、それまで淡々としゃべっていた口調から一転、少し気恥ずかしそうに話してくれた。ここに出てくるJAMSTECとは海洋研究開発機構のことで、有人潜水船の「しんかい6500」や「かいこう7000」などを所有、運用もしている日本の海洋研究機関のことである。専攻科とは水産専攻科のことで先に書いた通り、海洋科学部を卒業した後1年間かけて行う船舶職員養成コースのこと。彼はそこに進学し、その後は大学院の進学を考えている。彼は続けて言う。

彼「経験として、っていう意味もでかいけど、ただJAMSTECに行きたいだけだったら院だけ行けばいいし。そのままでも入れる訳だし……。経験もあるし、でかいし、もう専攻科希望は学部3年生から1ヶ月航海に出たりするわけだし。他の大学では絶対やらないことをやるわけだからでかいよ。土産話ひとつがまわりにとっては珍しいことだから……」

　彼は、ただJAMSTECに就職できれば良いと考えているのではなく、東京海洋大学でしか得ることのできない経験を専攻科に進学して積み、その経験を後の研究に生かそうと考えているのである。
　また、付け加えておくと彼は専攻科や大学院に進学した際に忙しくなることや、いざ何かまとまったお金が必要になった場合のことを考慮し、借りている奨学金にはほとんど手をつけていない。ほとんど全ての生活費の他に授業料もアルバイトで稼いで生活を送っている。国立大学であるために、授業料は免除申請が行うことができる。授業料は半期ごと、つまり1年間に2回支払うのだが、その度に審査を行っている。その審査いかんによって、全額免除や半額免除となる。審査には親の年収や経済状況の他に大学での成績が加味されるので毎回のテストは必至なのだ。


<strong>曖昧な学科を考える</strong>

　彼は「政策文化学科」に不満を持ちつつも、その原因が己にあることを自覚しているので次への行動へとつながり、やりたいことをするために今できることを行って夢を現実にしようとしている。ところが、他の「政策文化学科」の学生の中にはこの学科をいわゆる理系の学科と見なして入学した者もいたり、単に海が好きだから、釣りが好きだから、魚が好きだからという理由で入学してきた者も多いと感じる。好きから始まる学問、触れてみて興味を持つこともあると思うので、これらの否定はしない。私自身も似たような理由でここを潜入場所に選んだのだから……。もっとも、世界史を履修しないような受験教育を受けて来た高校生に、将来のことをきちんと見据えて大学を選ぶ余裕がどこまであるのか疑問だが、この問題は割愛する。
　では、改めて「海洋政策文化学科」を見てみる。
　統合する前の東京水産大学時代、5つの学科が水産学部に存在していた。海洋環境学科、海洋生産学科、資源育成学科、資源管理学科、食品生産学科の5つ。このうち、「海洋政策文化学科」は資源管理学科が基となっている。資源管理学科とは水産資源の管理や食品の流通経路を学ぶ学科であり、この学科に所属していた先生やシステムを基に、統合後「海洋科学部　海洋政策文化学科」に改編されたのである。わかりやすくするために資源管理についてもう少し説明すると、例えばTAC（Total Allowable Catch）制度が挙げられる。この制度はサンマやスケトウダラ、マアジなどに漁獲可能量を設定している。なぜ、漁獲可能量が設定されているかというと、近代、乱獲によって水産資源の漁獲量が減少している。そのため、水産資源の枯渇を防ぎ、持続的可能な漁獲を続けていくため上に挙げた魚種などを漁具の制限や、漁獲可能日数などを定めるのである。このような制度を設定するためには様々な調査が必要であり、それらを研究するのが資源管理の一つにあるのである。
　このような研究に加え、先に挙げた大学のホームページにあるよう「海と人との共生」を重要キーワードとして新たに作られたのが「海洋政策文化学科」なのである。資源管理に加えて、漁村やマリンスポーツを利用した町作り、国際海洋法の他、海洋にまつわる文化や文学を手広く研究するのがこの学科なのだ。
　しかし、「海と人との共生」が私自身も含めて、この学科のキーワードであるということを自覚している学生は少なかった。なぜ、このような事態に陥っているのか分析してみよう。
　まずは、統合後の一期生なのは学生だけでないということが考えられる。授業を行う先生方も東京海洋大学の一期生なのだ。「海洋政策文化学科」に限って言えば、統合後、先生方の再編があった。もともと海と直接関連しているとは言い難い、外国語や科学技術、言語、哲学、外国文化、生命倫理等のいわゆる一般教養とここでは見なされていた学問を教えていた先生達が「海洋政策文化学科」の先生として組み込まれた。彼ら一般教養の先生方に割り当てられている部屋は品川キャンパスの5号館という建物に集中する。この5号館は旧名を共通棟と言い、もとは品川キャンパスにあった建物はそれぞれに環境棟、食品棟、資源管理棟、育成棟などと呼ばれていたのだ。それが、改められて各建物には数字が付けられたのである。現在でも東京水産大学時代に入学した学生達はしばしば旧名称を使用している。
　さて、この5号館の先生達、元々は建物の旧名称が示す通り共通講座の先生達だった。つまり、東京水産大学でありながらそこを拠点とする先生達の多くは、専門が水産ではないのである。そのため、学生達は学部の4年生になると各先生（研究室）に配属されるのだが、基本的に共通講座の先生達は学生を受け持つことがあまりなかったのだ。4年生を迎える前までの3年間を水産大学で学んできて、水産に疲れた者、他のことに興味を持った者が自ら共通講座の先生の研究室に所属することがあったくらいなのである。
　そうして新たに「海洋政策文化学科」に組み込まれた共通講座の先生達にも多少の混乱はあったと推測できる。「海洋政策文化学科」の先生としてこの学科の学生達にそれまでの資源管理学科の先生達と一緒に統一したメッセージを送ることは難しいことだろう。「海洋政策文化学科」の学生達にとっては資源管理学科から派生した授業も、もともとは共通講座の先生達が行う授業も「海洋政策文化学科」の授業なのだ。それまでのように共通講座の授業として受ける意識ではないのだろう。
　また、ここでエピソードを一つ挙げたい。海洋科学部に入学すると、１年生の時に臨海実習がある。食品生産科学科を除き、千葉の館山にある実習場に行く。その際に、東京水産大学時代ではカッター実習、遠泳実習を行っていたのだ。カッターとは前述のカッター部で行われているものである。遠泳は、実際に海でグループを組みながら泳ぐのである。もちろん、中には長い距離を泳げない者もいる。そのような者のために、事前に学内で泳力判定、泳力基礎訓練が行われるのだ。そこでは、カッター実習ではカッター部の上級生、泳力訓練では水泳部の上級生達が中心となって1年生を訓練するのである。
　ところが「海洋政策文化学科」の一期生は違った。遠泳が廃止しになり、代わりにスノーケリングや釣りをすることになったのだ。私が潜入した代ではスノーケリングで磯観察を行ったり、堤防から投げ釣りをしてキスなどを釣り上げ、それらをその日の夜にみんなでさばいて食べた。まず軽い火種になったのは投げ釣り。堤防から投げ釣りを行っていたのだが、なんとその先の見えるところで他の学科がカッター実習や遠泳の本番のための練習を行っていたのだ。必至になって遠泳練習をしている彼らからみれば、楽しそうに投げ釣りを行っている私達。無論、どちらも実習の一環であることに変わりはない。しかし、彼らから見れば、私達が楽しそうに釣りをしているところを、妬む思いで見ていた者もいるかもしれない。もっとも、この鉢合わせは事前に先生が私達が釣りをするすぐ目の前でそのような訓練が行われていることを知らなかった故の結果であり、本来は避けたかったようだ。
　では、なぜ私達の学科の遠泳などがなくなったのかというと、それは先生達が「海洋政策文化学科」の趣旨に照らし合わせて、遠泳を行うことよりもスノーケリングや釣り、その他に漁協や定置網見学をすることの方が有意義だと判断したからだろう。これらが、ひと揉めふた揉め起こしたようだ。学科の外からの他にも、大学が所有する船舶職員の中には「遠泳もやらないぬるい奴らに船に乗る資格はない。」ということを言う者もいたそうだ。
　当時、そのようなエピソードがあり、他の学科から「ぬるい学科」と揶揄されることもあった。そうして、ますますあいまいな学科になっていき「海と人との共生」というキーワードが根付かなかったのである。ただ、私が潜入して間もなく3年になるが、このような対立が原因となって「海洋政策文化学科」の学生達が不利益を被るような大きなトラブルが起きたと聞いたことがないので、とりあえずは安心できるとは言えそうだ。
　ここまで執拗に何度も「海洋政策文化学科」という語を書いてしまったが、何度も読んでいるうちに何か感じることはないだろうか。「海洋政策文化・学科」「海洋・政策文化学科」「海洋政策・文化学科」「海洋・政策・文化学科」等々、区切ったりはしていないだろうか。言ってしまえば「海洋政策文化学」という学問は存在しないのである。いや、ここから新しい学問が登場するのだ、と言うのならそれも否定できないし、何も学問名を学科名称にする必要がないと言われればそれもまた然り。しかしながら、この「海洋政策文化学科」という名称は改めて見ると、長たらしくてどこかしまりがないようにも感じる。実はこの名称に関しても少々揉めているようだ。
　ある3人の先生の発言の一部を見てみよう。

A先生「海洋政策文化学なんていう学問はないのだから、私は『海洋政策・文化学科』とした方が良いと思う」

B先生「学科名に『海洋』が付く必要なんてないんだよ。その方がすっきりする」

C先生「『海洋』をはずせなんて言う人がいるけどさ、ここは海洋大学なのだから『海洋』をはずしてどうするんだ。海洋のことを学ぶから意味があるのだから」

　どの先生の発言にも一理ある、と納得している場合ではなく、学生の知らないところで学生のアイデンティティーを問うような議論が挙がっていることに驚いた。
　実は、海洋科学部は元々すべての学科の頭に「海洋」が付いていた。それが2006年より「海洋食品科学科」が「食品生産科学科」に改称されたことで「海洋」での統一が解除されたのである。なぜ「海洋食品科学科」から「海洋」が外されたのだろう。おそらく「海洋」を付けることで、海に関わる食品だけを扱うというイメージを払拭したかったのではないかと考えている。加えて、もともと東京水産大学時代は海洋が付いていなかったことや、食品業界での実績が「海洋」を外すことに抵抗がなかったのではないか。つまり、実績のない、あたらしい学科である「海洋政策文化学科」は「海洋」を付けることで東京海洋大学に繋がっていられる、と考えられている節があるのだろう。
　あいまいな学科と言われ、何をしているかわからないと言われてしまう「海洋政策文化学科」。確かにマクロな視点から見ればその通りだ。だが、言い換えれば幅広い分野をカバーし、他の学科のような専門分野と比較すると「海と人との共生」を考えるために広い視野が必要なのである。それ故、各学生達の得意分野も多種多様で例えてみればモザイク状だ。私は水産という分野を生かしていくために、専門である「戦術」をある程度知りつつ、それらを効率よく使うための「戦略」を考えるという意味において、このような学科は必要だと考えている。幸いにして上記のような問題があるものの、「海洋政策文化学科」の先生方の印象は他の学科の先生方に比べ、仲が良いという印象を持つ学生が多い。まるで、こどもが親の仲の良さを微笑ましく感じるようなものである。熱意ある先生もいることなので、今後の「海洋政策文化学科」の発展を願うばかりだ。私も潜入員としてここの学生になったのだが、今では何らかの形で多少なりとも貢献できるよう志を持っている次第である。


<strong>広報活動</strong>

　東京海洋大学は越中島キャンパスでは船関係が主に、品川キャンパスでは水産関係を主とした、いずれも水圏を中心とした学問、研究を行う総合大学とは違う特殊な大学であると言える。それ故に大学外部との交流も限られた分野になりがちなのではないかと感じている。通常の学生生活を送っている者には、外部との交流をするような機会があまりないのである。誤解を招かないように述べておくと、私が言っていることは部活動やサークルなどを指しているのではない。もっとも、東京海洋大学には部活・サークルの種類は少ないのでこれに関連した交流も少ないとは言えそうだが……。
　そのような中、なんと「さかなクン」が東京海洋大学の客員助教授として迎えられたのである。まず、「さかなクン」について簡単に説明しよう。「さかなクン」が知られるようになったのは、テレビ東京の「ＴＶチャンピオン」という番組に彼が高校3年生の時に出場したことから始まる。「第3回魚通選手権」に初出場で準優勝。その後、同番組の「第4回魚通選手権」以降、5連覇を果たし、魚に関するあらゆる知識に精通している上に、頭に大きなハコフグのぬいぐるみをかぶるその特徴あるキャラクターが定着していった。そうして、2001年にTBSテレビの「どうぶつ奇想天外！」に出演者・解説者として登場するに至ったのである。（『さかなクンオフィシャルホームページ』参考＜http://www.sakanakun.com/＞）現在ではテレビ、新聞、ラジオ等々に広く出演する他、イラストレーターとしての活動も行って本を出版するなどしており、水産庁水産政策審議会特別委員も務めている。その「さかなクンが」2006年10月10日に客員助教授に就任したのである。
　ところが、今のところ「さかなクン」の就任に対する学生の反応は冷静だ。「さかなクン」の肩書きは「お魚らいふコーディネーター」とのことだが、彼の頭にハコフグのぬいぐるみをかぶっているなどの特徴あるキャラクターや、どうしてもメディアへの露出が多いために他のタレントと同じように見られがちなのである。「さかなクン」の持つ、専門家も驚く多彩な知識やイラストレーターとしての実力に目が向けられないのだ。これらは、今後「さかなクン」が学生達に講義を行うような場を多く持っていけば解消されると思うが、多忙な彼に東京海洋大学の客員教授としての仕事がどこまでできるか疑問があるのも事実である。だが、私は彼のような多岐に渡った活動を行っている者を大学が受け入れたことは大きな変化だと感じている。世界でも有数の水産国家でありながらその意識に欠けると言われる日本人。それらの人々に対して、大人から子供まで、幅広く受け入れられた彼の活動の意味するところは大きいと考えるのである。つまり、大学側は彼を入り口として様々な水産問題を伝えていこうとしているのではないだろうか。再び「海洋政策文化学科」を出すと、この学科はこういった広報活動や水産に関する教育活動を、求められているのではないかとも思うのだ。これも、大学の生き残りをかけた思い切った戦術の一つなのだろう。
　一方、他の大学にも幅を広げ、広報活動としての観点から別の提言をしておこう。その一つがホームページ等のネット上のコンテンツである。今や、何か調べ物をするときまずはインターネットを利用して検索する人が多くなってきている。大学を受験する者であれば一度は大学のホームページを見るのではないか。無論、このような潮流の中、ホームページを持たない大学はほとんどない。だが、より具体的な話になるとどうだろうか。各先生や研究ごとのコンテンツはどうだろう。一つの大学であってもその中で行われている研究や学問は様々である。それは「おさかなさん大学」とも言われる東京海洋大学を見ただけでもわかると思う。そのような、各研究や先生ごとの専門分野に対するインターネット上のコンテンツが充実しているとは言い難いと感じるのである。
　これから門戸を叩こうとする者にとっても、より具体的な研究内容やそこでの教員や学生の雰囲気を知ることは重要なことだ。だが、これらを知る機会というのはまだまだ少ないように感じるのである。単に大学の公式ホームページだけでなく、例えば個々の教員や学生のブログまでも含めてもっと活発にインターネットが利用されてもいいのではないかという提言を付け加えておくことにする。


<strong>総括</strong>

　本報告書は「東京海洋大学」という特殊な大学の特殊な事例に過ぎないのかもしれない。しかし、この大学が行った大学の統合や再編、それぞれの工夫は、今やどの大学でも当たり前に行われる可能性が高くなってきたのである。それに伴い、一見外部からではわかりにくい諸問題が発生していると感じる。これらの問題は学生や先生方、ひいてはこれから入学するだろう人達にとって必ずしも何らかの利益をもたらすものとは言えそうにないのだ。大学競争への過渡期にある今、改めて「大学とは何か」が問われているような気がする。


<strong>監視</strong>

　潜入に成功し、調査を開始して早3年が経とうとしている。品川キャンパスが位置する天王洲ではドラマだろうか、それとも映画か……そこでは今日も何かの撮影が行われている。今ではすっかり見慣れた光景だ。そのそばを、仕事帰りの人々が一同に駅へと向かっている。果たして、彼らの中にどれだけの人が、ここに「東京海洋大学が居る」ことを知っているのだろう……。どれだけの人が「大学」を知っているのだろう……。調査を行えば行うほど、「大学」と私との距離は開くばかりである。だが……だからこそ私はここで調査を続けるのだ。「大学」も所詮は人の集まり。その大学という共同体の一つ「東京海洋大学」に私は必然的に潜入しただけである。そこで、自分で見たもの、自分で感じたもの、自分で考えたものをこうした報告書として作成したのだ。まずは、私は私のために「大学」とは何なのかを問い続けたい。]]>
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   <title>消えた町　〜 巻町最後の十年 〜</title>
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   <updated>2007-03-21T20:15:30Z</updated>
   
   <summary>山下 祐司 　西暦1996年8月4日、アトランタ開かれていた第26回夏季オリンピ...</summary>
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　西暦1996年8月4日、アトランタ開かれていた第26回夏季オリンピックが閉幕に近づいていた。陸上競技の最後を締めくくる男子マラソンが行われたこの日、勝利の女神は地球の裏側にも微笑かけた。
「巻原発、大差で『反対』　建設巡り初の住民投票　原子力政策に打撃」　「新潟・巻町住民投票　原発建設反対61%　計画、当面凍結へ」　「巻原発建設に『ノー』　全国初の住民投票　反対が6割越す」　
　翌日の全国紙の一面にこのような大見出しが飛び交った。
　アトランタと共に女神が微笑んだ地は新潟県の人口3万人ほどの小さな町、巻町――全国の注目が集まっていた。]]>
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<strong>はじめに</strong>

　西暦1996年8月4日、アトランタ開かれていた第26回夏季オリンピックが閉幕に近づいていた。陸上競技の最後を締めくくる男子マラソンが行われたこの日、勝利の女神は地球の裏側にも微笑かけた。

「巻原発、大差で『反対』　建設巡り初の住民投票　原子力政策に打撃」　
「新潟・巻町住民投票　原発建設反対61%　計画、当面凍結へ」　
「巻原発建設に『ノー』　全国初の住民投票　反対が6割越す」　

　翌日の全国紙の一面にこのような大見出しが飛び交った。上から順に96年8月5日の『朝日新聞』、『読売新聞』、『毎日新聞』朝刊の見出しだ。朝日、毎日新聞はその出来事をトップ記事で扱った。横には男子マラソンの金メダリスト、南アフリカのチェグネワの写真が並ぶ。アトランタと共に女神が微笑んだ地は新潟県の人口3万人ほどの小さな町、巻町。もし、日本期待のマラソン選手、谷口浩美が金メダルを獲得していたらトップ記事はどうなっていたか――。と、考えないでもないが小さな町に全国の注目が集まっていたことには変わりはなかった。
　テレビ欄では「筑紫イン新潟巻町中継」と書かれ、ジャーナリスト筑紫哲也が現地から様子を伝えたことが想像できる。他局の報道番組にも巻町の名前が記されている。紙面を一枚めくると、そこには抱き合って喜ぶ町民の姿、「住民が町の将来を決めるとの意志の表れ」と会見する巻町長の姿が写っている。投票率は88.29％。同じ年に行われた新潟県知事選挙と小選挙区制だった衆議院議員総選挙の投票率が57.82％、73.2%だったことと比べることいかに町民の関心が高かったことか。

　なぜ、米と雪と酒のイメージしかない新潟の小さな町がこれほどの注目を集めるようになったか。それは日本で初めて住民投票という方法を用いて、国策である原子力政策に町民が「反対」の意思を突きつけたからだった。1971年5月に東北電力が巻原発の建設計画を正式に発表してから26年の歳月が流れていた。この住民投票の結果にどれほどの実効性があるのかと疑問に思う人もいるかもしれない。しかし、巻町は原発建設の鍵を握っていた。炉心建設予定地に町有地を持っていたのだ。東北電力からすれば咽から手が出るほど欲しい土地だったが、当時の笹口孝明町長は「賛成多数なら建設の方向に向い、反対多数なら町有地の売却は行わず、建設が不可能になる」（今井　一『住民投票』）と町民に示し、町有地売却の決定を町民にゆだねた。そして、住民投票が行われた。
　当日の社説にも各社が巻町の住民投票を取り上げている。一部を抜粋してみよう。「いま、巻原発計画が大きな困難に直面することになったとしても、町民を責めることはできない」（『朝日新聞』）。「原発建設は国のエネルギー政策にかかわる問題である。ある特定の地域の住民投票によって左右されるようなことがあれば、国の政策は立ち行かなくなる」（『読売新聞』）。「国策だとしても、地域住民の意見を十分に聞き、合意点を見いだしていく努力や覚悟が国や電力会社には迫られている」（『毎日新聞』）と書かれている。
　この住民投票でいくつかの問題点が挙げられた。住民投票が選挙で選んだ代表が認めていた原発建設を覆し、間接民主主義の否定につながる。国策にある地域が判断を下してもいいのか。自分の地域に嫌なものは作られたくないという地域エゴだ。衆愚政治の陥る。それに対して、選挙で選んだ候補者にすべてを白紙委任するわけではない。だから場合によって間接民主主義を補完するために住民投票があってよい。地域を無視して国が決めてもいいのか。特定の地域に嫌なものを押し付けることこそ他の地域のエゴではないか。など多くの議論がなされた。
　この住民投票の前後に全国紙や報道番組でこの小さな巻町の出来事が精力的に紹介された。そして巻町は「真の住民自治」、「民主主義の模範生」などとも評され全国的注目を浴び賞賛もされた。ときの首相、橋本龍太郎は住民投票制度について
「住民投票は、まさにその問題についての住民の意思の表明として許されている。それと国全体の政策推進の努力とはおのずから違う。だからこそ、理解を求めていく努力が一層必要だと申し上げている」（96年8月6日『朝日新聞』）と答えている。

　――それから8年後の2004年8月8日。巻町で条例制定による2度目の住民投票が行われた。新潟市との合併を問われた住民投票の投票率は58.7％。90%にわずかに届かなかった前回の投票率とは雲泥の差があった。賛成8808票で町民は新潟市との合併を選んだ。しかし、そこには住民が抱き合って喜ぶ姿はなかった。女神は誰に向かって微笑んだのか。よくわからないまま2005年10月10日に新潟市の一部となった。
　鮮やかにメディアに登場した巻町はこの日に消滅した。「真の住民自治を持つ町」、「民主主義の模範生」と呼ばれた巻町は過去のものとなった。巻町が自分たちの街づくりと自ら決める権利を手放し、合併によって得たものとは何だったのだろうか。「住民自治」と矛盾するような選択をした町民にその答えを聞くために冬の巻町をたずね歩いた。


<strong>第一章　変わる町民</strong>

<strong>住民投票へ向けて</strong>
「基本的に原発問題が掻き消えて、この町は本当の意味で静かになった。掻き消えたと言う感じですね。言葉すら発するひとがいなくなった……もう、完全に掻き消えた。掻き消してしまったような感じが、今の状態だと思っています。それが良いのか悪いのかは別の話だが……」
　巻町は新潟県のほぼ中央部に位置し、日本海を臨む海岸と標高481mの角田山、秋には黄金色の稲穂がたなびく平野をもつ人口3万人ほどの町だった。
　新潟市との合併から一年が過ぎたある日、旧巻町の様子を話してくれたのは幹線道路沿いで酒店を営む田畑護人。普段なら全国的にも有名な銘酒「八海山」や地酒「笹祝」の名前が書かれた大きな暖簾が店頭に張られている。田畑は巻原子力発電所建設の住民投票を成功させた「巻原発・住民投票を実行する会」（以下、「実行する会」と略称）設立者のひとりだ。日本初の住民投票はこの「実行する会」がなければ起こらなかった。田畑に新潟市との合併の住民投票について聞くと答えて言った。

　「私は基本的に住民が（合併の）住民投票をして決めたという感覚すら持っていないと思う。そこが、私が一番大きな問題だと思っている。例えば、原発問題というのはこの町にとって現実に一生に一度の（投票）機会しかないわけ。大きな議論があって理論を戦わせて、いろいろな形の考え方、推進も反対もどちらでもいいからと住民投票で決めようとした。3万人のなかで徹底的に10年も15年もかけて議論を続けてきて、結果を出してきた。それと（合併の住民投票は）全くかけ離れた住民投票であったのではないかと。（合併の）住民投票をいつやったのかという記憶すらないと思う。けれども原発の住民投票は、オレは賛成と書いたとか、反対と書いたとか、この部分はきっちり残っている」

　「実行する会」がなぜ原発の住民投票を成功させたのか。ひとつに既存の反対運動とは対照的に「住民投票」を行うために中立性を保ったことが挙げられる。しかし、何よりも町の保守層から起こった運動だったことが大きい。「実行する会」は地元の自営業者が中心になって立ち上げられた。巻町では町議など町の有力者や行政も原発推進の立場にあった。彼らの得意先もそのなかにあり、商売をして暮らしていたのだ。それまでほとんど運動をしたことのない人たちだった。

<strong>保守二派の争い</strong>
　「実行する会」が設立されたのは1994年10月。東北電力の巻原子力発電所建設計画が正式発表から20年以上も経過していた。その頃、巻町では原発建設はいっこうに進んでいなかった。表面上保留されていたと言っていいだろう。しかし、長い眠りを揺り起こすような出来事が起こった。
　94年3月8日、一期目には原発に慎重姿勢を掲げ、二期目には原発凍結の公約を掲げ当選していた佐藤莞爾町長が議会で「三選後には世界一の原発をつくりたい」と発言した。そして、94年8月7日に行われた町長選挙で佐藤莞爾は9006票を得て当選した。原発は意向調査をすると慎重姿勢を表明していた村松治夫が6245票、原発反対を掲げた相坂功が4382票を獲得したが20年の原発問題に決着がついたかに見えた。
　一分でも一秒でも原発を遅らせるために慎重派の村松治夫を応援し、選挙活動をしていた田畑も「佐藤莞爾さんが三選をなさる段階で、これで終ったなと。これでつくられる」と当時は思ったと言う。しかし、このとき田畑は重要な経験をする。村松候補を推す保守派の支持者が胸を張って「うちの候補は原発を住民投票にかけるんだ」と言って回るところを目の当たりにする。
「なんとか村松さんと話をして、住民投票なら勝てると。最終的に村松さんが『住民投票をやろうじゃないか』と言った。けれども、最後まで彼はそれを選挙で言わなかった。なぜなら、自分は勝てるとふんだ。だから、当選すればそれが「あしかせ」になるから言えなかった。けれどもそのとき村松さんを応援した巻の農家のひとたちが『うちの候補は原発を住民投票にかけるんだ』といって回ったんだよ。……村松を推した人は原発が住民投票にかかることを想定したんだよ。……ここが原発の住民投票の出発点なんだ。……ものすごく斬新な感じだったね。自然と町民のなかに住民投票という言葉が入っていたんだよね」
　結局、村松治夫は最後まで住民投票と言えず落選した。田畑が住民投票を言って回った経験が生かされるのはまだ先のことだった。
　ではなぜ、最終的に村松治夫が住民投票を渋ったか。原発に関しては慎重姿勢だった村松にとっての「あしかせ」とは何を意味するのだろうか。そこには原発をめぐる政治的争いがあった。

　それは田畑を訪れる前に訪ねた新潟市巻支所（旧巻役場）・内藤支所長の言葉にも見られた。「保守系が二つに割れていると、これが何をするにもうまくいっていなかったね。……根深いですよ。国会議員でいうと小沢辰夫さんと、近藤元次さん、どちらも保守系なんですよ。これが真っ二つになったのがひとつの起因なんですよ。戦後何十年も」。内藤の言う起因とは住民投票の起因ということだろう。
　巻町では戦後、保守系二つの政治勢力が争ってきた。新潟県選出の自民党・小沢辰夫の後援会である沢竜会と自民党・近藤元次の後援会である元友会がその二つにあたる（小沢辰男は94年に新進党、無所属を経て00年に引退し、近藤元次は96年急逝）。実はこの保守二派はともに原発推進の立場だったが、保守二派の代理戦だった町長選挙では対立を繰り返していた。それは原発建設利権の争いでもあった。
　1974年（昭和49年）以降、1990年（平成2年）に原発凍結を公約にした佐藤莞爾が再選されるまで、町長選挙のたびに新人の当選が繰り返された。町長が一期ごとに変わっていたのだ。その理由には原発があった。四度にわたる町長選挙の結果から言えば、原発に対してより慎重姿勢をとったほうが当選するようになっていたのだ。保守二派が分裂しているので、選挙をより有利に進めるために他の勢力と手をくむ必要が生じる。そのとき原発がバーターになった。当選した候補はその後、原発の建設同意や推進を表明し、満を持して再選に挑むと慎重姿勢を示す新人に敗れる構図が続いた。そして、佐藤莞爾が二選を果たした選挙ではお互い原発凍結を公約にするようにまでなる。拮抗した保守二派の選挙ではビール券や図書券や商品券、はたまた“実弾”が飛びかう激しい戦いをしていた。戦前から選挙のたびに繰り返されるこの様子を人は“西蒲選挙”と揶揄していた。西蒲とは巻町周辺11町村を含む西蒲原地域のこと指している。このような町政のなかで原発反対運動は広がらなかった。

<strong>平成の大合併</strong>
　新潟市との合併の住民投票の様子が浮かんでこなかった。原発の住民投票の時には毎日のように原発関連のチラシが入り、街宣や集会、町民シンポジウムが行われた。戸別訪問が繰り返された。町では「賛成派」と「反対派」がぶつかり、町は二分されていた。そのなかで町が活発に動いていた。それに引き換え、合併の住民投票ではそのような話が聞こえてこなかった。「合併の時は議論すら成り立たなかったのでしょうか」そう尋ねると、田畑は「そうそう、議論すら成り立たなかった」と答えてくれた。
　平成の市町村大合併は田舎の町や村を簡単に飲み込んでいった。総務省によると平成11年3月31日から平成19年1月1日までに市町村数は3232から1816に激減した。そのうち村は568から195に、町は1994から841にまで減った。当時、新潟県でも市長村はそれぞれに合併を選択しその準備に入っていた。巻町で行われた新潟市との合併の住民投票は投票率が6割にも満たなかった。時代の流れである種の諦めがあったのだろうか。「そう。もう諦めですね。長いものにまかれろ。それと、基本的に本当に些細な問題。例えば、住所を新潟県西蒲原郡巻町と書くより新潟市巻と書くほうが簡便であるから賛成するような」。思わず苦笑してしまった。

<strong>「巻原発・住民投票を実行する会」設立</strong>
　1994年8月に原発推進を掲げた佐藤莞爾が再選されてから田畑の酒屋では茶のみ話に原発のことが話されていた。「ここに笹口や菊池だのがきていて、４人くらいが集まった段階で、一度くらい住民それぞれの声が発表されていいのではないかと。発表できる場を作りたい、という話がでてきて。そこで、自主管理の住民投票をやろうという話がポっとでて」と田畑。話はトントン拍子に進んだ。笹口とは「実行する会」の代表と後に巻町長を務める笹口孝明。地元の笹祝酒造株式会社の実質的経営者（現在は社長に就任している）だった。菊池とはのちに「実行する会」の代表代行を務める菊池誠。野草の栽培、販売を営んでいた。
　それでも「そんなことやっていいのかわからないから」と弁護士で義弟の高島民雄のところへ聞きに行くと「是非、やってくれ」と言われたという。高島は既に20年以上も原発反対活動をしていた。地元で商売を行っている田畑たちにとって町の有力者に反旗を翻すことは直接収入に打撃を受けることになる。
　「当時を振りかって見ると、気が進まなかった人もいただろうし、怖いと思った部分もあっただろうし、私は複雑だったと思うよ。言ってはみたものの高島が断ってくれるだろうと、みんなが思っていたのではないだろうかねぇ（笑）。そうしたら『是非、応援する』と返ってきて。そして、誰も引っ込みがつかなくなって。よしやろうと覚悟が決まった。そのときのみんなの覚悟はまた素晴らしかった」
　そして、「最後まで原発は住民投票で決しようじゃないかと。賛成も反対も我々は絶対に口をださないと。住民できめようと。これ以外は絶対言わんと。言うと命取りだ」と会合を重ねるうちに話は進み、田畑、笹口、菊池、高嶋ら7人が集まり100万円ずつ用意した。それを元手に土地を借り、事務所を建てた。「公正」を表す両腕に皿をのせた天秤をシンボルマークに「巻原発・住民投票を実行する会」が設立されたのは1994年10月19日だった。「実行する会」は「趣意書」を発表した。
　
　「巻原発が建設されるか否かは、巻町にとって、又、巻町住民にとって、将来、決定的に重大な事柄であり」、だからこそ「民主主義の原点に立ち返り、主催者である住民の意思を確認すべく、住民投票を行う必要」があるとしたうえで、具体的には次の2点の活動を進めるとした。

<blockquote>1.町当局に対し、巻原発の賛否を問う住民投票の実施を求める。</blockquote>
<blockquote>2.町当局がこれを実施しない場合には、町民の総意を結集して、町民自主管理によ  る住民投票を実行する。</blockquote>

　「民主主義の原点に立ち返り…」と発表したその日、取引先の建設業者や料亭と袂を分かつことになる酒屋の田畑は「大半の得意先がなくなるなぁ。つぶれるかも知れないなぁ。それもしょうがないなぁ。ここまできてしまったもんなぁ」と思っていた。

<strong>自主管理の住民投票</strong>
　「趣意書」を発表した「実行する会」は　94年11月に佐藤莞爾町長に条例制定による住民投票の実施を申し入れた。それと同時に町が拒否をするならば自主管理で住民投票を行うために町に施設の使用許可や立会人の派遣、選挙道具の使用を求めた。それに対して佐藤町長は住民投票の実施と立会人など公費による費用援助はできないと答えた。すぐに、「実行する会」は自主管理の住民投票運動を開始した。全国的注目を浴びた条例制定による住民投票のまえに自主管理の住民投票があった。

　原発の反対運動は原発計画が表面化した1969年に社会党系と共産党系の二つの団体が結成され始まった。しかし、双方ともに具体的な活動に乏しかった。その他に政党や労働組合から距離を置いた町民主体の団体も立ち上げられた。巻町の青年や県立巻高等学校出身の大学生たちが作った「原発研究会」は原発建設予定地の土地の購入などを行ったが全体として反対活動の広がりはそれほどみられなかった。その後、1981年の住民投票署名活動のときに反対運動が最も盛り上がり8709名の署名を集めた。しかし、活動は結実しなかった。このとき初めて「住民投票」という言葉が表舞台に出てくることとなった。
　佐藤莞爾が三選を果たした選挙で争い、分裂状態だった反原発運動団体は「実行する会」が設立されてから1ヵ月後「住民投票で巻原発を止める連絡会」（以下、「連絡会」と略称）を結成した。「原発研究会」を母体につくられた「巻原発反対共有地主会」、無党派の町民グループ「原発のない住みよい巻町をつくる会」、社会党系の「巻原発設置反対会議」、共産党系の「巻原発反対町民会議」、30代の主婦層を中心とした「青い海と緑の会」、「折り鶴・署名グループ」と町内全ての原発反対団体と町外のいくつかの団体が参加した。もちろん、保守派側にいた「実行する会」への批判と反発はかなり強かったが、どうにか調整をつけることができ、ここで反対派が初めて団結した。「連絡会」が原発反対を訴えることができるため「実行する会」の中立性がより明確になった。そして、自主管理の住民投票へ進んだ。
　
　「実行する会」が行った自主管理住民投票の投票期間は1995年1月22日からの2月5までの15日間とされた。95年1月7日には阪神・淡路大震災が起きている。原発推進派は地縁、血縁、社縁を使って、またチラシを折り込んで投票ボイコットを強く呼びかけた。佐藤町長は「間接民主主義への挑戦だ」としてこの投票を否定していた。95年1月21日の『新潟日報』には「実行する会」の笹口孝明代表のインタビューが載せられている。
議会制民主主義への挑戦という声があるのでは、という問いに「議会は住民の意見を尊重して町政を行う責務がある。しかし、議会は原発について町民に何も聴かない。私たちの活動は議会制民主主義を大きく補完するものだ」。昨年の8月の町長選で推進の佐藤氏が勝ったのだから町民の意思は反映されたのでは、という問いに「佐藤さんの実績や人柄で投票した人が多い。佐藤さんも選挙戦では原発を争点にしていなかった」と答えている。
　1月の新潟は寒い。地面の雪が固まり足場が悪い中、眼鏡やマスクで顔を隠しながら、または闇夜に紛れて投票に来る人がいた。それは地縁、血縁を断ち切って投票することがどれほど困難かを物語っていた。
　投票結果は、原発建設に反対9854票、賛成474票。10378人が参加した投票率は45.4%だった。笹口代表は「これだけ大勢に人から足を運んでもらったことはまさに民意の表れと理解している。この結果を町政に反映していただけるように働き掛けていく」と語った（『新潟日報』95年2月6日）。

　「実行する会」はこの結果を尊重するように町長に求めた。しかし受け入れられなかった。ことを急いだのか、東北電力は2月10日に原発建設の鍵を握る原発建設予定地内の町有地の売却を申し入れ、20日にその議決のための臨時町議会が開かれることになった。議会は原発推進派の議員が過半数を占めていた。「実行する会」、「連絡会」の6団体が抗議をしたが臨時議会は召集された。20日、反対派が議場前の廊下を陣取り議員や役場職員ともみ合った。そして議会は流会に終わった。
　実はこの議決は必要のないものだった。「町長が議会に相談するためにわざわざ補正予算の組んだ。歳入では財産処分とし歳出では予備費に組み込んだ。…（東北）電力が前日までに契約書にハンコを押して持ってくれば議会が廃案にしても契約書は生きた」と当時の総務課長・真田徳之助は話した。町長はなぜ必要のない議決を必要としたのだろうかと尋ねると「慎重に相談したかったのではないだろうか」と答えてくれた。流会直後、強硬な推進派町議は「実力行使もできたが、町民の理解を得られるかどうかの疑問もあったので、議長判断で警察への出動要請はしなかった」と語っている（『新潟日報』95年2月21日）。機動隊は町外れの巻警察署で待機していた。実力行使は不適当だと考えた「実行する会」のメンバーは役場の外で見守っていた。
　自主管理住民投票の9854票が、以前なら町民から冷たい眼でみられていた反対派の行動を後押し、町長と議員の心境にも大きな影響を及ぼしはじめた。

<strong>解職請求</strong>
　その日はよく晴れていたとはいえ12月の新潟は寒い。新潟といえば堆く積もった雪を連想してしまうが豪雪地帯から離れ、海に面している新潟市は案外雪が少ない。12月に雪が積もることもほとんどない。この日にも雪はみられなかった。定休日の田畑酒屋でストーブにあたりながら、「実行する会」の立ち上げもここから始まったのか、と少し感慨にふけりながら話は続いた。
　「私は根本的に三万人が適正だと思っているのです。合併問題においても。住民が政治に参加できるのは選ぶ権利と辞めさせる権利だけだと思っている。私、ここだけだと思っている。私の根本には辞めさせる権利が住民の中に本当に残るかどうかだと思っている」。
　新しい新潟市は人口80万人になった。「80万都市でリコールが出来ると思いますか。自分たちの意見、この政治家はいかんと思ってもどうにもならないですね。私ね、政治に参加できるのは選挙もものすごく大事だけれども、住民が辞めさせる権利をどこまで持てるかなんですよ」
　選挙が大切なのはわかるが、リコールなんて明らかに身近な言葉じゃない。リコールという言葉を反芻しながら話を聞いていた。

<strong>裏切り</strong>
　1995年2月20日、東北電力への町有地売却に伴う議会が流会した。しかし、再び議会が召集されたら、議会を通さず契約が結ばれる恐れもあった。それから2ヵ月後―。「実行する会」と「連絡会」は95年4月の巻町議会選挙に自主管理の住民投票の結果を受け入れない議会へ自分たちの候補を送り込むことを決める。定員22名に対し候補者が33人という大激戦だった。短い時間のなかで「実行する会」が3名、原発反対団体が4名の候補の擁立にこぎつけた。“西蒲選挙”の異名をもつ土地柄での選挙は全く予想がつかなかった。選挙素人集団である候補者とその支持者はまったく票が読めなかった。“旧来型の選挙”はあちこちで行われていた。
　5日間の選挙期間を終え、ふたを開けてみると。上位3名は「実行する会」、「青い海と緑の会」、「原発のない住みよい巻町をつくる会」選出の女性議員だった。原発推進派の現職議員が5人落選した。条例制定派、原発反対派の新人、現職を合わせると過半数を超える12議席を獲得したのだった。
　確かに巻町は変わっていった。旧来の選挙を乗り越え、自分たちが選挙で決めるという意思が溢れていた。

　ところが議会での住民投票条例の制定は難航した。当初、住民投票派として選挙戦を戦った梨本國平と「実行する会」と念書を取り交わし、推薦まで受けた坂下志が原発推進派と同じ行動をとるようになる。推進派の働き掛けが成功したのだった。議会構成で条例制定派、反対派は10名になり過半数を割った。劣勢にたたされた。
　6月議会で「巻町における原子力発電所建設についての住民投票に関する条例」が提出された。議会構成は推進派から議長を出していたため賛成10、反対11で誰もが否決されると思っていた。しかし、11対10で条例案が可決されたのだった。このどんでん返しに条例制定派、反対派は歓喜した。誰が賛成票に入れたかはある意味謎のまま条例は制定された。
　町長（首長）の権利に再議権がある。議会が賛成可決した議案を首長が再議に付すとその議案は再び議会で審議される。そして議決には出席議員の三分の二の同意が必要になる。でも佐藤町長はその再議権を行使はしなかった。
　しかし、住民投票条例は覆された。推進派の町民が条例改正の直接請求を起こしたのだった。改正前の条例では「住民投票は、本条例施行の日から90日以内に、これを実施するものとする。」となっていたものが「住民投票は町長が議会の同意を得て実施するものとする。」と改正された。原発推進の町長と、推進派が過半数を占めるようになった議会構成は変わらないため実質的に住民投票条例は骨抜きにされた。
　町有地売却の危機が去り、運良く制定された条例で住民投票は10月15日になっていた。しかし、佐藤町長は直接請求を受けて住民の希望をひっくりかえした。
「住民の意向なんて何もないじゃないか。10月15日に設定しておきながら、直接請求を受けて、町長が判断した時期にやればいいと。そして、町有地は自由に売却できると。こんな無謀な話があるのかと。じゃあリコールじゃないかと。その部分は当時の住民はよく知っておったのだと思います」

<strong>リコール運動</strong>
　95年10月28日、「実行する会」と反対派の団体は佐藤町長のリコール運動をすることを決めた。町の有力者の締め付けは厳しく、署名した者が“ばれる“ことが書かれたビラがまかれた。約15年前の1981年、原発反対派が行った「巻原発住民投票要求署名」では8709名の署名が集まった。そして反対派は署名簿を持って当時の高野幹二町長と交渉を行った。そのとき高野は「私が反対なものを賛成と言わせるなら、議会に直接請求しなさい」と突っぱねた。その後、反対派は署名した町民に圧力がかけられるのを恐れて直接請求は行わず署名を持ち帰っていた。巻町にはそんな苦い過去があった。
　しかし、巻町は変わっていた。3週間で10231名の署名が集まり選挙管理委員会に堂々と提出した。直接請求に必要な有権者の3分の1を超え、佐藤町長が前年の町長選で得た9006票も凌ぐ結果だった。
　佐藤町長は12月15日に辞職した。選挙管理委員の集計結果はまだでていなかった。年が明けた1月の出直し町長選挙に佐藤莞爾の姿はなかった。その町長選では「実行する会」の笹口代表が当選することとなった。その後、条例が制定され住民投票が実施された。97年には条例制定派を裏切った坂下志への解職がリコールで決まった。

「せっかく住民が選んだ、条例にもとづく住民投票をやろうと言う議員じゃないか。……　間接民主主義とおっしゃりながら、住民の意向というのはどうでもいいわけよ」と田畑は話した。「（裏切った議員に）みんなが怒りを感じた。住民も怒りを感じたと思いますよ」
　町民が政治に参加できる数少ない結果を反故にされたら、どうやって住民は政治に参加したらいいのか。「そこで、わたしどもはリコールしかないよと。本当の意味での政治の参加というのは辞めさせる権利だと。ここを主張すべきだと。ここがわしらのとらえかたです」
　「だから」と田畑は言った。「私自身、根本から合併に反対でした。それは、今言ったように、一般の市民が政治に参加できるのは選挙で選ぶのと辞めさせるのなんだと。どちらが重要かというと、辞めさせる権利をどこまでも自分たちが主張できるかだと私は今でも思っている。だから、新潟市と合併した段階で全てが終わったと。全てが行政のあるがままだな、という感じだね」

　田畑の「選ぶ権利と辞めさせる権利が主張できる規模の町」という感覚は自分たちで資金を出し合いつくった運動で自主管理の住民投票を成功させた経験から生まれていた。
「巻町が原発を阻止できた住民投票は（条例制定の住民投票ではなく）自主管理の住民投票だと思っているんですよ。……足を運ぶだけで原発反対派とみなす宣伝を（推進派）が徹底的にやった。その高いハードルを乗り越えて、何の根拠も無い自主管理の住民投票に50％近くの人がおいでになった」。田畑は多くの人が足を運び、出した結果を町が尊守することを願った。議会選挙もリコールもすべてそのためだった。
　人口が3万より大きい町なら資金や運動、すべての面で「自分たちの力が及ぶところではないと思いました」と田畑は言った。
　帰り道を歩きながら巻町が「民主主義の学校」と呼ばれた所以を振り返りながら、合併を問う住民投票との差をひしひしと感じていた。「巻町の人口規模」が心に引っかかっていた。


<strong>第二章　二度の住民投票</strong>

<strong>町の適正規模</strong>
　巻駅からは徒歩で約10分。田畑を尋ねてから数日後に向かった先は「実行する会」の高島民雄の自宅。その日は雪でも降り出しそうな曇り空だった。

「（住民投票を）合併との関係で考えるなら、住民が地方自治の主体として何かを考えたことを実行しうる、反映させうる場合の適正規模が絶対ありえて。そこが住民投票の成功と重なるところ。……30年やりつづけてきて、巻町だったからできたと。3万の町民の規模だからできた」と高島は話し始めた。ここで出てきたのも町の規模だった。巻町では新聞にチラシを折り込むのに一回5万円ほどかかる。「適正規模」は30年の運動経験から導き出されていた。
「5万（円）で全住民に読んでもらうかは別として、届けることはできる。我々の運動が成功した基盤はそこにあると思っている。これが柏崎になりますとね、チラシ一回入れたら、我々の一年分の経費は無くなって……新潟市だったらやらなかったと思う。最初から諦めている。私は、理念的なところだけで動ける男ではないのでね」
　柏崎とは旧巻町から南西に約50ｋｍ離れた合併前の人口が約9万人の市。東京電力の柏崎・刈羽原子力発電所が隣接する刈羽村にまたがって操業している。1969年に原発建設計画が発表された。世界最大の柏崎・刈羽原子力発電所には沸騰水型軽水炉が七炉ある。高島は「理念的なところだけで動ける男ではない」と言った。理念のほかに必要だったものがあった。

　高島は田畑、笹口ら多くの「実行する会」のメンバーとは異なり巻原発計画が明るみに出た1969年から「武谷 三男の本を読んで最悪の事態になったら相当物騒だなと思ってね。枕元に置いておくわけにはいかん」と運動を始めている。隣の岩室村に生まれ県立巻高等学校に通っていた高島は大学の休みを利用して帰郷し、巻高校出身の大学生や巻町の青年と運動を行っていた。その後、78年に弁護士として新潟に戻り79年から巻町で住み始める。原発が高島を巻に定住させたのだった。
　1982年の町長選挙に社会党巻支部は勝敗にこだわり候補を擁立しなかったが、前年の81年に原発反対派が行った「巻原発住民投票要求署名」8709名の署名者に答えるべく高島は出馬を表明した。当時、朝日新聞社記者の小林伸雄はこう書いている。「党派組織が、原発反対の理念より、勝敗の見通しにこだわったのに対し……反原発運動の責任を重視した」（小林伸雄『巻町に原発が来た』）。
「社会党や労働組合は、基本的に拒否をした。私の選挙が迷惑だったわけでしょ。しかし、そのときに町民が結構集まった」。そこから「原発のない住みよい巻町をつくる会」（以下、「つくる会」と略称）が生まれ、政党や組合に頼らない自腹の運動が始まった。「あの運動がかなり大きかっただろうと思っている」と高島は語った。
　94年8月に佐藤莞爾が「原発建設推進」を掲げた選挙では「つくる会」は意見がまとまらず選挙戦は傍観するだけに終わった。多くの原発反対の町民と同じように佐藤莞爾が当選した選挙結果に落胆したことだろう。「もう一度どんな原発反対運動をするかを考えるために」と高島は町長選挙の数日後に「つくる会」を退会した。
　高島のところに義兄である田畑が相談に来たのは町長選挙から一ヶ月ほどが経った9月上旬だった。田畑たちの茶のみ話から10日ほどが経っていた。このとき高島は「自分たちで住民投票をやってしまおう」という田畑や笹口の話を初めて聞いたときに、その発想の大きさと自由さに「頭を殴られたような衝撃を受けた」とマス・メディアのインビューの中で繰り返し語っている（中澤秀雄『住民投票運動とローカルレジーム』）。その後、高島を含め「実行する会」設立されることとなった。

<strong>新町長誕生</strong>
　1995年12月、リコール運動の後に佐藤町長が辞職した。翌年に行われた町長選挙では「実行する会」の笹口孝明代表が出馬を表明した。推進派は候補者を擁立できず、1月21日に「実行する会」の代表が巻町の町長になることが決まった（笹口孝明　8569票、長倉敏夫　991票、投票率45.8%）。
　笹口は町長就任後に条例制定の住民投票を行うため、3月議会で推進派の町民から直接請求され可決された「巻町における原子力発電所建設についての住民投票に関する条例」改正案にしたがって住民投票を7月に行うと提案をした。もちろん原発推進派の町議との混乱もあったが最終的に投票日は8月4日案が議決された。日本初の条例制定による住民投票は1996年8月4日に決まった。

<strong>日本初の条例制定住民投票</strong>
　8月4日の住民投票まで推進派、反対派ともに戸別訪問、チラシ、ビラ配り、演説、街宣活動などを激しく行った。原発推進を進める東北電力、資源エネルギー庁、衆・参国会議員、県知事、県議会議員が入り乱れ幾度となく講演会や懇談会、シンポジウム、集会が行われた。
　資金力に勝る推進派は原発PRのためにスポットCMを何度も流した。効果があるのか首を傾げたくなるが、仏文学者の篠沢秀夫が出演したクイズ形式のCMや“鉄人・衣笠”こと元広島東洋カープの衣笠祥雄などが出演している。

　5月17日には巻町主催の「原子力発電所問題に関する町民シンポジウム」が開かれた。反対派の原子力資料情報室・代表の高木仁三郎と推進派の科学ジャーナリストの中村政雄と両派を代表する町民が講演を行い、さらに質疑応答がされる形式だった。それは原発を議論することがいかに難しいかを表しているものだった。反対派が原発の危険性を挙げるのは当然！？としても、原発で活性化を望む町民も「100％」安全神話に固執する。原発が過疎地に作らなければいけないことを隠すような言説。「近くにある柏崎の財政を圧迫する原発振興を手本にすればうまく町を活性化ができる」と傾聴すべきこといくつか言っている。それでも結局、不信があることが明らかな安全の話に終始する。もちろん、反対派にも同じような構図がみられる。反対派と賛成派の主張は平行線だった。そんな感想に高島は言った。
　「間をとりにくい話だよね。リスクが極端であいだを考え難いのだよな。……最悪の事態が起きたとなると、カタストロフィだから。それと比較できるベネフィットがなくなってしまうのだろうな。……それと、やっぱり事実として（事故が）起きてきたことですよ。これが一番大きかったと思う。論争だけなら無理だったでしょう」と。それでも「一面に載るような世界の事故がおきたでしょ。放射線の怖さを実感できるじゃないですか。言葉で言えないじゃないですか。だから、真ん中が難しい。どちらか白か黒か挙げるしかないですよね」
　巻原子力発電所の計画が明るみになってから79年にアメリカのスリーマイル島の原発事故、86年に旧ソ連のチェルノブイリ原発事故、それと前年の95年12月に日本で高速増殖原型炉「もんじゅ」がナトリウム漏れ事故を起こしていた。
　7月26日に開かれた「巻原子力発電所賛成町民総決起集会」では、なぜかタレントのガッツ石松が応援演説を行っている（96年7月27日『新潟日報』）。「OK牧場」と言ったのかはわからないが、推進派は精力的！？にPRを行った。当時の地元紙『新潟日報』にも幾度となく東北電力の広告が載っている。
　公職選挙法の拘束がない条例制定による住民投票だからこそ推進派の“西蒲選挙方式”が花開いたが、既に地元紙の記者やTV局だけではなく主要メディアが頻繁に報道し始め、“西蒲方式”は格好の餌食となった。観光とフランス料理などの会食がセットになった原発見学ツアーや飲食を伴う集会はお茶の間を濁すことになる。当時の笹口町長はこう述べている。
「今度の住民投票はこれまでの選挙とわけが違います。これは巻町のみならず日本の命運を左右するような重大な意味を持っているんだ、ということを、有権者はちゃんと理解していると私は信じています。もし万が一、それでも金で自分の意思を変えるという人がいれば、この町の人間はそれだけのものでしかなかったんだと私はあきらめますし、それを含めて、それが巻町民の答えだということです」（今井一『住民投票』岩波新書）。

　そして、1996年8月4日、全国初の条例制定による原発建設計画を問う住民投票が行われた。

<blockquote>反対12478票　賛成7904票　無効118票</blockquote>
<blockquote>持ち帰り3票　有権者数23222人　投票総数20503人　投票率　88.29％</blockquote>

　結果は冒頭にあるように華々しく報道された。そして、住民投票の結果を持って笹口町長は東北電力、資源エネルギー庁に巻原発計画の撤回を要望したがその返答は「計画には変わりない」ということだった。当時の八島俊章・東北電力社長と江崎格・資源エネルギー庁長官への面会さえ許されなかった。住民投票から一週間後には「次の町長選で推進派の候補が当選すれば町有地を（東北電力）に売ることは可能だ」と話す、ある推進派町議のコメントが新潟日報に載っていた（『新潟日報』96年8月11日）。住民投票終了後、町政はより難航していく。

<strong>膠着した議会</strong>
　住民投票の結果は法的な拘束力がないため、推進派の議員は住民投票をただの「意向調査」として解釈していた。議会では原発推進派と住民投票尊重派（以前の条例制定派）、反対派の対立が続いた。議会は膠着状態に陥った。条例制定から2年以上が経った1998年10月、笹口町長から提案された老人ホーム「得雲荘」施設への太陽光発電の設置案は否決された。99年に建設中だった「巻町ふれあい福祉センター」に太陽光発電を導入する議案は、原発推進派から修正案も提出されたが共に廃案となった。そして、99年4月に町議戦をむかえた。住民投票条例制定のために盛りあがった町議選挙からすでに4年が経っていた。

　町議選挙の焦点は住民投票の結果と異なる議会構成を変えられるかに絞られていた。その時、町内には住民投票で原発問題が終わったとの空気が流れはじめていた。そして、原発推進派は原発問題にほとんどふれなかった。結果は原発推進派が13議席を獲得したのに対し、原発反対派、住民投票尊重派は9議席に終わった。議会構成は変わらなかった。原発推進派へ票が集まったことで、翌年の町長選挙に暗雲が立ち込めていた。

<strong>町有地売却</strong>
　1999年9月2日の午後3時、巻町役場3階第3会議室には報道陣が集まっていた。そして、姿を現した笹口町長は話はじめた。
「8月30日、巻原子力発電所建設予定地内にあります町有地のうち、角海浜字沙山5番地743㎡を売却いたしました」
　緊急に開かれた会見で「実行する会」を中心に23名の町民に町有地を売却したことを発表した。この土地は95年に東北電力が売却を申し入れ、その議決のための議会が流会となった原発建設の生命線となる土地。売却額は当時と同じ1500万円だった。住民投票の結果を守るためのこの決定に、国や東北電力や知事だけでなく町民だれもがこの発表に驚いた。

　高島は「非常に危険でしたよ」と話した。「これが正反対の方向に流れることもありえる。……世論が認めてくれなければ、土地の取り上げもできるからな。賭けは賭けだった」と言った。
　「実行する会」で売却の話し合い行われたときに最後まで反対したのは高島だった。田畑も「高島が言うように、みんなで力を合わせて住民の出した結果をもって常に挑んでいき、それを守り続けると。それが100%、民主主義だと思う」と言っている。しかし、次の町長選挙で笹口が落選したときのことを考えたら高島も受け入れるしかなった。それほど「実行する会」のメンバーは危機感を持っていた。条例制定の住民投票から3年が経っていた。
　「原発問題を終わらせるために」の見出しでチラシを入れ、「実行する会」は町民に理解を求めた。他方、「町有地売却は断じて許しません。」と書かれたチラシや町有地の売却先である「実行する会」のメンバー他23人の名前と住所、電話番号が書かれたチラシが町内に出回った。
　後に原発推進派の町民が町有地売却の無効を求め提訴した。それは町長選挙で笹口が再選を果たした後だった。

<strong>00年町長選挙</strong>
　2000年1月の町長選挙は現職と新人の一騎打ちとなった。選挙に出馬するために巻町農政課長を辞めた田辺新は「原発問題は町有地売却で終わった」として、県や国とのパイプを強化し「町の活性化」を行うことを公約に出馬をした。応援には原発推進派の面々がみられた。笹口は国や東北電力に計画撤回を求める「21世紀中の原発問題の決着」を掲げ5日間の選挙戦を争った。結果は笹口が267票差で辛くも再選を果たした（笹口孝明10102票、田辺新9835票、投票率82．25%）。当選直後の笹口は「東北電力や国に原発立地計画白紙撤回を求めるなど、原発問題の決着に全力を尽くしたい」と語っている（『新潟日報』00年1月17日）。
　この結果について「（町有地）売却の批判票もあるが、事故がなければ完全に負けていたんだな。事故があって原発を止めることをみんなが本気になって考えてくれて、やっとだったんだろうと思ったよね」と高島は答えてくれた。事故とは4ヵ月前、茨城県東海村で起きた臨界事故のことだ。国内初の臨界事故で事故現場から半径350メートル圏内の住民約500人に退避、半径10㎞圏内の住民31万人に室内退避勧告が出された。中性子を多量に浴びた作業員二人が亡くなっていた。
　笹口が再選したとはいえ、町の停滞ムードは着実に大きくなっていた。原発以外がみえる町政を望む声があちこちから聞こえていた。

<strong>一町二村の合併協議</strong>
　目新しいこともなく、町政が行きづまって見えた2001年2月、新潟県庁から新潟県市町村合併促進要綱が示された。僅差で勝った町長選挙から約1年が経っていた。
　7月からは各家庭に配布されている町の広報誌に市町村合併が取り上げられ始めた。その内容は県の要綱をそのまま紹介した内容となっていた。その後、県の要綱通りにならなかったが巻町は隣接する潟東村、岩室村との合併協議に入ることになった。「巻と潟東、岩室と合併したらどうですかと議員の方が確か提案されたと思うのですが。そのあと、すったもんだあって、まとまらなくて。潟東さんも岩室さんも新潟市のほうになった」巻支所・総務課・渡辺和昭はそのときの様子を話してくれた。
　当初、巻町と潟東村、岩室村との合併は順調に進むかに見えた。しかし、あくる02年の1月18日に笹口町長は突如、両村に原発の住民投票を要望した。「三町村で合併しても、原発ができないという担保が欲しいので、原発建設の是非について住民投票を実施して欲しい」と提言して両村長の強い反発を受けている。笹口町長は21日に一度は助役を両村長に走らせ陳謝させたが2月６日に再び両村長に住民投票を要請した（『下越新聞』02年2月23日）。結局、この要請はかなわず合併協議は決裂した。潟東村と岩室村はその後、新潟市との合併を協議することになった。
　突然の住民投票を要望した背景には近隣の11村町で構成される西蒲原郡町村会が原発推進で一致していた過去があった。田畑は笹口町長に「合併をすれば、『旧巻町に住民投票をやった結果』があったという程度ですよね。（新しい）議会は新しく議決をしましょうということになっていく。そうすると、旧巻町の住民が出した結果というのは何もなくなってしまう」と話したという。高島は当時のことを「住民投票を要求すれば、合併話はつぶれると思った。もし、やってくれれば住民の結論はでるだろうし。そしたら出身議員がいたとしても住民投票の答えを動かすことはなかなかできないだろうと思った」と話してくれた。
　「実行する会」は町民が困難の末にたどりついた住民投票の結果を守るべく全力を尽くした。しかし、巻町には「原発は終わった」という雰囲気で満ちていた。町民は合併に遅れることに不安を募らせていた。潟東村、岩室村と合併が破談に終わったあと、町議会では5度の合併住民投票条例案が原発推進派の議員、町民から提出されたが笹口町長はすべてを再議に付し議案は否決されている。
　国と東北電力との巻原発建設計画の撤回を表す様子はいっこうに見えてこなかった。住民投票の結果を守るため、いつ終わるともわからない「つらく、静かな」戦いは続いた。「実行する会」の設立から10年が経とうとしていた。

<strong>04年町長選挙</strong>
　町長選挙を翌年にひかえた2003年、「実行する会」では町議を二期務めた高島敦子を擁立し選挙戦の準備をしていた。笹口町長はすでに三選不出馬を表明していた。「争点は原発。負ければ、世論を作り上げて土地の接収と。その流れはでてくるよね。土地収用しやすい環境だってつくれるよね」と高島は言った。
　この裏には、電気事業法が96年にひそかに改正され、原発に関わる土地収用を可能にしていることが、00年ころ明らかになった。これにより巻町の住民投票の結果のみならず、町有地売却戦略まで無効になる可能性があり「実行する会」は焦りを深めていた（中澤秀雄『住民投票運動とローカルレジーム』）。
「世論が大きく転換する可能性があって、いつまたどうなるかわからない。それがひとつ大きなこと。それと合併そのもの、地元住民の意思を尊重するための適正規模の自治体を守らなくてはいけない。ということを争点に据えているわけだが、なかなか抽象的なことって難しいんだよね」
　そして、03年12月18日、町有地売却の訴訟で最高裁が上告不受理を決定し、東京高裁の判決をもって終了した。売却の手続き方法は町長の裁量権の範囲内とされた。その夜、東北電力はすぐに建設断念を示唆するコメントを出し、24日に巻原発計画を撤回することを新潟県知事に正式に報告した。土地収用法を適用せず引き下がった。なんともあっけない東北電力の決断であった。
　2004年1月18日、突然争点が抜け落ちた町長選挙は再出馬をした田辺新の圧勝だった（田邉新10797票、高島敦子6605票、投票率74.17%）。「原発終わりました。ありがとうございましたって感じでした」と田畑は教えてくれた。その後、巻町は新潟市との合併に向けて足早に動きだすこととなる。
　3月30日には「合併問題懇談会」が始まり、5月31日には合併について住民アンケートを行った。18歳以上の町民が対象となったこのアンケートでは新潟市との合併を賛成49.4%、反対25.8%で職員が回収に町内をまわった回収率は92.63%だった。その結果をもって新潟市との合併協議開始を申し入れたが市長に住民投票を促された。6月16日に議会が「新潟市との合併に関する決議」を行った。6月16日には田辺町長提案の「巻町が新潟市と合併することについての可否を問う住民投票条例」が可決された。そして、8月8日に合併を問う住民投票を行い巻町民は合併を選んだ（賛成8808票、反対5451票、投票率58,7%）。そして、田辺町長は新潟市市長に合併協議開始を申し入れた。まさにあっというまの展開だった。

<strong>軋轢の結果</strong>
　「私は合併の可否を考え抜いて、合併を良しとした投票ではないと感じている」。と高島は合併の住民投票について話した。どういうことだろうか。「旧共同体に戻りたい。……原発があったからこそ、みんながんばったけれども、それで人間関係に軋轢がたくさん生まれてきた。……最高裁で決着がついて、電力が止めたわけですよ。それで、一気にそっち（合併）のほうへ行ったという気がしてならないのだけれども……」。さらに「合併はね、感覚的にいうと、実行する会のメンバーにとってみると原発に限らず合併はノーなんですよ。はっきりと。それは運動を自分たちが担ってきたわけだから。まさに、住民の意思に従って決めたじゃないかと。確信をもっているわけです。（合併は）適正規模に合はないわけですよね。何が合併だと」
　では、なぜそれが町民に浸透しなかったのだろうか。最も聞きたいことだった。8年間の軋轢の揺り戻しだったのだろうか。「だろうね。我々は原発と離れて合併を問題にしたことはなかったわけですよ。それはできないね。……最重要課題は原発だから、それをおいといて合併一般論を論じない。それはひとつの運動体としての限界はあったけれども」。高島は続けて言った「合併をとことん論じあえる時間があれば、また状況は違ったかもしれない。あのときは原発が消えて、そして、選挙まで１ヶ月もない。その間に合併一般の論争を巻き起こすのは無理だろうな」。少し間があったあとに「……合併問題についてみんなで議論する機会があって、かつ同じような合併は許せないと運動を立ち上げる」。そして、再び間を置いて「そのエネルギーはみんななかったかもしれない。それはもう、みんなくたびれ果てたんだよ」
　住民投票を成功させ、その結果を守るため懸命に活動してきた「実行する会」は満身創痍だった。
　どうしたら合併をとめることができただろうか、そんな疑問にこう答えてくれた。「難しかったと思いますね。合併について運動に取り組めるとしたら、具体的な全町民が関わるような争点があって、それとの関連で合併是非論が論じられないと、難しいのではないかな。住民意思の反映、適正規模なんてね。抽象的で。あとは財政がもたないという脅しとか、大きなものに吸収されてしまえば財政的に孤立することもないし。なんとかやっていける。それを押しのけて自律、自活、自分たちの町をやっぱり守っていこうというのは容易でないかもな。どこでもそうだよな」

　合併を選択した巻町民に自ら街づくりを志すものがこの十年で育たなかったのだろうか。特に8年間の笹口町政のなかでそれが出来なかっただろうか。「実行する会」は笹口町長の行政にほとんど口を出していない。高島は「いろいろ出来ることもあったと思いますよ…。でも、笹口は良くやったと思います」と、そして「かつてよりありますよ。間違いなく。選挙の結果では出てこなかったけどね。反動が相当大きかったこともあってね」と答えくれた。

　高島は自宅の太陽光発電のデータを見せてくれた。変動する数字の年間平均をとると約8割の電力をまかなっていた。新潟の冬は長い。夫婦二人で、たぶん節電をしている生活とはいえ驚いてしまった。原発に反対してきた高島なりの答えなのだろう。確かに太陽光発電のコストはまだ高いが話を聞きそれなら、とも思った。「（代替エネルギーの）アピールできるわけですよ。だから、補助すればいいのですよ。国からの補助に上乗せとか……最後にはちょっと民間にやったかもしれないが」と笹口町政に関して意見もあったようだが…。そして、お宅を後にした。


<strong>第三章　原発反対運動から</strong>

<strong>揃わない足並み</strong>
　2003年12月24日に東北電力の巻原子力発電所建設白紙撤回が表明された。この急な発表で、翌年の町長選挙は「原発」という最大の争点が失われてしまった。もっとも、「原発」が残っていたとしても「実行する会」から出馬を表明していた高島敦子が当選したかは疑問だ。住民投票後からの「原発問題」は終わったという流れは確実に広がっていた。前回の町長選挙で「実行する会」は267票差という“ギリギリ”の勝利だった。町は原発賛成・反対に二分し続け町政は停滞し続けた。「原発」以外の働きが見せられなかった町政に町民は離れていった（もちろん、それ以前の町長が特別に目立った町政を行ったかどうか疑問だが、原発の住民投票の後で余計に目立った）。町民はこんな声を発していた。「原発推進派だけでなく、原発だけの反対派や実行する会も問題。次の政策を打ち出して欲しい」（『新潟日報』99年4月27日）。
　「実行する会」が高島敦子を擁立した2004年の町長選挙のときには巻町の周辺3町村は新潟市との合併を決め、巻町は日本海に面している西側を除き三方が新潟市に囲まれていた。まさに陸の孤島のようだった。

「住民投票の結果を守ろうと（高島敦子を支持するために）集まっていた人たちの中でも合併の賛否はバラバラでしたよ」当時をそう語ってくれたのは桑原正史。「焦っている人が結構いましたよね。合併に乗り遅れると大変なことになると。何が大変なのか私にはよくわからないけれど」
　桑原は反原発団体のひとつ「原発のない住みよい巻町をつくる会」（以下、「つくる会」と略称）の中心だったひとだ。会話はこんな言葉から始まっていた。
「個人的にいえば私は合併なんてしないほうが良かったと思っています。具体的なメリット、デメリット以前に、原発運動で大変だったけれども住民投票が可能だったのは町の大きさだったと思いますよ。3万人という規模ね。これ以上大きかったら無理だったと思いますよ」

<strong>原発反対運動</strong>
　桑原が反原発運動を本格的に始めたのは1982年の町長選挙のころから。桑原が参加した「つくる会」は反原発を掲げ出馬した高島民雄の支持母体として生まれた。それまでは反原発団体の会合にたまに顔をだす程度だった。原発は「まぁ、いやだな」と感じる程度だったそうだ。そんな桑原にも巻原発建設の進められ方が見えてきた。東北電力は土地、漁業権などまさに“桁違い”な金額を払って解決していく（もちろん、反対を表明して金額をかなり吊り上げ町民も少なくない）。二束三文だった田舎の雑木林が生えた土地が銀座の一等地並みの値段になり（『読売新聞』94年9月3日）、80年の漁業補償は東北電力が39億6千万円を払うことで決着がついていた（東北電力が始めに提示した額の二倍を超える金額だった）。
　「正直に言われていない感じがはっきりとわかる。そこの部分をお金で、電源三法みたいなもので、お金で埋め合わせる。説明できない部分をお金で埋め合わせをさせられて、原発を引き受けさせられる。……許せないって感じがしましたね」。とはいえ政治色を嫌った桑原はすでにあった反原発団体に組しなかった。「簡単にいうと社会党ぐるみの運動になっている。社会党一派の運動にいる。彼ら（「巻原発反対共有地主会」のことを指す）が望んでいるわけじゃないのはわかってきたけれども、外部からはそうとしか見えない。そのときに、違うものをやろうと。どんなに小さくとも違うものをやろう、と思っていました」。それは、少し遅れて反原発運動に参加した桑原らしい見方だったのかもしれない。社会、共産党系の人が原発反対を示し、自民党系の人が賛成を示していた。「その枠がある間は絶対止められないと。その枠を壊さなくていけないわけですから、自分がどちらかに入っていったら終わりじゃないですか。その枠と別な設定に原発問題をしなくてはいけない。最後の住民投票に関してはその枠が消えたと思いますね」
　もちろん桑原も反原発活動を行うと外部からは同じにように見られた。漠然と「もし、巻で原発がとめられるとしたら、俺たちじゃないよと。我々がついていけない種類の運動が起きて来たときに止められる」と思っていたと言う。そして、中立にたった「実行する会」が生まれたのは94年だった。

<strong>波紋の広がり</strong>
　人口3万人の巻町が合併をしたことで新潟市は人口80万を超え、2007年4月1日から本州日本海側（裏日本ともいわれる）初の政令指定都市として出発する。
「いざ、という時に住民が底力をだすことが可能になる大きさが自治体として私は非常に重要だろうと気が。大きくなると名前は自治体だけれども国との関係で一定の行政権が委ねられている意味では自治体だろうけど、住んでいる住民からの自治と言われてもねぇ」
　合併した新潟市の面積は巻町の9.5倍、人口は27倍の都市となった。「いざって時の機能を失ってしまうのはどうかなと思いますね」
　桑原も運動を通して自治体の規模の重要性を身にしみて感じていた。ならば合併のときはなぜ反対運動をしなかったのだろうか、そんな単純な質問に桑原はこんな話をしてくれた。「合併になるとテーマが違うわけですから、そんなことしている時間もないし、それをもう一度するには新たなものを、ゼロからつくらなければいけない。続きではできない」。巻原発に決着がつくまで30年以上かかっている。もし、早い時代に住民投票をやっていたら負けていただろう。行政側は情報をたくさん持っているが、住民が情報を集め問題点を出すまでに時間がかかる。更に町の風潮が変わるのには非常に長い年月が必要なのだと教えてくれた。
　「運動というのは人間の輪だから、新しい問題にたいして輪を作っていくのはそんなに簡単な話ではないですよね。更にその輪が更に波紋を広げていくようになるのは決して簡単なことではないですよね」。反対運動の経験があったからこそ簡単に運動など出来ないことを語ってくれた。
　確かに当時の行政は急いでいた。2004年に新町長が誕生してから合併の住民投票まで7ヶ月とかかっていない。そのことについて内藤支所長は原発から見れば、健康被害や直接的影響があまりないとした上で、「田辺町長が合併の住民投票については、非常に細かく住民説明会を開いたのですよ」と語った。「まわりが合併して巻このままではどうなるのか」と言う住民の声に事細かに住民説明会を開いて、答えていたそうだ。

<strong>住民投票の起源</strong>
　話は原発の住民投票に移っていった。巻町で「住民投票」という言葉が初めて出てきたのは昭和の大合併のころ。1955年、昭和30年に巻町は周辺の村を吸収合併した。そのとき住民税が大幅に上がったことで旧漆山村地区の人が分町運動を起こした。そのときに「漆山地区分立に関する住民投票実施請願書」が議長宛に提出されている。結果的には分町運動は脱落していく集落が出てきて収束した。そのときに分長運動から離れていった集落は、分長後の地区のあり方が明確に示されていないことへの不安が表面化したものと書かれている（『巻町史』通史編　下』）。
　桑原によると「巻原発を住民投票で」という言葉は出たのは1981年に反対派が巻原発住民投票要求署名活動の時からだった。「実施したところはなかったけれども、原発問題で住民投票条例をつくったところがあるのですよ。そういうのは反対運動のなかで非常に重要な情報だから」。今井　一『住民投票』によれば、巻町が全国で初めて行ったのは条例制定による住民投票で、実際に投票は行っていないが条例を制定している自治体が巻町に先駆けて存在する。そのうち高知県窪川町（現在は四万十町）では原子力発電所の設置に関する住民投票条例を81年に制定している。しかし、当時署名活動をしていた桑原自身も住民投票はできるはずがないと思っていた。
　そして佐藤莞爾が「原発凍結解除」を打ち出し、三選を目指した94年の選挙で「原発は住民投票で」という言葉が浸透していく。佐藤莞爾の対立候補で原発慎重姿勢を表明していた村松治夫（実は原発推進派）陣営がそれまで「原発は意向調査」と言っていた。しかし劣勢だとわかると選挙戦の終盤に「原発は住民投票で」と言い換えていた。それまでは表だって「反対」と言えない町の雰囲気だ。「推進側で町民の半分を仕切ってきた側から盛んにそれを言った、と言うのは非常に大きかったと思いますね」。結果は佐藤莞爾が再選された。桑原ら原発反対派は無力感と脱力感に駆られたが、浸透し始めた「住民投票」という言葉が少しずつ巻町を動かしはじめた。

<strong>ボタンの掛け違え</strong>
　「実行する会」の成立後、1995年1月に行われた自主管理の住民投票には10378人が参加した。結果は原発建設に反対9854票、投票率は45.4%だった。けれども、その直後の２月に町は東北電力に原発建設予定地内の町有地売却を議決しようとする。そのときは反対派の実力行使で流会となった。桑原は議会を止めるために役場に入って町長に直接こう言っている。
「あんたは誰のために町長をしているのか。東北電力のためじゃないだろう。……なぜ町有地を売るのか」。町長を問い詰めると「町にとっていらない土地だから」。と答えた。するとすかさず「町民にとっては大事な土地だ。そんなに売りたいのならこの俺に売ってくれ」（桑原正史、桑原三恵『巻原発・住民投票への軌跡』一部改変）。

「日本の原子力行政を進めている人たちがボタンを最初に掛け違えたのだと思いますね」。それは住民投票条例制定後の町民シンポジウムの話をしているときだった。桑原の妻、三恵さんはこのとき中村政雄に質問をしている。シンポジウムでのやり取りで反対派と推進派が「あまり議論になっていないのでは」という質問に対して、桑原は原子力行政が絶対安全だと立地点に向かう姿勢が理由なのだろうと言った。「危険性があるが抑えられる。将来的にもっと抑えられるという提示ではなかった気がしますね」。行政側が最初に完全な安全を提示してその落とし穴から抜けられなくなったと。「一方は完璧を主張しているわけです。それを論理として打ち破る方は一箇所完璧が破れていることを言えば、その主張はもう終わりですよね。そういう関係に陥っていたと思います」と桑原は言った。

<strong>ゴムの原理</strong>
　合併の住民投票で「住民自治」を手放したように見える巻町民に未練をもっていると、こんな例をだして話してくれた。
　ひとの背中には「しがらみ」のゴムがついていると。そのゴムの反対側の端は杭で押さえられていて、ひとの行動範囲を限定している。ゴムにつながれている人が原発の住民投票には無理をしてゴムを引っ張って投票した。やっとの事で反対の票を入れた途端、ゴムでひとは戻されると。もちろんそのゴムを切ったひともいるが、大半のひとは戻ってしまうと。「（住民投票のとき）『実行する会』もこれは特殊問題だと、すごい主張をしたわけですよ。百年に一度という言い方で臨時にしたんですよ。百年に一度という言い方が何を意味しているかは、そういうことですよね」。そして「でも、」と付け加え話し始めた。「人は確かに戻るのだけれど、経験自体は消えないので」。歴史の教師をしていた桑原は続け言った。
　「私は歴史をやっているけど、そうやって歴史は進んでいくのだと思います。そこだけでみると50歩も100歩も進んでいるわけです。でも、それは非日常だから可能なので。日常的に緊張感を保ち続けることは誰も出来ないわけですから、それが終わったときに、戻るわけですよ。……一見、50歩進んだことをすごいと思った研究者からは50歩から48歩まで戻るから、すっかり元に戻っているように見える。でも、よくみると2歩違う」

　巻原発の運動に関わった人たちが共通に感じていたことは「自治体」の大きさだった。自腹でお金を出し合い（ときには1500万円も）作り上げてきた運動の限界が人口3万人の巻町規模だった。それが合併の時には時間がなかった。具体的な論点もなかった。そして、長年の原発運動で議論を立ち上げることも不可能だった。
　話を聞いていると彼らは発展を望んでいなかった。特に田畑は大きな道ができて、交通の便が良くなると地域の商店街や経済が空洞化していくことを商売上経験してきた。「発展」と言う掛け声が空虚だと感じていた。

　日本初の条例制定による巻原発「住民投票」をめぐる論争で最も言われたのが迷惑施設を作りたくない地域エゴだという批判で、Not In My Back Yard の頭文字をとったNIMBYだと非難された。高島は太陽光発電を利用していた。田畑は原発建設計画が可能な範囲で移っていけばいいと。そして、受け入れるところがあればそれでいい。なければ原発は必要のないエネルギーだ。「そのことを国は考えるべきだ」と考えていた。地域のことは地域で考えればよいと思っている田畑はたとえ隣町に原発がきても「応援にはいかない」と言った。桑原も同様に「反対するからには責任があるというけれど、責任なんかないと思うね」と言った。代わりのものを提示するのが国の責任だろうと、ボトムアップ式に意思決定がされることを願っていた。
　三人はそれぞれ自分たちが成功させた「住民投票」が意思決定の最も良い方法だとは思っていない。「偶然そのとき巻でより良い方法だった」と田畑は言った。住民投票運動を担ってきた多くの人たちが04年の町長選挙を契機に表舞台から去った。政党や反対が自己目的化した運動から離れ、地域から生まれた運動は幕を閉じた。

　巻原発計画が明らかになってから約35年。「実行する会」が設立されてから約10年間を費やした原発問題は決着をみたが、三人の話を聞いていると合併については意見も争点もあがらず議論もできずに流れて行ったように感じられた。合併の魅力は何だったのだろうか。果たして、本当に議論はなかったのだろうか。声をあげる人はいなかったのだろうか。そんなことを疑問に思いながら、合併の住民投票が行われたときの当事者だった巻町最後の町議のところへ向かった。


<strong>第四章　新潟市との合併住民投票まで</strong>

<strong>巻町最後の議長</strong>
　合併の住民投票が行われるころの様子はどうだったのだろうか。巻町最後の議長を務めた山下清司を訪ねた。山下は合併が問題になっていた当時の風潮をわかりやすく話してくれた。
　巻町の市街地から車で20分ほど走らせると砂地の畑が広がる。夏にはスイカが道端で売られている。少し傾斜がきつい長い坂を登りきると松林が続く。その先には砂浜の海岸線が続く越前浜がある。海に面したこの地域は400年ほど前に越前国から移住してきたひとが開いた地域。町議生活20年を超えた古参議員のひとりで初当選は1983年。初めて選挙に出るときは「うちのお母さんが怒って、家を出て行った」と言う。原発、合併と共に推進していた。

　「今、まわってみると『水道料金が安くなりました。あとはいいことありません』と、こうなんだね」と山下は合併から1年と2ヶ月たった様子を語った。「町長と合併後に巻町に区役所が置けるように全力をあげていましたし…」
　2007年から政令指定都市に移行すると新潟市は行政区分を8分割して区役所を置くことになった。区役所は地域住民の行政窓口になる。現在業務を行っている支所（旧役場）は人員、権限を大幅に縮小され、簡単な窓口業務などだけを行うようになる。区役所は地域の中核を担う。山下や田辺・前町長は巻を含む旧西蒲原郡の7町村が含まれる地域の区役所を巻に持ってこようと奔走していた。他の町村より大幅に遅れて合併協議に入った巻町だったが、区役所の設置には「是が非でも」との願いだった。それは西蒲原郡のなかで郡都として栄えていた過去を持つ巻町ならではのプライドだった。

　巻町には明治時代に西蒲原郡の郡役所や裁判所、警察署が置かれ地域の中心として発展してきた。金融機関4行の支店も商店街にあり、県の総合庁舎や税務署、4校の県立高校や法務局の出張所があり公官庁が集中していた。（03年に県立高校は統合され2校に、06年に法務局の出張所も新潟地方法務局に統合された）。基幹産業は農業と建設土木業で1960年代まで順調に発展していた。しかし70年代にはいると共に低迷しはじめた。工業化にも成功せず製造業も伸び悩んだ。それに引き換え工業化に成功した近くの町が発展を遂げた。「郡都・巻」は序々に寂れていった。そんなときに発展とセットになって原発計画が持ち上がった。郡都としての誇りを取り戻すには絶好の機会だった。昔のような華やかな巻町を取り戻したい。周辺町村より優位に立ちたい。そんな気持ちがあった。合併でも同じ構造がみられた。
　
　山下は合併をして「思うほど良くならないと思いますよ」と非常に率直に答えてくれた。逆にそれはこちらが戸惑うくらいだった。合併を進めた理由を尋ねると「地域の時代の流れがあるんだよね」と言った。
　隣の岩室村と潟東村と合併の協議を重ねていた笹口町長が突如、両村に原発の住民投票を要求した。そのときは「議長なんかやっていると、西蒲原郡9か町村の連絡協議会があるのですが、笹口さんをなんとかしろと。西蒲原の区域のみなさんに言われた」と言う。話を聞いていると合併当初の思惑がわかってきた。西蒲原郡の9か町村でまず合併する。その後、西蒲原郡でつくった新しい市と新潟市とで合併を協議するというシナリオだったようだ。とはいえその9か町村のうち2村しか巻町との合併協議に参加しなかった。そう考えていると山下は言う「私らが潟東と岩室と一緒になれば集まってきたと思いますよ。4、5ヵ町村集まって、道路がよくなる、そして精神的にも一緒になって市民の声が通るからよかったんだと、いう形になればよかった」。加えて「いま大きくなったからダメだということではないのだが」と言った。

　山下は巻町が合併をせずに単独で残ることは難しいと考えていた。その理由は財政的な事を挙げた。当時の巻町は累積赤字が約30億の町立病院を抱えていた。これが問題になっていた。そして、町の歳入も減少傾向にあり町の貯金も減り続けていた。ただし、笹口町長は歳出を抑えている。それに対しては手厳しい。「使い方を知らなかったのでは」と山下。様々な批判を口にした。それは長く続いた笹口町長派との確執を表していた。
　山下は原発推進派で原発の住民投票には反対していた人だ。それが、合併では住民投票を進めた。その心変わりはどこにあったのだろうか。合併の住民投票について聞いた。山下は言う。「原発問題もあれほど騒いだわけでしょ。私は推進するほうだったからね。あれだけの結果がでて、住民の声はそうなんだと。合併の時も住民投票をするのは住民の声を聞くひとつの方法なんだと思った」（ただし、山下は原発の住民投票の結果を認める発言をしていない）。
　それにしても合併の住民投票まで原発の時のような議論がなく期間が短かったのではという問いにも「当時は（合併まで）時間がなかったのではないかな。そして、原発問題と違ったよね。あのときの情勢は」。では、住民投票で町民は何を望んで合併を選んだのかと聞くと「当時の流れというか、それだね。大合併に向けて動いていたしね」と答えてくれた。そして、「周りもやっているし、うちの町のやらなくてはという声が強かったね」と正直に話してくれた。

　山下は合併の不満がまだまだ出てくるだろうと言っていた。特に農業政策には大きな不満がでているらしく、「新潟市に地域の意見をぶつけて通るようにしないと」と言っていた。意見をぶつける相手が合併によって更に遠くなることだろう。時代の流れは容赦なく厳しいのではないだろうか。

――町議経験の中で、どれくらいの町の規模がよいと考えますか。
　　大きいからよいものじゃないと思うわね。バランスの取れたものがよい。
――人口で言うとどれくらいですか
　　3，4万。5万。くらいかねぇ。大きければ良いわけでもないと思うね。

　春に青々と育つ小麦や鮮やかに咲く菜の花、桃色の花を咲かせる木々、渡り蟹や夜烏の卵を採ったことなど山と海のある自然の豊かな巻町で育った話をたくさん聞かせてもらった。巻町がなくなっても自然は残るのだが、そんな話から巻町に対する愛着を感じずにはいられなかった。

<strong>ニュー・フェイス</strong>
　新しい風が吹いた―2003年4月27日、……巻町にまったく新しいタイプの町議会議員が誕生した。……巻町に移り住んでまだ1年に満たない27歳の女性、山本亜希子である。（『デモクラシーリフレクション：巻住民投票の社会学』伊藤守ほか）

　まるで住民投票運動の申し子のように評された山本は合併の住民投票ではどのような活動をしたのだろうか。市街地のはずれにある山本の選挙事務所を訪ねた。
　山本は環境問題に関心を持ち筑波大学の生物資源学類に進学した。学生時代に有機農業に出会い自らも「農業をやりたい」と思い、つてをたどって98年7月に新潟県西蒲原郡岩室村に転居した。生活のなかで岩室村や隣の巻町の地域活動に積極的に関わるようになり、知人、友人を増やしていった。02年に友人や町政に関わる知人から町議選にでることを勧められ「各方面からお話を頂くなら、そういう道もあるのかな」と出馬を表明したそうだ。原発問題で停滞している町政に「脱原発」をめざし「原発のいらない巻町」をアピールしたて選挙戦を戦った。
　選挙結果は1009票を獲得し初当選した。定数20人中3位だった。選挙翌日の『新潟日報』にもその当選は写真つきで紹介されている（03年4月28日）。若干27歳だった。原発の住民投票を「学生時代にアパートで見ていた」山本は巻町議会議員になった。
　当選した山本は自筆のイラストが入った『あっきー通信』という議会だよりを作り、新聞に折り込んで配った。町長や町議の発言がイラスト入りで描かれている。町長や議員たちの顔は良く似ている。好感がもてるし、面白い。例えば、学校や漁港の整備で補正予算などが組まれたことや赤字を抱えていた町立病院のことなど、議論した内容や質問などが細かく書かれている。

　合併に関しても田辺町長が就任してから「町は調子の良いことしか言わない」からと『あっきー通信』などで合併問題を何度も取り上げ発行していた。町が提示したメリット、デメリットの他にも借金に過ぎない合併特例債についても警笛を鳴らしていた。精力的に調べて発信していた『あっきー通信』のなかで「十分認識できるような話し合いになっていません」「みんなで考えましょう」と呼びかけている。それでも盛り上がらなかった。とにかく説明会にも来る人がいなかったそうだ。
　最終的に山本は合併の住民投票では賛成に○をつけていた。これには正直驚いた。山本は04年の町長選挙で「実行する会」の高島敦子を応援している。「脱原発」を目指していたとはいえ、原発では「反原発派」だった。田畑、高島、桑原の三氏のように「自治」に強い意識を持っていると考えていたのでこれは以外だった。話を聞いていると結果的に「賛成」に投票することにしたようだった。
　山本自身も「あっきー通信」をつくりながら、勉強しながらどちらかを考えた。そして、住民投票の2ヶ月ほど前に巻町が行った住民アンケートの結果と回りが新潟市だということ、その時期に合併すれば区役所を置けるということで賛成を選んでいた。
　山本は巻町民が合併を強く望んではいなかった、それよりも取り残されるという不安が原因だったと考えている。ある年齢以上の人は「郡都・巻」が置き去りにされることを嫌ったようだ。「郡都・巻」は思い出の中で健在だった。
　議論が盛り上がらなかった理由を聞くと「原発と違って命の不安がせまるものじゃないですからね。あと、争点がわかりにくい。チラシも本当に興味ある人しかみないし。……白黒つけづらい問題ですからね」と答えてくれた。
　合併後の町の様子を聞くと町の人は「合併して何もいいことがないじゃないか」と言っているという。その理由のひとつはシンボルとなるハコモノが見えないから、らしい。国道460号の整備は進んでいるが確かにシンボルとなる建物はない。その後に質問した自治体の適正規模については悩んでいたが、具体的な答えは得られなかった。

　「原発反対の運動があったからこそ、活発に議論できる空間があったからこそ私という議員が生まれた」と山本は言った。原発の住民投票条例の制定を目指した95年の町議選挙では22名いた町議のうち、それまで1人だった女性議員が4名になった（女性議員割合18%）。それ以降、99年の6名（27%）。03年では定数は20名に減ったが6名の女性が当選した。（30%）。新潟県内の町村議員の女性割合は4.2%（05年）、全国でも4.9％（01年）しかない。女性進出の割合が飛びぬけて高い。原発の住民投票の影響はこんなところにも及んでいた。

　脱原発を掲げた新しい風、山本亜希子は新潟市との合併後の新潟市市会議員増員選挙に臨んだ。合併に伴い人口比で割り振られた3議席を前町長、町議などで争う激しい選挙だった。当選したのは巻町最後の町長・田辺新、日本共産党の竹内文雄と山本亜希子の3名だった。山本亜希子は2007年の参議院選挙に社民党から出馬を表明している。

　さて、合併に反対をしていた人はなぜ、反対だったのだろうか。次は合併反対運動をしていた数少ない町議の所へ向かった。「自治」の行く先はどうなったのだろう。

<strong>守りたかったもの</strong>
「必死で合併反対運動をしていました。住民自治を考えていましたから」と坂井恵子は電話口で力強く答えてくれた。坂井は2003年の町議選挙で初出馬、初当選し巻町の最後を町議として見届けた。
　坂井の支持母体「青い海と緑の会」は1994年に「原発推進」の佐藤莞爾が再選を果たした町長選挙で「原発反対」を掲げ出馬した相坂功を支援するために生まれた。それまで反原発運動をしていた人より一世代若い女性中心のグループが中心だった。運動経験がない女性がほとんどだった。テーマソングを流す街宣車で声を張り上げるのも、ドライバー、ナビゲーターもすべて女性。若い感性を持つ彼女たちは非常に目立った。町長選挙、議会選挙、住民投票、リコール運動と町内を縦横無尽に駆けめぐった。

　坂井の「合併反対」は徹底していた。初めての町議選から合併反対を訴えていた。町内をくまなく回った原発反対運動で培われたものは「すみずみまで目が届く範囲は3万くらいがちょうどいい」、「80万都市の新潟市になったってリコールに必要な署名が20万以上だよ」と話を聞きに行ったときの言葉にあらわれていた。
　合併の住民投票のときにも街宣して回り、つじ立ちし、チラシの折り込みや手配りも精一杯やった。それも「住民自治」を守るためだった。悲しくも「人の結婚とは違って離婚はできませんよ」と発した声は空中に消えていった。メンバーのほとんどが合併に反対だった「青い海と緑の会」でも議論や盛り上がりに欠けた。原発を問う住民投票の時のように住民が動くこともなかった。合併推進派は区役所を巻に設置し合併建設計画で潤い、郡都・巻が再び華やかになることをアピールしていた。それに対し反対派の動きは微々たるものだった。原発反対運動で世論が原発推進から反対に劇的に変わったことを体験している坂井の落胆ぶりがどれほど大きいか、ため息交じりの話し方や時折暗くなる表情から感じられた。
　原発の時には満席になった議会の傍聴席に座る人もまばらになった。原発推進派の議員が「ただのアンケートに過ぎない」と反発していた原発の住民投票結果には法的拘束力がない。国や県、東北電力は圧力をかけてきた。それでも、民意だけを後ろ盾に反原発は進んできた。坂井は言う「議員の一部ががんばってもダメなんだ。やっぱりみんなの力が必要だった。……原発は素手でも止めてやろうとみんな思っていたから」

　日本中の注目を浴びて条例制定による住民投票を成功させ、坂井は巻町を全国に誇れる町だと思っていた。「これだけの運動ができたのだから、巻町がどんな町になるのか期待していた」と言う。原発の住民投票を約１ヶ月後に控えた『新潟日報』は町の将来に関して記事を載せている。
　「原発計画が目の前にぶら下がっていたおかげでまちづくりの可能性に手を伸ばせなかった。自らの知恵を絞ることを怠ってきた――それが巻町の不幸だ」と指摘する立教大学の五十嵐暁郎教授（当時）の声を載せ、原発以外の街づくりに全国初の地ビールを作った「上原酒造」や巻町でワインの醸造販売、レストランなどを手がける「カーブドッチ」を紹介している。その記事は次の一文で締めくくられている。
「まちづくりとは何か、地域活性化とは何か――。八月四日の住民投票は、町民一人ひとりにそれを問いかけている」（『新潟日報』96年7月10日）。
　原発の住民投票を成功させた直後、坂井の耳にも「これからが大変だ」という声が入っていたが「みんなの力があれば、どんな素晴らしい町になっていくか『わくわく』していた」と言う。しかし、まちづくりは進まなかった。笹口町長が強調した「住民参加のまちづくり」のための行った懇談会や座談会も型通りの質疑応答が目立ち流れを作り出せなかった（『新潟日報』00年1月20日　一部改）。町民が立ち上げた「巻ビジョン研究会」の設立や前出の山本亜希子が参加した旧庄屋保存会の活動なども町全体に広がることはなかった。原発反対派、賛成派の構図がそのまま笹口町長派と反笹口派とに二分し、事ある毎に対立する議会。原発で割れたままになった町は動けなかった。笹口町政の8年間に原発以後が見出せずにいた。
　そんな状況を坂井は「足踏みをしていて前に出られなかった感じがする。だから合併に流れたのだと思う」と言った。

　坂井は田辺町長が提出した「新潟市との合併の可否を問う住民投票条例」の採決に最後まで「迷った」と言う。そして今では賛成のために起立したことを後悔している。起立というよりは中腰に近かった。「気持ち的に『反対』だったような気がする」と坂井は言った。「住民投票はいいことだけれど…すっきりと結論が出なかった」。その言葉には町民がつくりあげた「住民投票」とは違った何かを感じ取っていたのかもしれない。


<strong>第五章　「郡都・巻」のプライド</strong>

<strong>合併の理由</strong>
　巻町最後の町長、田辺新（たなべあらた）は足早にこちらに向かってきた。吹き抜け構造の地上7階、地下2階の近代的な新潟市役所で会うことができた。「お忙しい中、ご無理を言って申し訳ございません」と言うと「いえいえ」と笑顔で返してくれた。エレベーターで「眺めが良いほうがいいよね」とすでに点灯していた5階のボタンに加えて6階を押した。案内されたのは議場がある6階。ラウンジなのだろうか、廊下なのだろうか、判断がつかないまま並べて置かれていたソファーに座った。ガラス張りの窓が長く続き、等間隔に灰皿が置かれていた。「市街地を眼下に見渡せる」ほど景色には恵まれていなかったが曇り空でも光が十分差し込んでいて、ほど良い明るさといったところ。
　1944年（昭和19年）生まれ。巻町農政課長を辞め2000年の町長選挙に出馬するも前職の笹口孝明に267票の僅差で敗れる。04年1月の町長選挙では「実行する会」の高島敦子に4200票の大差をつけて初当選。巻町長に就任するとすぐに合併懇談会を設ける。5月に市町村合併に関するアンケートを行い、8月8日に新潟市との合併に問う住民投票を行った。賛成8808票、反対5451票、投票率58,7％の結果を受けて新潟市との合併協議に入る。05年10月10日に巻町は新潟市と合併。その後、新潟市と巻町との合併に伴う市議増員選挙で2位以下に4700票差をつけてトップ当選をした。
　委員会の合間を縫って会ってくれた田辺は合併後の住民の様子から話し始めた
「あのね。巻町の時には住民のみなさんが直接町長にものを申せば、大抵のことはできたんだよね。ところが……」

　自主管理の住民投票から10年後に巻町はその歴史を閉じた。全国初の条例制定による住民投票を行い、リコール、直接請求が繰り返され「民主主義の学校」とも呼ばれるほどになった町は自ら新潟市との合併の道を選んだ。「なぜ巻町は合併を選んだのだろうか」という問いに答えてくれた旧巻町民は、まわりが新潟市になっておいていかれる。財政的にやっていけない。今なら区役所を巻に置ける。住所が新潟市になれる。特に理由はない。時代の流れ。合併特例債。財政規模が大きくなれば大きな仕事ができる。などと答えてくれた。そして「住民自治」について考えた人は極めて少なかった。
　原発の住民投票のように町民の活発な動きが見えなかったのは白黒つけづらい。町民が関わる争点が見出しにくい。直接的な命の不安はない。そして論争は避けたい、争いはまっぴらだという10年間の反動があった。

　合併を推し進めた当時の巻町の背景には「発展」を望む「郡都・巻」のプライドがあった。寂れる商店街。停滞していた地元経済。増える財政赤字。沈みつつあった巻町に危機感が広がっていった。特に町の有力者たちはその想いが強かったのだろう。少なくとも“今”、合併をすれば区役所が巻に設置され地域の中心地ではいれる。合併特例債で建設計画をつくり、実行もできる。停滞した8年間を払拭し、華やかだった「郡都・巻」の幻想の続きを見ようとしたのだ。そして、消極的とはいえ町民もそれにのった形となった。

<strong>望んだ「発展」</strong>
　もし、本当に「郡都・巻」のプライドが高いのであれば、新潟市に囲まれても財政を再建しながら凛と立ち続けるような自立を選べたかもしれない。もちろん「住民自治」の観点からその孤高の姿勢を期待してしまう。しかし、そうはならなかった。だからといって「実行する会」や原発反対派が将来のビジョンを提示できなかったことを、批判できるだろうか。次々に政策やうまみを掲げて政治の波に乗ることをしなかったことにむしろ誠実性を感じる。運動が自己目的化しなかったのだ。ドミノ式に次の運動が出るまでの時間がなかったのかもしれない。
　「住民自治」を捨て自分たちのまちづくり意識を育てられなかった巻町への社会学者・中澤秀雄の指摘は手厳しい。中澤はこの十年間に何度も巻町を訪れフィールドワークを行っている。

　まちづくりとは巨大資本投下だという成長主義の先入観・呪縛から抜け出せず、自ら一歩を踏み出すことができなかった町民も、内発的発展を実現できなかったことへの責任は免れないと私は考えている。（中澤秀雄『住民投票運動とローカルレジーム』）

確かにそのとおりだと思う。ぐうの音もでない。「合併」で巻が目指したものは西蒲原の拠点としての役割を継続することだった。そのために、「郡都・巻」の維持のために合併特例債を利用した「発展」が不可欠だった。
　原発のときにも「郡都・巻」は「発展」を望んでいた。街中でこんな話を聞いた。「不景気になると原発があったほうが良かった。地震や原発事故があるとやっぱり原発がなくてよかった。という声が聞こえてきますよね」。巻町民の中に原発は付いてまわっていた。原発からは脱却できなかったようだ。そして時間を超え、原発で「発展」を望んだ流れは合併のときに再び顔を出した。中澤の指摘のように同じ構図が繰り返されている。
　とはいえ、「郡都・巻」のプライドがなければ日本初の住民投票すら行われなかったのも確かだろう。政治的思惑や経済的駆け引きが複雑に絡まりあって作り出された歴史と風土のおかげで残っていた町有地。原発住民投票運動でも「郡都・巻」は付いて回った。原発の住民投票運動をやっていた当時の巻町民は外部からの多くの支援を断っている。政党、党派、反対派から離れ自分たちのことは自分たちで決める。干渉を拒んだその姿勢は「巻モンロー主義」だと批判された（桑原正史、桑原三恵『巻原発・住民投票への軌跡』）。この姿勢があったからこそ町民の信頼を得られたのだろう。加えて住民投票にもその考えは一貫している。「巻町の風土と歴史的事情のなかで行われた住民投票であって、すぐ一般化できるような経験ではない」と住民投票運動をした人は考えていた（中澤秀雄　前掲書）。
　「発展」から脱却できなかったが、全国初の住民投票運動は、かぎ括弧付きの“発展”を望んだ「郡都・巻」だからこそ成功できたということは忘れずにいたい。

　巻町民が作り上げてきた住民投票は議会と民意の「ねじれ」から「議会制民主主義を補完する」ものとして生まれた。それとは出自が全く異なる住民投票から何が得られるか。
「10年後、20年後、あるいは50年後に合併してよかったといわれるようにしなくてはらないと思うんだよね」と田辺新は話していた。
　安易な未来への丸投げはしたくないが旧態依然の町にもどり、合併を選択した町に桑原は言っていた。「……一見、50歩進んだことをすごいと思った研究者からは50歩から48歩まで戻るから、すっかり元に戻っているように見える。でも、よくみると2歩違う」と。20年以上コツコツと日の当たらない原発反対運動をやってきた経験から生まれた言葉だろう。
　もちろん過度の自治意識は禁物だが「郡都・巻」という霞のようなプライドを捨て、その先に自分で決めている自覚が根付くことを願ってやまない（もちろん自分も自覚的でありたい）。また、自覚を確かめるために区制度になっても多くの権限が委譲されることを願う。古くからの結びつきが強い巻町で地縁、血縁や西蒲選挙を超えて投票に向かった10年は終わった。傷を癒すために時代の流れに身をゆだねて、町はようやく落ち着きをとり戻し始めた。失ったものは大きいと思うがその先に何かあるのか。見守っていきたいと思う。巻町の最後は朝刊2面の最下段にひっそりと記されていた。

　＜新市＞新潟市（新潟県）＝新潟市と巻町が合併　（05年10月10日『朝日新聞』　全国版）
　
　
　
<strong>おわりに</strong>

　パソコンの液晶モニターには新潟市との合併を問う住民投票の結果が瞬いている。それをみて「故郷がなくなった」と特別な理由があったわけでもないが未練たらたらで悔やんでいたのは二年半前の自分だった。
　巻を離れてまもなく10年になるが今でもなぜか寂しい想いがする。海や山や田園が広がる風景や寂れていく町がおそらく急減に変わることはないのだが、なぜか受け入れられなかった。巻町の二度の住民投票を調べようと思ったのは06年の夏が終わった頃だった。思えば、失われた故郷への雪辱戦を試みただけなのかもしれない。
　巻町が熱く燃えていた時期の記憶は断片的にしか残っていない。「青い海と緑の会」のテーマソングや「原発は住民投票で」とけたたましく走っていた街宣車。TV番組で報道されていたことや一部のチラシの印象くらいだろう。意外と少ない。個別訪問を経験した記憶もない。おそらくそれは、外からみればはっきりとした原発推進派の家だったからだろう。だから無風に近かった。そして、原発の住民投票が終わって「決着が付いた」と思って自分も時代と共に流れていっていた。
　巻に関してはいくつかの出版物があり当時の様子を思い描くことは難しくなかった。特に中澤秀雄氏の『住民投票運動とローカルレジーム』には合併の住民投票までが細かく分析されていて、自分はただその後を追っていただけのような気がする。書き上げてみたものの何か独自性が見出されたのか、内容があるのか、正直自分には自信がない。それでもうすうすは感づいていた住民投票の大きな落差に戸惑いながら、なんとかここまでたどりつけたのは故郷に良い思いでがたくさんあったからだと思う。

　今回、取材に快く応じてくださった旧巻町の方々はもちろん、インタビュー以外にも『あっきー通信』を提供してくださった山本亜希子氏、執筆中の原稿を資料として渡してくださった桑原正史氏と多くの資料と情報を提供してくれた叔父の真田徳之助（原発推進派、町有地売却の原告のひとり）に心より感謝いたします。地元の方と接する機会が持てたのは何よりも代えがたい経験でした。なお、本文中、敬称は一部を除いて略させていただきました。
山下　祐司

<strong>参考文献</strong>
青い海と緑の会／編『住民投票行きましょう』
NHK「東海村臨界事故」取材班『朽ちていった命―被曝治療83日間の記録』 新潮文庫
伊藤守、渡辺登、松井克浩、杉原名緒子『デモクラシ－・リフレクション巻町住民投票の社会学』リベルタ出版
今井一『住民投票』岩波新書
桑原正史、桑原三恵『巻原発・住民投票への軌跡』七つ森書館
小林伸雄『ドキュメント　巻町に原発が来た』朝日新聞社
佐々木信夫『市町村合併』ちくま新書
菅沼栄一郎『村が消えた―平成大合併とは何だったのか』祥伝社新書
武田徹『「核」論―鉄腕アトムと原発事故のあいだ』中公文庫 
中澤秀雄『住民投票運動とローカルレジーム』ハ－ベスト社
新潟日報報道部『原発を拒んだ町―巻町の民意を追う』岩波書店
巻町編『巻町史　通史編　下巻』巻町
巻町編『原子力発電所建設に関する町民シンポジウム報告書』巻町
巻町閉町記念誌編集委員会編『光あふれる大地から―新潟県巻町閉町記念誌―』巻町]]>
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   <title>摂食障害の彼女は身近なあの子</title>
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   <published>2007-02-27T06:01:43Z</published>
   <updated>2007-02-28T02:09:43Z</updated>
   
   <summary>布施 綾子 　摂食障害は痩せることを強要される人間がなるというわけではない。ごく...</summary>
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      <![CDATA[<div class="entry-bodyNAME">布施 綾子</div>

　摂食障害は痩せることを強要される人間がなるというわけではない。ごくふつうの人に十分に発病しうる病気だ。もしかしたらすぐ身近な人も苦しんでいるかもしれない。この病気は本人もまわりも気づきにくいことが特徴でもあるのだから。
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      <![CDATA[<div class="entry-moreNAME">布施 綾子</div>


　2006年11月1５日、拒食症が原因となり、21歳のブラジル人モデルが死亡していたことが判明した。翌日の水曜には撮影のためにパリへと出発する予定だった。死亡当時アナ・カロリナ・レストン(Ａｎａ　Ｃａｒｏｌｉｎａ　Ｒｅｓｔｏｎ）は、174ｃｍという身長にもかかわらず体重が40kg しかなかったという。レキップ（ｌ‘Ｅｑｕｉｐｅ）というブラジル（Brazil）のモデル事務所に所属していたレストンは、死亡の3週間前に腎不全で病院に運び込まれていた。極度の衰弱によって抵抗力が失われ、薬も全く効かなかったという。


　摂食障害は痩せることを強要される人間がなるというわけではない。ごくふつうの人に十分に発病しうる病気だ。もしかしたらすぐ身近な人も苦しんでいるかもしれない。この病気は本人もまわりも気づきにくいことが特徴でもあるのだから。

<blockquote>ごはん、味噌汁、おかずの朝食</blockquote>
<blockquote>それからカレーライス・うどん・スパゲティー・食パン2枚・菓子パン３つ・シュークリーム２つ・プリン３つ・ポテトチップス２袋・アイスクリーム２つ・せんべい半袋・・・</blockquote>
<blockquote>ひとつ何かを食べては台所をうろつき、何度も冷蔵庫をあけ、戸棚をあけ食べ物を探す。</blockquote>

<blockquote>さすがにおなかが苦しい。早く出さなきゃ。出さなきゃ、吸収されちゃう。このままじゃ太っちゃう。もうムチャ食いはしないってあれほど誓ったのに…だめだなぁ。昨日も今日で最後、もう絶対しないって誓ったっけ。あぁ苦しい。もうこんなこと絶対にしない。明日からは健康的な生活を送るの、、だ。だ、ダメだ。もう限界。出さなきゃ！</blockquote>

<blockquote>トイレで便器の前にしゃがみこむと、のどの奥に指を突っ込んで、さっきまで食べていたものを吐き出す。何度も指を突っ込んで食べたものを出していると、唾液はもちろん、鼻水も涙もどんどん出てくる。それは食べ物だけではなく嫌な自分も吐き出しているような気になる。頭がジンジンして、手が痺れてくる。それはダメな自分に対する罰のような気がする。指を突っ込んでも何も吐き出せなくなると、まっすぐに立つことすらままならないほどに胸よりもでていたおなかはぺったんこになって、あばらが浮いている。</blockquote>

<blockquote>これで大丈夫。元通り。今日もいっぱい出したなぁ。罰も受けたし、あぁスッキリした。でもちょっとおなか痛いかも。そろそろ体やばいかな？まぁいっか。早くシャワー浴びて学校行かなきゃ。</blockquote>

<blockquote>ジャーっとトイレの水を流すと汚物と一緒に後悔や決意も流れていった。</blockquote>

極端な食欲不振とやせ状態については、17世紀後半から報告があるのだが、症例の急激な増加は、第二次大戦後から、特に1960年代以後である。しかし当初は、拒食タイプだけが注目されていた。日本では、1970年代になり、過食タイプの報告が多くなった。そして、従来から知られていた神経性無食欲症(思春期やせ症、拒食症)に、その対極にある神経性大食症(過食症)を加えて、それらの上位概念として、摂食障害(Eating Disorder)という用語が使われるようになった。過食症は、さらに、自己誘発性嘔吐や利尿剤、下剤乱用などの浄化(Purging)を伴うものと単にやけ食い(Binging)だけのものに分けられる。このほかチューイング(Chewing,噛み吐き)だけという特殊タイプもある。もっとも、これらの下位分類は個々の患者（とくに若年層）の病歴の中では、合併したり相互に移行する傾向があり、その場合には拒食期、過食期というように呼ばれる。一般に、拒食症(拒食期)のほうが年齢的にやや若くて、十代に多く、過食症(過食期)は20歳前後に多いという特徴がある。拒食症から過食症にという病状変化の傾向がある一方で、拒食からでなく、過食から発症するタイプは低年齢で発症する傾向があるという報告もある。嘔吐なしの過食タイプは、約９割がダイエットからスタートするが、過食嘔吐タイプはもっといろいろな発症の仕方をしている。従来、男女比は1対１0と、圧倒的に女性に多いとされていたが、これは治療に現れる患者の男女比で、潜在患者までを含めると、男女の差はもっと少なく、１対5程度であるという意見がある。日本における青年期から若年成人期の女性の過食症の有病率は１－３％だ。米国では、若い女性の０.１％前後が拒食症で、２％前後が過食症と推測されている。日本では、テレビが普及してきた 1960年代に拒食症が、コンビニエンス・ストアーが増えてきた75年以降に過食症が増えてきたといわれている。
　日本における摂食障害者の近年の傾向として、１．拒食症から過食症へ移行するケースの増加。　２．拒食症の既往のない過食症の増加。　３．特定不能の摂食障害者の増加、などが指摘されている。
　日本においては、摂食障害者の増加に対して、専門施設や専門医、専門スタッフの不足が続いており、専門医の疲弊傾向が強いといわれている。一方では、医療機関の中には、時間と手間のかかる治療を嫌がり、摂食摂食障害患者を敬遠するところも少なくないようだ。

<blockquote>身長158ｃｍ、体重43ｋｇ。鏡に映る姿はすらりとした体に軽やかなボブの22歳。</blockquote>
<blockquote>今の体、好き。やっぱり痩せてる方がかわいい（笑）ちょっとむくんでる？うー肌も荒れてるかも。やっぱ吐くのがまずいかなぁ。ふつうの食生活しなきゃ。お母さんも心配してるし。でも1口食べちゃうと止まんないんだよね。おいしそうなもの見ちゃうと我慢できないし。太りたくないよー。吐かなきゃうまく体重維持ができなくなったなんて、いつからだっけ？</blockquote>

　自然公園に隣接しているせいだろう。都心のわりに緑豊かな高校は空が広い。この広い空の下で生徒たちは思いっきり体を動かしている。陸上部に所属する私は毎日この大空の下を走ってる。およそ30名が所属する中で女子は少なく3分の1に満たないほどだ。そして短距離の女子はおそろしく少ない。幽霊部員の先輩と私だけ。だから練習メニューはもちろん男子とおこなわれる。走るスピードも筋力も私とは桁違いだ。けれど弱音なんか吐いていられない。誰よりも速く走りたい。高校生の私はすべてを陸上に賭けていた。きつく、つらい練習も「ありがとうございます。おつかれさまでした。」の最後のあいさつで吹き飛んでしまう。何よりもきつく、つらい練習があるからこそ練習後の仲間との語らいや、食事がとても楽しい。
　　　
100メートルや200メートルを専門としていたが練習を重ねるうちに専門種目の距離は伸び、400メートルが専門となっていた高校2年の夏、顧問の教師は私にこう言ったのだった。「女子全員で駅伝に出るぞ」と。出場校の少ない女子の駅伝では男子よりも上位を狙いやすいのだ。1年の冬に行われた校内のマラソン大会で意外な奮闘をし、3位に入賞してしまった。長距離に期待のスーパー中学生が進学してきている。このチャンスを使わない手はない。私は中長距離ブロックへの移動が決まった。短距離と中長距離とでは練習の質が全く違う。短距離では瞬発力を爆発させるためのパワー重視のメニュー。これに対し中長距離では持久力をつけるためのスタミナ重視のメニューだ。なんとか練習についていく日々。陸上は個人競技である。自分を追い込めながらそれを乗り越え記録を伸ばしていく。だから記録の伸びは自分の頑張りによるところが大きい。しかし駅伝となると話は別だ。走るときは1人だが記録は全員のタイムによる。よって、自分がチームに責任をもたなければならない。

<blockquote>はぁはぁ　まだ１キロも残ってる。でもついていかなきゃ。私が足を引っ張るわけには行かない。あんなに細い体でどうしてあんなにスタミナがあるの？足が重い。重い？重いせいか？</blockquote>
<blockquote>今夜の夕飯はハンバーグ。駅伝まで残された時間も少ない。
ガチ子なんて呼ばれるような体をしてちゃだめだ。短距離の体つきのままだったら記録は伸びないし、チームに迷惑がかかってしまう。痩せなきゃ。でも、どうすればいいの？運動は十分にしてるし。ごはん食べないとお母さんにきっと怒られちゃうだろうし。―――そうだ出しちゃえばいいんだ。食べてから出せば怒られることもないし、痩せるはず。指をのどの奥に突っ込めば楽に吐けるって、なんかに書いてなかったけ。</blockquote>
<blockquote>トイレへ行って、おそるおそるのどの奥に指を突っ込む。すぐに吐き気をもよおして、食べたものは吐き出された。それから夕食は食べた後に吐き出す日々が続いた。50キロあった体重は45キロまで減った。自分がおかしいだなんて少しも思わなかった。朝はきちんと食べているし、お弁当ものこしてない。夜吐き出すだけ。みんなには痩せてかわいくなったっていわれるし、走っていても体が軽い。</blockquote><blockquote>
体がフラフラして、めまいがする。なんだかだるい。なんのためにこんなに頑張ってるんだろう？どうしてこんなにきつい練習しなきゃいけないの？もう疲れたな。先生に腰が痛いって言って休ませてもらおう。
練習を少しずつ休むようになって、休んだ分だけ太っていくような気がした。それで朝は普通に食べるけれどお弁当は残して捨てて帰るようになった。そのぶん夜はおなかがすくから前よりもよく食べるようになった。そのうちにどうせ吐くならと心ゆくまで食べるようになった。</blockquote>
<blockquote>高校3年の夏、引退することにした。去年の駅伝はあと１つ順位が上だったら関東大会に駒を進めることができた。今年は駅伝経験も積んでいるし冬と夏を越しているのだからきっといいところまでいける、そういって引きとめられたけれど私には、力が残っていなかった。思うようにタイムは伸びないし、腰痛もひどくなる一方だ。よく風邪を引く病弱な体になった。なによりも何もする気が起きなかった。病弱になっていたのは心のほうかもしれない。だから受験を理由に引退した。あんなに陸上に賭けた高校生活は自ら拒む形で幕を閉じた。引退してからますます太っていくような気がして現役の頃以上によく食べ、よく吐くようになった。無気力でよく学校を休んだ。みんな勉強のために出席日数ギリギリなだけ出席して休んでいたから、私もそんな風に捉えられていたのだろう。みんなの前では明るくふるまっていたし誰にも気にされなかった。外ではあんまり食べないけれど家では吐けばいいと思ってものすごく食べていたから家族にはばれていたはずだ。親は遠まわしに大丈夫かと聞いてきたけれど、それきりだった。弟は私のあとのトイレが臭いと騒いでは親にたしなめられていた。高校生という難しい年頃の女の子の扱いにそうとうの気をつかっていた。</blockquote>
<blockquote>もうイヤだ。こんなにつらいのにどうして生きてなくちゃいけないの？なんのために生きてるんだろう？どうせ死んじゃうのに。死んだらそれで終わりなのに。お父さんとお母さんがこんなこと知ったら悲しむだろうな。生まれてきたこどもを一生懸命育てて、こどものために必死に働いて。こんなこどもでごめんなさい。期待はずれのこどもに育ってごめんなさい。</blockquote>

患者は自分の状態についての自覚が乏しいので、治療を受けることに対する抵抗が強く、治療への導入は困難である。とても頑固に見えるが健康な人の頑固さと異なり、心の奥底には挫折感や空虚感といったものが隠されている。　
　摂食障害には主に神経性無食欲症と神経性過食症の２つの病態がある。
<strong>神経性無食欲症（拒食症）</strong>
　<主徴>　無食欲,やせ,無月経
　<精神的>　活発,活動的,治療を拒否する
　　　　　　どんなに痩せていても自分が異常だとは認めない
<strong>神経性過食症（過食症）</strong>
　<主徴>　「気晴らし食い」と呼ばれる過食行動を頻繁にくり返す
　　　　　　過食直後に嘔吐あるいは下剤を乱用する浄化行動が見られる
　<精神的>　無気力,抑うつ的,治療を求める
　　　　　　自分が異常だと自覚している
このように両者は全く正反対の病態のように見えるが、拒食症患者が数ヶ月後に過食症へと症状変遷したり、逆に、過食症患者がしばしば拒食症のような症状を呈することがある。つまり、拒食症と過食症は全く別の疾患ではなく、相互に移行したり重複したりするような病態であり、その患者は非常に多様でその病像も複雑である。

<strong>発病状況</strong>
<strong>心身症型発症群</strong>＝職場、学校、家庭などでの心身のストレスが誘因となる
<strong>気晴らし食い型過食症</strong>
心身のストレスを過食という方法で解消しようというもの。
<strong>食欲低下型拒食症ないし過食症</strong>
心身のストレスにより食欲低下状態になり、その経過中に拒食あるいは過食になるもの。

<strong>ダイエット型発症群</strong>＝美容や健康上の理由から意図的に食事を制限して食行動の変調をきたすもの
<strong>無謀減量型拒食症ないし過食症</strong>
ダイエットにより当初の減量目標を達成してもさらに欲張って減量を継続することで発症するもの。
<strong>自発嘔吐型拒食症ないし過食症</strong>
かなりの忍耐を要するダイエット減量法ができない人が食後に自発的に嘔吐して減量を図るもの。

<strong>食行動異常</strong>
<strong>拒食症患者の場合</strong>
　　　心身のストレスによる食欲低下orダイエット
　　　　　　　↓
　　　意図して食べない（心理的）
　　　　　　　↓
　　　食べようにも食べられない（身体的）
拒食症では、心理的要因から無月経や無食欲などの身体症状が引き起こされ、内分泌異常や電解質異常などの身体的変調が精神症状の出現を助長することによって、さらに食行動が悪化するという心身相関的悪循環が形成されている。
<strong>過食症患者の場合</strong>
　　　　食べたい（強い衝動）
　　　　　　　　↓
　　　　短時間で大量の食物を摂取する（無茶苦茶に詰め込む）
　　　　　　　　↓
　　　　不食または浄化行動
過食の衝動は健康的な空腹感や食欲にもとづくものではなく、これを自制するのは極めて困難である。過食症の多くの患者は、「なぜこのようなあさましい行為が止められないのか」と自己嫌悪の気持ちを抱いている。そして自助努力の限界を自覚し医学的治療を求めるようになる。

<strong>摂食障害の原因</strong>
摂食障害の原因は人によって様々である。はたから見れば“些細な”事が引き金となっていることが多い。いずれにせよ他人が簡単に分析できるほど単純ではない、というのが真実のようだ。主に見られる共通点を挙げると、次のようなものがある。
過激なダイエット、 肉親の死などの精神的ショック、 生活環境の変化などによる過度のストレスなど
　また、摂食障害になりやすい性格、あるいは、摂食障害の人に共通して見られる性格は次のようなものである。まじめ，神経質，完璧主義，努力家・傷つきやすく、いつも人に気を使う・ 比較的美意識が強い・ 表向きは家庭に恵まれているが、内実は母との軋轢がある・他者依存的な傾向が強い・便秘やむくみを異常に気にし若い頃から下剤、浣腸、利尿剤を常用している

<strong>摂食障害の特徴</strong>
1. 空腹感，満腹感を感じにくい。
2. 痩せているという自覚がなく、むしろ自分は太っていると錯覚している。
3. 拒食症の場合、体重は著しく減少している割に元気で活動的であり、通勤や通学を続ける。また、治療に対しても非協力的で、他人の注意も全く意に介さず、マイペースを崩さない傾向が強い。
4. 拒食症の場合、精神的には無気力・抑うつ的で、自分が異常だと自覚しており、治療を求める。
5. ホルモン異常による不整脈や無月経，基礎代謝の低下を伴う。
6. 下剤，利尿剤など薬に対する精神的依存が強い。
7. 嘔吐や下剤乱用などの「浄化」と呼ばれる代償行動をとる。
8. 自傷行為を伴うことがある。
9. 他人のために料理をしたり、他人に執拗に食べ物を勧めたりして、自分以外の人間を太らせようとする行動をとる。

<strong>摂食障害の合併症</strong>
<strong>過食と嘔吐の結果生じるもの</strong>
<strong>虫歯，歯のエナメル質浸食</strong>
嘔吐をくり返すと、胃酸が何度も口の中に上がるため、歯のエナメル質が解けて歯がボロボロになり、痛みが出たり、虫歯が治りにくくなったりする。
<strong>唾液腺炎</strong>
過食が習慣になっていると、食べ物が口に入っている時間が長いためいつも唾液腺が刺激された状態になり、唾液腺が大きく腫れることがある。さらに、口腔内が不潔な場合、細菌が唾液腺の中に入って炎症を起こし、かなり痛むことがある。
また、嘔吐するのが日常的になっている人が、治療の途中で嘔吐するのを止めるようになると、それまで大量に流れていた唾液の量が減り、唾液腺の中が詰まりやすくなって炎症が起きるということもある。
<strong>電解質のアンバランス</strong>
胃液や腸液の中にはカリウムが含まれており、嘔吐したときや下剤を多量に使って水分の多い便が出た場合などには、このカリウムが多量に失われ、かなり深刻な低カリウム血症になることもある。　
心臓はカリウムの増減にかなり敏感に反応するため、カリウムが減少すると、不整脈になったり心臓が止まったりもする。また、カリウムは神経の働きにも影響を及ぼすので、手足がしびれる・突っ張るといった自覚症状が出ることもある。

<strong>慢性の栄養失調の影響</strong>
<strong>冷え性，低血圧</strong>
人間の体温は普通まわりの空気の温度より高く、放っておけばどんどん熱を放散することになるが、実際は脂肪組織に断熱効果があり、適切なエネルギーの食べ物を摂取することで、３６度以上の体温を保っている。拒食プラス過食の症状が強くて体重が軽い場合、体温や血圧はたいてい普通の人より低い。これは、脂肪組織の減少により熱が奪われやすくなっているということもあるが、身体に入ってくるエネルギーがあまりにも低いので、無駄な熱やエネルギーを使わないほうに、体温も低く、脈もゆっくりになっていくためである。つまり、低体温，低血圧，徐脈といった、言わば冬眠中の動物のような状態になってしまうのである。
<strong>貧血</strong>
血液中の赤血球は作っては壊れていくものなので、摂食障害により栄養が不足すれば新しい血球は作られず、赤血球が少ない状態つまり貧血になる。赤血球は酸素を全身に運搬する役割を担っているので、貧血が進むと疲れやすかったり、ちょっとしたことで動悸がしたりする。
<strong>骨粗鬆症</strong>
骨は骨細胞と破骨細胞によって毎日作られたり壊れたりしており、これには様々な物質が関与してくるが、その一つに女性ホルモンがある。摂食障害で脂肪の量が減ると、活性のある女性ホルモンが減るため、骨にカルシウムの沈着が少なくなって老人と同じような状態になり、骨粗鬆症になってしまうことがある。
<strong>無月経，無排卵</strong>
女性ホルモンは卵巣から分泌されるが、その分泌は視床下部-下垂体-卵巣という経路で調節されるため、栄養状態や精神状態の影響を受けやすい。摂食障害で体重が減少したり、精神的に非常に不安定になったり、極端な低栄養状態が続いたりすると、ホルモン分泌に異常をきたし、無月経や無排卵になることがある。また、エネルギー不足のために、子宮そのものが小さく萎縮してしまうこともある。

<strong>身体的治療</strong>
<strong>薬物療法</strong>
摂食障害の治療は心理（精神）療法が主体であり、薬物はあくまでも補助的療法だが、病気から派生する心身の症状を軽減するのに効果を発揮する。摂食障は身体症状・精神症状・行動が悪循環しながら悪化するので、薬を適切に使うとこの悪循環を拡大せずにすむ場合もある。
精神面の改善に対しては、抗不安薬や抗うつ薬がよく処方される。低栄養がある場合には、栄養補給としてアミノ酸製剤や栄養剤を使うこともある。その他に、消化薬，吐き気止め，便秘予防，自律神経調整薬，ビタミン薬，胃腸機能調整薬などが用いられる。
<strong>栄養指導</strong>
摂食障害では栄養指導は重要な治療法で、食べ方や食べる量を強制するものではなく、痩せたいという願望や心理状態を受け入れて、現状に即したアドバイスが行われる。無理に体重を増やすことではなく、できる範囲で栄養バランスをととのえることを目的としている。

<strong>心理・行動面への治療</strong>
<strong>家族療法</strong>
家族療法は、個人ではなく家族全体という視点に立って治療を進める方法である。個人がどうかというより、家族全体として相互がどう影響しあって反応しているかを重視して考え、また、過去にこだわらず“今ここで、なにをすべきか”を主題とした具体的な問題にとり組む。子供の摂食障害では、家族療法がよく行われるが、家族が互いに強く絡みあった関係になっている場合などは、この療法が効果的である。個人としての自立をすすめ、父母は父母として子供は子供としての世代間のけじめをつけ、家族が摂食障害以外の本質的な問題に目を向けるようになることが治療の目的となる。

<strong>家族カウンセリング</strong>
<strong>病気と患者への理解</strong>
　摂食障害への理解を深めてもらうと同時に、患者の気持ちを理解できるように話し合う。もし誤った認識や対応があれば、どう変えていくかを考える。
<strong>治療への動機づけ</strong>
　治療には家族の協力が不可欠であることを理解してもらい、積極的な治療参加を求める。
<strong>不安の軽減</strong>
　これからの治療についてよく知ってもらい、過剰な不安をなくしてもらう。
<strong>治療協力者としての自覚</strong>
　発症の原因は家族の問題だけではないことを理解してもらい“今、これから”に目を向けて、ともに治療協力していくという自覚を持ってもらう。
<strong>患者への対応の具体的指導</strong>
　日常生活での適切な対応方法を知ってもらう。
<strong>家族関係の変容</strong>
　家族の“誰が悪い”ということではなく、家族を全体としてとらえ、相互関係を考えながら改善するように話し合う。
<strong>症状の肯定的位置づけ</strong>
　発症は、患者や家族のあり方を向上的に変化させるチャンスであることを理解してもらう。
<strong>心理的問題への援助</strong>
　家族に心理的問題があれば、その解決について話し合う。
<strong>家族内関係の調整</strong>
　患者の兄弟関係や他の同居家族との関係などについて話し合い、問題点があれば改善する。
<strong>行動療法</strong>
習慣になっている不適切な食行動をなくし、適切な食行動の形成をめざす治療法である。症状を除くだけでなく、正しく認識して適切な食行動を作るための行動療法的カウンセリングも行われる。

<strong>入院して行なう過食症の行動療法</strong>
「自己統制法」がよく用いられる。治療機関によって方法に違いがあるが、例えば以下のような手順で治療が進む。
1. 摂食障害の身体症状，合併症，予後などについて説明を聞いて、入院の目的を理解し、治療への意欲を高める。
2. 入院後３日～１週間は病棟生活に慣れるための期間で、その間に身体的検査や食事摂取量調査、心理テストなどを受ける。
3. 検査結果などの説明を受け、それに基づいた治療目的，治療方針，治療期間などを話し合って決定する。
4. 過食・嘔吐などの排出行動の制限をどうするかなどの食行動制限についてや、食事メニュー（栄養士と相談の上）を決める。低体重のときは、体重増加を目標に入れることもある。同時に、食事やその他の日常生活に関した行動プログラムを作成し、それを守るよう約束する。次いで、外泊・外出・面会・安静度などの日常行動の制限を決め、その制限をどの時点で解除するかについても決める。過食や嘔吐があったときは「誰がどのようにストップさせるか」などについても具体的に打ち合わせる。これらの決定は、治療者が一方的に通告するのではなく、本人の意志を確認しながらともに考えるのが特徴で、目標も制限も治療者との話合いで決め、実行は本人に任される。
5. 約束項目に関することをグラフや日記に毎日記載し、それについて治療者と話し合う。誤った思い込みや考え方があれば治療者が指摘する。
6. 約束を守って逐次目標に到達すると、面会や外出などの日常行動の制限が段階的に解除されていく。外出・外泊が可能になれば病院外で摂食して、うまくいくかどうかを試す。１週間以上の外泊をしても過食や排出行動が出ず、３食がある程度摂取できるようになれば退院となる。退院前には、今後の生活計画を立てて、できるだけ活動的な生活を目指す。
<strong>集団療法</strong>
集団療法とは、計画的に組織された集団の場を設定することで、対人関係を体験し、自己評価の向上や適切な行動を学んでいく治療法である。グループを組んで、話し合いをしたり心理療法的な活動を行なったりする。

<strong>認知行動療法</strong>
摂食傷害の発症には、自己概念の形成が関係しているといわれており、また、自分に起こる物事に関する偏った思い込みもある。認知行動療法では、こうした思い込みを是正していく。

<blockquote>そういえば高校の部活から始まったんだった。それがずるずると気づいたら自分で自分を止めれなくなってたんだっけ。やめたいのに食べ始めたらおなかいっぱいで苦しくなるまでやめられなくて、だけど太りたくないから吐き出して。なんのためにこんなことやっているのかそんなことわからない。ただ大きな病気になる気配はかんじられないし、習慣になってしまった。今はおもいっきり食べると排便もしっかりできるから気分がさらにすっきりする。</blockquote>
<blockquote>家族に気づかれながらも隠くれて、過食してその後に吐くということを続けてきた私に突然の転機が訪れる。それは22歳の寒い寒い冬のある日、レイプされかけた私は夜中にパニックになりながら帰宅した。尋常でないほどに泣き続ける私を両親はそっと抱きしめ続けてくれた。泣きながら何を言ったかは覚えていないが今までのつらいできごとも話していたらしい。</blockquote>

<blockquote>うーー信じられないほどに目が腫れてる。こんなんじゃどこにも行けないよ。もうひと眠りしてゆっくりお風呂にでも入って、それからなにしよう？春休みだもん。のんびりしよう。</blockquote>
<blockquote>いつもなら嫌なことがあったら食べて、食べて、食べて、吐いて…それでスッキリする。ヒマだし何か食べるかってとこだけど、そんな気にもならなかった。今日は不思議と心は軽やかだった。</blockquote>

　
　その後彼女は、家族の協力の下に回復に向けて広い空の下を元気よく走っている。なにしろ帰ったらおいしい夕飯が待っているのだから。
　摂食障害になる原因はまちまちだが、根底には家族関係の不和があることが多いといわれる。良い子や完璧主義の子がなりやすいともいわれる。しかし
実際の原因はさまざまで、型にはめて考えることのできない病である。その上、誰もがこの病に陥る危険性を有している。これから患者増加が予想される病なのではないだろうか。断片的な情報だけではなく正しい知識と理解をもたなければならない。もしかしたら気づかないだけで、すぐそばで苦しんでいるのかもしれないのだから。]]>
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   <title>まちを変える鉄道　〜 つくばエクスプレスより</title>
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   <published>2007-02-27T05:27:03Z</published>
   <updated>2007-02-28T02:09:55Z</updated>
   
   <summary>二階堂 正聡 　正直言って、東京都内を走っている地下鉄の深さの比にならない程、地...</summary>
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      <![CDATA[<div class="entry-bodyNAME">二階堂 正聡</div>

　正直言って、東京都内を走っている地下鉄の深さの比にならない程、地中深くにホームがある、つくばエクスプレス（TX）秋葉原駅。このTX秋葉原駅は、ちょうど真上にJR山手線秋葉原駅があるにもかかわらず、乗り換えのために、徒歩８分を要するほどの深さである。
　TXはどれだけ快適に、どれだけ速くつくばまで移動できるのだろうか？そして、完成して約１年、TX沿線がどのように変わったのか、その様子も気になる。
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      <![CDATA[<div class="entry-moreNAME">二階堂 正聡</div>

<strong>新たな移動手段</strong>

　地下深く続く道のりは、どこまでも続く。ホームはどこまでいけばあるのだろうか？　改札までに、３つのエスカレーターが続き、ようやく改札があり、それを抜けるとまた長いエスカレーターが２つ続き、やっとのことでホームに辿り着く。地上からホームまで移動するために、きっぷの購入する手間も含めて４～５分かかる。ちなみに、あまりのホームまでの道のりの長さを敬遠してか、一気に地上から改札、改札からホームへ移動できるエレベーターには、行列ができる。
　初めて乗車する人が駅に向かうとあまりの駅ホームの深さに、間違いなく驚くのではないだろうか？
　正直言って、東京都内を走っている地下鉄の深さの比にならない程、地中深くにホームがある、つくばエクスプレス（TX）秋葉原駅。このTX秋葉原駅は、ちょうど真上にJR山手線秋葉原駅があるにもかかわらず、乗り換えのために、徒歩８分を要するほどの深さである。
　TXはどれだけ快適に、どれだけ速くつくばまで移動できるのだろうか？そして、完成して約１年、TX沿線がどのように変わったのか、その様子も気になる。
　私は、学生時代に筑波大学に在学していたのだが、都内への交通手段は、つくばセンターから東京駅を行き来する高速バスか、つくばセンターから市内バスで JR土浦駅まで移動し、常磐線で上野まで向かうかどちらかに限られていた。いずれの交通手段も、６０分以上はかかり、バスを使用するので、道路の交通状況で到着時間が大きく変わってくる。当時は、このような近未来的なというと言い過ぎかもしれないが、つくばまで１時間もかからずに移動できる電車が通るなど、考えもしなかったし、夢のまた夢としか思っていなかった。

<strong>―念願の高速鉄道TX―</strong>
　最新の鉄道技術を盛り込んだ、安全性、安定性、そして高速性のいずれも最高水準の鉄道。首都圏と筑波研究学園都市まで４５分で繋ぐ夢の鉄道。つくばエクスプレスに対して、このような表現で、メディア、自治体の広報誌などで紹介される。
　TX の全駅施設は、ホームと車両床面との段差を極力小さくして、スムーズな乗降ができるような、だれにでもやさしいユニバーサルデザインを取り入れており、さらに、障害者や高齢者に配慮したエスカレーターとエレベーター、ゆとりある改札口、わかりやすい案内表示や多機能トイレ等の導入で、快適性を追求している。安全面においては、最高時速１３０キロで走ることのできる車両に対して新幹線並みの自動列車制御装置（ATC）と自動列車運転装置(ATO)を搭載し、仮に運転士がいなくとも列車は自ら減速や停止を行えるのである。また各駅にはホームからの転落を防止するための可動式ホーム柵を設けている。
　そして、今年７月に首都圏新都市鉄道とインテル、そしてNTTブロードバンドプラットフォームの３社で、TX全２０駅構内と一部の車両に、インターネットに接続する無線LANを配備し、開業２年目を迎える８月２４日には、高速に移動する列車内でも安定した通信状態でインターネットに接続することのできるサービスを開始し、利便性がさらに向上する。

　そんな夢の最新型鉄道に乗ろうと、地下奥深くのホームで電車を待つ。
　午前１０時３０分、つくば行き快速電車に乗車する。秋葉原～つくば間の車両に設けられているセミクロスシートいわゆるボックスシートに座り、外の景観を眺めながらつくばに向かうことにした。
　TX は、各駅停車である普通電車ほかに、区間快速、そして快速電車が設けれており、それぞれ２０駅、１６駅、そして９駅に停車する。秋葉原～つくば間の所要時間は、各駅停車を利用したとしても１時間以内で移動できる速さだ。まさに通勤圏内の時間である。秋葉原駅から北千住駅までの５駅はすべての電車が各駅に停車する。そして、北千住駅以降で各電車、停車駅が異なってくる。
　地下奥深くから発車する秋葉原駅発つくば行き快速電車は、南千住まで地下奥深くを走行する、もちろんその間、景色は何も見えない。雰囲気は地下鉄と何ら変わらない。
　ちなみに、電車広告の中に貼られていた、つくばエクスプレスクイズによれば、TX路線の最深部は、新御徒町駅～浅草駅間の地下４８メートル、約１６階建てのビルがすっぽり入ってしまう深さだそうだ。現に新御徒町駅で乗り換えることができる都営大江戸線は、TXに乗り換える時は、あの地底深くにあることで有名な大江戸線の構内からさらに下る訳だから、如何に地下奥深くのところに駅があるかわかる。
　TXは乗っている間は非常に静かである。敷かれているレールは新幹線同様、ほとんど接ぎ目が無い。他の電車で走行中によく感じる「ガタンゴトンガタン・・・」という音と揺れは無い。また、急カーブになっている箇所が設定されておらず、体が持っていかれるような横揺れもほとんどない。
　南千住を過ぎると、北千住に向かう途中で、電車は一旦地上にでる。隅田川を越えた電車は地上駅である北千住駅に停車する。隅田川と荒川に挟まれたところにある北千住駅は、JR常磐線、東京メトロ日比谷線、千代田線、そして東武線と多くの鉄道が乗り入れる都内東部の玄関口である。４線も鉄道が乗り入れているせいか、はたまた２つの河川があるせいか、北千住駅を地下に置けなかったのかもしれない。北千住駅を出ると、荒川を越えてまた地下に潜ることとなる。快速電車は、ここから南流山駅まで間の４駅を通過することになるのだが、北千住駅以降にある青井駅近辺や六町駅は、足立区の中でも都営住宅が非常に多い地域であり、区画整理がうまくできなかったためであろうか、もしくは、近隣住民の騒音問題に配慮したためなのか、北千住以降また地下に潜ってしまう。その後、電車は六町駅を過ぎると、また地上に顔を出し、八潮駅、三郷中央駅の間、しばらく地上を走ると地下駅である南流山駅に向かうといった感じで、土地柄の事情と駅の立地条件等の問題なのだろう、TXは地上と地中を行き来する。まさに、建物、川、そして他社鉄道といった障害物を巧み切り抜けるかのように都心を抜ける。上下し、曲がりくねりながら都市を抜けて行く路線は、まるでTXが開通するまでの軌跡を象徴しているかのようだ。それは決して順風満帆ではなかったのだ。

<strong>（鉄道開発～世紀を超えて）</strong>
　２１世紀、最初に産声を上げた新規通勤鉄道、などと言うと聞こえはいいが、つくばエクスプレス（TX）が誕生するまで、多くの歳月を費やし、多くの人々が関わり、多くの資金が投入された。
　TX 開業までの歴史を辿ると、約３０年前の１９７８年に当時茨城県の竹内藤男知事（故人）が発足した「県南県西地域交通体系調査委員会」による、TXの前身でもある「第２常磐線」構想の発表までさかのぼることになる。そして、一県知事の強い思い入れで端を発した壮大な構想が、茨城県関係者の切なる思いとなり、長年の働きかけによって、ようやく国に認められるまで７年を要することになる。約２０年前１９８５年、当時運輸大臣の諮問機関であった運輸政策審議会（運政審）が「東京圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備」についてまとめた答申の中で、常磐新線は「都市交通整備上、喫緊の課題ある」と位置づけられた。ここで初めて、政府機関によって鉄道建設計画が認められることになるのである。
　第２常磐線の名前の通り、当初は現在の常磐線に平行する新線として当時の国鉄（現在の東日本旅客会社――JR東日本が建設を担当すると想定されていた事業だった。１９７８年７月の運政審答申の中で常磐線については、「早期に、国鉄などの関連鉄道事業者、地方公共団体、金融機関などからなる検討の場を設け、整備の具体化を図る」と求めており、これを受けて１９７９年の９月には、運輸省と、東京都、埼玉県、千葉県、そして茨城県の１都３県、JR東日本からなる「常磐新線整備検討委員会」が設置されているほどである。しかし、JR東日本は事業の中軸として期待されていながら、民営化後の経営方針で、基本的に大きなリスクを抱えるのは難しいという判断で、常磐新線事業計画から離脱することになる。
　このJR離脱というアクシデントの後、県内鉄道体系の整備への思い入れが強かった茨城県、浅草方面から足立区への鉄道整備に前向きな東京都、周辺自治体、そして二百社あまりの民間企業の出資により、第３セクター首都圏新都市鉄道が１９９１年に発足させることとなる。その時の出資の割合は、東京が４、茨城が３、千葉が２、そして埼玉が１と決まった。１９９２年には、第１種鉄道事業免許を取得、ここでようやく鉄道整備事業の着工への準備に着手されることとなる。
　その後、１９９４年１０月の秋葉原駅の起工式を皮切りに、沿線２０駅と区間工事が次々と着手され、開通年次の２０００年での開業には間に合わなかったものの、５年遅れの２００５年に全線開業を迎えることとなる。
　かくして、１９７８年に構想された第２常磐線はつくばエクスプレスと名を変え、東京都足立区・荒川区・台東区・千代田区（秋葉原、新御徒町、浅草、南千住、北千住、青井、六町）、埼玉県（八潮、三郷中央）、千葉県（南流山、流山セントラルパーク、流山おおたかの森、柏の葉キャンパス、柏たなか）、茨城県（守谷、みらい平、みどりの、万博記念公園、研究学園、つくば）の１都３県、計２０駅の鉄道として、まさに世紀を超えて念願の開業を迎えることとなった。鉄道建設費は９千４百億円、沿線の開発面積は約３千３百ヘクタールに及び、全長五十八・三キロの総延長距離の間に道路との踏切は１つもない全線立体交差方式の未来型鉄道の完成である。


　終点のつくば駅まで残り１０駅、TX沿線駅で千葉県最南端の駅である南流山駅を出発すると、ほとんど地上を走るのだが、つくば駅に到着するまでにある途中駅は、一部を除いて、まだまだ都市開発が進んでいるはとても言えない状況である。駅の周り、沿線に広がるのは見渡す限りの田んぼ、つい３０分前に商業ビルの建ち並ぶ電気街秋葉原にいたとは思えない落差である。それでも、そんな一面に広がる田園風景の中でも、遅ればせながらマンションが駅前になると所々で着々と建設されている光景が目に入ってくる。また商業施設の建設も若干ではあるが見受けられる。
　このような田園風景に近代的な高層マンションというアンバランスな光景を繰り返し目にしながら、TXの下り終点駅のつくば駅に到着する。当たり前だが、時間通り１１時１５分に到着、快速電車の所要時間である４５分で到着することができた。
　TX 線２０番目の駅つくば駅も、秋葉原駅同様、地下駅である。もちろん周りの風景などないので、とても自分がいまつくばにいると思えない心境である。階段を上がると、改札口があるフロアに出る。ここでもつくばに到着した実感がない。改札口とは反対側のスペースでは、茨城県内でとれた野菜等を売る露店がいくつか出ていた。これをみて田舎に来た実感は湧いてくる。
　駅構内の雰囲気で言えば、最近できた都内の地下鉄駅と変わらない。都営大江戸線の都庁前駅やりんかい線の各駅の感じであろうか。改札を抜け、エスカレーターに乗り、地上に出るとようやく見覚えのある風景が目に入る。
　つくばセンター。
　それは、２００５年８月２３日までは、つくばの住民にとって、都内で仕事がある時、実家に帰るために新幹線駅のある都内に向かう時、なくてはならない交通手段、高速バスが止まるバスターミナルである。
　そのつくばの交通の要所でもあるつくばセンターが、TXつくば駅のエスカレーターで地上に出た目の前にあるのである。つくばセンターから出るバスは、東京駅行きだけではない。JR水戸駅に向かうバスもあれば、成田空港、羽田空港、そして大阪に向かうバスもそろっている。他の鉄道駅であれば、バスターミナルが隣接するのは当然である。しかし、東京に向かう足として使う交通手段で、時間においても、価格においても、完全に競合するTXがつくばセンターの隣にあることに対して、その時不安を覚えた。東京つくばセンター間の高速バスを運営する関東鉄道に対してである。

<strong>（TX開通前後の高速バス）</strong>
　つくば東京間の行き来において、高速バスはまさに交通の大動脈であった。その高速バスは、つくば市の人口の十倍に当たる年間１８０万人超が利用し、関東鉄道の高速バス事業の約３割～４割弱を稼ぐ路線であった。
　その金のなる木とも言うべきドル箱路線、東京つくば間高速バスが、２００５年８月２４日、TX開業日からどのように変わっていったのだろうか。元つくば市民で、高速バスを愛用していた私にとっても心配である。

<strong>　－　時間との勝負　－</strong>
　実際に、つくば市にいる学生は電車と高速バスのどちらを利用しているのだろうか？　私が在籍していた研究室の学生に取材してみた。すると、異口同音にこう言う。
「就職活動の時はTX」
　学生の一大イベント就職活動。人生を決める分岐点。面接の遅刻などまさに命取り。　　
　つくば東京間高速バスはつくばセンター～常磐自動車道～首都高速自動車道～上野～東京というルートで移動する。予定所要時間は６５分。これはあくまで「予定」だ。電車の予定時間は「信頼できる予定時間」であるが、バスの予定時間は「予定通りつけたらいいなという時間」である。バス出発時に社内では必ず「道路事情により到着時刻が変わる可能性がある」とあらかじめ断りのアナウンスが入る。バスは電車のように、予定時刻通りに到着することは難しい。ルートの中に首都高速が入っていればなおさらである。特に、通勤時間帯の朝は混む。私が就職活動の時に経験した限りでは、移動に倍近い時間がかかったことがある。バスの中で、携帯電話で面接先に遅刻する連絡を入れたこともある。つくば市に住んでいれば、採用担当者は高速バスで移動してくることはわかっているし、遅れてくる可能性はほかの学生よりも高いと認識しているので（少なくとも私の時はそのような感じに受け取れた）、情状酌量の余地はあるかもしれないが、印象は悪い。
　つまり、就職活動では予定時間に間に合わせるために通常の移動時間の倍の余裕を見ないといけないことになる。このような状況が就職活動毎に繰り返されて、つくば市に住む学生は目的地に着くまでに、時間に神経を使っていたのであろう。つまり、面接官との勝負の前に、時間との勝負をしていたのである。電車を使えば、時間との「無用」な勝負は避けられる。今の学生は、TXが開通してから、採用試験に気持ちを集中させるために移動はTXを使うのだろう。
　それでは、「帰り」、時間を気にしなくてもいい家路につくための交通手段は何を使うのだろうか？答えはやはりTXであった。
　「だってどっち乗っても値段変わんないし」
　TX 秋葉原～つくば間の運賃は１１５０円、東京つくば間高速バスの運賃は１１５０円。そう、片道運賃が全く変わらないのである。もちろん、回数券、往復券を買えば、差額が生まれるかもしれない。しかし、採用試験を受ける会社によっては交通費が出るだろう、もしくは面接で神経を使って、早く帰りたいという心理も働いているかもしれない。
　TXの開通によって、つくば市の学生の大半が、高速バスから電車に流れてしまったのではないだろうか。
　
<strong>　－　大打撃　－</strong>
　それでは、TX開業の日から、高速バスはTXに乗客を奪われたのだろうか？　　　
　関東鉄道株式会社（茨城県土浦市）に現状を聞いてみた。関東鉄道総務部の塚崎氏によると、TX開業前の月平均の高速バス利用者数は８万９５５人、開業後の月平均の利用者数は２万４６０１人、開業前後で月平均５万６３５４人の減少、増減率で言えば前年比マイナス７０％だそうである。さらに、関東鉄道が運営するすべての高速バス年間の輸送人員が、TX開業前の２００４年度は２３８万２７５１人、TX開業後の２００５年度が１７８万２８５７人、TX開業前後で５９万９８９４人の減少。そのうち、つくば線のTX開業前後の輸送人員減少数が３９万８６３２人のようで、高速バス輸送人員の１年の減少数の約６割以上がつくば線でしめることになる。
　このような厳しい状況では、減便を余儀なくされるのも無理はない。塚崎氏によれば、TX開業後の１１月１日に１日８６往復から５２往復に、そして今年６月１日に午後５時以降を１０～２０分間隔と午前１０時から午後４時半までの便を２０分間隔から３０分間隔へ改正と、この１年で２度のダイヤ変更を行っているようだ。
　もちろん、このような状況の中、指をくわえて見ている訳ではない。関東鉄道では、社内でつくばエクスプレス対策室を１５人体制で設け、TX開業に伴う影響を調査して、数々の対応策を打ち立てている。
　まずは、高速バスの十八番である夜間高速バスを関東鉄道でもTX開業後に運営を開始した。「ミッドナイトつくば号」という名称で、１日２便、TX終電後に発車しており、現在では１日３便に増便している。また、残念ながら廃止されてしまったものであるが、便数あたりのコストを下げるという目的もあり、２階建てバス「メガライナー」が運行されていた。その他、TX対応策として運営されているものは以下の通り。

・ 購入後１週間利用可能な往復割引きっぷ　「ワンウィークリターンきっぷ」　１７００円にて販売
・ つくば東京間の往復とJR都区内を乗り放題にする「つくば＆都区内フリーきっぷ」　２０００円にて販売
・ 関東鉄道常総線とTXを組み合わせた「TX＆常総ライン往復きっぷ」

　TXによって、割を食っている面が目立っているが、逆に開通したことで新たな経済効果が生まれる可能性もある。その鍵を握るのがTX守谷駅である。

<strong>（相乗効果と新規開拓）</strong>
　関東鉄道が運行する常総線（取手～下館間）は、守谷駅でTXと交差している。前出の「TX＆常総ライン往復きっぷ」や、TX開業に合わせて、瞬く間に宅地開発と区画整理された守谷駅前周辺と守谷東地区といった事業により、守谷駅の常総線における乗降人数が増加している。TX開業前の常総線守谷駅の乗降人数が月平均２２８８人であったのに対して、今年３月の乗降人数は７６９６人、約３倍以上の増加である。この増加は、TX開業に合わせて、常総線の本数の増発、快速電車の導入など実施による効果が生まれたことも考えられるであろう。
　一方で、バス事業もTXとの新たな接続路線の検討に入りつつある。関東鉄道は、他の交通会社との共同で、守谷駅から常磐自動車道を使って、茨城県の観光スポット「袋田の滝」といったルートを新規に開設している。さらに、同じ関東鉄道が運営するつくば水戸駅間の高速バス「TMライナー」を増発する予定のようである。
　TXが開通したことによって、数々のアイデアが生まれており、これからも様々な企画が打ち出されるであろう。
　利用者にとっては、時間の早さや運賃、そして行き先ルートによってバスか電車か、交通手段を選択できるようになったのは、移動手段の利便性が向上したと言えるのではないだろうか。とはいえ、都内に住んでいれば、バスも電車もあるというのは日常のことなのではあるが。
　
　東京人にとって日常の交通網である鉄道。その移動手段を手に入れた茨城人、とりわけつくば人は都心へのアクセスがより速くなった。国土技術政策総合研究所（つくば市）の調査によると、通勤手段を高速バスからTXに変えた人の、毎朝家を出る時刻が軒並み遅くなり、通勤時間が２０～５３分短くなっている。これは、つくばがより無理の無い都心への通勤圏になったことを意味している。
都心へのアクセスが速くなれば、それは都内で仕事をする人の生活圏にもなる。

<strong>（住民大移動）</strong>
生活圏になったTX沿線地域。そうなると、その沿線で生活ができるようにマンションが至る所で建設される。TXに乗車してつくばに移動する間にも多くのマンションが目に入った。そして、マンションの建設ラッシュによって大きく街並が変わったのがつくば駅近辺である。

<strong>―創造と破壊―</strong>
　つくば駅を下車して、久しぶりにつくばセンター近辺を散歩すると、TX開通前には無かったマンションが建ち並び、さらに建設中のマンションも何棟か見受けられた。私の知る筑波大学の研究員によれば、筑波大で勤務する教員のや友人の家族が、TX開通にあわせて建築された分譲マンションを購入したようである。そして、つくば市並木地区では公務員宿舎が取り壊され、マンション建設用の土地になっていく現状である。つくば市には老朽化した公務員用の宿舎が多いので、今後、さらに筑波大職員など公務員が新しい住まいを求め、主を無くした宿舎は取り壊され、マンション建設に拍車がかかるのでないだろうか。
　それでは、TX開通は茨城県の人口に変化を与えたのだろうか？

<strong>―過密と過疎―</strong>
　茨城県ホームページに面白いデータがある。
「いばらぎ統計情報ネットワーク」というサイトなのだが、その中に茨城県内の各自治体の人口について平成１７年１月１日～平成１８年１月１日の変化についてリスト化したデータを公開している。注目するのは、社会増加率である。社会増加率とは、総人口に対する社会増加の割合のことであり、社会増加とは、転入数と転出数の差のことを言う。計算式で表現すると、
　社会増加率　＝（転入－転出）÷　総人口×100　＝　転入率－転出率
と計算され、人口移動の指標となる数字で、別名「人口移動率」とも言う。
　茨城県各自治体の社会増加率を注目すると、軒並みマイナスを示す数値やほぼ０に近い増加率を示すなか、わずか３つの自治体だけが１％以上の社会増加率を示している。つくば市、守谷市、そして谷和原村である。つくば市と守谷市は前述の通り、TXのターミナル駅がある自治体であるが、谷和原村は、平成１８年３月２７日に伊奈町と合併して、つくばみらい市となった自治体である。ここにはTXみらい平駅があり、TX沿線駅の中で、もっとも激しくマンション建築と宅地開発を行っている駅である。
　増加数でこれら３つの自治体をみると、つくば市が２０８０人、守谷市が１０２１人、そして谷和原村が１６４人なので、まだ顕著な増加とは言えないが、現在も建設されている高層マンションがみらい平駅前で見受けられたので、今後さらに社会増加率は増えるであろう。
　このように、データからもTX開通によって人口変動に影響が与えたことがわかる。そして、対照的にTXから離れた自治体は、対照的に人口の流出をデータから読み取ることができる。このように、鉄道が建設され利便性が向上する代償として、人口に偏りが生じてしまうことがはたしていいことなのだろうか？

<strong>（鉄道建設とまちづくり）</strong>
　２００６年６月９日、首都圏新都市鉄道は２００５年度決算を発表した。１日あたりの輸送人員は、開業当初の需要予測１３万５千人を上回る１５万人で、それにあわせて営業収益は、当初の予想を５０億円上回る１４０億円を計上した。新規路線の営業としては、成功と言えるのではないだろうか。都圏新都市鉄道株式会社広報部の横野氏の話によれば、平成２２年度の１日あたりの目標乗客数を２７万人と、1年目の倍の設定しているようであるが、開業１年目の予想以上の輸送人員数と、沿線エリアの活発な宅地開発のおかげで、どうやら先の見通しも明るい。
　しかし、沿線に新しいまちができることに喜んでばかりはいられない。まちができることによって、無視できない弊害も起きうる。駅前周辺の道路渋滞、都市開発による環境への負荷、沿線地域外の過疎、沿線地域の地価高騰など、今後問題は表面かするであろう。少なくとも、都内に林立する高層マンションと同じ均一の外観のものが、みどり多い田舎に作られている様子は、風情のかけらも無く、違和感を感じた。
　つくばエクスプレス沿線地域、これから首都圏内で新たなニュータウンを作ることのできる、貴重な未開発エリアである。将来、快適で安心した生活を送ることのできるニュータウンになるのか、はたまた将来に不安を感じながら不便な思いで生活を送らなければいけない街になるのか、これからの開発の仕方でまちの輪郭が大きく変わってくる。
　TX沿線エリアを「美しい街」にするには、どんなまちづくりが必要なのか？

<strong>（日本のニュータウン）</strong>
　戦後の日本が「まちづくり」の理想として考えられてきたものがニュータウンである。
　日本のニュータウンは、昭和３７年の大阪に建設された千里ニュータウンを皮切りに、昭和４３年の愛知県春日井市にある高蔵寺、そして昭和４５年には東京の多摩ニュータウンと、戦後経済の高度成長と歩調を合わせるように開発されてきたものが多い。一般的にニュータウンというと、海外では、研究開発型ニュータウンと呼び、研究・開発する施設があり、そこで働く人々の住居を含むもの、またリゾート型ニュータウンと呼び、余暇を過ごす施設と住居が含まれたものを指す。しかし、高度経済成長期に作られた日本のニュータウンは、大都市部に人口が流入したことによる住宅不足の解消と都市郊外の部分的な開発によって起きるスプロール現象（都市が虫食い状態のように無秩序に宅地化されること）防止のためのもので、それによる問題が顕在化しつつある。

<strong>～高齢化ニュータウン～</strong>
　高度経済成長期に開発されたニュータウンは、昭和３０～４０年代に多くの働き盛りの世代が入居し、今では約４０年の歳月が経っている。そしてその当時入居した経済成長を支えたサラリーマン達は６０～７０歳と高年齢化が進み、さらに建設から３０年以上経過したニュータウンは、建物の老朽化も進んでいる。
　その当時のニュータウンは、建設されたほとんどが集合住宅で４～５階以上のマンションである。入居当初は生活に何ら支障をきたすことはないが、若い時に比べ身体能力が衰えた高齢者にとっては、階段の上り下りをとってみても生活の中で大きな障壁となる。また、集合住宅となると家に不都合が生じた時に、高齢化に対応できるように生活をしやくする改築がしにくいという難点もある。
　さらに、集合住宅になると近所付き合いの希薄化といった問題がある。自分の生活する地域のコミュニティーと疎遠になりがちな傾向は、特に高齢者にとって、孤独感を感じる生活を強いられ精神的負担となる。最近は、人口の多い都市部で人的交流の少ない高齢者による、死後数日～数ヶ月経って発見される孤独死が社会問題化されているが、高齢化したニュータウンは、お年寄りが安心して生活を送れるように、地域交流の活性をあげる施策や活動に力を入れるべきであろう。

<strong>（ニュータウン化するTX沿線）</strong>
　現在、TX沿線は駅前を中心として、急ピッチで高層マンションや分譲用の住宅の建設が進んでいる。特に、千葉県と茨城県は田畑以外何も無かった土地に鉄道を敷いているため、住宅建設用地は豊富にある。これからも宅地開発がさらに進み、都心働くサラリーマンがマイホームを求めて、TX沿線の各地に移住してくるであろう。
　日本は超高齢化社会に突入し、一人の高齢者を支えるために現役世代の割合が年々減少、さらに年金などの負担が大きくなると言われている。高齢者が安心して自立した生活を送れる地域コミュニティーが形成できるように、TX沿線地域は２１世紀型の新たなニュータウンの開発に、自治体・企業が共同で取り組むことが、高齢化社会に適応したまちづくりの規範として重要である。

<strong>参考文献</strong>
日本経済新聞社編「つくばエクスプレスがやってくる」
足立区発行「あだち広報」
茨城新聞（平成１８年５月２８日、６月１０日、７月２６日）
読売新聞（平成１８年４月２２日）
つくばエクスプレス沿線情報誌「サワワ」
サンケイリビング新聞社「沿線リビング　つくばエクスプレス編」
東京新聞出版局「ニュータウンは今　４０年目の夢と現実」
学芸出版社「鉄道でまちづくり」
その他、無料配布チラシ、TX内中吊り広告

<strong>取材先</strong>
首都圏新都市鉄道、関東鉄道、ジェイアールバス関東、筑波大学社会医学系環境医学研究室、筑波大学TARAセンター]]>
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   <title>「生と死」、その二歩手前で</title>
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   <published>2007-02-27T04:10:47Z</published>
   <updated>2007-02-28T02:10:09Z</updated>
   
   <summary>福島 隆聡 これはフィクションではない。 8月も終わりに近づいたある日、その日は...</summary>
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      <![CDATA[<div class="entry-bodyNAME">福島 隆聡</div>

これはフィクションではない。
8月も終わりに近づいたある日、その日は各人にとって、そして彼にとっていかなる意味をもちえたのだろうか。
その日の午後、総合内科の医師二人と呼吸器内科の医師二人が、突っ立ったままレントゲン写真とCT画像そしてコンピューター上の血液検査のデータを囲み、やや興奮気味に話し合っている。内容は、今後の方針のようである。話題の患者は、肺癌の末期にある。診断を確定させる検査はしていないものの、二週間前の検査で医師たちはその確信を持っていた。このことをまだ本人は知らない。本人に話すには、このタイミングがベターである。これから本人に告げに行く、まさにその直前の打ち合わせだった。]]>
      <![CDATA[<div class="entry-moreNAME">福島 隆聡</div>

<blockquote>「死を生から分離すること、それぞれが他方の核心に侵入して、一方が他方の内密に編みこまれるのを放置しない、それこそが決してしてはならないことなのだ」
『侵入者　いま<生命>はどこに』（以文社　p22）ジャン＝リュック・ナンシー</blockquote>


<strong>第一部</strong>

<strong>一、告知</strong>
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
　これはフィクションではない。
　8月も終わりに近づいたある日、その日は各人にとって、そして彼にとっていかなる意味をもちえたのだろうか。
　その日の午後、総合内科の医師二人と呼吸器内科の医師二人が、突っ立ったままレントゲン写真とCT画像そしてコンピューター上の血液検査のデータを囲み、やや興奮気味に話し合っている。内容は、今後の方針のようである。話題の患者は、肺癌の末期にある。診断を確定させる検査はしていないものの、二週間前の検査で医師たちはその確信を持っていた。このことをまだ本人は知らない。本人に話すには、このタイミングがベターである。これから本人に告げに行く、まさにその直前の打ち合わせだった。

　42歳になったばかりのOさんの辿った道は、数奇なものであった。ひと月ほど前、腹痛で外来を受診した。精査が必要とのことでX線CTを撮り帰宅した。だがその日の晩のうちに、意識を失い救急救命センターに運ばれてきた。急性腎不全だった。透析を行い、急を凌いだ。10日間ほどは安静が続いたが、病棟内を歩くことがようやく許された。彼の顔色も徐々に明るみが増してきた。その翌日の午前中彼は病室のベッドの上で急激に呼吸困難に陥った。苦悶する表情は事態の緊急さを告げている。医師は足の静脈に出来た血の塊が歩きだしたことによって、血流に乗って肺に飛んでしまったと読んだ。血の塊が肺の血管につまり血栓となって血流を遮断してしまっているのである。エコノミークラス症候群と呼ばれるものである。緊急のCTが施行された。が、肺には異常はない。だがCTが示す心臓は大きく腫れあがっていた。すぐに状況はつかめた。心臓とそれを包む膜の間に大量の液体が溜まり心臓の収縮を妨げていた。心タンポナーデである。そして貯留している液体が血液成分であることも判明した。心臓の穿孔や大動脈の破裂が疑われる所見であるが、そうした痕跡はつかめない。腎不全同様原因がわからない。いずれにせよ、心臓を包む心膜を貫き心臓との間に管を挿入し溜まった血液を排出しなければならない。そうしないと心臓は液体に動きを邪魔されて、やがて止まる。
心臓外科の医師が呼ばれた。心臓をめがけ20cmほどはある針を慎重に挿入していく。液体が貯留しているスペースに管が到達すると、次第に溜まっていた液体が流れ出てきた。数分のうちに800mlの目盛りまで達した。すると、Oさんの顔色は赤みを取り戻し、表情は和らいだ。酸素マスクをつけながらも、彼は「楽になってきました。ありがとうございます。医者ってすごいですね」とわずかに微笑んだ。
　それにしても、相次ぐ彼の急変の理由を医師たちはわからないでいた。そのつどの状況を乗り越えるのに大半の労力を割いていた。しかしその一方で、原因の探索を怠っていたわけではない。それらの出来事が関係しているのかどうかですら不明のままだった。実際の医療ではこういったことは少なくはない。
翌日、心臓に管は刺さったままだったが、Oさんの容態も安定していた。苦しくもない。正午を少し過ぎた頃、昼食中だった医師のPHSが鳴った。心臓から排出された液をその成分を鑑定するための検査にまわしていた。その知らせは、これまでの原因を一挙に判然とさせるものであった。検体成分から細胞診クラスⅤが判明したのである。細胞診クラスⅤとは、癌細胞が存在するということを意味する。しかしその癌の細胞成分は心臓には存在しないものであった。ということは、どこか別の場所から飛んできたものである。全身検索の結果、右肺に直径1.5cmほどの陰影が描出された。すなわち肺を起源とする癌が、腎臓に飛んで急性腎不全がおこり、心臓に転移して心タンポナーデを引きおこしていたのであった。癌細胞は無秩序に増殖を続ける。増殖を続けるためには栄養分が必要である。そのため癌の塊は豊富な栄養血管を有している。心膜で増殖した癌細胞内の血管が破裂したのである。
　転移のある肺癌は、ステージⅣである。ステージは腫瘍の大きさと広がりによって決まる。ステージⅣは手術の適応から外れるだけでなく、平均余命が3ヶ月程度であろうと推測されるものである。手術の適応から外れるのは手術をして肺の原発巣を取り除いたところで、身体全体への見えないレベルでの癌細胞の転移があるため治療的効果が期待できないからである。それどころか開胸手術は体力の消耗が激しく、かえって余命を縮めかねない。
　この結果は、医師たちにとっても衝撃だった。通常診断を下すまでにどんな場合でも、癌は彼ら医師たちの念頭から離れない。しかし今回は、患者の若さから考えても、症状から考えても癌はあまり意識される対象ではなかった。
　Oさんの両親と兄が病院に呼ばれた。主治医がこの事実を伝えた。端的に伝えたのではなく、彼はひとつひとつ丁寧に説明した。自分たち医師にとっても意表を突かれた結果だったということ、腎臓が悪くて抗癌剤による治療は厳しいかもしれないこと、２度の危機を乗り越えたのにこうした結果になってしまうとは医師として本当に無念であるということを、涙を流しながら主治医は家族に伝えた。ベトナム戦争の従軍記者であったＤ・ハルバースタムは、その著書「ベスト＆ブライテスト」の前書きの中で、人の死に涙を流せなくなったら、従軍記者として終わりであるといっていた。しかしなにも戦争という非日常的な場面に限る必要はない。医師といえども、同じであると思う。
　家族との約束で、本人には徐々に伝えることになっていた。検査を進めていく過程で、だんだん明らかになってきたという具合にである。主治医は了承し、Oさんに話す前に家族の了承を得ることを確認した。
この病棟では総合内科の医師は三人いる。15年目になる医師が主治医になるが、ほかに7年目と4年目の医師がいる。Oさんの今後のあり方をめぐって、肺癌専門の医師を呼んでアドバイスを受けながら、議論が交わされていたのであった。一番上の医師は、少しでも可能性を保つために抗癌剤による治療を第一に考えていた。この場合、われわれはこの患者の担当を外れ専門病棟に移ることになる。20歳代の一番若い医師は、残された時間を少しでも有意義に使うためにホスピスへの転院を考えていた。もう一人の医師は、積極的な治療はおこなわないが、最低限の処置を自分たちが面倒みてゆきたいといった。三者三様である。当たり前のことではあるが現場の医師たちも、同じ考えで統一されている訳ではない。無論、最後は家族と本人の意思で決めなければならない。しかし当事者たちの意思といっても、医師の話し方一つで誘導することは出来る。また、どれを選択するにせよ問題はある。たとえ抗癌剤を使って治療をしても、三ヶ月の余命が四ヶ月になる程度である。しかも抗癌剤による副作用で四ヶ月間ただただ苦しみ続けるだけかもしれない。おまけのこのタイプの癌には抗癌剤が効きにくい。専門の医師は、それ以前に腎臓の障害があることから抗癌剤による治療はかえって命を縮めかねないという。そんな患者を引き受けるのは、リスクが高すぎる。ホスピスを望むなら、受け入れてくれるホスピスを探さなければならない。これも医師の仕事になる。いずれにせよ今後の方針を決めるためにも本人に話をせざるを得なかった。今後の青写真は何パターンも描かれていたものの、あれ以来本人に告げていたことは、「肺に小さな影がある」ということだけだった。
　Oさんの母親に電話してこれから本人に話す旨を告げた。母は消極的であった。医師は彼に残された時間が少ないということを、そして彼には考えて身辺を整理する時間も必要だということを説明した。しぶしぶ母は了解したが、母親自身はまだ聞いてないことにしてくれとのことだった。

　ついに、そのときはきた。Oさんの部屋に、医師４名と看護婦がぞろぞろ入っていった。彼のベッドを囲み看護婦が拡げた椅子に腰を下ろした。主治医は立ったままOさんに少し笑みを浮かべながら近づく。Oさんの目をしっかりと見つめている。「お話しなければならないことがあります。もしかしたらつらい話になるかもしれません」。「はあ」とOさんはあっけにとられる。主治医は一度大きく息を呑んだ。片手には、肺の腫瘍を鮮明に映し出すCT画像を抱えている。「実はですね…」。
　ことの起こりからここまでの流れをOさんに確認しながら丁寧に振り返る。彼も尋常ならぬ状況を感じ取っていたに違いなかった。看護婦は、彼のすぐ傍に座している。だが医師も「肺癌」という言葉を避ける。「悪い顔した細胞がある」と表現している。しかもその細胞の固まりは小さいということを強調する。転移があるのだから大きさなんて問題ではないはずである。そしてまた、彼ら医師たちの理解だと肺の悪い細胞が腎臓や心臓の原因になっていたであろうことをゆっくりと彼の眼を見つめながら伝える。主治医の説明は言葉の節々を意図的に濁してはいたが、要点を確実におさえたものだった。それでもOさんは事態を十分には理解できないでいた。さっきから腕に巻かれた点滴の刺入部の包帯がわずかにずれているのを気にしている。Oさんは「つまり、もしかしたら癌かもしれないんですね」と、主治医ではなくもう一人の医師をみて尋ねた。説明をしていた医師は、「いや、そうではないんです」といったまま彼を見つめ続けていた。長く感じられる沈黙が重くのしかかった。心電図の波形は、規則正しく打っている。
　痺れを切らした呼吸器科の医師が言い放った。「肺癌が心臓に転移しています」。再び、沈黙が病室を支配した。今度のそれは明らかに長かった。遅ればせのせみの鳴き声が忙しなく病室に響いている。話しの内容をメモに書き続ける若い医師の手も止まった。彼は首をたれた。それでも、声を絞り出した。「そうですか。それじゃあ仕方ないですねよえ」。相変わらず包帯を気にしている。だが、視線は宙を彷徨っている。その場に居合わせる一人一人に確認を促すように、視線を合わせる。私は彼の視線に合わせることはできなかった。「じゃあがんばってもうひと踏ん張り治療しないといけませんよね。手術ですかね」とOさんは意欲をみせる。「手術はもう出来ません」と医師が答える。主治医は目をちゃんと見て話している。「じゃあ治療はどうしたらいいんですかね。えっ、だって治療しないわけじゃないでしょ、もちろん…」。主治医も「それはこれから考えていかないといけないですよね…」といってはみる。
　この部屋に入って１時間半以上経ったが、これ以上話は続かなかった。治療法はまずは家族に話をしてから決めるということで落ち着いた。これから家族に話すとOさんには伝えた。当初の予定であった余命の話は出来なかった。主治医の判断だった。彼の動揺の大きさを察知したからだ。「一緒に治療方針を考えましょう」とお茶を濁した。
　私は病室を出るときOさんに一礼した。このときようやく彼の目を一瞬だけ見ることができた。彼の虚ろな目は、母を想い出させた。
　早歩きで医局に帰り、４年目の医師が主治医に声を荒げた。「なぜ最後まで話さないんですか。Oさんには時間が無いんです。１日でも２日でも、少しでも長く彼の自由な時間をつくってあげないといけないんじゃないですか」と。主治医は心根の穏やかな人ではあった。多少先の見通しが遅れることがあったのは確かだが、そのときの判断は私も正しいと思った。「これ以上Oさんを追い詰める必要は今の時点ではないんだよ。明日、明後日は週末で病棟の医者もナースも少なくなる。誰が彼を見られる。君がずっとそばにいられるか。最後まで話して、自殺しちゃったら、おまえどうすんだよ」。穏やかな主治医が、顔を紅潮させ、強い調子で捲くし立てている。「Oさんが自暴自棄になって、自殺したり、点滴外して帰るといい出したりしたら、僕たちは医者として失格だよ。わかってるの。まずはここまで聴いてもらえれば十分じゃないの」。医療現場を扱ったテレビドラマのように上級医にも物怖じしない若い医師も、この時は彼に素直に頭を下げた。この日の午後はほとんどがこのことに費やされた。そのため、各々の医師たちには他の仕事が山ほど残っていた。休むこともなくそれぞれ別の仕事に散っていった。
　医師の間で、治療法や今後の方針に差が生じてくるのは、それらの選択がもはや医学的に根拠付けられるものではないからでもある。つまりそれはその医師の人生観、生き方そのものが直に反映されてくるのである。もちろん最終的に決めるのは患者本人ではある。とはいえ、そこには家族の意向や医師自身の考えが色濃く反映されているのもまた確かである。元気な時には癌になったら治療はしないと潔い最後を決めていたつもりであっても、いざその状況になればわずかな希望に託したい気持ちがないといったら嘘になる。仮に本人がそれでよくとも家族が承知できないこともある。なにもそれらは悪いことではない。　　
　患者と家族と医療者は三つ巴になって、各々の希望や考え方や状況を背景に「ソフトランディング」の道を模索することが出来る。少なくとも大方の医師はそう信じて策を尽くしている、と思う。こうした姿が伝われば、患者もその家族も医師への見方が少しは変わるかもしれないと思う。

　冒頭で「これはノンフィクションである」と、肯定文でいわないのは、ある特定のものを指すものではないということである。つまり、日常どこででも起こっている光景だからである。

　ところで、なぜ私はこの現場に居合わせていたのか。そして、私はいかなる立場でそれを記述しようとしているのか。


<strong>二、医学生</strong>

　私は現在、医学部医学科５年に籍を置く学生である。医学部は６年制だ。１年から４年の間、一通りの医学的知識を授業と試験で、ひたすら詰め込む。解剖学、生理学や薬理学といった基礎医学から内科学、外科学、診断学、救急医学、皮膚科学、整形外科学、産婦人科学、精神科学etcまで、全ての科目を学ぶ。その上で、簡単な問診や所見の取り方といった実技の試験を合格すると、5年生に進級することになる。そしてほとんどの大学で5年生になると（時期の多少のずれはあるが）、ポリクリとかBSL（Bed side learning）と呼ばれる病院内での臨床実習となる。病院内に放たれるのは初めてのことではないが、医療スタッフの一員として入るのは初めてのことになる。全てが新鮮である。そこでの体験は、想像のおよばないものであった。

　ここで、医学生から一人前の医師になるまでの流れを少しばかり紹介しよう。
　ポリクリでは、指導医にくっついて朝から晩までさまざまな現場に立ち会うことになる。全ての診療科を、それぞれ1週から４週かけてローテーションするのである。例えば、消化器内科では、患者を一人受け持つ。毎日の様子を伺い、身体所見をとり、診察を行い、それらをカルテに記す。そのつど指導医がチェックし間違いを修正してくれる。患者にレントゲンや胃カメラの検査が入れば、ベッドや車椅子を押して付き添う。検査データの解釈やレントゲンやCT画像の読み方なども指導される。教授回診があれば、患者のベットサイドに立ち教授の傍らで現在の状況を伝える。逆に予期していたのとは違う質問を返され、答えられず患者の前でたじろぐこともしばしばある。点滴のルートを取る練習のためにと、研修医や医師たちが自らの腕を私たちに差し出してくれることもある。このように現場の医師の仕事を３週間実地に経験する。
　小児科病棟では自分の診ていた患児のひどい風邪をそっくりそのままもらってしまったこともある。その児と症状がまったく同じなのである。指導医に聞けば、小児科をまわる学生や研修医は一度ならず風邪をひくという。私たちには免疫のないウイルスのようである。おまけに熱があるせいで病棟には２,３日あがれなくなる。白血病などで免疫力が極端に低下している子供たちも別の部屋には数多くいるからである。もしそんな状況で、彼らに風邪をうつしてしまえば、命取りになることも十分考えられる。　
　また、２週間の消化器外科では、朝７時過ぎからカンファレンスが始まる。9時からの手術前に一仕事終わらせようという教授の一声である。カンファレンスでは昨晩緊急入院になった症例の発表やその日行われる手術の術式を医師たちが検討するのをともに聴いている。患者の容態や手術の術式、アプローチなど入念な打ち合わせがおこなわれる。居眠りでもしようものなら、容赦なく質問が飛んでくる。その後すぐに回診し、９時からは手術に入る。滅菌した術衣や手袋を付け術野にはいって、助手を務めることもある。最後の縫合を任されたりもするが、時にはメインイベントとなる腸管の切除の大役を仰せ使うこともある。人間の腸管の滑らかさ、心臓の拍動の力強さ、血管の精緻な走行にただただ見とれていることもある。ある外科医が手術中に「人間の身体の中って、きれいだと思わないか」と聞いてきたことがあった。別の脳外科医は「脳の動脈の拍動を学生の時始めてみて、感動した。だから脳外科医になった」ともいっていた。外科医は手先が器用であるということよりも、手術が好きかどうか、人間の身体にどれだけ魅了されうるかでそのポテンシャルが決まるように思った。当然のことながら、手術が長引けばお昼ご飯は夕方になることもある。しかも外科医の食事は、やたらと早い。食事時ですら、うかうかしていられない。時には、薬業者の説明会と呼ばれる会が開かれることもある。そこでは新薬がいかに効果的であるかというコマーシャルを聞かされることになる。だが、なんといっても私たちの楽しみは、そこで配られる普段では到底お目にかかれないお弁当である。有名料亭の弁当が、業者から学生にも支給されるのである。
　教育的側面から見れば、これまで教科書の中でしかみたことのない疾患を実際の患者を通じて、フレッシュなものとして理解することが出来るということになるのであろう。それだけではない。実際の医師の業務がどのようなものかを体験することが出来る。自分がどの診療科に興味があるのかを見当を付けることも出来るであろう。もちろん学生がさまざまな場面で立ち入ることは、患者にも説明されている。手術室、家族への説明、死亡確認など、医師のわずかに後方でまるで背後霊のように私たちは申し訳なさそうに、いる。時折、患者や家族は私たちの名札を不思議そうに眺める。「なぜ学生がここに？」とでもいいたげな表情だ。それも無理はないか。お年寄りは私たちが学生ということを説明しても、「先生、先生」と声をかけてくれる。医者と同じ白衣を着て病棟を歩いているのだから、そう見えるのも当たり前だが、それはそれで歯がゆい思いをすることもしばしばである。
　病棟での一年間の実習を終えて試験に通れば、６年生に進級することになる。６年生なんて、小学生以来の響きだ。国家試験の突破に向けて、ただひたすらに試験勉強に打ち込むことになる。それとともに研修病院を探す。現行の医師の研修システムは平成１7年より開始された。これにより医師免許取得後２年間の初期研修が必修化された。私たちは、自分達がどこで研修を受けるのかの選択しなければならない。希望する病院の試験を受けて、順位付けする。それをオンラインで申し込む。全国の研修指定病院も欲しい学生に順位付けする。めでたくマッチすれば、その病院で研修を受けることになる。全国一斉にオンラインで発表になる。首都圏の国立病院機構や民間病院の人気が高い。もちろん大学に残るものもいる。首都圏でその傾向は強い。だが、地方の医学部では、卒業生が５,６人しか残らなかった大学もあるという。最も機動力のある研修医がその数であれば、大学病院の危機感は相当なものであることは容易に想像つく。どの世界でも現場の仕事をまわしているのは、最下層の人間であることに変わりはない。それは大学病院に限った話ではない。地方の民間病院などは給料がものすごく高い。右も左もわからないできたてほやほやの研修医に、年収1000万円出す病院もあるくらいだ。その一方で首都圏の私立大学病院の１年目の給料は、200万円に満たないところもざらにある。一般の大卒初任給よりも低い。
　病院毎に組み立てられた研修プログラムに多かれ少なかれ違いはあるものの、２年間の研修までは皆同じ道を辿ることになる。初期研修が修了して初めて自分の専門とする診療科に入る。入局というやつだ。臨床から離れ、基礎系の研究をおこなう医師になる人もいる。官僚になるものもいる。大学院に行くものも半分以上いる。大学院に行けば学位は取れるが、４年間学費を払いながら病棟で働くことになる。もちろん無給である。週に１,２日バイトに行き生計を立てる。１日あたり６～10万ほどになる。研究もある。

　話を戻そう。
　冒頭の「告知」の場面は、私が実際に遭遇することになった場面の一コマであった。
　私は、そこに医学生として居合わせていたのである。だが、告知の場面に立ち会うのはこれが初めてではなかった。かつて告知を受ける側になったことがあった。それは母の余命宣告だった。

　
<strong>三、母の出来事</strong>

　母は、私が24歳の時、脳腫瘍により他界した。49歳だった。当時私は哲学を専攻する大学院の学生であった。将来は研究者を志していた。学部の４年生の時に母は病に倒れた。弟の高校受験が終わるまでは入院したくないということで、数ヶ月先送りして手術を行った。そして術後の病理検査の結果、脳腫瘍の中でも性質の最も悪いものの一つである脳神経膠芽腫であることが判明した。主治医にいわれた言葉に、頭を金属バットで殴られたような衝撃を受けた。「この症例の場合、半年もたない割合が90％以上です。抗癌剤による治療も脳の場合、あまり効果的なものはありません。放射線治療があるのですが、これもあまり期待できません。ですが、まずはそれをやってみましょう」。ようやく親の手を離れた甘ったれた20歳そこそこの男に、親孝行などということはあるわけがなかった。それなのに、母は逝ってしまうのか。何とか平静を装い病棟の母を見舞う。母は当時延々と流れ続けていた阪神大震災に関するテレビ番組に見入っていた。母は自分が薬剤師の資格を持っていたこともあり、病名は分っていた。ただ医師から告げられていた余命は、話してはいなかった。手術してよくなるものと思っていた。術後すぐにリハビリしながら、左半身の麻痺に必死に抗っていた。
　医師の見立て通り放射線治療も抗癌剤治療もあまり効果はなかった。保険適応のない新薬も試したが、まったく効きやしなかった。母の体調も次第に悪くなっていった。立つことはおろか、言葉をしゃべることすらままならなくなった。腫瘍が言語野にあったからだった。治療がないので、在宅での介護が続いた。病院付属の研究所で実験的に取り組んでいた免疫療法というものに、藁にもすがる思いで飛びついたりもした。それは私や弟の白血球を採取培養し、母の身体に投与するというものであった。主治医はこの治療に積極的ではなかった。効果が確立していないからだった。幸いなことにこの治療がこの治療が功を奏した。半年はもたないと告げられてから２年半、母は生きた。最後は瞼を閉じることも出来なくなった。高校生の弟のことを最後まで案じていた。
　この間、徐々に朽ちて動かなくなっていく母を父と私が介護した。まさかこの年で母の下の世話などするとは思ってもいなかった。母にとってもどれほどかつらいことであっただろう。夜中に二回も三回もトイレで起こされることがあった。次第に部屋の内線電話が鳴るのさえ恐ろしくなっていった。母の病気や介護を私自身、充分には出来なかった。出来ればそのことから逃げたいとさえ思っていた。身体のケアすら出来ないのに、死に瀕した母の気持ちなど汲み取ってあげることなど当然出来やしなかった。母が時折こぼす「ナンデワタシガ･･･」、「シヌノガコワイ」といったかろうじて聴き取れる言葉に、私はただ「大丈夫だから」としかいい添えることができなかった。何一つ大丈夫なことはないのに。なぜ母の気持ちを少しでも一緒に背負ってあげることが出来なかったのだろうか。母が亡くなったとき、それが最大の後悔でもあった。しかし、それが当時の私の背一杯でもあった。私自身、ひどく傷ついていたのだと思う。
　
　この体験が私を医学部進学に導いた、といったら聞こえはいいかもしれない。実際医学部入試の面接の時や私の経歴を不思議がる知人には、「なんで医者になろうと思ったの」と尋ねられれば、必ずこの話をした。受けも上々だった。しかし、ただそれだけで、まったくの畑違いの道に進もうと決意できるはずがない。若くして親を亡くすものは、いくらでもいる。私以上にその看病に自身を費やした者も多いに違いない。
　哲学の研究者ではなく、医師として生きていこうと思った理由は、一つではない。母の死は一つのきっかけだった。ハイデガーのことば論を取り扱った修論の評価は上々だったが、自分の力量の限界はそう遠くない気もしていた。職に付くことも至難である。博士課程に六年間いるならば、医学部に六年間いった方が、先は開けるに違いないと思った。もし受験に失敗しても、そのときは大学院に帰ればいい。今まで避けてきた数学、物理や化学といった教科を勉強できるチャンスだと思えばよい。それは哲学を続けていく上でもキャパを広げるために必要だ。そうやって、自分に言い聞かせてきた。しかしやはりそれは、哲学の研究からドロップアウトを意味するものに違いなかった。哲学は世間に頓着することなく、それの役に立つことを考えるのでもなく、自分の将来の不安などあってもただその問いの純粋さにとりつかれ、歩みを進めるものでなければならないと考えていた。
　そしてなにより自分がこれまで哲学の名の下で考えていたことがらが、人間の生についてであることを母の出来事をもって、改めて確信した。しかし、生について考えているつもりでいた私が、母にかけることが出来た言葉は「大丈夫。心配ない」といったごくごくありふれたものでしかなかった。彼女の生を考えることが出来やしなかったのである。彼女のターミナルに臨んで、彼女の実存にかかわる気の効いた言葉一つ思いつくことはできなかった。理由はこれだけでもない。だが、それはよい。
　テキストではなく、人間を前にして何が問えるのか。

　医学生という立場で記述し、そこからいま何を提示することが出来るのであろうか。

　それは、病棟実習により俄かに立ち上がってきた人々の「顔」である。「顔」とは死に面した人々、大きな病を抱え生きようとする人々、またそういった人々とかかわる医師達の姿である。「医師になる」ということの中に、これまで具体的な「患者」というのは、意識されてこなかった。母の体験はその端緒ではあるが、母は「患者」ではなかった。そこから現代医学の孕む問題を炙り出すなどといった社会正義は、ここでの問題ではない。
　この作品は、断片的ないくつかの体験とインタビュー、そしてモノローグから主に構成されている。生きようとする人間の混迷とおのれの死に直面せざるを得ない状況での人間の姿を対照的に描き出したかった。そこには何か通底するものがあるのではないかと。それを医師ではなく、一般市民ともいえない一人の医学生という曖昧な立場から、書いてみたかった。そうした人々の姿を描くことで、生きて死に往く人間の一部を示すことができれば十分である。一方でこれは、あと一年もすると医師となり世の中に出て行く自分自身に対しての一つのまとめという意味を持つ。極論すれば、この記述はこれから医師になろうとする私のための記録に過ぎない。


<strong>四、ホスピス</strong>

「告知」での、Oさんは積極的な治療はおこなわず、その年の12月、あの時と同じ病棟で静かに息を引き取った。
　日本では、年間100万人が死亡する。2004年のデータでは、3大死因の死亡数は、第1位悪性新生物32万1000人、第2位心疾患15万9000人、第3位脳血管疾患12万7000人と推計されている。2000年に新たに診断されたがんは538345例（罹患全国推計値）ある。Oさんがそうであったように、癌患者のほとんどが病院で最後をむかえる。2005年現在、全国でホスピスや緩和ケア病棟を有する施設は144ヶ所、2732床である。ホスピスで最後をむかえる人はほんの一握り、数％にすぎない。
　ホスピスでは積極的な治療はおこなわず、痛みや精神的なケアに主眼を置いている。単に死をベッド上で待っているわけではなく、煙草や飲酒も可能である。ペットと暮らすこともできる。ときには、最後の願いをといって医師や看護師皆で、想い出の地に連れて行ってくれることもある。なかには、ここで結婚式を挙げたりする患者もいるという。夫婦や家族が一緒に最後まで暮らすこともある。

　長野県長野市にOBが院長をしている民間のホスピスがある。50床足らずの小さな病院であるが、常に満床である。その大多数が末期癌の患者であった。緩和ケア病棟は17床しかないが、一般内科病棟では、緩和ケア病棟の空きを待つ患者が入院している。
　昨冬の大雪とはうって変わって、暖冬の長野駅に到着した。正月の門松もまだ残っていた。雪はないもののそれでも東京の冬より寒い。10分ほど歩いてこの病院に到着した。ちょうど一つの小さな「お別れ会」が終わった直後だった。院長が往診に出かけており、不在だった。対応するものがでてきてくれるまで、そのお別れ会が開かれた直後の静まり返ったシンプルな小さなチャペルで、荷を降ろして待っていた。暫くして看護師長が出てきてくれた。簡単な挨拶を交えると、早速病院内を案内してくれた。大学病院や大病院とは違って、落ち着いた澄んだ空気が漂っている。早足の人はいない。所々に西日が差し込む陽だまりがまぶしい。テラスではよく手入れされた色とりどりの西洋花が風に揺れている。
　その後、面談室で温かいコーヒーと洋菓子で私の旅の労をねぎらってくれた。「告知」、「母の出来事」のような話しをし、将来はいずれどこかで終末期医療に携わりたいという話をこちらからした。師長は、うんうんと私の話を首尾よく聴いてくれた。母に対して何一つできなかったという思いが、私をここまで連れてきたと話すと、「よくやった人ほどそういうものですよ」といわれ、何かが熱く込み上げてくるのを感じた。いかん、いかん。私が「緩和」されてしまっている。他にも、一時間ほど師長と終末期医療やこの病院でのエピソードの談話を続けたところで、院長が往診から帰ってきた。後輩の来訪を心から喜んでくれた。様子を伺いながら、恐る恐る患者とじっくり話したいということ、しかもそれを取材としても扱わせていただきたいと申し出た。すると院長は、「まあそれは、君の力量次第だ」といった。ほっと胸をなでおろした。とりあえず患者と話すことは許されそうだ。けれどそれは、初対面の見知らぬ男に、どこまで末期癌の患者が本音を語るか、どうやって相手の心をほぐすことができるか、やれるものならやってみなさいということであった。
　院長は、一冊のカルテを手渡してくれた。それは、市内の大きな基幹病院から紹介され20日ほど前にこの病棟に来たK子さんのものだった。K子さんは、55歳だった。診断名の欄に「膵臓癌」とある。原発巣を取りにいくための手術をしたが、開腹するとすぐに腹膜への無数の転移があり、そのまま胆嚢だけ摘出し、閉じてしまったことが記されていた。この時点での余命が４ヶ月であった。それから２ヶ月以上経過している。しかし、膵臓癌で転移がひどく治療は難しいということは伝えてあるが、余命の診断は本人には話していないとのことであった。現在は、お腹の痛みがひどい。一通りの目を通したところで、白衣に着替えて名札をつけ、鏡で身なりを確認して、彼女の病室に向かった。

　ドアをノックすると、「どうぞ」と声が届いてきた。ドアを開けると、K子さんが上半身をベッドに起こしていた。口もとの筋肉をわずかに動かし、軽く笑顔を見せてくれた。ぱっとみたところ、やせは目立つが元気そうだった。折りたたみ式の椅子を彼女のベッドのすぐ傍らに広げ腰を下ろすとき、院長にいわれた言葉が変にプレッシャーになっていることに気づいた。とりあえずこれまでの病気の経過を彼女の言葉で聴かせてもらおうと、話しを始めた。
「始め夜中に急に気持ち悪くなったんですよ。おかしいおかしいって思って、それで夜間救急病院に自分でいったんですが、黄疸があるねっていわれただけで、翌日また来てくださいって、帰されたんですよ」。
彼女は、割りと張り艶のある声で、しゃべり始めた。
「今流行のノロウイルスかと思って、孫に移したら大変だと、次の日の朝、いったらそのまま大きな病院行ってくれといわれて、そこでそのまま入院になっちゃったんです」。
　経過はおおよそ記載の通りだった。だが、離婚して女手一人で二人の娘を育て上げたこと、下の娘は看護師の卵であること、彼女の病気が判明した日が長女の娘、つまり初孫のお宮参りの日だったこと、そしてお宮参りのあとで入院したいといったのだが先生が許してくれなかったことなどは、そこには記されてはいなかった。話の間しばしば、「おえっ」と顔を歪める。「生唾がこみ上げて、吐き気みたくなるんですよ」といって、ティッシュで口を拭う。今は、お腹の痛みよりもこちらのほうが辛いという。オピオイドと呼ばれる麻薬性鎮痛剤により痛みが抑えられているのであろう。この薬の副作用に嘔気がある。ただ、そういった種類の嘔気とも違った印象を受けた。オピオイドを使う前から、あったという。「向こうの病院でも私の吐き気を止めるのにすごく苦労したんです。トラベル何とかってって名前の点滴が、よく効くんで看護婦さんにお願いしたんですが、こっちにはないというんですよ。問い合わせてみるって。モルヒネもほんとは使いたくないんですけどね」。痛みや吐き気は相当滅入る。
「よく寝られますか」。
「眠剤もらっているんで、４時間は寝られますね。４時間できっちり目が覚めちゃうんですけれどね」。
オピオイドの有名なもう一つの副作用には、眠気がある。K子さんには、眠気はないようだが、これが嫌という人もいる。K子さんの場合は、やはりある程度オピオイドのコントロールはついているように思われる。
　
　病気になる前はまったくの健康体で、それが唯一の自慢だと思っていた。風邪一つひいたこともなく、健康には誰よりも自信があった。離婚してからも、団体職員として働いてきた。仕事のストレスも多かったが、ようやく初孫を抱けるようにもなった。下の娘もあと一年もすれば看護師として独立する。「ようやくって時なのに、あたし昔からそうなのよね。ついてないのよ。大体が」。今回の病気の原因もきっとストレスが大きかったという。そればかりが原因じゃない。「あたしって昔から新陳代謝が悪くて、体温も36度とかもいかないんですよ。お水もあまり飲まなかったから。そういうの癌体質らしいですよねえ」。私にはあまり聞いたことのない話だった。現代の医学で説明が付く話かは知らない。ただ、そうやって彼女には、自分なりのストーリが必要なのだろう。仕事と子育てに追われ、初孫を抱きようやくひと段落つけそうだというときに、自分が既に末期癌の状態にあるなんてどんな理由であろうとも受け入れられるわけがない。それでも、何らかの理由が必要にはなる。そうやって何とか自分のおかれた状況を了解しようとする。それが、理性的動物の性であるのだろう。
　
　治療もすべて断った。
「抗癌剤や放射線を使おうかって、向こうの病院ではいわれたんですが、使ったら、また吐くでしょ。あたし嫌なんですよ、そういうのが。それで治るんならいいですけど。どうせ駄目なら、何にもしなくっていいって、いったんです。それでいんですよ。でも丸山ワクチンだけは、今でもやっているんですよ。効いてるか分らないから、それもやめてもらいたいなって思っているんですけどね」。
「そんなに治療したくないのですか」。
「治るならいいけど、こんな状態でずっといくなら、早く楽になりたいんですよ」。
「でも娘さんが看護師さんの卵なら、治療しようっていうんじゃないですか」。
　「ええ、そうなんですけど。でももういいんです。あたし･･･」。
と小さな声で呟くようにいた。またこみ上げるつばを拭い取る。ベッドのパイプにはゴミ袋が結ばれており、ティッシュペーパーがどっさりと入っていた。一日で一箱空けたときもあったという。

　少し先を急ぎすぎたと思い、飲み物を買ってくるといって、間をおいた。たまたまだったが、なかなかうまく話が進まないときに、とっておきのネタをカルテから仕入れてあった。紙パックのジュースにストローをさして、ひと飲みした。私も随分と肩の力が抜けてきた。
「あっ、そういえば、さっきカルテで見たんですけれど、誕生日が僕と同じなんですよね。2月23日ですよね。僕もなんです。皇太子と同じなんですよね」。
「えっ、そうです、そうです。へー、同じなんだ」。そういうと、また顔に明るさが戻った。好きなお笑いタレントの話や正月番組の話をしてくすくすと笑っているうちに、日もとっぷりと暮れてしまった。病室のライトを点けると、光量を弱くして欲しいといわれた。
私は、自分の母親の話をした。子供の立場からすれば、やっぱり一日でも長く頑張って生きて欲しいって思いますよと話した。
「吐き気や痛みがよくなれば、少しは治療してみようかなって気持ちにもなりますかね」。
「うーん。それはどうかな。でも、どうしても違うところにすがりたくなっちゃうのよね。おかしいと思われるかもしれないですけれど、やっぱしなんか、精神的に支えになってくれるところに縋りたくなっちゃうんですよね。それで、あの、いまあたしも徐霊センターみたいなところに通ってるんですけどね。今日も後できてくれるっていってましたけど･･･」。
意表を衝かれた。「そこは、お祈りするようなところなんですか」。
「祈祷とは違って、光を与えてくれるところなんですよ」。
「それで少しは楽になれますか」。
「ええ、別に高いお金取られているわけでもないし。精神的な安定を求めているとは思うんですけれどね」。
この病院には、チャプレンと呼ばれる病院専属の牧師がいる。牧師と対話することもできる。
「ここには牧師さんもいるようですけど、キリスト教か徐霊センターかの違いくらいで、求めてらっしゃるものは、きっと同じなんですよね」。
「ええ。やっぱ怖いんですよね。いなくなってあとのことが。自分の行き先が。いなくなって、どこ行くんだろうって。いろいろ考えちゃうんですよ。不安になっちゃうですよ。いや、怖いのが先なのかなあ」。「もちろん孫もできたばかりで、できれば成長を見ていたいって思いますよ。娘だって、やっと片付くって時だし」。「でもご飯も食べられないし、なんせこの吐き気じゃ」。「あっ、でもね。孫が毎日来てくれるんだけど、孫を抱いている時だけは、不思議と吐き気も止まるんですよ。精神的なのもあるかもしれませんね。昔から車に乗っていても、酔うかな酔うかなって思っていると必ず酔っちゃったし」。
癌が拡がることで十二指腸が狭窄していた。そのためご飯が、ほとんど通らない。ここ二ヶ月液体以外のものを口にしていない。おそらくは込み上げてくる吐き気もここからきているのではないだろうか。癌が大きくなり、胃を圧迫しているのではないだろうか。本人もそう考えていた。やりたくはなかったが食べ物が通れるようにする二回目の手術を周りの説得で受けた。が、結果はよくなかった。
「だから嫌だったんですよ。あたしは悪いほう悪いほういっちゃうんですよ」。　
「随分と冷静に自分の状況を分っていらっしゃいますね。お強いのですね」。
「いや、強いわけないじゃないですか。諦めですよ。もうしょうがないんですよ。娘も来年から働きに出るし、そしたら忙しいだろうから、あたしがいたらかわいそうだし」。
「いや、娘さんにしてみれば、僕もそうだったから思いますけど、家族にしてみれば、そんなこと絶対にないですよ。どんなに介護で大変だって、やっぱり生きて欲しいと思いますよ。そんなこと心配なさらないで」。
「そうなんでしょうけどね。こういう病人が出れば、家族から親戚までみんな大変だから」。

「お仕事はどうなさったんですか」。
「辞めました。でも、病気になってすぐに入院して、荷物や机の整理もあるんですが、一度もいってないんです。こんな姿誰にも見られたくないから、上司や部下やらがお見舞い来るっていってくれたんですけれど、全部断ったんです」。

「ところで、ホスピスに入るといったのは、ご自分で選んだのですか」。
「そうです。大きな病院だと、ずっと点滴につながれているでしょ。人も大勢いて忙しないし。自由も利かないし。外にも出れないし。そんなの気狂いそうよ。その辺の窓から飛び降りたいって気持ちが始めてわかりましたよ。生きてるほうがつらいんですよ」。
「ご家族はどうでしたか。ホスピスに入りたいっていうと、諦めちゃってるんじゃないかっていいませんでしたか」。
「うん、そう。でもね、みんな口では大丈夫だよとかいうんですけどね。あたしの性格も知っているし、諦めてるんじゃないかしらね」。
「どなたか、パートナーみたいな方は、いらっしゃらないんですか」。
「いますよ。います。よくここにも来てくれますよ。申し訳ないですよ。娘が独立したら、一緒になる予定ではいたんですけれどね。こんなんなっちゃって･･･」。
「みんなに申し訳ないんですけれど、あたしもそういうのもだんだん負担になってきちゃうね」。
「いや、ここではもっとわがままなさっていいんですよ。みんなのことなんか気にすることはありませんよ。師長さんに聴いたんですけれど、想い出の患者さんて、ものすっごく困らされたような人らしいですよ。そういう人の話しは、今でもナースステーションでするらしいんですよ。『誰某さんは、こんなことしてたよね』って想い出話に花が咲くって」。「先生や看護婦さんはどうですか。頼りにできませんか」。
「いやそんなことないですよ。ここの先生も、向こうの先生も、みんなあたしのいうこと聞いてくれんですよ。看護婦さんが優しいよね。ほんとに。ひと言ひと言に励まされるんです。涙出てきちゃうよね。ほんとよくして下さるし。みんなに感謝するんだけども。手術だけはしないでもらいたかったけれど･･･」。

「あたしのカルテの画像とか見ましたか」。
「ええ、拝見させていただきましたよ」。
「それで、あたし、あとどれくらいとかわかりますか」。
「いやー、正直全然分らないです」。
　「きたっ」と思った。といっても一介の医学生に画像から余命が判断できるほどの臨床能力は備わっているわけもない。ただ、私に聴いてくるというのは、やはり皆が敢えていわないでいるというのを感じとっているのであろう。何かうまいこと続けて話さないと。
　「そういえば、さっき師長さんと話していたんですけれど、ここに来るといわれていた余命より長く生きる方が多いようですよ。食欲とか性欲が強い人は、特にそうだっていってましたよ」。
　K子さんが、くすくすと笑った。「先生、ほんとは隠しているんじゃないかなとか。ほんとはあと３ヶ月とか」。
　余命は、医師の経験とステージより統計的に得られるデータからおおよそ判定されている。大きく外れることもしばしばある。
　「ほんとのこと教えてもらいたんですよね。気になるんですよ」。

　止め処もなく話しを続けていると、徐霊センターの人がやってきた。どこにでもいるおばさんだった。K子さんが私を紹介すると、少し訝しそうだった。K子さんも察したようだが、「この先生は分ってくださるから大丈夫よ」と彼女を気遣った。彼女がコートを脱ぐと、K子さんが「よろしくお願いします」といって、背を向けた。彼女は、K子さんの後頭部に一メートルほど後ろから手を翳している。時には二、三歩歩いてさまざまな角度から、頭に向けて手のひらを翳す。K子さんは目を瞑って、じっとしている。15分ほど続いた。K子さんは、「温かくなってきたと」いって横になった。
　
　翌日もK子さんの病室のドアをノックした。その日は、長女が孫を連れてきていた。K子さんの表情も昨日より遥かに柔和であった。長女が「おばあちゃんによくなってもらわないとね」と赤ん坊をK子さんの腕に抱えさせた。K子さんは「いやあだ。おばあちゃんなんていわせないで。ねえ。」といって、朱色の柔らかな孫の頬をさすっていた。生まれたばかりの者と死を間近に控えた者が慈しみあっていた。
　家族の団欒を邪魔するのは忍びなかったが、居てくれて構わないというので小一時間ほどご一緒させていただいた。確かに吐き気のような咽頭の反射はないようだった。帰りの新幹線の時刻が迫っていたので、そのことを伝え、院長や看護師たちに挨拶を済ませた。宿直室に戻り、私服に着替え荷を背負った。そのまま玄関まで出てきたが、K子さんへ一声掛けていこうと思い直し、そのまま再び病室に入った。娘や孫も帰ったようで、部屋は静かだった。私が最後に掛けた言葉は、こうした人々に掛けるべき言葉ではないとされている言葉だった。それは承知の上だったが、それでもそういいたかった。そう。「頑張って！」と。
　

<strong>五、救急救命センター</strong>

　クリスマス直前のある寒い夜、私は救命救急センターに宿直していた。差し迫った浮かれ調子の夜の街を彩る青や白や緑やらの華やかなイルミネーションとは対照的に、センターの夜は救急車の赤色灯が騒がしく回っている。この時期は特に脳卒中や心筋梗塞といった急病が増えるときでもある。
　大学病院の救命救急センターは、第三次救急医療機関である。それは、極めて重症な救急患者に対して、高度な治療をおこなうことができる施設のことである。心肺停止患者が運ばれてくることも毎日、一度や二度ではない。

　そういえば救命救急センターに初めて来たのは、この大学に入った最初の年だった。医学生といえども、一年生では実際の医療現場の光景は未知の世界そのものだった。センターでの見学が一通り終わり、教員によるまとめがおこなわれていたその最中に、ホットラインのベルが鳴った。駅ビルからの飛び降りた者が運ばれてくるという。屋上に本人のものと思われる靴が揃えられていたそうだ。
　救急車が到着すると、血まみれの男性がストレッチャーに乗せられERに大急ぎで運び込まれた。一目見て一刻を争う状況であることは、素人目にも明らかであった。左の大腿骨が太ももから飛び出ていた。頭からも出血が続いており、顔面は血で染まっていた。ベッドに移されるやいなや７、８人の医師が飛びかかった。あるものは衣服を引き千切り、別のものは点滴のルートを確保し、またあるものは大声を張り上げながら患者の顔を叩いている。虫の息だ。血圧を測っている医師が、「73です！」と叫ぶ。左目の瞳孔は開いたままである。脳内の損傷が疑われる。CTを撮るとそれは裏付けられた。患者は呻き声を上げている。私は固唾を呑みながら忙しく動き回る皆の動きの邪魔にならところで、肩をすくめその光景をただ眺めていた。ベッドの上のライトが、血に染まった顔面と大きな骨に突き破られた太ももをこうこうと照らし出している。一人の医師が私を呼び寄せた。手をとられ患者のすぐ傍らに立たせられ、状況を説明してくれる。「これから緊急手術になる。頭蓋内の出血が致命的になる可能性があるが、それよりも今は出血を止めることが優先される。骨折による動脈損傷のため血圧の低下が止まらないからだ」。
　医師の呼びかけに、患者はわずかに反応している。それをみたとき、自然と私は「頑張れ」と叫んでいた。知らぬうちに強く握り締められていた両手を開くと、手のひらには汗を書いていた。そしてそこには爪あとが深く刻印されていた。
　緊急手術は成功したものの脳の挫滅がひどく、この患者は４日後に意識を戻すことなく亡くなった。やはり、自殺だった。
　自分自身に驚いた。私はそれまで、自殺といえどもその人間の一つの生のあり方だと考えていたからだ。それはその人間の倫理であると、その人の生きる道であると。だが私は彼を目の前にして、内心「生きろ」と叫んでいた。少なくとも私に知識と技術があれば、何の躊躇もなくそこに参加していただろう。

　救急救命センターに来ると、このことをいつも想い出す。
　それから５年経ち、多少の知識は得た。

　深夜二時過ぎ、ホットラインのコールがなった。
　78歳の男性が自宅トイレで倒れていたところを娘が発見した。すぐに救急車を要請した。救急車到着時には意識があったが、救急車に収容するやいなや心肺停止状態になったという。
　だとすれば、心肺停止からまだ数分。救命の可能性が十分ある。
　寝ぼけ眼をこすりながら、白衣に袖を通し救急車の到着を入り口の外にでて待つ。出るやいなや、真冬の冷たい空気に全身が包み込まれる。手をこすり合わせ、息を吐き出して暖めようとするが、真っ白な息が眼鏡を曇らせるだけだった。まもなく救急車が到着した。
　後部の扉を開けると、救急隊員がエアバックによる人工呼吸と心臓マッサージを施していた。娘と奥さんと思われる人たちが、今にも泣き出しそうな顔で「お父さん、お父さん」と手を握り締めている。救命センターのベッドまでも心臓マッサージは続く。ベッドに移ると、医師たちの出番である。既に機材や薬剤は、準備万端である。すかさず医師は気管内挿管を施し、静脈路を確保する。身体はまだ温かい。心電図の波形は、フラットのままである。
　心臓マッサージは両方の乳首を結ぶ線の真ん中に両手を当て、１分間に100回のペースで胸が５cmほど沈み込むようにおこなう。肋骨がきしむ感覚が掌に伝わってくる。当直の医師は二人しかいない。心臓が完全に止まってしまった患者には除細動器は効果がない。心静止治療のプロトコールに従って、数分おきに薬剤を投入している。特に焦る様子もない。私や救急士が交代して、心臓マッサージを続ける。５分もすれば額に汗がにじみ始める。心電図には心臓マッサージによる波形やPEAと呼ばれる心筋の一瞬のひきつりのような波形が入るものの、心拍は帰ってこない。私は心の中で「動け、動け！」と一押しするたびに、叫んでいる。私という外力によって血流がわずかに保たれている。脳や組織は、かろうじて生き続けているはずだ。
　20分ぐらい経ったのだろうか。どれくらいかはよく憶えていない。上の医師が、じゃあそれで最後にしようと私に告げた。私は「はい」と答えた。私の手が止まれば、この人のわずかな望みが絶たれることになる。力がはいる。何とか動けと念じ続けた。「よし終わりにしよう。家族を呼んでくるから。挿管外しておいて、きれいにしといてくれる」。手を止めて、額の汗をぬぐった。大きく一つ息を吸い込む。どこの誰だかは知らないが、彼の一番傍で終焉を見届けた。またしても私は無力であった。
　娘と奥さんが、恐る恐る寄り添って入ってきた。父の姿を見て、二人ともぼろぼろと涙を溢し始めた。「お父さん、おきて。ねえ、お父さん･･･、おきて･･･」と身体をゆすった。私や他の医師は、少し離れたところからその光景を眺めている。私が悪いわけではないのだが、申し訳ないという気持ちが込み上げてくる。家族がひとしきり泣いて現実を受け入れ始めたころ、上の医師が家族に声をかける。「大変おつらいところ申し訳ありませんが、私どもの時計で２時52分になります。これから死亡確認させていただきます。それからですね、病院に来たときに既に心肺停止の状態で、こちらでもできうる限りのことをさせていただいたのですが、心拍が再開できませんでした。そのため警察の方に来ていただいて、検案させていただかなくてはなりません。その間またお待ちいただかなくてはなりません」。亡骸の顔を撫でている愕然としていた家族にとっては、「警察」という言葉は違和感があったには違いない。しかし思慮するだけの力はなく、コクリと頷いた。ハンカチで目頭を押さえ肩を落としたまま、待合室の冷え切ったソファーにそっと腰を落とした。
　病院以外の場所で亡くなった場合、ある特別な場合を除いては、それは異状死体として取り扱われることになる。もし病院で一度でも心拍が再開していれば、それは病院での死亡となるのである。
　もう一人の研修医に誘われて、暖かい缶コーヒーを握り締め外に出る。寒さで皮膚が収縮して、鳥肌が立つ。暖かいコーヒーが胃に流れ込むのを感じる。煙草を大きく肺に吸い込む。そして、煙を大きく吐き出す。白い煙と白い息が混じりあい、深夜の真っ暗な寒空に舞う。センターの脇を走る道には、新たな赤色灯の回転する明かりが近づいてきていた。

　突然自宅で倒れそのまま息を引き取ることは、医療の恩恵を十分に受けさせることが出来ないということになる。この点においては医療者にとっては悔いの残ることであるかもしれない。しかし、本人にとっては病院でさまざまな機器や管につながれたままよりも、好ましい死に方の一つではあろう。そういってみせる人は多い。もっとも突然逝かれた場合、その哀しみは家族に直撃することになる。
　医療がなしうることは、本人やその家族が直撃弾に中らないようにするための緩衝材のようなものでしかないのかもしれない。

　
「尊厳ある死」とは、どのような死のことであろうか。急性の心臓疾患、脳血管疾患、癌死、老衰、ALS、AIDS、不慮の事故死、自殺、他殺などさまざまな死因があるであろう。どのようなプロセスを辿るのであれ、死そのものは同一の結果をもたらすのだとすれば、「尊厳ある死」とは、死そのものに属する尊厳をいうものではない。「尊厳」はその過程に関していわれているのである。しかし、医療として提供できる穏やかな死へのプロセスは、ごく一部に与えられるものであり、しかもそのほんの直前でしかない。もちろん、それでも意味はある。病になる前から人間は死に向かって生きているのだ。
　声高らかに尊厳ある死を主張することは、どこか死に属する本来の過酷さを隠したてることにはなりはしないだろうか。かつてキューブラロスは、死に往く過程を否認、怒り、取引、抑鬱、受容として段階的に捉えた。しかしそれとて、諸段階を駆け上がり発展的に解消されるものではない。堂々巡りを繰り返す。
だが、いかなる人間の生にも尊厳があるのだとすれば、その臨終にも、虚飾をまじえなくても必然的に尊厳は胚胎している。しかしそれは過酷さの中にしかないのかもしれない。　それを「尊厳」の名において隠してはならない。
　この章を綴じるにあたって、小泉義之の『病の哲学』（ちくま新書）から、その一節を引いておく。

「末期状態の病人を見るに忍びないのは誰か。末期状態の人間に嘱託されるのは誰か。末期状態の人間に手を下すのは誰か。親密な人びとだ。親密圏が末期状態の人間に死を与えるのだ」。　　p100



<strong>第二章</strong>

<strong>一、自己と非自己</strong>

　ここまで、死に臨む医療の現場をいくつか垣間見てきた。だがしかし、その一方で現代医学は、不治の病を克服するためにいくつもの途を切り拓いてきた。むしろ、それこそが現代医学の主題であったといえるであろう。その一つに移植医療がある。移植とは非自己を自己に生着させることである。このように移植を定義すると、当然輸血もその一つである。
　輸血の始まりは、1492年ローマ法王イノセント８世が危篤状態に陥ったとき、３人の青年の血が死に到るまで絞り取られ、法王がそれを飲まされたところに端を発するといわれている。その後輸血が盛んになったのは、17世紀になってからのことだった。
　1667年、フランス国王ルイ14世の侍医であったジャン・バプティストゥ・デニ－は、４名の貧血患者に仔羊の血液を輸血したと記録されている。しかし副作用で患者は真っ黒な尿を出し、４名のうち１名が死亡した。そしてデニ－は殺人者として裁判にかけられることになる。長い法廷闘争の末、結局無罪となった。これを機に輸血禁止令が出されたという。
　現在のように輸血が日常的におこなわれるようになるためには、さらに200年以上を要した。1900年ウィーン大学のカール・ラントシュタイナーが、ＡＢＯ式血液型を発見した。その10年後アメリカのモスらが、これまでの輸血による死亡事故の主な原因はこの血液型不適合によるものであると発表した。こうして初めて輸血が医療現場に登場することになる。
輸血一つ取り上げても、日常的に利用される医療資源となるには500年以上の歴史を有している。しかもHIV感染者の血液製剤、肝炎ウイルス、未知のウイルス等未だに問題は後を絶たない。しかし、非自己を自己に導入するという移植の発想は、この輸血という概念があって始めて成り立つ。
　臓器移植は20世紀に始まった医療である。人間の体の失われた部分を他のもので補ったり、機能しなくなった部分を交換しようという試みは古くからあったようである。他人の身体の一部を使うものでは、皮膚、角膜などの移植が、19～20世紀にかけて、普及した。
　臓器の代替物としては人工物を使用するものでは、人工腎臓（透析器）が1945年頃から発達した。これは現在広く用いられている。日本の透析患者は20万人もいる。人工呼吸器、人工心臓なども開発された。しかし、ほとんどは体外で使用する装置であり、制約が大きかった。
　1902年、ウィーンの外科医ウルマンはイヌの腎臓を摘出し、同じイヌの首に移植した。移植された腎臓は正常に機能し、この結果が報告され当時の医学界の話題をさらった。その三年後にはフランス人のカレルもイヌの腎臓移植を行った。カレルはその後ネコを使って、他のネコからの移植実験を重ねたが、一時正常に機能した腎臓がやがて機能しなくなることにに、何らかの生物学的因子が働いていると考えた。これが後に拒絶反応と名付けられ、この克服が臓器移植の最重要課題となる。
　1906年には、ヒツジやブタの腎臓をヒトに植える異種移植も行われた。これらはいずれも失敗に終わった。ヒト間の腎臓移植がはじめて行われたのは1936年のことだった。ウクライナのボロノイは急性腎不全患者を救うため、死者の腎臓を患者の大腿部に移植した。患者は、36時間後に死亡した。　
　他方日本では、京都大学の山内半作がその先駆けだった。イヌやネコを使った腎臓移植の実験結果を1910年に「臓器移植」として発表している。1956年新潟大学で、楠隆光が急性腎不全の患者の大腿部に腎臓を移植した。これが日本初の腎臓移植となる。1964年には東京大学の木本誠二が慢性腎不全患者に対する生体腎移植を行った。またこの年、千葉大学の中山恒明らによって、日本初の肝臓移植も行われた。患者は五日目に死亡した。その前年には、スターツルによる世界初の肝臓移植が行われている。

　さて、現場に戻ろう。


<strong>二、小児科病棟</strong>

トクントクン、トクントクン。心臓は力強くリズムを刻んでいる。聴診器を当てる私の目の前で、その児はすやすやと眠りについている。真白な布に包まれて、乳児特有の甘い臭いがする。生まれて二ヶ月を過ぎたばかりの女児である。こんな邪気のない顔をみれば、やがて訪れるであろう豊かな未来に思いを馳せ、大きな希望を寄せるのは、この子の親でなくともごく自然なことであろう。彼女がなにも知らないと思えばなおさらである。ただその児の場合は、違っていた。いやより正確にいえば、希望がないわけではない。ただ希望を寄せる前に、まず生きる手立てを見出さなければならなかった。生きる希望を見出す必要があった。ここは、大学病院の小児科病棟である。
　生後50日を過ぎた頃、うんちが灰色になってきたのに母親は気づいた。次第に白目の部分が黄色くなってきて、あわてて近くの小児科医院に駆け込んだ。しかしそこでは扱えるものではなかった。大学病院への紹介状が手渡された。ここで「先天性胆道閉鎖症」と診断が下った。文字通り生まれつき胆道が閉鎖しているため胆汁の排出が滞り、肝臓を破壊する病気である。破壊が進行すれば、やがて肝硬変へといたる。放置しておけば、数ヶ月の命である。一万人に一人の割合で発症する原因不明の難病である。
誕生を喜ぶ時間はあまりに少なかった。この疾患では通常、誕生二ヶ月以内に手術を行い胆汁の排泄路を造ってやらなければならない。腸管を切断し、その一方の断端を胆汁の出る根元に繋ぎ、もう一方の腸管を肝門部に繋いだ腸管の側面に繋ぎなおす。胆汁を腸管に排泄させてやるルートを造ってやる。葛西法と呼ばれる術式である。この術式が開発される以前は、なす術がなかった。数十年前に葛西法が考案されてからは、この疾患の予後は劇的に改善した。術式もバージョンアップしていった。それでも今でも10年生存率は30％程度である。肉眼では分らないレベルでどこからともなく漏れ出る胆汁により、肝硬変がゆっくりと時間をかけて進行してしまうからである。現代医学は幾重もの失敗を重ねたその上に、こうした命を差し当たり繋ぎとめるだけの技術を身につけてきたのである。奇しくもこの階上の産科病棟では、20年ほど前にこの病院で同じ手術を受けた女性が臨月を迎えていた。
　この女児にも葛西法が施行された。手術は成功した。数日で排泄物の色も元の色に戻り始めた。黄褐色の胆汁が排泄されてきた証拠である。皮膚の黄疸も取れ始めてきた。差し迫った危機は過ぎた。
　母親は病棟でこの子を抱き上げ慈しんでいる。その前で父親は音の出る玩具を振りながら、子の気を引こうとしている。改めて、わが子の誕生を喜ぶ両親の姿そのものである。ナースステーションから扉越しに見えるその姿に、思わず胸が熱くなる。横にいる主治医に「いい光景ですね」と声をかける。彼は「ああ、そうだな。外科医冥利だよ。けど、あの子もいずれ肝移植が必要になるだろうな」と静かに独言のように呟く。彼ら親子にとっても、この医師にとっても手術の成功はまだ長い道程の始まりでしかなかった。
　この時はじめて「移植」という言葉が、私にとってリアルなものとなった。もしあと何年かしてこの児に移植が必要になったとしても、この両親ならきっと自らの身体を喜んで差し出すに違いない。「生きろ」と願うであろう。

　1989年11月13日、日本で初めておこなわれた生体肝移植は、この先天性胆道閉鎖症に対するものであった。世界で３例目だった。ドナーは父親だった。患児は術後285日目に短い一生を終えた。当時は健康な人の身体にメスを入れる移植の是非が大きな議論になった。
　以来、生体肝移植の件数は右肩上がりに増え続けた。2005年には561件おこなわれた。累積件数は2005年までに3782件を数える。1999年に始まった脳死肝移植が30件であることに比べれば、決して少ない数ではない。脳死移植が普及しない分、生体肝移植の件数は、国内では増え続けているのである。

　あなたならば、どうするであろうか？あなたの大切な人があるいはあなた自身が、他人の身体の一部がなければ、生きていくことが出来ないと告げられたならば。
　同じことをひっくり返していってみよう。他人の身体の一部があれば、あなたやその大切な人は生きていくことが出来る。


<strong>三、あるドナーの場合</strong>

　2006年のある夏の日、つくばで私が会ったその女性（F.S）は、力強い切れ長の目が印象的な人であった。今年で33歳になる。図らずも私と同い年である。音楽大学を出てから、実家で音楽を教えている。２歳違いの弟（F.M）が病魔に倒れたのは2002年７月９日だった。それ以来、彼女は慌ただしく手繰り寄せる運命の糸の中に絡みこまれていったのであった。

<strong>「生体肝移植」</strong>
　この日弟は大量の吐血により地元の病院に救急搬送された。診断は食道静脈瘤破裂だった。食道の静脈が風船状に膨らみ破裂したのである。病態生理的に見れば、肝硬変が進んできた状態をも意味していた。お腹の中に水が溜まり、皮膚は黄色くなり白目が黄色くなっていた。貧血も極度にひどく、肝臓がまったく働いていない肝不全の状態にあることは確かだった。出血源を止め、状態はすこし安定した。黄色くなった肌を案じたのであろうか、入院中病院の屋上で弟は日焼けし黄褐色となった。そんな弟を見て、姉はあきれた。だが思い起こせば倒れる以前それまで年に何度かしか会わない弟が、なぜかいつもオーバーオールを着てサングラスをしている姿は確かに不自然ではあった。黄色くなった眼球と腹水により腫れた腹を目立たないようにしていたのだろう。弟は身体の異変を隠していたのである。
　数値が安定し一ヶ月ほどで退院することが出来たが、依然として貧血はひどかった。血液内科のある別の病院で溶血性貧血とわかった。造血機能に異常はないものの、何らかの原因で造られた赤血球が次々に壊されていた。その原因はわかっていなかった。内科的治療を続けてはいたが、好転する兆しはない。肝臓の状態は落ち込み、医師からはいつ危険な状態に陥っても不思議ではないと告げられていた。余命半年という診断が下された。
　そんな状況にあるにもかかわらず、弟は医師との折り合いが悪く退院してしまう。その年の11月のことだった。なんとか元旦は迎えたものの、肝臓は彼を甘やかしはしなかった。正月三日、父は姉に向かって叫んだ。「Mがだめだから、病院行くぞ！」弟は意識が朦朧としたなかで、意味不明な言葉をつぶやいていた。おそらくは肝性脳症であったのだろう。肝臓の機能が悪く体内に毒素がたまり、意識障害を引き起こしているのである。「肝移植」という言葉が俄かに現実味を帯びてきた。それから10日後には両親が東京の大学病院の移植外科を訪れていた。教授から「いいキモがあればねえ」といわれた父親は頭にきていたが、適合検査を受けた。数日後にはドナー不適合という連絡が入った。父親の落胆はひどく、言葉を失ったままだった。姉が声を上げた。「私がドナーになりたい」。もともと姉はドナーになることに躊躇はなかった。母親は肝臓に持病を抱えていた。嫁入り前の娘の体に大きな傷あとを残すなどは、父親にしてみれば言語道断であった。しかし、いまや娘の提案を無言のまま引き受けざるを得なかった。無念さはあったにせよ、息子の命には代えられない。姉の思いもまた同様であった。とはいえドナーに適合する確率は半分である。　　　
　生体肝移植は三親等以内であることが決められている。おじやおばがドナーになることも可能ではある。しかし家族のなかの問題だから姉がもしだめであれば、移植は諦めると決めていた。適合の検査を受けてからの数日間は、電話が鳴るたびに飛び上がりそうになったという。

<strong>手術</strong>
　１月20日夜七時を十分ほどまわった時、ついに電話は鳴った。「お姉さまの肝臓で大丈夫ですよ！」。姉は母親と号泣した。翌日にはもう過密に組まれた術前検査が始まった。２月１日には手術日が決まった。４日後の２月５日だった。適合検査を受けて入院するまでの間、両親は姉に配慮深かったという。「これ食べたほうがいいんじゃなあい？肝臓にいいみたいよ」とか、「今日はテニスよしたほうがいいんじゃない？」など、壊れ物でも扱うかのように大事にされた。姉は姉で、自分の肝臓にむかって、胎児に話しかけるように語り掛けていた。「もうすぐ行きますよ、あっちにいってもがんばるんだよ、お役に立つんだよ」と毎日繰り返し呪文のように話しかけていた。その頃、当の弟は少し前向きになっていた。手術の説明は家族全員と弟のパートナーで受けた。まるで料理の手順を説明するかのようであった。主治医は下手くそな図を描いてみせ、「これ肝臓です。きります。袋に入れます。もってきます。つなぎます。閉じます」、「わかりましたか？ 」。あっけにとられた父親は「まったくわかりません」と答えた。しかしまたその大雑把さにかえって安心したという。医師たちの自信を感じていたからだった。インフォームド・コンセントなんて、案外そのようなものかもしれない。丁寧であれば、よいというわけではないのであろう。
　手術室に九時に入室し、意識がはっきりと戻ったのはその日の夜九時をまわったときだった。両親が見守るなか第一声は、「弟は？ 」だった。弟はそのころまだ肝臓すら外れていなかった。25時間に及ぶ大手術であった。しかしすぐにまた血の塊、血栓ができたとかで再手術になった。翌日からの姉の術創の痛みは、想像をはるかに超えていた。寝ても覚めても、右を向いても左を向いても、とにかく痛かった。痛さで身がよじれる。術前に先生に「痛いですか？ 」と聞いたとき、「相当痛いですよ」といわれたことが思い起こされる。いまさらながらその言葉が恨めしかった。今日に至っても、その言い方はひどいという。痛みのなかでデフォルメされているのだろうか。医者の側も「まあなんとかなりますよ」なんて適当なことはいえないであろう。身体的苦痛というものは、人間の孤独や不安を如実に曝け出す。だが姉のこうした不安は、手術室の前で再手術を待つ両親には届かなかったのかもしれない。「肝臓あげたのに…」。そんな姉に追い討ちをかけたのが、おなかの中から突抜けビニル製バッグと繋ぐ4本のドレーンであった。病棟内を歩く時は、常にぶら下げていなければならなかった。術後一週間ほどでチューブ類もはずれ抜糸もできた。腹部にはドレーンの痕がバツ印になっていた。「いくらなんでもバツはないでしょ。人の身体にバツだなんて」。開腹の傷跡よりもそちらのほうが、腹が立ったという。回復は順調であったが、暫く熱が続いた。胸水が溜まり、再びドレーンが挿入された。するとすぐに熱はひき、術後18日目に退院となった。
　だが弟を病院にひとり残すことに後ろ髪ひかれる思いがした。弟は薬の副作用で痙攣などがあったにはせよ、順調に回復はしていた。「今日はどう？ 」と毎日のように姉の調子を気遣っていた。その一方で、パートナーに「おれの肝臓は、お前にはやれないからな」などと冗談とも付かない話をしていた。退院が出来たのは、術後32日目のことだった。しかしその二週間後にはサイトメガロウイルス感染症のためさらに二週間入院することになった。これは免疫抑制剤による影響である。この薬剤は移植した臓器による拒絶反応を抑えるために投与される。その結果、健常人であれば罹患しないウイルスにも感染しうる。HIV感染者は同じ理屈でこのウイルス感染を引き起こし、AIDSを発症する。退院後の外来では、血液検査上のデータと血中の薬剤濃度のバランスを考え投与量を調整していく。その後も入退院は再三にわたった。胆管のつなぎ目で「兄弟の仲が悪いところがあり」、たびたび胆汁の流れが悪くなったからだった。それでも弟は術後1年をかけて、毎日仕事にいけるほどに回復した。現在は月に一回通院している。「私の肝臓をあげたら彼も少しは性格が変わるんじゃないかしら」という姉の期待を裏切り、今までのようにやんちゃな弟の生活が続いている。「彼の性格のほうが強かったようだ」。
　
<strong>移植医療</strong>
　姉の退院の時、両親は姉の成し遂げた快挙を手放しで喜んでくれた。ご褒美に娘の前々からの希望であった１万円位のパジャマをプレゼントした。父親はしばしば娘の傷を見たがった。術創が徐々に癒えていくのが、ドナーになれず傷ついた父親の気持ちをも癒していったようだった。本人が見てもあまり気にならないというほどに、術創は目立たずきれいになっていった。温泉にもいける。嫁入り前の女性を気遣って丁寧に縫合してくれたであろう医師に感謝している。だが同時に姉は結婚していないでよかったと思っている。結婚していてさらに子供がいたとしたら、とてもじゃないが選べない選択肢だったからだ。術後一年はわずかな体調の変化を感じていた。風邪が長引いて肺炎になったり、胃炎とかインフルエンザになったりした。姉の考えでは、手術により抵抗力が落ちたためだ。弟に対しては「過干渉」になることが多かった。「やたら気になるんですよ。なにを食べたとか、何時に起きたとか。まさかお酒なんか飲んでないでしょうねとか。もらったんだから大事にしろよって」。
　一年を過ぎてからは、体調は手術前に戻った。弟も働きに出るようになり、それを機縁に書き続けていたブログも終了した。「過干渉」も本意ではなかった。肝臓をあげて一年、ようやく「弟離れ」の時がやってきた。

　この間彼女は離れるべき弟に何を思っていたのであろうか。彼女は弟にたんに臓器の一部をあげたのではないという。

<strong>筆者</strong>　「そうすると、なにをあげたことになるの？ 」
<strong>姉</strong>　　「んん～、何か一緒に届けているものがあると思う。大きな贈り物かな、生きて欲しいって気持ちを贈ったのかな」。
　　　　「移植のドナーになることもケアの一環だし、お見舞いや面倒をみることの延長としてドナーになるということがあったので、別に躊躇はなかったですよ」。
<strong>筆者</strong>　「じゃあ、少し意地悪な質問だけれど、自分がもしもらう立場だったらどうですかね？ 」
<strong>姉</strong>　　「やっぱりよっぽど親しい人じゃないともらえないですね。依存して当たり前の人からじゃないともらえないです」。
<strong>筆者</strong>　「なるほど。では脳死のドナーからはどう？ 」
<strong>姉</strong>　　「脳死に関しては、まってらっしゃる方がいるので発言を控えているのですが、でも明日もし死んでも、誰かのために臓器をあげようと思って生きている時間てそんなにないと思うんですよ。ドナーカードを持っていたとしてもいつも自分の臓器に感謝して、死んだときにちょっとでも役に立つようにと思って生活している人は少ないと思うんですよ。そういう思いがなくて、人体の一部を切り取るということは、たとえ死んだとしても、何か思いが残るような気がして、すごくいやはいやなんです。いただくのも申し訳ないですし、ましてや中国のように死刑囚の人からいただくとか、モノとかパーツみたいに臓器を思っていること自体すごくいやだと思う。だから、もらいたくもあげたくもない。あげたい、もらいたいという気持ちが通じ合った時だけ、自分がもらえたらなって思う」。

　彼女にとって同じ移植医療であっても、生体移植と脳死移植ではまったくの別物だった。

　彼女の場合は、典型的な成功例の一つといえるであろう。その理由は、弟の経過がよいことがなにより大きいが、それだけではない。彼女の家族は、彼女自身がいうように昔から家族の仲がよかった。楽器演奏に全員が通じていることもあって、一家で演奏することも度々あった。小さな時から家族で何でも話し合えたし、助け合ってきた。そんな家族にあっては、今回の件でも、生体移植への迷いは微塵もなかった。そうした強い家族の絆が、心身両面で弟の強い支えになっていた。
　ドナーとなった姉は、その後3ヶ月間の通院だけですんだ。幸いなことに、後遺症もない。病院とは直接かかわることはなくなったが、今も患者家族会に参加している。

　ドナーとなる人間の不安はなかなか表には出ない。現在まで日本において、ドナーの死亡例は2003年５月、京都大学病院で娘に肝臓を提供した母親が死亡した一例のみである。しかし2006年７月には群馬大学病院で夫に肝臓を提供した妻が、両足麻痺になった事故も報告されている。海外でのドナー死亡率は0.3％～0.9％という報告もある。
　日本肝移植研究会は2006年３月、「生体肝移植ドナーに関する調査報告書」を発表した。これによれば、2000年以前にドナー手術を行ったもので完全に回復したと答えたものは65％であった。手術後の経過が良好だったと答えたものは61.6％である。後遺症については、手術後２～３年たったドナーの58％は「何らかの症状がある」と回答している。手術の傷跡のひきつれや感覚のまひ、疲れやすさ、腹部が張る膨満感・違和感などが多い。
　もともと健康な身体であったのだから、ドナーとなる人の手術や後遺症に対する不安はレシピエントのそれより大きいのは当然であろう。今回の取材に当たって、メールでやり取りしていたドナーの一人がこんな返信を寄せた。　

『早いもので、私達親子は肝臓の移植手術を受けてから４ヶ月が経ちました。父も以前と比べると見違えるほどに元気になりましたが、まだまだ完全には状態が安定しておらず、体調によって、入退院を繰り返している状況です。
術前、インターネットを中心に生体臓器移植関係の情報を片っ端から収集していた頃に気付いたのが、医療機関から発信されている情報量に比べ、体験者の“生の声”の少なさでした。
手術に対する不安はレシピエントに比べ、ドナーの方がかなり強く感じていると思います。
その不安を軽減する為にドナーは信用の出来る情報(実体験談)を集め、自分にそれを当てはめ、色々なシュミレーションを繰り返す中で「私も大丈夫だ！」と心を決めます。
私がそうだったので、きっと他の方も同じなのではないでしょうか』

　こうした不安を抱えながらも、ドナーはレシピエントに臓器を与える。それでも、彼らに「生きてほしい」と願っているのである。

　ドナーとなった彼女に限らず、健康な自分の身体まで傷つけて誰かを助けようという思いは、その相手にとってどのように受け止められることになるのか。一見同じような状況だが、このレシピエントの場合は、幾分トーンが異なる。


<strong>四、あるレシピエントの場合</strong>

　2006年８月のある暑い日、新大阪駅前のホテルで私はある男性を待っていた。待ち合わせの時刻から10分くらい過ぎたとき、その男性は息を切らせてやってきた。彼はO.Sさん、33歳。単なる偶然だが、つくばのドナーや私と同い年である。小柄で痩せていて、今日のような太陽の照りつける夏は、あまり好まないのではないかと勝手に案じた。
　
<strong>原発性硬化性胆管炎</strong>
　今から５，６年ほど前、彼は仕事のストレスからか毎日のように吐き続ける日々が続いた。忙しさにかまけて病院に行くのも億劫だったが、近くの町医者に診てもらった。胃にはこれといった所見はなく、血液検査と内服薬をもらっただけのことだった。血液検査の結果を聴きに行ったのは、それから三ヶ月してからだった。「肝臓の数値がよくないようですね」といわれても、彼には思い当たる節はなかった。酒もたしなむ程度であった。消化器内科を受診するように勧められ、血液検査の項目を増やし腹部超音波を受けた。肝機能を表す数値は高くはあるものの、基準をわずかに上回る程度だった。超音波の所見は、わずかな肝臓の腫大を示していた。肝疾患の原因となるウイルス、薬剤など一つ一つ潰していったが、どれも該当しなかった。そこで初めて、「可能性としてはとても低いのだけれど、自己免疫性肝疾患という病気も視野に入れなくてはならない」と告げられた。つくばの場合とは違って黄疸や腹水はもちろん特に何の症状もない彼にとっては、まったく予期していないものであった。
　一ヶ月ごとに血液検査でフォローすることになった。それから半年は今までと変わりなく仕事をしていた。しかし、立っているのも座っているのもしんどい日が続くようになった。これまで経過観察していた医師がK大学から派遣されていたこともあり、K大学病院で本格的に精密検査を受けることが提案された。胆道を造影し狭くなっている部分を見つけるERCPという検査の結果、やはり自己免疫性の線が濃厚ということであった。
　自己免疫性肝疾患といわれる病態には、三つの疾患がある。自己免疫性肝炎、原発性胆汁性肝硬変、原発性硬化性胆管炎である。大学病院ではちらほら見受けられるが、いずれもメジャーな疾患ではない。難しい病気である。
　最初の診察から1年以上が経過し、だるさや時折の発熱はあるものの状態としては安定していたので、そろそろ診断をつけてはという話があがってきた。肝生検である。身体の表面から肝臓へ直接針を挿入するため身体への負担が大きいので、これまで医師は踏み切らないでいたのだろう。診断は、原発性硬化性胆管炎であった。芳しくない結果だった。そのとき彼は「自己免疫性肝疾患の中で一番厄介なのが来ちゃったな」と冷静には受け止めた。当時インターネットなどを調べてもほとんど情報はなかったが、専門書を調べて情報はおおよそ頭に入ってはいた。
　医学生が使う内科学の教科書はB５版で2200ページほどあるが、この疾患についての記載は半ページしかない。この疾患は胆汁の通路である胆管が狭窄してしまい、胆汁がうっ滞し、最終的には肝硬変、肝炎へと至る予後不良なものである。医学でいうところの「原発性」とは、原因不明という意味である。根本的な治療法はなく、対症的な投薬が差し当たり中心となる。
　
<strong>決断</strong>
　それから２年ほどは病状も安定していた。生活にもあまり影響はなかった。肝移植の話が本格化してきたのは、去年の８月15日のERCP検査が失敗してからだった。ERCPとは、造影剤を胆道に流し込みそれをX線で映し出し胆道の通りをみる検査である。しかし、胆道の狭窄が激しく造影が出来なかった。食欲は多少落ちていたが状態そのものはそれほど悪くなかった。それでも「移植しなかったら１年持つかどうかやな、なんぼ甘く見積もっても２年は持たんやろ」というのが主治医の見解だった。医師からは「他の病院行って意見聞きにいってもいいで」といわれていたが、その医師のもとを離れるつもりはなかった。しかし彼は、自覚症状が強くなかったこともあり、そう簡単に移植という選択肢を受け入れることも出来なかった。もともと生への執着は強くないタイプだという。
　移植に踏み切るかいなかの決断を下すまでに、頭髪はかなり白みを帯びた。お金の問題は確かに大きかった。自費で行った場合、医療費は1000万をゆうに超えることもある。彼の場合、保険適応こそなかったが、高額医療費ということで諸経費を含め結局90万で済んだ。これに月々４、５万の薬代がかさめば低い額ではないが、医療費の問題はとりあえずクリアできそうだった。ドナーの問題もある。両親は高齢でドナー候補から外れたが、幸い７つ上の姉が申し出てくれた。姉がだめなら「しゃあないで終わった」だろうが、姉はドナーに適合した。つくばの場合と同様、家族内の問題と考えていた。姉の肝臓は右葉と左葉の割合が好都合で、ABO式血液型が一致し、HLAも一致した。ドナーとしては申し分ない。姉が弟へ提供するというのは、つくばのケースと同じである。だが姉には、ご主人と小学生と中学生の二人の子供がいた。ご主人の両親は、嫁がドナーになることには反対だったようだ。「やいのやいのゆうなら、直接いえっちゅうの」と彼はいった。それでもなお彼は、決めかねていた。「確かに生きたいとは思う。けれど移植が成功するかどうかもわからない。もともと35くらいまでやなぁとも思っていたし」。生体肝移植の1年生存率は90％を超えている。それでも彼にとっては生きるか死ぬかの半々でしかなかった。仮に成功したとしても、「その後どう生きていけばよいのか？仕事をすることが出来るのか？出来たとしても常に突然の体調の変化や命の危険にさらされるのではないのか？ことの引延しであるなら、周りを巻き込んでまで、生きていようとも思わない」と、彼はいう。約3000例ある生体肝移植のうち原発性硬化性胆管炎によるものは、100例ほどにすぎなかった。
　そうしたことをぐるぐると堂々巡りを続け二週間ぐらい悩んだところで、彼は移植という選択肢を選択した。いや彼の言葉でいえば、「そうせざるを得なかった」ということになる。彼は移植を治療とは呼ばずに、「医療」と呼ぶ。「延命が第一ではない。同じ病棟に同じ病気で、身内にドナーになれる人がいなかった知人もいた。全てがそろっていたのに、最後の最後にドナーの家族の意向で手術が中止になったこともあった。これだけの状況がそろっていながらも、移植しないのは申し分けない」。これが彼の採択理由だった。移植への戸惑いを両親に相談したり、姉に話したりしたこともないという。「理解される話ではない」と彼自身考えていたからだ。家族は当然彼が生きる道を選ぶものと思っていた。ご主人の両親から反対されていた姉の心境にまで考えは及ばなかった。特に直接やり取りしたわけでもなかった。歳が離れていたこともあり、姉とは「付かず離れず」だった。なにより、自分のことで背一杯だった。

<strong>手術</strong>
　つくばのケースとは違って、急を要せず移植までの時間があった。ドナーとなる姉はまず一ヶ月かけてダイエットに取り組んだ。脂肪肝があったからだ。彼の方はさまざまな検査や呼吸機能をあげる訓練などのルティンをこなしていた。とにかくよく食べさせられ、よく動かされた。術後の体力を保つためだ。術後グレープフルーツは食べられなくなると知り、夢中で食べたりもした。この果物は血中の薬物濃度を上げてしまい、作用が強く出てしまうのである。
　移植プロジェクトの中には、精神科のカウンセリングも含まれていた。絵を描かせられたり、心理テストを受けた。テストの結果は、「物事, 人に対し常に距離を置いて接することにより、客観性を保っている」というものであった。移植手術を受けるにあたり精神的には非常に落ち着いていて、問題がないというのが精神科医の判断であった。
　2005年11月22日、朝９時彼も自分でも不思議なくらいに落ち着いていた。睡眠も十分に取れた。病棟から手術室に入るのにストレッチャーを拒み、自分で歩いていったという。手術室の光景を眺めながら「やっぱりテレビとはちゃうな」と思った。
　手術が終了したのは、翌日の午前１時だった。16時間に及んだ。姉のほうはほぼ同時に始まって夜の８時か９時くらいで終わったと後で聞かされた。その後集中治療室に10日間いた。彼の身体は、術後溜まった水を排出するドレーン、胆汁を排出するためのドレーン、栄養用の腸への管、鼻管、IVH、etcと10本以上の管でつながれていた。
　もともと症状が強くなかっただけに、術後の10日ほどはつらかった。その後彼もサイトメガロウイルスに罹患し、発熱が続いたりもしたが回復は順調だった。チューブ類も徐々に数が減っていった。体重は40kg台まで落ちた。
　姉は無事退院した。家族の反対を押し切って、パートタイムの仕事をやめドナーになってくれた姉にはもちろん感謝している。姉は今、別の仕事に就いている。
　ウイルス感染の影響で多少入院期間は延びたものの、2006年１月２日、彼自身も退院を迎える。この日は多少の熱が出ていたが、大学病院全体が移転作業に追われているらしく、慌ただしい退院だった。５ヶ月に及ぶ入院であった。８月の入院当初は８月中に帰れるかなくらいの軽い気持ちだったが、まさかこうして手術までして出てくるとは思わなかったという。
　手術から９ヶ月を経た現在は、月に一度の通院で検査を受け薬をもらう以外、とかく制限されていることはない。二度と食べられないと思っていたグレープフルーツも少しくらい食べても問題はないと知って、拍子抜けした。薬は5種類。免疫抑制剤のプログラフとセルセプト、胆汁の出をよくするウルソ、抗生剤のバクタ、そして胃酸の分泌を抑え吻合部の潰瘍を防止するための薬、オメプラールである。今後も状態を見ながら、数や量を増減していくことになる。

<strong>移植医療</strong>
　彼の場合、医学的に見れば移植までの流れもスムースで、その後の経過を見てもまだ一年足らずではあるが、生体肝移植という「治療」は大成功であったに違いない。実際主治医も彼にそういうという。医師にしてみれば、いい仕事が出来たというのが実感であるであろう。筆者にもそう映る。だがしかし、彼は続ける。

「移植が成功したと思うことは、永遠にないと思いますわ」。

　えっ…！？　筆者は、驚きを何とか押し殺した。彼はさらに続けて、
「やってみてよかった、わるかったの話しは、なんともいえませんわ。それを判断すんのは僕じゃなくて、ドナーの話しちゃいますか、移植したパターンとしなかったパターンと二回できるんならわかりもしますが・・・」と。
　筆者は頭をフル回転させて、何とか言葉を繋げてみる。「Oさんはとても傷つかれてしまったのですね。確かに人の命が諸々の偶然や環境に翻弄されていたわけですからね。」
「いやいや、そんなん後からの話やで。よそのこと構ってる暇なんか、ないで」。
　やはり下手な同情は出来ない。彼がどこにいるのか、わからなかった。

「移植医療を命のリレーとか、命のきずななどといいますが、そんなきれいなもんちゃいますわ」。
　術後９ヶ月、確かにまだ安定はしていないだろう。彼自身毎日移植のことは考えない日はないという。全てを整理できているはずもない。ただ、彼はもう「普通ではない」という。確かに彼の話は大地震で地上に隆起した断層のように断絶している。まさに移植という大地震で出来てしまった自己の裂け目なのであろう。その裂け目を彼はよく認知している。そしてやはり混乱しているのではなかろうか。今もまだ先が見えないのは致し方ないことなのであろう。姉がどう考えているのかは、その後も話しをしたわけじゃない。
　前の職場から仕事を少しずつもらって、徐々に仕事にも復帰してきた。それでも術前と比べてまだ半分くらい。風邪や体調には、いまでも用心しすぎることはない。心配して集まってきてくれる昔からの友人たちに彼は、「おりゃっ」とその傷口を見せる。
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<strong>五、移植という出来事</strong>

　移植医療は医学上の問題のみならず、倫理的、法的、社会的に多くの問題を抱えているのは確かである。脳死問題や臓器移植法案を筆頭に免疫抑制剤による副作用やレシピエントの合併症などが挙げられる。最近では臓器の売買までもが問題になっている。こうした問題を背景に、移植医療はその是非を問いただされている。そうした問いの正当性を否定するつもりは微塵もない。しかし、「臓器移植」という行為にかかわる根本的な出来事が、それらの視点に欠けているような気がしてならない。その根本的な出来事とは端的にいって、人間が人間におのれの身体の一部を与えるという、その事実である。そこには与える人間と貰う人間が存在する。その人間は「生きろ」という人と「生きたい」と願う人である。彼ら当事者は、いかにこの出来事を感じ、考えているのであろうか。　これが今回のここで示したかったことである。
　移植に纏わる諸問題とは別に、移植という出来事を観る視点を確保しておく必要がある。こうした視点が移植医療の抱える諸問題にいくばくの意義を与えることができるのかは現時点ではわからない。
　冒頭に掲げたことばは、フランスの哲学者、ジャン＝リュック・ナンシーによるものである。彼は1991年心臓移植のレシピエントとなった。現在は、免疫抑制剤による副作用から悪性リンパ腫を発症している。その彼のことばを、もう一度引く。

<blockquote>「生命のある全期間に渡って、身体はまた一つの死せる身体、一つの死者の身体、私が生きながらもそれであるこの死者の身体でもある。死せるのか生があるのか、死せるのでも生があるのでもなく、私は互いに他の中に入り込んだ開放性、墓ないし口である」
『共同－体』（松籟社　p15）</blockquote>
 
 
 
<strong>最後に</strong>

　哲学のごとき理知をまつまでもなく、人間は誕生してきたし、死んできた。医療がどれほど進歩しようとも、そのことに変わりはないであろう。万が一永遠の生命が得られたとしても、死を選択する人間もいるには違いない。
　とすれば、果たして医学／医療は何を目指すことになるのか？結局は、いたずらに生と死の間を複雑化し、独りよがりにもがいていることにはなりはしないのか？いや、そうではない、といいたい。しかしそれをいうだけの持ち駒は、いまの私にはない。数年後、医師となった私にも、それを示すだけのものはないであろう。ただ、いくつか若干の記録がここに付け加えることができるかもしれない。そのときは、一歩近づけるのだろうか。]]>
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   <title>どうなる？日本のアニメーション</title>
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   <published>2007-02-27T03:45:59Z</published>
   <updated>2007-03-03T12:09:47Z</updated>
   
   <summary>杉山 祐樹 今、日本は空前のオタクブームなんだそうだ。確かにそうかもしれない。 ...</summary>
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今、日本は空前のオタクブームなんだそうだ。確かにそうかもしれない。
野村総合研究所はオタク市場予測チームを発足させて、企業へマーケティング戦略や商品開発への応用のためのアドバイスを行なっている。日本政府も知的財産戦略会議の報告の中で、オタクという言葉は使わないまでも、アニメーションやマンガ、ゲーム等のコンテンツ産業に期待を寄せている。これからはオタクの時代、コンテンツを育成させて世界へ発信していくのだ。そんな声が聞こえる。
でも、ちょっとまってくれ。そのコンテンツ産業の一つであるアニメーションが今、危機的状況だと言ったら信じてくれるだろうか。]]>
      <![CDATA[<div class="entry-moreNAME">杉山 祐樹</div>
　
　

<strong>１、はじめに</strong>

今、日本は空前のオタクブームなんだそうだ。確かにそうかもしれない。2005年にフジテレビで放送された「電車男」は平均視聴率が20％を超える高視聴率を記録。ＴＶにはアニメーションやマンガ好きを公言して出演の機会を得る芸能人が増加。都市部ではメイド喫茶なるものが流行り、メイド服を着た店員が店のビラを配っている。書籍でも秋葉原のガイド本が出版されたり、新書で「オタク」を扱った本が増加している。野村総合研究所はオタク市場予測チームを発足させて、企業へマーケティング戦略や商品開発への応用のためのアドバイスを行なっている。日本政府も知的財産戦略会議の報告の中で、オタクという言葉は使わないまでも、アニメーションやマンガ、ゲーム等のコンテンツ産業に期待を寄せている。これからはオタクの時代、コンテンツを育成させて世界へ発信していくのだ。そんな声が聞こえる。でも、ちょっとまってくれ。そのコンテンツ産業の一つであるアニメーションが今、危機的状況だと言ったら信じてくれるだろうか。アニメーションはこれまでに多くの感動を産み出し、多くの人の人生に影響を与えてきた。スタジオジブリ制作、宮崎駿監督作品『千と千尋の神隠し』が海外映画祭で多くの賞を受賞し、評価を得ている。日本のアニメーションは世界最高峰であるという人もいる。アニメーションを見て育った私達は日本アニメーションの成長が誇らしく感じていたのではないか。しかし、その日本アニメーションの成長の土台を支えているはずの、アニメーター等の人材育成や労働環境は問題が山積していると言われている。低い賃金、人材不足、海外発注。産業の空洞化が進んでいると言われる。もし、そうなのだとしたら、大変だ。日本のアニメーションは海外のアニメーションよりも話に深みがあり、優れているといわれている。私もそう考えている。もし、アニメーターになる人がいなくなってしまえば、この日本のアニメーションのいいところが失われてしまうのではないか。シナリオだけ作成しても、そのシナリオを絵にして表現する、日本のアニメーターがいなくては作品はつくれないのではないか。そう考えるのだ。では、現状のアニメーション産業の環境はどうなっているのだろうか。


<strong>２、ディズニーとアニメーションの発展</strong>

現在の日本のTVアニメーションの先駆者が手塚治虫であることは、誰もが認めるところだと思われるが、その手塚治虫に多大な影響をあたえた人間といえば、ウォルト･ディズニーを忘れてはならない。手塚のみならず、ディズニーは世界のアニメーションに影響をあたえた人物であろう。その、ディズニーのアニメーション制作への歴史を振り返ることで現在のアニメーション制作の望まれる姿を考えるきっかけとなるのではないだろうか。山口康男が記した『日本のアニメ全史』を参考に歴史を見てみよう。
　ディズニーも先駆者であるからこその挫折や失敗を多く経験している。ディズニーが最初に本格的にアニメーション制作に取り組んだのは1922年であり、20歳と若い頃だった。それまで風刺画を主に描いていたディズニーは、広告会社で切り込みアニメーション『赤頭巾』を制作したのがきっかけで、会社を設立して童話アニメーションを制作した。制作したアニメーションをディズニーは配給会社に売り込むものの、うまくいかず会社を清算せざるを得なくなってしまう。これが１度目の挫折である。
その後、実写映画の監督を目指すものの、これもうまくいかない。結局、ディズニーはアニメーションの世界に戻り、兄であるロイと共にディズニー・ブラザーズ・スタジオを1923年に設立し、再びアニメーション制作を開始する。当時のアメリカのアニメーションスタジオ・配給・興行会社の多くはニューヨークに存在し、ハリウッドにあったディズニーの会社は交渉などに関して不利な状況にあった。ディズニーはアニメーターから足を洗い、プロデューサー職に専念することになる。そして『アリスシリーズ』と呼ばれる実写とアニメーション合成の作品を手がけていく。この『アリスシリーズ』で評価を高めたディズニーはユニバーサル映画の「うさぎを主人公にした映画を」という発注に答える形で、1927年に『幸せうさぎのオズワルド』を制作。ユニバーサルスタジオ側からは芳しい評価は得られなかったものの、公表すると人気を博して、キャラクター商品が出るほどのヒットとなった。ディズニーはもちろんヒットしたことで制作費は上がるだろうと考えていた。制作費の値上げを要求したのだ。しかし、その目論見は淡くも崩れ去った。逆にユニバーサル側から制作費の値下げを要求され、できないのならスタッフと作品を渡せと告げられたのだ。結果、多くのスタッフは引き抜かれ、権利も取り上げられてしまった。この時、ディズニーは大手の下請けは二度としないことを誓った。これが2度目の挫折である。
なお、余談になるがユニバーサルスタジオは『オズワルド』の権利を得た後はどうなったのか。『オズワルドシリーズ』の人気は製作者が変わったことで話の雰囲気が変わってしまい、人気は下降線を辿っていく。そして、『オズワルド』はあまり人前に出ることがなくなっていく。数年前までは大阪にあるUSJで見ることができる程度だった。しかし、2006年にユニバーサル側とディズニー側が権利をディズニー側に移転することに合意した。現在、東京ディズニーランド内にあるディズニーギャラリーにてオズワルドを見ることができる。79年が経ってようやく製作者側に権利が戻ってきたことになる。ミッキーマウスも兄が自分の所に帰ってきてうれしく思っている事だろう。
話を戻そう。その後、 1928年にディズニーはミッキーマウスというキャラクターを使った『蒸気船ウィリー』を制作し公開する。ここでディズニーの人生は大きく変わっていく。上映劇場が決まらずに単館上映で始まったこの作品は大ヒット。配給会社がディズニーの元に殺到する。その結果、制作費が上がり始め、作品の質を上げることが可能になる。その作品がヒットし、再び制作費が上がる。好循環になり始めた。ディズニーはその後、いくつかの配給会社を渡り歩くが、大きな失敗をすることもなく1937年に長編作品『白雪姫』を制作する。短編作品ではメジャーにはなれないとの認識の上で制作に踏み切ったのだ。150万ドルの制作費と作画枚数200万枚、700人以上のアニメーターをつぎ込んで制作した作品は公開前までは「愚行」とまで言われた。しかし、興行成績は800万ドルを超える大ヒット。アカデミー特別賞も受賞した。この成功でそれまでの借入金を返済し、優良企業として認められるようになった。1938年にはブエナビスタに新スタジオを建設、1940年に念願の自前の配給会社、「ブエナビスタ」を設立するにいたった。権利を奪われたり、作品が認められず公開館を探し回って苦労したりしてきたディズニーはついに、そのような苦労をしなくとも作品を公開できる環境を手に入れたのだ。
日本のアニメーション会社は現在までも配給会社を持つほどの力を持った会社は現れていない。唯一、東映アニメーションが配給会社をもっているという考え方もできるが、あくまでも東映の子会社であり、弱い立場である。後述するが、日本のアニメーションの本格的始まりは東映アニメーションの前進である東映動画にあるといってもいい。配給会社の子会社として出発した東映動画に、日本のアニメーションの始まりがある以上、配給会社がピラミッド構造の上位である関係を崩すのはなかなか難しかったのかもしれない。しかし、TVアニメーションの始祖ともいえる手塚治虫がディズニーのように実業家としての側面があったのなら。もしかしたら独自の配給会社をアニメーション会社が設立できたのかもしれないと筆者は思う。
ディズニーから学ぶべきことはほかにもある。ディズニーは1931年にシュナード芸術学院と契約し、アニメーターを通わせ、社内にアニメーター養成専門の部署を設けてスタッフの育成に努めた。その後、ディズニーの構想に沿って1961年にカリフォルニア芸術大学が設立されることとなった。日本は近年になってようやくアニメーターの教育について考え出したが、ディズニーは数十年も前に教育について考え出していたのだ。金がなければ教育も難しいかもしれない。1931年とはディズニーの作品が世に認められ始めた時代である。しかし、日本のアニメーション会社も同様の試みを行う機会はあったはずだ。
　ディズニーはその後も実業家として、ディズニーランドの建設に乗り出していく。ディズニーが平凡なクリエイターであり、それに対して実業家としての能力が優れていたことは、アメリカのアニメーションにとって運がよかったのかもしれない。


<strong>３、日本のアニメーションの始まり</strong>

　では、日本のアニメーションはどのような成長過程を辿ってきたのか。日本のアニメーションの始まりは1917年に下川凹天が制作した『芋川椋三玄関番の巻』と言われている。この時代のアニメーション制作は、映画会社がアメリカのアニメーションの隆盛に目をつけて、制作費を出していたこともあり、安い制作費ではなかった。その意味ではこの時代のアニメーターは恵まれていたのかもしれない。また、1921年には日活の協力で日本初のアニメーションスタジオである、北山映画製作所が発足している。このスタジオは1923年の関東大震災の影響で程なく撤退してしまうが、この製作所で学んだ山本早苗(本名:山本善次郎)、藪下泰司は後に東映動画設立に関わってくる。第二次世界大戦前のアニメーションは、教育アニメーションや戦意高揚アニメーションとして作られることが多かったが、1943年に制作された『くもとちゅうりっぷ』や1945年に制作された『桃太郎　海の神兵』は高校生だった手塚を感動させ、アニメーション制作へ情熱を傾けさせるきっかけとなった。
　戦後、GHQが占領政策の一環としてアニメーション関係者を集め会社を設立させるが、GHQが望むような、占領政策の手助けとなるような作品が制作できずに会社は解散してしまう。戦後の混乱期の中で日本のアニメーション作家はどうすればいいのかわからず漂流していた。そんな中、1956年に東映が山本早苗、藪下泰司が設立した日動動画を吸収し、東映動画と名を改めアニメーション制作に関わっていく。東映動画は日本のアニメーション制作で最も成功したアニメーションスタジオのひとつといってもいいだろう。東映動画はその会社組織の範をアメリカに求め、効率的な分業システムを築いた。また、この当時は会社の社員にアニメーターが多くいた。賃金も経歴・採用種別・男女で差がつけられているものの低いものではなく、1957年に臨時採用として入社した奥山玲子はこう述べている。「東映本社採用の大卒男子が月給一万三千五百円、その下が東映動画の定期採用大卒男子、同女子、その下が定期採用高卒男子、同女子の順でそれぞれが千円から五百円くらいの差。更にその下が臨時採用で、これは男女差なく定期採用者の半分程度。」(叶精二著　『日本のアニメーションを築いた人々』)当時の公務員の初任給が9000円程であったらしいから、著しく低いというわけではなく、むしろ場合によっては東映動画のほうが給料は高い。東映がいかに会社組織というものを意識していたか、ディズニーを意識していたかがよくわかる。東映動画は1958年に日本初の長編カラーアニメーション作品『白蛇伝』を制作。この作品は興行的にも質的にも成功を収めたが、この作品の最も大きな功績は、この作品に集まったスタッフがアニメーション業界に分散していき、アニメーション業界の成長に貢献していった事である。そして、スタジオジブリや日本アニメーションといった会社を支えることとなる。
その後、1960年に制作された東映長編アニメーション第三作の『西遊記』で手塚治虫が制作に関与することとなる。『西遊記』は手塚の『ぼくの孫悟空』という漫画を原作にしたものだった。元々、手塚は上京の際にアニメーションプロダクションを探し、入社試験を受けた経験もある程、アニメーションへの思い入れが強かった。漫画にもディズニーアニメーションの演出方法を取り入れてきた。手塚は原作者として構成を担当することとなった。アニメーション制作の基本を学んだ手塚は、いよいよアニメーション制作に本格的に乗り出すこととなる。1961年に手塚治虫プロダクション(後に虫プロダクション)を設立。1963年に、日本初のTVアニメーションである『鉄腕アトム』を制作する。周囲はTVアニメーションを制作することに反対であった。何故なら東映動画が1時間半の長編アニメーションを制作する際にかかる制作費は6000万円。スタッフの数は200人から 300人。制作期間は1年半かかっていた。単純にTVアニメーションの放映時間である約25分で計算すると、制作費は1600万円余り。スタッフの数は 50人から80人。制作期間は5ヶ月である。おまけにTVアニメーションは毎週放送される。これでは制作は到底無理だった。そこで、手塚は1秒間に24コマ必要だったカットを3分の1にすることにした。しかし、それでも500万以上の制作費、15人以上のスタッフ、2ヶ月近い制作期間が必要だ。それでも手塚は踏み切った。アニメーション作家である宮崎駿によれば制作費は1話あたり50万円。明らかに収支が取れない水準にまで大幅に安く設定したのだ。当時の子供向けの番組の制作費が50万円ほどであったから、TV局が出す金額としては格安と言うわけではなかったが、アニメーション制作にかかる人件費やフィルム代などのコストを考えると採算が全く取れなかった。そのため、手塚は自身の漫画の原稿料や作品の再放送、グッズ販売などの版権ビジネスで収支を埋めようとした。この格安な制作費で仕事を受注したことについては、賛否両論ある。手塚がこの時、制作に踏み切らなければ日本のTVアニメーションは10年遅れていたという指摘もある。海外へのアニメーション販売の際にも低価格に抑える事が出来たため、日本アニメーションが有名になるきっかけとなったという声もある。しかし、この時の受注価格が業界のスタンダードになってしまい、そのしわよせが安い給料と、長時間勤務を志でカバーするという、アニメーターの労働環境に影響を及ぼした事は否定できない。後に手塚自身も安い制作費で受けた事は失敗だったと語っていたという。宮崎駿は手塚治虫が死去した際に、追悼文を掲載した『コミック・ボックス』の中でこう述べている「アニメーションに対して彼がやった事は何も評価できない。虫プロの仕事も、ぼくは好きじゃない。好きじゃないだけでなくおかしいと思います。」宮崎駿は東映動画時代に労働組合活動に携わり、労働環境について声を上げてきただけに余程、腹に据えかねる思いがあったのだろう。いずれにせよ、『鉄腕アトム』は放送開始し、視聴率は平均で30%を超える人気作になる。そして、日本のTVアニメーション制作が本格化していくことになる。
1960年代は、まだ東映動画などの多くのプロダクションのアニメーターの多くは社会保障のついた社員が多かった。しかし、この制度が徐々に崩れていく。社員という立場に胡坐をかいた者が動画をほとんど書かずに給料をもらったりするケースが出てきたのだ。その結果、独立してプロダクションを構えたり、新興プロダクションに引き抜かれて出ていく者が出始めた。さらに1970年代になると、高度成長により、労働コストが増大していく。給与水準は1970年には30人以上の事業所を対象とした月間給与総額が75700円となっている時代である。しかし、その割に制作費は増えない。社員として使えない者までおいておく状況ではなくなってきたのだ。そこで会社は、出来高契約や業務委託契約に切り替えていく。この切り替えにより、会社側は仕事量に応じた労働調整を行いやすくなった。もちろん、労働組合は反発したが、次々とプロダクションはこの制度を導入していった。


<strong>４、現代のアニメーション産業の労働環境</strong>

　では、現在のアニメーターの労働環境はどうなっているのだろうか。ここで皆さんに質問したい。さて、あなたは月にどれくらいの給料を得ているだろうか。自分の給料と自分の生活水準を考えながらしばらく読んでいただきたい。
東京都が定めている雇用者が労働者に最低限、支払わなければならない賃金は時給719円となっている。これに対して、アニメーターの給料を見てみよう。 2005年に日本芸能実演家団体協議会(以下、芸団協)がアニメーターの労働環境について調査を行なっているが、そこには労働環境がいかに厳しいものかが示されている。アニメーターの給料は多くの場合、歩合制である。そして、芸団協の調査によると「動画マン」と呼ばれる職種の平均動画単価は1枚186.9 円、月の労働時間は250時間となっている。一般的に、「動画マン」の月の作業量は500枚といわれており、そこから考えていくと「動画マン」の月給は 93450円。時給換算では約374円である。東京都が定める最低賃金の約半分である。
この月給で暮らしていくことが出来るとお考えの方はいるだろうか。地方から上京して部屋を借りて住むには、無理のある数字だ。実家暮らしでなければ無理な額である。この「動画マン」という職種は後述するが、新人アニメーターがまず通らなくてはいけない職種であり、この賃金の低さがアニメーター志望の若者を減らし、入ったとしても結局、耐え切れずに辞めていく一つの要因になっている。アニメ関係者に話を聞いてみた。

―動画187円という状況で働いている人はどういう雇用形態の方なのですか―
「プロダクションに所属はしているけど、完全歩合制。やった分しかお金が出ない人。もしくは机を借りている人。」

―1枚いくらではない方法で、例えば時間単位の固定給とかは無理なのでしょうか―
「出来高の難しいところは封筒なら100枚200枚でも同じだけど、動画はカットによって1枚5分で出来るカットもあれば、極端な話、1日かけて1枚というカットもある。でも同じ１枚としてカウントされる。絵描きさんの成果物への評価は難しい。時間でやると上手い人は早く出来ちゃって、遅い人は時間がかかる。下手な人のほうが1枚単位で考えると給料がよくなる。かといっても難易度でやると、誰がその難易度を評価するのか。」

―年収100万円未満の人は26.8％いると芸団協の調査ではありますが、実際いるのです―
「常に入れ替わっているのではないか。辞めてって、新しく入ってきてって。その給料で10年もいるとは考えられない。」

この状況は労働基準法違反ではないかとの考える方もいるかもしれない。しかし、この辺は非常に曖昧な状態になっている。アニメーターの多くは、アニメーション会社の社員ではなく会社と対等な立場である個人請負労働者である事が多い。個人請負労働者の代表としてはプロ野球選手が上げられる。彼らは毎年、個人事業主として球団と対等の立場で交渉して給料を決定する。彼らには社会保障はない。プロ野球選手でケガをして労災が認められたという話を聞かないのは、個人請負労働者だからだ。近年、この個人請負労働者が増加していると言われており、社会問題になっているが、その話は置いておく。個人請負労働者には、会社との雇用関係が存在しないため、成果物(アニメーターの場合は原画や動画)を出せばいつどこで働いてもいいのだ。そして、その成果物の量に応じて賃金が支払われている。そのために、先に上げたような低賃金でも明確な雇用関係が存在しない以上、労働基準法違反とは言えないのである。しかし、現実は雇用関係が存在しないといっても、通常の社員と同じようにスタジオで働いたり、時間を拘束されるケースもある。また、労働基準法第27条には「出来高払制その他の請負制で使用する労働者については、使用者は、労働時間に応じ一定額の賃金の保障をしなければならない。」と記述されている。アニメ関係の学科を設立している、とある専門学校の就職担当者はこう語る。

「求人票に書いてある条件が、一般系の会社と随分違う。ある会社は正社員といいながら、給与は完全出来高制です。社会保険がないので国民健康保険に入ってもらわなければなりません。年金も国民年金に入ってもらわなければならない。雇用保険もありません。そこで私は返す言葉を失ってしまいました。」

最低賃金を保証しないアニメーション会社も存在する現状は、違反に近いグレーゾーンであるといえる。現状は違反であるのかどうなのか、アニメーション会社が多く存在する杉並区、大田区を所管している労働基準監督署などの労働行政に携わる部局に話を聞こうと試みた。しかし、答えは
「個別の業種で統計を取っていないためわからない。また、個人的にもアニメーターの相談事例は聞いたことがない。」
との答えだった。ある監督所の応対に出た職員は可能性と前置きした上で
「現状が労働基準法に違反していると思っていない、相談する余裕がない、諦めている、この内のいずれかかもしれません。」
と話した。労働行政に直接携わる立場ではないが、産業振興行政としてアニメーション業界に関わり、業界関係者との懇談の機会も多い、杉並区産業振興課アニメーション係の田口昌実氏はこう語る。

―アニメーション現場の労働環境について行政はどの程度把握できていますか―
　「制作会社によって労働条件はまちまちですね。1枚単位の完全歩合給の会社もあれば、固定給の会社もあります。個人請負としてで、作業場を会社に用意している。机を貸している。社員として入社しているわけではないのですね。新人で入ってアニメーターになる場合は月収5万とかですね。とてもやっていける金額ではないという実態はあるみたいですね。」

―これは労働基準法に違反しないのでしょうか。―
「請負業ということになりますと労働基準法の対象外みたいなのですね。ただ、現場の指揮命令関係とか見ると、グレーゾーンくらいかもしれないですね。監督官庁がどう捉えるかですが。ですから、今後の日本のコンテンツビジネスであったり、クリエイターであったり、そういったものに携わっている人が今後も続けて活力を失わない形で人を育てていくには、それなりの法整備であったり法解釈をきちっとやったほうがいいのですけど、なんとなくグレーゾーンでやってきてしまったのかもしれないですね。」

やはり、労働問題だけに地方自治体ではどうしようもないという無念さを田口氏は感じているように思えた。もっと大きなうねりを起こせないか。試行錯誤している様子が見て取れた。経済産業省が2002年に出した『アニメーション産業研究会報告書』など、行政組織が出している各種報告書には「有能なクリエイターが存在しても低賃金や厳しい労働環境を忌避して他の業種に流出してしまう」という旨の記述が必ずといっていいほどある。しかし、労働行政の現場の人間は実態を把握できていないし、把握している人間は労働行政に関わっていない。縦割り行政というお決まりの言葉をあまり使いたくはないのだが、もっと相互に連携を取る事で改善できる事もあるのではないだろうか。この状況を改善するために、労働組合も動いている。2005年に映画演劇関連産業労組共闘会議が、多くのアニメーション番組の発注元である民間放送局に対して、「TVアニメーション1本につき制作費は2300万円を」「新人アニメーターの給料を最低賃金レベルは保障すること」などを要望書として提出した。発注元が必要な制作費をアニメーション会社に支払わなければ、賃金の改善は望めない。先述した専門学校の就職担当者も
「個々の会社に責任をなすりつけていいのかというと難しい。放映権を持っている上流に位置する会社がどれだけの制作費を渡しているかだ。」
と指摘する。要望書を受け取ったTV局の積極的な取り組みが望まれている。


<strong>５、増加するアニメーション放映数と人材不足</strong>

　今、日本国内で週に何本TVアニメーションが流れているかご存知だろうか。週40本だろうか。週50本だろうか。徳間書店が刊行している月刊『アニメージュ』06年10月号によると、週に83本放映されている事が確認できる。06年7月には週103本放映されていたと言う話もある。十数年前までは週40 本程度の放映本数であった。このアニメーションの放映本数の増加には理由がある。BSやCSなどの多チャンネル化が進み、また地上波の深夜枠など新たな放映枠があり、そこにビデオやDVDなどの販売収入を見越して、TVアニメーションを放映し始めたのである。では、現場のアニメーターの数は増えたのかと言うとそうではない。賃金の低さからアニメーター志望の新人は定着しづらい現状が続いている。制作工程の一部を海外に発注することでしのいでいる現状がある。
　製作工程の海外発注はアニメーション産業のさらなる空洞化を招く危険性が指摘されている。アニメーションを制作する上でアニメーターは必要不可欠な職業だ。アニメーターをさらに細分化すると、「原画マン」「動画マン」「作画監督」に分けられる。「原画マン」とは動き始めと終わりそして緻密なカットの場合は要所の絵を、全くの白紙から描き上げていく人間の事である。「原画マン」が描いた絵を元に「動画マン」は原画と原画の間をつなげ、動きをつける。「作画監督」は「原画マン」が描いた絵を、バラツキが出ないように修正したり「原画マン」にリテイクを出したりする人間である。一般的にはアニメーターは新人の頃は「動画マン」からスタートする。そしてある程度の経験をつけた上で「原画マン」、そして「作画監督」へとステップアップする。製作工程で海外発注されるのは、この「動画マン」の部分であることが多い。
　つまり、アニメーターの賃金の低さが、国内の「動画マン」の人数を減らし、海外発注の増加を招く。そうした中で、国内の放映本数は増えるのにもかかわらず、「動画マン」がいないので、さらに海外発注を行なう。安価な海外発注の増加により国内の「動画マン」の仕事はなくなり、さらに「動画マン」が減るという負のスパイラルに陥っている現状がある。
発注する側としては賃金が安ければ安い方がいいので、海外発注に頼る傾向が強くなるのは当然とも言える。先に上げたように「動画マン」という職種はアニメーターの入口であり、通らなくてはならない道である。「動画マン」を経験する人間が少なくなればなるほど、「原画マン」の人間も少なくなり、質も低下していってしまう。このような危惧が現在のアニメーション産業には存在する。実際、アニメーションの現場で働いている方は現状についてどう考えているのか。あるアニメーターに話を聞いてみた。この方はアニメーターとして20年以上の経歴があり、「作画監督」としても活躍している。

―現在、アニメーターの人間は増えているのですか。―
「今、ＴＶアニメーションの放映本数が増えている。十数年前は30本ほどしかなかったが、今年は100本くらいあったと聞いている。あとはDVDの販売のみの作品もある。その割にアニメーターは育っているかといえばそうではない。人間も増えていない。その分はおそらく海外への発注でまかなっている。」

―制作会社は儲かっているのですか－
「東京のアニメーション会社は百数十社あるが、儲かっているのはほんの一握りではないか。あとは自転車操業だと思う。大きい制作会社は株式を上場するなど、産業としては成り立っていると思う。ただ、本来制作会社はもうからない。自分で権利を持って作品を作るという会社でなければ利益が薄い。下請けで作品を制作しているような会社だと厳しい。そういう会社に利益を還元できていない。下請けをいじめている構図はあると思う。」

つまり、先に上げたようにTV放映だけでは元は取れないということである。日本貿易振興機構がまとめた『日本のアニメーション産業の動向』によると、「ＴＶアニメーションは、ほとんどの作品が赤字と言われており、大半のアニメーション制作会社はビデオ・DVD化やキャラクター商品販売などのコンテンツの二次利用で収益確保を行なっている」とある。権利を持っていない下請けの制作会社は、小額の制作費のみで利益が出ない事が多い。有名な話として、『新世紀エヴァンゲリオン』を制作したガイナックスという会社は、1990年にNHKで放映されたアニメーション作品『ふしぎの海のナディア』という作品を制作したが、下請けの下請け。つまり孫請けの立場だったため、作品の根幹部分をガイナックスが制作したにもかかわらず、権利のほとんどを保持出来なかった。収支としても、赤字に終わった。

―動画は海外発注が多くなったと聞いています―
「今は「原画マン」も足りない。動画が海外に流れているから、アニメーターになるための窓口が狭くなっている。限られた中でやっていくしかない。」

―アニメーターを志していた人はどこにいってしまったのでしょうか―
「上手くても、やりたいと思っても、安い賃金じゃやっていけないと思って、ゲームとかの方に流れていく。人手が足りなくなっているのは当然かなと思う。作品の数も増えれば、人手はさらに足りなくなる。」

ゲーム会社に勤める知人によると、ゲーム会社の労働環境も残業が日常的に存在するなど決していいものであるとは言えないが、アニメーターのように月収9万円ということはあまり無いということである。また、ヒットした際のインセンティブがあるケースもある。このことから、ゲーム業界への人材の流出を懸念する声は多数存在する。

―新人に対して、動画教育はしないのですか―
「動画を書く機会は減っている。原画を描くとその絵はフィリピンの工場に行っちゃうから現　場に残らない。育てるための訓練の機会が減っている。私の会社では育てようと思っている新人には、本当は海外に出てしまう動画を残している。人がいなければいないでフィリピンに流れてしまう動画だ。昔はプロの「動画マン」がいたのだが。」

―「原画マン」になったら多少、収入面は安定するのでしょうか―
「描く方からすればやりがいはあるし、動画よりも収入は高くなる。フリーでやっている人も動画だけやっても食えないから、すぐ原画に上がるのが普通になっている。技術的に大丈夫かなと思う人が「原画マン」になっている。でも、今のシステムだとそれでもやっていける。「作画監督」などがカバーしてくれる。」

―本来だと国内で動画を描ける環境があって、動画で暮らしていける環境があることが理想的な環境ではあるのですよね―
「そうですね。作業の流れからいうと、順当に上がっていかないと次の人に渡すための指示が書けない。「原画マン」は「動画マン」の仕事がわからないとダメだし、「作画監督」はそこまでの全ての段階をわかっていないと出来ない。次に誰が描くかわからないのだから、ある程度共通の理解がないと。だから、いきなり原画から始まった人とかはどこか危うい感じがする。」

―今、動画から段階を踏んでいく育成システムが崩れそうになっているという現状があると思うのですが、その改善はどこがやろうとしているのですか―
「それぞれの企業で自前で育てるシステムを作り上げているところもあると思う。よく言われるのは、いまさら動画は戻ってこないということ。それを前提に教育をしていくしかない。昔は裸一貫でやってきて、成り上がっていくのが普通だったのだけど、今はどちらかというと専門からというのが多い。」

インタビューに答えてくれた方は大手の会社に在籍しているため、育成システムが確立しているようだが、中小の制作会社となると育成システムが確立せずに、即戦力としての人材を求めてしまうため、十分な教育を施さず、「危うい感じ」のまま育ってしまうケースもあるようだ。しかし、そのような人が長期的にやっていけるほど甘い世界ではない。結局、壁に当たってしまい辞めていくケースも多いと、このアニメーターは語っていた。

近年、「動画マン」不足に対して危機感を覚えた会社は対策を講じ始めている。関係者の方が話しているように、本来ならば海外に発注する予定の動画をあえて社内に残して、教育のために描かせたり、専門学校のような講座を開設したりする会社も増えている。行政側でも「動画マン」不足の問題は把握しており、後述する杉並区では、少しでも動画経験を積んでから会社に入ってもらえるように区の主催で塾を開設している。ただし、この関係者の話によると動画経験期間の短縮化は依然としてあるようで、動画の経験不足が原画の質の低下を招いているという話もある。


<strong>６、人材育成</strong>

では、人材の不足について対策をどこも行なっていないかというとそうではない。近年、「動画マン」不足に対して危機感を覚えた会社は対策を講じ始めている。先述した関係者の方が話しているように、本来ならば海外に発注する予定の動画をあえて社内に残して、教育のために描かせたり、専門学校のような講座を開設したりする会社も増えている。行政側でも「動画マン」不足の問題は把握しており、中小のアニメーション制作会社が集まっている杉並区では、少しでも動画経験を積んでから会社に入ってもらえるように「杉並アニメ匠塾」というアニメーター養成講座を主催している。今年で5年目を迎え、今までに20名弱の卒業生を輩出している事業である。この事業について杉並区産業振興課の田口昌実氏に話を聞いた。

―区としてはアニメ産業の労働状況についてどのような懸念を持っていますか―
「今現在、問題になっているのは、駆け出しのアニメーターのところですね。一説には3年くらいで8割が辞めてしまうといわれていますが、そういった若いアニメーターがどんどん辞めてしまって、技術を蓄積する前にいなくなってしまう。では、現在残っているアニメーターの方がいなくなってしまった時に日本のアニメーションはどうなってしまうのだろう。そういった心配がある。」

―では区としてはどのような対策を考えているのですか―
「少しでも人材育成が出来ないかという事で、杉並区では「杉並アニメ匠塾」というのをやってみたのですが、構造的な問題が急に変わるわけではない。根本的に環境変化をするためにはもう一工夫二工夫必要かなと思います。それは一地方自治体が叫んでも、なかなか難しく、例えばTV局との関係であったり、著作権の問題であったりするので国を含めて大きな議論を巻き起こしていかなければならない。その点については我々としては問題を訴えかけてるしかない。」

私が杉並区に取材に行った際に少々驚いたのは、区としてアニメーションのイベントや養成講座を開くなど、積極的に動いているにもかかわらず、職員の数が少なかったことだった。かなり限られた人員でやりくりしているようで、田口氏の言うように、地方自治体レベルでは大きなうねりを作り出すには少々難しいように見えた。

―今、『杉並アニメ匠塾』を卒業なされた方というのは毎年6，7人出ているようですが、離職率というのはどうなのでしょうか－
「実際残るのは5割程度ですね。これが低いか高いかというのは議論の余地があるかと思うのですが。2期生は誰も残っていない状況なので。いろんな理由で辞めていきます。頑張りすぎて体調を崩す方もいるし、結婚で辞めていくケースもある。残念なケースもあるが、今も続けている方は着実に経験を積んでいるので、これからのアニメーションを支えてくれればいいなという思いはあります。」

修了者が少なく、「アニメーション塾」を始めてからまだそれほどの期間が経過していないので、何とも言えないが、５割という数字は健闘している数字だと私は捉えた。

―『杉並アニメ匠塾』を始めた経緯は、人材不足というのが一番の理由なのでしょうか―
「そうですね。中小の制作会社と話していた際に、韓国、中国にどんどん仕事が行っていると。日本のアニメーションの現状は教える人も少なくなってきていると。昔はたくさんいて、教えたり教えられたりという好循環があったのだけど、人件費という問題で海外に出しちゃう。そうすると、コアなスタッフしかいなくて新しい人に技術を伝承していくというのがなくなってしまうと。今後、優秀なクリエイターを生み出す土壌がなくなってしまうという現状を聞きまして、区としても小さいことでもいいから力になれることはないかと。人数は少ないながらも今年の5期生までやってきたわけです。」

―人材育成のシステムが崩れかけているから、行なったということですか―
「そういってもいいと思います。個々の会社では違うかもしれませんが、大手から分離独立していったスタジオや中小の会社では人材育成が出来にくい現状があります。特に杉並区は中小のスタジオが多いので。」

杉並区のこの事業は行政がアニメーター養成を行なう先駆け的な事業として評価されるべきだろう。特に余裕のない中小のスタジオは、人材育成に専念するのはなかなか難しい状況があった。しかし、『杉並アニメ匠塾』も今、岐路を迎えている。大手プロダクションは先述したように独自で講座を開くなどして人材育成に乗り出しつつある。例えば、東映アニメーションでは研究所を設立してアニメーター教育を行なっている。また、『機動戦士ガンダム』を生み出したサンライズも2005年から現場で有給の作画実習を行なう事業を始めている。また、業界団体である有限責任中間法人日本動画協会は経済産業省の支援を受けて、アニメーター養成プロジェクトを2006年10月より開始した。また、2005年に杉並区議会では堀部やすし杉並区議より次のような意見が出ている。

「思うに、杉並区のアニメ産業が総じて活性化し、真に発展していくためには、杉並に存在する中小の事業者がタッグを組み、大手の下請から脱却し、元請となっていくことが不可欠と考えます。知的財産ビジネスにおいて、独自のコンテンツを持つことなく、いつまでも下請のままでいるのでは、大きく飛躍することはできないと考えます。～(中略)～アニメ匠塾についても、人材育成という趣旨で行われてはおりますが、現状においては、アニメを志す人材はいるものの、むしろ育成をしても人材が定着しないという点に、より大きな問題があるのですから、行政が毎年数人程度の初期の人材育成に協力したとしても、それがアニメ産業全体の持続的発展、飛躍的発展につながっていくとは考えがたいことであります。」

非常に的を射た意見である。確かに人材育成が困難な状況になりつつあるとはいえ、そもそも賃金の低さに起因する定着率の悪さもあるのだから、その点も改善しないと状況はよくはならない。賃金の改善と教育は両輪なのだ。しかし、先述したように地方自治体では出来る事が限られているのも現実である。区として何が出来るのか、杉並区の苦悩が見える。


<strong>７、まとめ</strong>

秋葉原に足を運んだ。今、秋葉原の町は十年前とは様変わりしている。駅前広場にはアニメのコスプレをしている人や、メイド服を着た人がチラシを配っている。秋葉原のメインストリートである中央通りに沿っている店舗は家電店が撤退し、キャラクターグッズなどの販売店が増加している。駅前の再開発で建てられた「秋葉原UDXビル」には「日本動画協会」や「東京アニメセンター」が入居している。その中の「東京アニメセンター」に入ってみた。広さはそれほどないのだが、ポケモンやムシキングの展示や上映などがあり、日曜ということもあってか子連れの親子でにぎわっていた。この子供たちの中でアニメーションを作ろうと志すものがどれだけ出てくるのかわからない。しかし、少なくともアニメーションをやろうと志した者が、労働環境によって入ってすぐに消えていってしまう状況は、あまりにも寂しいし夢がない。
知人のアニメーション業界関係者によると、ステップアップして行った者の中には、自分がきつい思いをして今のポジションにいるため、同じ苦労をするのは当然だという考えもあるそうだ。しかし、海外発注が増えてしまい、アニメーターの不足が叫ばれている中でそのように、のんびり構えていていいものだろうか。
アニメーターを志す若者に、子供に対して少しでもいい環境を作り出すためにどうしたらいいのか。国もアニメーションは日本の文化であると、取り上げるのであれば状況改善のための政策を考えていかなければ、いつまでたってもこの問題は改善しないし、中国や韓国のアニメ技術が向上しつつある今、追い抜かれてしまう事になる。


<blockquote><strong>参考文献</strong>
山口康男『日本のアニメ全史』（2004 テン・ブックス）
叶精二『日本のアニメーションを築いた人々』(2004 若草書房)
日経BP社技術研究部　『アニメ･ビジネスが変わる』(1999 日経BP社)
日経BP社技術研究部　『進化するアニメ・ビジネス』(2000 日経BP社)
夏目房之介『手塚治虫はどこにいる』(1995 筑摩書房)
別冊宝島『日本のアニメ』(2002 宝島社)
野村総合研究所オタク市場予測チーム『オタク市場の研究』(2005 東洋経済新報社)
日本貿易振興機構『日本のアニメーション産業の動向』(2005 日本貿易振興機構)
労働政策研究・研修機構『コンテンツ産業の雇用と人材育成』(2005労働政策研究・研修機構)
経済産業省アニメーション産業研究会『アニメーション産業研究会報告書』(2002 経済産業省)</blockquote>]]>
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   <title>携帯電話　電磁波問題</title>
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   <published>2007-02-27T02:24:21Z</published>
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携帯電話を所有する子どもの低年齢化にともない、電磁波が人体に及ぼす影響の懸念が再確認されつつある。本作品では、大学生を対象にしたアンケートに基づき、電磁波問題に対する意識を探るとともに、子どもに携帯電話は必要かどうか、を問う。]]>
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携帯電話を所有する子どもの低年齢化にともない、電磁波が人体に及ぼす影響の懸念が再確認されつつある。本作品では、大学生を対象にしたアンケートに基づき、電磁波問題に対する意識を探るとともに、子どもに携帯電話は必要かどうか、を問う。

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   <published>2006-11-08T12:32:50Z</published>
   <updated>2007-02-24T04:24:03Z</updated>
   
   <summary>宮崎 直子 　なんて小さな機械だろう。電源ボタン一つと操作ボタン二つに、あとはマ...</summary>
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      <![CDATA[<div class="entry-bodyNAME">宮崎 直子</div>
　なんて小さな機械だろう。電源ボタン一つと操作ボタン二つに、あとはマックスとミニマム程度の簡易な出力調節がついているだけである。まるで子供のおもちゃだ。でも、僕は一応警戒をした。堂々と使って返り討ちに合いたくはない。最初はそれを鞄の中に隠し入れてやった。
　僕は鞄を手に抱えると電車に乗り込んだ。プレイボタンを押せばそれは妨害電波を発する。]]>
      <![CDATA[<div class="entry-moreNAME">宮崎 直子</div>

　なんて小さな機械だろう。電源ボタン一つと操作ボタン二つに、あとはマックスとミニマム程度の簡易な出力調節がついているだけである。まるで子供のおもちゃだ。でも、僕は一応警戒をした。堂々と使って返り討ちに合いたくはない。最初はそれを鞄の中に隠し入れてやった。
　僕は鞄を手に抱えると電車に乗り込んだ。プレイボタンを押せばそれは妨害電波を発する。

　平日の昼下がり山手線は意外と人がいない。僕はとりあえず車両の中を歩いた。全車両を一通り巡回し終えると、最後列車両に格好の獲物を見つけることができた。近づいた。
　獲物は三人いた。右手の優先席に一人、左斜め前の位置に一人、離れた後部座席に一人、僕は車両の真ん中に立っていた。三人とも携帯電話を片手に通話をしていた。僕は斜め前に立っている若者に標的を定めると、彼の向かいの側にある座席にゆっくりと腰を下ろした。ひと呼吸置く。相手の表情を窺いながら僕は決行した。鞄の中に手を突っ込むとまずテルカットのスイッチを入れ、次にプレイボタンを押した。十五秒ほど経ったが彼の様子に変化はない。僕はもう一度スイッチを入れなおしボタンを押した。三十秒ほど待ったところで、突然彼に異変がおきた。 　
　「あーもしもし？　もしもし？　何だこれ」
　通話が途切れたようである。彼は踵を返すと、少しだけ場所を移動して電話をかけなおし始めた。
　「なんだよこれ切れてるよ、切れてんのかよ」
　興奮気味な声でぶつぶつ文句を言っている。カジュアルな服装と茶色に染め上がった髪の毛から察して、おそらく彼は二十代前半の大学生だろうと思った。
　「何だ、ちょっと調子が悪くてさ、お前が切ったんじゃないかと思ったよ」
　どうやらまた電話をかけなおしたようである。彼は再度移動して最初いた位置からは大分離れたところに立っていた。しかしそいつはそんな感じでまだ文句を言い続けていた。
　僕はほくそ笑んだ。このおもちゃみたいな機械でも一応効果があることはわかったが、非常に微妙な電波のエリアが存在するようである。秋葉原の電気屋の店員が言っていたように、効果のある範囲は五メートル以内であるとしても、状況によっては一メートルに狭まってしまうこともあるのだろう。餌食となった若者は間もなく東京駅で降りていった。
　
　僕は携帯電話の電波を遮断した。


　僕が携帯電話というものに対して違和感を持ち始めたのがいつだったのかは定かではない。一九九五年に起きた阪神大震災の頃には、少なくとも周りの人間は誰も携帯電話なんて持ってはいなかった。会社や役所が所持するもので、一般的な普及が始まるのはまだ先のことである。あの時、自衛隊や海上保安隊が救出に向かう際に、昔のビデオカメラのように本体を肩がけしていわゆる受話器だけを持って応答している場面をテレビで見た。それが携帯電話であるとは知らず、無線を業務用に変えたものだと思っていた。ただ、ハリウッド映画ではもう少しコンパクトなものが頻繁に登場していることは知っていた。トランシーバーのようなものだろうか、今の携帯電話に比べれば相当な大きさである。アメリカのビジネスの世界では使われているとしても、それはあくまでオフィシャルなビジネスツールとしてであり、民間に普及することなど想像もしていなかった。
　携帯電話が一般に普及し始めたといわれる一九九九年頃、東京都市部では人々は所構わず電話をかけていた。電車に乗るとそれはいっそう僕の目につき、話し声のうるささに耳を塞ぎたくなる毎日が続いた。使用しているのは最初はビジネスマンぐらいだった。いかにも所用で使っているような様子で、アメリカのものが徐々に日本に入ってきたのだろうと思ってはいたが、それにしても迷惑極まりない行為である。次は大学生くらいの小金持ちの若者が目についてきた。彼らは仕事疲れもなくアルバイトだけをして自由を謳歌しているものだから、テンションが高い。くだらないどうでもいいようなことを話している。僕の鬱憤は溜まる一方で、未だ携帯電話というものの位置づけが見えずにいた。お坊ちゃんが金に任せて買うものであるという程度にしか思っていなかった。しかし、その後の価格破壊が進み、携帯電話は高校生に至る末端にまで行きわたるようになっていった。
　それと同時に僕は、女子高生が歩きながら携帯電話で喋っている姿をよく見かけるようになった。携帯電話を購入してさらに通話料金を払うとなると決して安い金額ではない。しかしそれでもこれだけ多くの女子高生が所持しているということは、どう考えてもすべての家庭で親がお金を負担しているとは思えなかった。やはり彼女らはなんらかの形で資金を調達しているのではないかと思った。僕は渋谷に行った。センター街を歩くと「おじさーん、パンツいくらでも売るよ」と女の子のキャッチセールスが横行していた。当時援助交際はいくらでもやっていた。たった一枚の下着が三万円にも五万円にもなって売れる。そりゃあ自前で通話料金くらい払えるよなと思いながら見ていた。別に僕は風俗とかそういうものに関しては、夫人方が騒ぐように絶対悪とは思わない。売春は古典的な仕事であり歴史は長い。日本では芸者がいてヨーロッパでは高級娼婦がいた。彼女たちはプロである。ヨーロッパの高級コールガールと呼ばれる人たちは、身体だけではなく教養もなければならない。上流階級の人たちと付き合えるほどに頭は良い。日本の芸者も同じだ。春を売るということに対する定義付けや責任やサービスに、プロ意識を備えている彼女たちを僕は尊敬している。しかし、女子高生は違う。彼女たちがやっていることはプロを侮辱した行為だ。パンツを売ることがそんなにやりたいのであればプロになれと言いたい。寂しいからという理由でやる人もいる。わからなくはないが、だったら金を介在させるなと言いたい。　
　そういう風に見ていると、僕は女子高生たちが許せなかった。携帯電話の存在によって、今まで何となく憚られていた売りや援助交際をやる名目が発生してしまったのである。親に迷惑をかけずに自分でお金を捻出しているのだと自らの行為を正当化する。今まで後ろめたいと思われていたものが、そうではなくなってしまう可能性に僕は懸念を感じた。科学技術の進歩によってこれまでの価値観が一変してしまうのだろうか。渋谷のセンター街を歩きながら汚く曇り行く空を眺めていた。

　それから僕の「女子高生携帯電話狩り」は始まった。一九九九年から約一年半年間、ほとんど偏執狂的にやった。電車内で通話をしている女子高生を片っ端から注意していった。
　「君たちここをどこだと思っているの？　周りの人に迷惑になると思わない？　恥ずかしいと思わない？」
　と、僕は半ば厭きれた声を彼女たちに浴びせ続けた。「うざいよ、何でいけないの」と完全に居直る人、背を向けて無視をする人、少し驚いた顔で「すみません」と謝る人、いろんな女子高生がいたが、僕はあるとき気付いたことがあった。
　集団でいる女子高生たちだった。五人の中の一人が、彼氏と思しき相手と人目も憚らずに大声で電話をしている。すると、珍しく一人の女の子が注意をした。
　「まずいんじゃないの」
　と。僕はそんな子もいるのかと感心したが、すぐにその言葉は打ち消されてしまった。
　「別にいいじゃん、私の好きなことしてるんだから。今忙しいのよ」
　隣に座ってその一部始終を見ていた、礼節ある初老のおばあさんがおだやかに言った。
　「あなたね、こういう場所で電話をかけちゃいけないでしょう。お母さんにそういうこと言われなかった？」
　「うっさいなー。言われてねーよ」
　すかさず僕は出た。
　「君さ、今こちらのおばあさんが言ったように思っている人は、おばあさんだけじゃないんだよ。俺も思っているんだよ。さっきから君はどれだけ長い時間電話をかけていたか知っているか。親に言われなくても、そういうことが迷惑かどうかくらい、自分で考えることはできるでしょう」
　この場に居合わせてから結構時間も経っていたので僕は冷静な声で言った。注意をした女の子もけんもほろろだった。すると、彼女の態度は変わった。僕の目を見て頭を下げると、「またかけるからきるね」と言ってたちまち携帯電話を鞄の中に入れ戻した。
　僕はそのとき咄嗟に思いついた。彼女たちは、異性からちゃんと怒られた経験がないのではないかと。ここでいう異性とは父親ではなくボーイフレンドのことだ。付き合っているという場合はどちらからともなく惚れ合っている。そんな相手に何かを言われる、特にマナーについて注意を受けることは女性にとっては少なからず恥ずかしいことではないだろうか。彼女たちが公共の場で電話をしていることをボーイフレンドから注意された経験なんて、携帯電話を持ち始めてただの一度もないのではないかとそのリアクションを見て思った。この一件は偶然の出来事だったかもしれないが、大なる部分でそういう可能性があるのではないかと思った。携帯電話のことに限らず、男に注意を受けるということは、ちょっと恥ずかしいことかもしれないと彼女はその時初めて感じたのかもしれない。嫌われてでも言わなければならないことが僕はあるような気がする。彼女たちの素行について、そんなことやっちゃまずいだろうと諫める勇気さえあれば、彼女たちはそれを受け入れる心を持ち備えている。そういう経験のない女の子が大勢いるのであれば、僕はガツンと言ってあげるべきなのではないかと思った。それでもし恥ずかしいと思う女の子が十人のうち一人でもいるならば、それはそれでいいことではないかと思った。
　いつの頃からか、シートに座って携帯電話のディスプレイを食い入るように見つめる女の子の姿を見かけはじめた。僕はそのとき通話狩りの方が忙しくてあまり気には留めていなかったが、メールやインターネットの利用が広く見られるようになっていた。それと並行して、電車内では通話を控えるよう警告のアナウンスや張り紙を出すようになり、高校生が通話をするという現象も徐々に減っていった。しかし、今度はおばさんが車内通話を始めるようになった。エネルギーのある女子高生の声に比べ、おばさんはどことなく抑制のとれた声を出す。それがまた僕の癇にさわった。今まで生きてきた中でとりあえず公共性というものを知っているはずのおばさんが、興奮のあまり公の空間を忘れて瀕死のカラスみたいな声を出さないでくれと思った。結局、僕が観察するところでは、おばさんの次に今度はいい歳をしたおやじが通話を始めるようになって、それを見た若者がまた復活してきたように思える。どこまでも限りがない。


　テルカットは僕にとって車内通話を根絶させるための最後の手段だった。
　テルカットが市場に出回り始めたのは二〇〇一年頃である。大手新聞では小さく取り上げられ、専門雑誌にはその有用性が声高に叫ばれた。僕がテルカットの存在を初めて知ったのは友人の口からであるが、手に入れたのもその時分だった。世の中は携帯電話の急激的な普及に伴う数々の弊害に対し、対応策を迫られていた。一九九九年十一月には道路交通法で、自動車・オートバイを運転中に携帯電話を使用して事故を起こした場合の罰則事項が追加され、二〇〇三年九月には関東圏の一七の鉄道事業者で、「優先席付近では電源を切り、それ以外ではマナーモードに設定して通話は禁止する」と携帯電話の利用マナーを統一した。総務省は電波の医用機器等への影響に関する調査結果を報告し、心臓ペースメーカー利用者への配慮を呼びかけた。しかし、僕にとってそれらは遅すぎる対応でしかなかった。
　テルカットの存在を知る以前から、僕は独自に色んな対策を考えていて、とにかくあの電波を何とか遮断できないかと常に思っていた。最初に思い浮かんだのは、車両に防護シールドをつけることだった。妨害電波を出すような装置を各車両に取り付け、それで何とかできないかと思った。会社が動かなければ意味はないので、僕は思い切ってＪＲに申し出た。技術的に可能かどうかはわからないが防護シールドを張ってもらいたいということ、そして何故そう思うのかという理由をとうとうと喋った。梨の礫であることは初めからわかっていたが、それでも僕はこの憤りを何とかしたかった。本音を言えば、それで社会が改善されるだろうというような倫理的な思惑は一切なかった。非常に個人的なものだった。公共空間を躊躇いもなく私的空間へと化してしまう人々への、個人的な怨恨だ。頭の中でストーリーを組み立てるだけで実効性はないとわかっていながらも、最後には、携帯電話の鉄塔のトランスの部分を狂わせてしまえばいいのではないかと僕は真剣に考えていた。つまり、鉄塔と言っても電気がないと送電線の役割を果たせないわけで、その電気を送るトランス（変電機）を狂わせてしまえばいいと思った。そこに巻きついている四角いグレーのコイルを破壊すれば、とりあえず使えなくなるだろうとほとんどテロリストのようなことを考えていた。

　僕が生れて初めて携帯電話を使ったのは、ちょうど女子高生携帯電話狩りを始めた頃だった。仕事の関係でどうしても連絡しなければならない用事があり、携帯電話を持っていなかった僕は当時親しかった友人から少しだけそれを借りることになった。持った瞬間に僕の手は痺れた。小学生の頃、理科の実験で塩酸のような刺激物に触れてしまったときの感覚である。今でも思い出しただけで手が重くなる。電話をかけると、頭や目までがどんどん重くなっていくのを感じた。電源を切ると瞬時にその痺れは消えた。その時僕は、携帯電話からは相当な電磁波が出ているということを知った。
　ただし、このことに関しては、僕は基本的には問題視していない。僕の感受性は特殊な例であり、大半の人たちは電磁波を気にしないで生きている。それはわかっている。普通の人たちよりも僕の閾値は低い、だからすぐに反応してしまう。確かに僕にとって携帯電話の電磁波が有害だという意識は強烈に持っている。だけど、他の人たちには決してわからないことである。自己の責任に委ねられているという以外に僕の立場で何が言えるだろうか。

　テルカットについて友人から話を聞いた後、新聞や雑誌で調べてみるとその存在は確かだった。僕は欣喜雀躍して新宿の電気屋に向かい、店員にテルカットのことを訊ねてみたが皆一様に知らないと言った。しかし、考えてみればそれは当然である。本当は知っていたとしても誰が店頭に置いたりできるだろう。携帯電話を売らなければならないのに、その機能を阻害するものを同時に売るわけがない。その後、秋葉原に行けば手に入るという情報を小耳にはさみ、具体的な場所はわからないまま駅からはそんなに離れていない、電気関係の部品がたくさん陳列されている裏通りに入った。実はその時、僕はまだ、その携帯電話の電波を遮断する機械に「テルカット」という商品名がついていることを知らなかった。店に入るとレジの前に座っていたおっさんに僕は訊ねてみた。
　「すみません。車内で携帯電話の通話をできなくする機械があるって聞いたんですけど、置いてありますか」
　「ああ、テルカットね」
　おっさんは立って在庫を確認し始めた。
　「テルカットってどういう意味ですか？」
　「それはもう、テルをカットするってことだよ」
　僕はその返答に思わず笑ってしまった。結局在庫は見つからなかったが、聞くところよると時々買っていくやつがいるということだった。電気街で働くおっさんというのは、技術屋のような気質がある。今ある技術を解体して別の方向に応用したいという欲求が胸の内に潜んでいるようだ。「旧来の機能をゼロにできるのは面白いね」というようなノリで、わりと愉しそうにテルカットの性能や買っていく客の話をしてくれた。
　それから僕は、携断連という組織を知ることになる。「携帯電話を、断固として拒否する、連合会」。今でも正体が歴然としない謎の組織ではあるが、そこの会員であった知人から、僕はテルカットを拝借することができた。

　初めて使ったときのことを僕は今でもよく憶えている。
　当時、長編アニメーションの映像制作に携わっていた僕は、資料収集のためにわりと自由に時間を使って毎日を過ごしていた。朝起きて新聞を読み、食パンとカフェオレとゆで卵で朝食を済ませ、早稲田や神保町の古本屋街で本を漁り、午後になると新宿御苑にある事務所へ向かって夜遅くまで仕事をした。西荻窪に住んでいたので、そこから総武線に乗って代々木で乗り換えると、山手線への接続の都合がいい。原宿、渋谷、恵比寿と移動し、所構わず昼間の映画館や劇場に足を運ぶこともしばしばあった。
　新しい年度が始まり人々が忙しく道を行き交う四月、僕はいつものルートで自宅から山手線へ向かった。単純に循環電車は都合が良さそうな気がした。二〇〇一年春、三人の獲物を見つけたのは五反田駅だった。

　その後も、僕はテルカットを持って獲物を探し続けた。
　しかし、毎回うまくいくわけではなかった。乗って珍しく誰も電話をかけていないときもあった。そんなときはターゲットが現れるまで待つしかなかった。「誰か早くかけろよ」と時間をおいてまた同じ車両を見に行ったりした。なんて本末転倒な行為だろう。しかし、機械のスイッチを押したくて仕方のない自分がそこにはいた。ある意味、それはデジタルというものの怖さであるのかもしれない。目的がはっきりしているものに関しては試してみたいという欲求が僕にはある。業のようなものだろうか、それがその時に働いた。
　第二の獲物を捕らえたのは中央線だった。西荻窪から東京駅までの路線を使い、折り返して高尾まで行く途中で見つかった。
　六十代半ばと思われるおやじだった。真昼間から私服で電車に乗っているぐらいなので、もう定年退職したか、あるいはリストラされて職安通いをしているのかもしれない。耳が遠いのか声が大きい。競馬の話題で盛り上がっていたので、その日は土曜日だったかもしれない。車両の中は、僕たち以外に人はほとんどいない状態だった。僕はおやじが座っていた席の正面に腰を下ろした。笑っていられるのも今のうちだ、と勢い良くスイッチを押すとすぐに変化が表れた。
　「あれ、聞こえないなあ。おい、聞こえる？」
　おやじは携帯電話を左右に振り始めた。圏外の意味がわかっていないのか、いろんなところを見回すともう一度かけ直し始めた。
　「あーあーもしもし、おい聞こえるか？　なんか遠いなあ」
　本当は聞こえていないのに聞こえているような気になるのだろうか、もう一回同じようなリアクションが続いた。終いには、
　「もうおっかしいな！」
　と、座席に携帯電話をぶつけて叩いていた。おやじの世代のリアクションだと僕は思った。僕にも多少そういうところがあるが、叩けば調子が良くなると思ってしまう。結局、おやじは携帯電話をポケットにしまい込むと新聞を広げて静かに勝ち馬を読み始めた。
　少なくともおやじに関しては、使用頻度は高いとしてもたかが通話が途切れたくらいでストレスは溜まらないのだろうと思った。そういう状況になれば叩くなりして何とかしようとする。ラジオや時計のような器具に近いものを携帯電話に対して感じているのだろう。電波の影響ということが分かっているのならば、ドアが開いたときに試してみることも当然できたはずだ。とにかく以外にあっさりと通話を諦めて勝ち馬を読んでいた。そういう人は公衆電話があれば別に用は足りるような気がした。携帯電話で誰かと繋がるだの親密になるだのが目的ではなく、単純に便利に通話ができるということが目的なのではないか、とそのおやじを見て僕は思った。
　本当にスカッとした一日だった。自分の力で携帯電話の電波を阻止できるなんてまだ夢のような光景だった。


　僕は、なぜこれほどまでに車内通話を嫌い「公共性」というものにこだわってきたのか、その真意を自分自身に問い質してみたことはこれまでに一度もなかった。しかし、ある一人の獲物に遭遇してから僕はそのことについて考えるようになった。
　そして、僕がテルカットを使ったのはそれが最後だった。

　総武線で千葉へ向かったときである。僕は相変わらず鞄の中に装置を隠し入れ、座席に腰を下ろしていた。どこの駅だったかは憶えていないが、扉が開くと三十代後半から四十代前半とみられるおばさん連中が五、六人で入ってきた。全員僕の向かいのシートに座った。ＰＴＡの関係者で子供の学校で打ち合わせをした帰りなのか、今日はあれが決まりこれが決まり、今度の修学旅行はどのようにしましょうかと皆で話し合っていた。しばらくしてその中の一人が、「今日来ていなかった人は誰でしたかね。何人かいらっしゃいましたよね。連絡してあげなきゃいけませんね」と言った。すると、たちまち携帯電話を取り出して甲高い声を上げ始めた。相手の自宅は留守だったようで、あそこにいるのかしら、とその人の携帯電話にまたかけているようだった。何とかその場で相手を捕まえようとして、そのおばさんは思い当たる人へ次々に電話をかけていった。話の内容を聞いていると、案の定連絡事項だけに留まらず世間話へと広がっていた。「うちで飼っている犬の具合が悪くてどうしましょう」と素っ頓狂な声を上げたと同時に、僕はタイムリミットだと思いスイッチを入れた。
　「あ、もしもーし、おかしいわね」
　さすがにおばさんは日常の道具をよく観察していて、「圏外なんだわね」と即座に理解しているようだった。しかし、一番端に座っていたおばさんが不審げな表情を浮かべて周りを見渡し始めた。
　「どうしたのかしらね、この辺には電波を障害するものなんて何もないのにねえ」
　そう言うと、彼女は、もう一度かけなおしてみたらどうかとさっきのおばさんに提案をした。電話は一瞬繋がったような雰囲気だったがまた切れた。それもよくわからないところだった。いったん切ってかけなおした場合、電波の出力が強くなってテルカットの妨害電波よりも一瞬打ち勝ってしまうのだろうか。それとも人が多いとそれにぶつかって反射してしまうのだろうか。機械は環境に左右されるほどに完璧ではない。
　「おかしいわよこれ、気持ち悪いわね。誰かが外から何かやってるのかしらね。ほら、ウイルスにデータを盗まれるとかそういうの今問題になっているじゃない。うちの息子が言ってたわ」
　と、彼女は再度訝った。おばさんから携帯電話を借りて自分でも試してみたようだが繋がらなかった。
　「絶対おかしい、何かあるわ」
　そう言い出した。なかなか原因追究をやめなかった。彼女は僕のような妙なこだわりを持っていた。外見は、お金のかかっていそうな洋服を身に纏っていたがあまりセンスはなかった。きっとそれなりの経済状況で、本人は高学歴ではないかもしれないけれどとりあえず息子は高学歴の青年に育てようと日々奔走している感じがした。僕はこのとき漠然とした危機意識を持った。深追いをしたら予測のつかないことになるかもしれないと思い、テルカットの電源を切った。
　「ちょっと場所を変えてやってみるわ」
　彼女は窓際に移動した。むろん守備範囲外だったので繋がった。世間話を始めるおばさんとは対照的に用件だけを言い済ませた。
　「ちゃんと繋がったわよ。きっと、この辺の路線で電波が悪くなる何かがあったのよ」
　彼女はそう言った。外に電波を妨害する何かがあったのだと一応思ったのだろう。

　なぜ僕はあのとき二の足を踏んでしまったのか。多分、僕の中でいわゆるキレた若者よりもキレたおばさんの方が怖いという恐怖があったのだろう。そのおばさんのそういう雰囲気がなければ接近して追跡妨害しようかとも思った。しかし、何となくそのおばさんの勘が良さそうな気がした。一つたがが外れてしまうと取り返しがつかなくなってしまうような、そういう匂いのする人だった。そして、それは僕が自分の母親に対してずっと抱いてきた恐怖とおそらく同じものだった。


　公共的なことになぜ僕はこれほどまで執着し続けていたのだろうか。最後に出会ったおばさんに自分の母親の影を見たときから、何となく僕は母親の影響というものを考えるようになっていた。母親の表面に出てくるものはいつも、僕が問題としているような公共性に近いものがあった。つまり、公の部分でそういうことをしたら恥ずかしいというようなことを常に口にする人であった。でも、結局その本音の部分というのは「世間体」だった。一番身近な大人の「公共性」がものすごくインチキだった。僕はそこが原点であるような気がしている。明治や大正時代に生きた昔の人からすれば、僕なんかとんでもなく公共性を欠いている人間として見られてもおかしくはないかもしれないし、僕が思うところの公共性がどれだけ正しいものなのかも正直言ってわからない。ただ、これだけは言える。人間が行動をする、特に何かについて物を言おうとする動機というのは非常に単純なものである。違和感だ。何かに違和感をもったらそれについて物を言いたくなる。　
　本物の公共性ってなんだろうと、僕は無意識のうちに問い続けていたのかもしれない。]]>
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   <title>生命科学の今</title>
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   <published>2006-11-07T12:14:39Z</published>
   <updated>2006-11-13T23:58:06Z</updated>
   
   <summary>山下 祐司 　新橋からゆりかもめに揺られながらお台場方面に向う。平日とはいえカッ...</summary>
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      <![CDATA[<div class="entry-bodyNAME">山下 祐司</div>
　新橋からゆりかもめに揺られながらお台場方面に向う。平日とはいえカップルばかりを想像していたため、天候と同じで気分はアン・ニュイだった。でも意外とサラリーマンや家族づれが多く、何よりも空いていたため気分は上向きとなる。着いた場所は日本未来科学館。数ある展示のなかで注目を集めるのはホンダのヒト型ロボット「ASIMO」。それだけではなく、最近では俳優・唐沢とコーヒーを飲む男、大平貴之作製のプラネタリウム「MEGASTAR-Ⅱcosmos」が有名だ。もちろん、自分も入館して早々にプラネタリウムの予約をとりにいったことは紛れもない事実。しかし、訪れた目的は別にあった。]]>
      <![CDATA[<div class="entry-moreNAME">山下 祐司</div>

<strong>１．はじめに</strong>
　
　新橋からゆりかもめに揺られながらお台場方面に向う。平日とはいえカップルばかりを想像していたため、天候と同じで気分はアン・ニュイだった。でも意外とサラリーマンや家族づれが多く、何よりも空いていたため気分は上向きとなる。着いた場所は日本未来科学館。数ある展示のなかで注目を集めるのはホンダのヒト型ロボット「ASIMO」。それだけではなく、最近では俳優・唐沢とコーヒーを飲む男、大平貴之作製のプラネタリウム「MEGASTAR-Ⅱcosmos」が有名だ。もちろん、自分も入館して早々にプラネタリウムの予約をとりにいったことは紛れもない事実。しかし、訪れた目的は別にあった。

　子供の理科離れ、科学技術立国の危機が叫ばれる昨今。1995年の科学技術基本法をもとに2001年に建てられた同館は、科学技術への理解を深めるための一翼を担う。特徴的なのは館内には展示場だけでなく研究室も置かれていることだ。そこではナノスペースプロジェクト、柳沢オーファン受容体プロジェクト、ヒューマノイドロボットを研究している松井・加賀美プロジェクトが進んでいる。これら３つの研究室を回るツアーも２週間に１回の割合で開催されている。頻度はかなり高いといえるだろう。開かれた研究を意識していることは明らかだ。積極的に先端科学を伝える同館の姿勢を見れば、国が科学技術のどの分野に力を置いているかがわかる、と考えるのは都合が良すぎるだろうか。
　常設の展示内容は最先端の科学を「地球環境とフロンティア」「技術革新と未来」「情報科学技術と社会」「生命の科学と人間」に分け展示している。目的の展示フロアーを目指しゆっくりとエスカレーターを昇る。ガラス張りの天井からは流れる曇のおかげか、ほどよい太陽光が差し込む。５階に着いた。フロアーの約半分のスペースを使って展示されているテーマ、「生命の科学と人間」はゲノムの説明からはじまる。
　さて、ここからただ未来科学館周りが続くのではない。産業に結びつく科学は科学技術立国といわれる日本の礎を築いてきた。主に工学と言われる分野だ。そのため、展示スペースの多くはヒト型ロボットや非常に小さいマイクロマシン、ナノテクノロジー、超伝導、またデジタル技術の利用を提示した形となっている。そして、今後新たな産業に結びつくのではないかと非常に期待されている分野がある。それは生物がもつ生命現象の謎を解き明かす生命科学といわれる分野だ。アインシュタインなどの物理学者が華々しく活躍した20世紀は終わり、「21世紀は生命科学の時代」と呼ばれている。
　しかし、21世紀も始まったばかり。生命科学では様々な問題が噴出している。ここでは未来科学館を周りながら、具体的にＥＳ細胞（embryonic stem cells:胚性幹細胞）という特殊な細胞を例に挙げ、過渡期にある生命科学を見ていこうと思う。それは日本未来科学館では見られないものだ。

<strong>２．ＥＳ細胞</strong>

　ＥＳ細胞（embryonic stem cells:胚性幹細胞）とは現在の生命科学で最も注目を集める細胞だ。このＥＳ細胞は1981年にマウスで初めて樹立された。その後、1998年にヒトのＥＳ細胞は樹立された。「樹立」とは細胞をとってきて安定的に培養可能になったことをいう。熱い視線が投げかけられる理由、それは医療産業への貢献が期待されているからだ。ＥＳ細胞は非常に‘特殊’な能力を持っている。これが産業化への鍵となる。ＥＳ細胞は
・どのような種類の細胞になる
・無尽蔵に増殖する
という‘特殊’な能力をもつ。ＥＳ細胞のみがこの能力を持っていると考えられている。このふたつの能力がどれだけインパクトを持つのだろうか。よく使われる例のひとつは不足臓器の供給源としての期待が挙げられる。
　ＥＳ細胞には先に挙げたように無尽蔵に増殖する能力があるため、どんどん増やせる。そして、どのような種類の細胞になる能力を持つため「腎臓を作る細胞になれ」と命令を下せば腎臓が出来る。「心臓を作る細胞になれ」と命令を下せば心臓が出来る。ＥＳ細胞はどんどん増殖するので同じ命令であろうが違う命令であろうが、必要な分だけＥＳ細胞を増やして様々な命令を下せばよい。このようにＥＳ細胞が他の細胞になっていくことを「分化」とよぶ。
　
　現状ではさすがに臓器を丸ごと作るまでには至っていない。しかし、治療を目的とした基礎研究は進んでいる。最も進んでいるのは臓器移植ならぬ細胞移植による治療だ。ターゲットとなる疾病はパーキンソン病、糖尿病、心筋梗塞など。ＥＳ細胞にそれぞれの命令を下して必要な細胞になれと命令する。例えばパーキンソン病の場合。パーキンソン病とは運動障害を主とする神経変性疾患で発症原因の一つは神経伝達物質のドーパミンを作る量の低下による。そのため、ヒトＥＳ細胞をドーパミン産生細胞に分化させ、移植でドーパミン不足を補うというものだ。このようにＥＳ細胞を使って変性した細胞、または損傷臓器に新たな細胞を供給し回復を図る方法がマウスなどで実験されている。
　また、新薬テストのためにＥＳ細胞を利用できる。ヒトＥＳ細胞から必要な細胞に分化させ、それで薬剤テストをするのだ。安全性を確かめる上で、実験動物よりもヒトの組織を使ったほうが良いことは想像しやすいだろう。もちろん薬剤だけではなく食品、化粧品の検査にも利用できる。

<strong>３．ヒトＥＳ細胞の問題点</strong>

　生命科学に期待がかかる一方、生命を扱うために問題が生ずる。もちろんＥＳ細胞も例外ではない。問題になっている点を示すために、ＥＳ細胞の樹立の仕方について説明する。そして、先ほど述べたＥＳ細胞の応用例について少し補足を加えたいと思う。
　非常に‘特殊’な能力を持つＥＳ細胞は胚盤胞から樹立される。胚盤胞とは卵子と精子とが受精した受精卵が卵割とよばれる細胞分裂を繰り返し、その卵割が終了する時期の受精卵のこと。ＥＳ細胞は胚盤胞の後に体をつくることになる内部細胞塊と呼ばれるところを取り出し、それを人工的に培養することで得られる。人工授精の技術を利用し体外で作製される。受精後間もない、そして将来、僕らの体のもとなっている細胞をとりだして利用するがゆえにヒトＥＳ細胞はどのような種類の細胞になり、無尽蔵に増殖するという特殊な能力を持つと考えられている。
　応用例として移植の話をした。これとて簡単なことではない。ヒトの体は非常によく出来ていて、外来性の敵を駆除するために免疫システムが備わっている。これは、自分の体を構成しているものと異なるものを排除するシステムだ。移植された臓器はもちろんＥＳ細胞由来の細胞も攻撃対象になる。免疫抑制剤を利用することも考えられるが免疫システムの低下で他の病原菌、ウィルスへの抵抗性が低くなる。
　これに対する妙案も提示されている。核を除いた卵子に患者由来の核を移植する。核には僕ら個人の遺伝情報「ゲノム」が存在している。「ゲノム」とは僕らの遺伝情報で体をつくる設計図。ＤＮＡ（デオキシリボ核酸）という物質の並びで書かれている。核は僕らの体を構成している細胞ほぼ全てに存在する。患者由来の核を除核卵子に移植すると卵割がはじまる。これを「クローン胚」という。このまま、母体内に移植すれば「クローン人間」が生まれてくる。核を移植した卵子が胚盤胞になったところで内部細胞塊を取り出し培養してＥＳ細胞株を樹立する。そのＥＳ細胞を必要な細胞へ分化させ移植する。この方法を利用すれば、この細胞は患者の細胞と同じ遺伝情報を持つために拒絶反応を起こすことなく移植が出来ると考えられている。
　このとき患者それぞれのために卵子が必要になってくる。卵子はどこからくるか、いくつの卵子が必要となるのだろうか。
　
　実はこの患者由来の核を卵子に移植しその卵からＥＳ細胞株の樹立に成功した報告がかつて存在した。「かつて」といったのは、報告論文が捏造だったのだ。この事件はソウル大・黄禹錫・元教授の研究グループが患者由来の核を卵子に移植し、その卵からＥＳ細胞株を樹立したという世界初の報告をした。まさに、拒絶反応のない治療用ＥＳ細胞がつくられたのだ。しかし、実は患者由来のＥＳ細胞株は無く、さらに2000個以上の卵子が使われたことが明るみになった。
　技術的にも研究段階のＥＳ細胞を100％目的の細胞に分化させるには至っていない。分化前のＥＳ細胞が残っていて体内に入った場合、それは癌細胞になる可能性がある。

<strong>４．生物学から生命科学へ</strong>

　すでに臓器をつくった人がいる。といっても当然ヒトの話ではないし、人工臓器でもない。両生類のはなしだ。
　両生類の臓器をつくったのは東京大学大学院総合文化研究科・浅島誠教授。専門は発生生物学。「発生生物学」とは精子と卵子が受精して細胞分裂を繰り返し、体がつくられる。この受精卵から体がつくられる仕組みを調べる学問を「発生生物学」という。
　浅島教授のチームはカエルの眼、心臓、腎臓をアニマルキャップという細胞からつくり上げている。そして、臓器移植をして正常に機能することを確認している。「アニマルキャップ」とは両生類の受精卵が卵割、細胞分裂を繰り返し胞胚期と呼ばれる段階の卵の一部を切り取った細胞群だ。ＥＳ細胞のようにどのような種類の細胞になりうる特殊能力を持つ。眼、心臓、腎臓を以外にもアニマルキャップから血球系、神経系、筋肉系の細胞など多くの細胞へ分化させている。これは生体内で臓器が出来てくる仕組みを調べていた結果わかってきたことだ。そして、カエルの結果を利用して浅島教授のチームはマウスＥＳ細胞を使った研究を始めている。

　蝉が忙しそうに鳴いている夏真っ只中の８月、駒場の森を抜け東京大学構内の研究室を訪ねた。
――現在、マウスＥＳ細胞を使ってどのような細胞に分化誘導できていますか。
「心筋ですね。あとは腸管とすい臓、脂肪細胞、神経細胞、軟骨、食道、繊毛（ができてています）。あと骨（硬骨）も少しできています。全部で10器官はできていますね」
と、浅島教授は答えてくれた。浅島教授は両生類を用いて生き物の体づくりのメカニズムを研究している。その浅島教授がなぜ両生類から哺乳類へ種の超えマウスＥＳ細胞を使った研究を始めたかを聞いた。
「実際、研究を始めたのは五年くらい前になりますね。一つはカエルで取れた遺伝子、腎臓なら腎臓で働いている遺伝子がマウスでも同じような働きをすることがわかってきた。その遺伝子がヒトの病気の原因遺伝子だった。そこからその遺伝子が種を超えて共通に働いていることがわかってきた。アニマルキャップから臓器を作れたのは、カエルだから出来たのだろうと。マウスでそんなことできるわけないだろうと、学会などでそういう話がでるので、マウスのＥＳ細胞を含めてやってみようというのが事実ですね」
――アニマルキャップとマウスＥＳ細胞では同じような条件したときにおなじような臓器の細胞ができるのでしょうか
「必ずしもそうではありませんが、……基本的にカエルのデータがマウスに応用できたということになります」

　「遺伝子」とはゲノムの中で特定のタンパク質をつくることが明記されている場所。僕らの体は数万とも言われる遺伝子がうまく働いてつくられる。1980年代から種を超えた「遺伝子」の働きがわかりはじめてきた。体をつくるのに重要な働きをする遺伝子は進化を通じて持ち越され、共通のメカニズムで生物の体をつくっていることがわかってきた。カエルの腎臓で見つかった遺伝子がヒトで重要な働きをすることがわかったのもそのひとつだったのだ。ということは、種を超えた共通のメカニズムがあるのだからアニマルキャップから臓器を作れたとすれば、同様の特殊能力をもつＥＳ細胞へ眼が向けられても何の不思議もない。

　体ができあがるメカニズムを調べられているのはカエルだけではない。よく調べられているのは酵母やショウジョウバエ、線虫、ゼブラフィッシュ、マウスなどでモデル生物と呼ばれている。未来科学館のなかにも小学生でにぎわっている場所がある。「次は俺がやる」「飛んだ、飛んだ」などの声で溢れかえっている。視線の先には奇妙な昆虫たちが飛んでいる。翅がたくさんある昆虫や眼が青かったり、赤かったりする昆虫。といっても全てバーチャル生物。画面の中をときには元気よく、ときには弱々しく飛んでいる。このコーナーはゲノムを説明したパネルの隣にある。小学生は真剣にいろいろな昆虫を作るために操作を繰り返す。このバーチャル昆虫、実は「遺伝子」をいじっているのだ。小学生たちがつくった翅がたくさんある昆虫では極端な話、翅をつくる遺伝子をたくさん働かせる。眼が青い昆虫は眼を青くする遺伝子を働かせる。赤い昆虫は眼を赤くする遺伝子を働かせる。といった具合に、遺伝子の働きを調節して昆虫をつくっているのだ。そんな奇妙なバーチャル昆虫の隣には顕微鏡が置かれている。注意深く覗いてみると体長１mmほど、体つきはイトミミズに似ている線虫が体をくねらせていた。
　このように線虫やバーチャルではあるが昆虫がいたりする。浅島教授のカエルのように、体をつくるメカニズムが調べられ、結果的にヒトの仕組みを調べることもつながっている。応用することで医療に通じることがあるのだ。先にあげたモデル生物のゲノムプロジェクトは終わっている。

――現在の発生生物学と医療の基礎研究とは不可分なものだと思うのですが、発生生物学がヒトへの応用にとらわれている気はしないですか。
「基礎から応用に結びつくことはいくらでもあるわけで、お互いそれは関連していくことが学問を発展させることです。例えば、カエルの遺伝子はヒトにもマウスにも同じようなものがあることがわかっていますので、共通性を見ていくのがこれからの学問だと思うのです。ゲノムもいろいろ解ってきましたから、新しい生命科学を見ていくことが出来るでしょう」

　小学生の後は「脳」機能の紹介を横目で見ながら、視線を少し先に向けるとヒトの模型が並んでいた。「正直、夜には見たくないな」と思いつつ脚を進める。ヒトを水平方向、垂直方向にスライスした断面が重ね合わされている。ＭＲＩの原理を示したものだ。医療に関わる所に来たことを感じながらロボット手術を操作する「故障中」のレバーにそっと触れてみる。ヒトの人工心臓、人工中耳、新しい素材をつかった人工骨など解説を詳しく読みながら「生命の科学と人間」のスタート地点に戻ろうとすると、そこにはＥＳ細胞を治療に用いる「再生医療」を示したパネルがあった。既に説明してきたＥＳ細胞株樹立の方法とＥＳ細胞を分化させ治療に利用できることが描かれてあった。

<strong>５．治療のための研究へ進むには</strong>

　2006年8月27日付の『読売新聞』によると、ヒトクローン胚研究を計画していた京都大学・再生医科学研究所・中辻憲夫所長は当面、ヒトクローン胚研究に着手しないと表明したという。ヒトクローン胚の作製は現在のところ、「ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律」とこれに基づいた「特定胚の取扱いに関する指針」でその作成が禁止されている。ヒトクローン胚の研究解禁に向けた改定指針案ではヒトＥＳ細胞株の樹立経験が必要になる。国内でその経験があるのが同研究所だけ。中辻所長の表明により、改定指針案が成立してもヒトクローン胚からＥＳ細胞を作製する研究が進む可能性は低くなった。理由は卵子の入手条件の厳しさにあるようだ。同日付の『産経新聞』には、脊髄損傷患者でつくる日本せきずい基金・大濱眞理事長の「研究のために規制をかけすぎている」との声が載せられている。
　浅島教授に最近のヒトＥＳ細胞、体性幹細胞の治療への期待をどのように感じているかを聞いたときには「（患者の）負担が軽減されるなら新しい治療方法として考えていいわけです。国民の信頼を得るには歯止めをきちんとかけとくこと、安全で確実な技術を使うことが必要です」と答えてくれた。しかし、新聞での報道を見ていると、新しい治療方法の確立はなかなか難しいと感じる。少なくとも国民の信頼を得るにはいたっていないように思える。

　このように現在のヒトＥＳ細胞を利用した研究は揺れ動いている。ヒト、マウスＥＳ細胞を使って研究している理化学研究所・発生・再生科学総合研究センター・多能性幹細胞研究チーム・丹羽仁史チームリーダーは雑誌、『細胞工学』（Vol.23 No.11 p.1254-55）でヒトＥＳ細胞がとりまく現状と倫理観についてこう書いている。

<blockquote>…… ヒトＥＳ細胞樹立が発した波は瞬く間に巨大化し、著者自身もその波に飲み込まれていくことになる。何がこの巨大化を後押ししたのか、著者が考えるには、再生医学が産業化の標的として見なされ、その資本主義的競争原理が強く働いたことが第一の原因だろう。…… しばしば、“治療を待つ患者のために”という意見が優勢になるが、果たしてこのような意見をいつまでも“錦の御旗”にしてよいのだろうか？ …… もはや、この単純な発想で処理できないところまで、我々の生命科学は到達してしまっている。確かに倫理を語ることは難しい。だが、これを“語り得ないこと”として沈黙し、暗示的に指し示すだけでは、もはや済まされない。なんとかして今こそ、綿密な議論のもとに生命科学を制御する新たな倫理観を打ち立てなければならい。……</blockquote>

このあとに丹羽チームリーダーはトム・Ｌ．ビーチャムとジェームス・Ｆ．チルドレスの生命医学倫理の四原則（自律尊重、無危害、善行、正義）やジョン・ロールズの正議論に触れ、原則主義によって導き出されるような“正しい解答”を求めているとの気持ちを吐露している。また、一方、同研究センター・幹細胞研究グループ・西川伸一ディレクターは

<blockquote>…… 多様な価値観を持つポストモダン社会では生命倫理の問題でも何が正しいのかを	決めることができない。ポストモダン社会において私たちが模索すべきは、多様な価値を受け入れながら意思決定を行っていく仕組みをどう作るかということす。……</blockquote>

と、著書『痛快！人体再生学』（集英社インターナショナル）の第９章で書いている。さて、どう感じただろう。当然ながら研究者により考え方は異なる。
　実は、様々な夢が語られ、期待を受けているＥＳ細胞への疑問がこのルポに取り掛かった理由だった。治療を“錦の御旗”に進むＥＳ細胞を利用した研究に省みられていない点が多いのではないか、と思っていた。今回は少ないながらＥＳ細胞の問題点や韓国で起きた事件を挙げ、倫理的な問題が起こっていることを提示し、自分の抱いていた疑問点を示したつもりだ。しかし、現状をみればみるほど、話はセンチメンタルな倫理を振りかざすことを許してくれない。
　ＥＳ細胞にかぎらず、今回はほとんど触れていないがクローン胚を利用すること。また、ヒトを含めた各生物のゲノムプロジェクト、生殖医療、再生医療、脳死問題も別の話ではなく有機的につながっている。各々の技術的、機能的つながりから新たに発展している生命科学。それに新しく可能になった複雑な生き方の取捨選択を次々に提示され、決められない自分がいる。今回、うまい道理が導けたかといえば決してそんなことはない。陳腐な言葉になってしまうが、どのように生きて、死んでいくかの。もう一度、考えることから始めることになりそうだ。

<strong>６．最後に</strong>

　文中で触れなかったことを補足しておきたい。国内のヒトＥＳ細胞の樹立は「ヒトＥＳ細胞の樹立及び使用に関する指針」により、現在、京都大学・再生医科学研究所でのみ行われている。ヒトＥＳ細胞を使った研究も同指針により特定胚及びヒトＥＳ細胞研究専門委員会の審査をうける必要がある。どのような研究が行われているか、以下のサイトを参照して頂きたい。<a href="http://www.mext.go.jp/a_menu/shinkou/seimei/04031202.htm">http://www.mext.go.jp/a_menu/shinkou/seimei/04031202.htm</a>
　ＥＳ細胞以外にも体性幹細胞という細胞の研究が進んでいる。この細胞はＥＳ細胞より分化できる細胞の種類が限られると考えられているが、受精卵ではなく体内から取り出して増やせることから倫理的面への配慮が少なくてすむ。だが、これもまだ研究段階にある。
　組織再生の研究ではティシュー・エンジニアリングと呼ばれる技術がある。『再生医療工学』（工業調査会）によるとその定義は患者自身の細胞をつかい、その細胞が分化増殖するための足場と細胞の分化増殖を調節することによって患者の新しい組織を再生しようとする技術となっている（もちろん例外もある）。この『再生医療工学』の序文で、鈴鹿医療科学大学の筏義人教授は

<blockquote>…… 問題はそのＥＳ細胞が本当に治療に使われるのか、と言う可能性である。…… 期間を5年以内としぼると、その実現性はきわめて低いのが大方の意見であろう。…… 再生医療の早期実現化のために国家研究予算のきわめて多くの部分が、ＥＳ細胞が万能細胞という理由だけで、長期にわたる基礎研究に流れるのは問題である。……</blockquote>

と書いている。基礎研究は必要だろうが治療を考えるのならば、ＥＳ細胞に飛びつく現状は間違っているのかもしれない。もちろん、良い成果が出ないことはあるだろう。何よりも研究が滞った時に、治療を謳っていた偽の「誠実性」が見えないことを願ってやまない。
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